ひこばえ
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氷魚

氷魚も佳しさりとてまずは鮒寿司を



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2日目の宿は琵琶湖北端の尾上温泉に予約していた。湖に向いて全室露天風呂付きというところで決めたようである。彦根から長浜を抜け琵琶湖沿いの道を北へ走った。宿に到着する手前で「道の駅」に立ち寄った。飲み物やスナックの補給である。妻が買い物をしている間、店内をぶらついてみた。いつもの癖である。興味を惹いたものが一つあった。「ニゴロ鮒」である(写真)。
私「これ、美味そう。一つ買っていく?」
妻「何、また変な物でしょ」
私「飯寿司(いずし)みたいな物だと思うけど……北海道じゃ、鮭とかニシンとか使っているけど、鮒というのがどんなものか、食べてみたいよね」
妻「車の中に置いておくのも何だから、明日の朝にしたら……」
私「よし、そうしよう。明日の朝、買いに来よう」

その日の夕食時の給仕に来てくれた宿の男性とのやり取りである。
男性「それは鮒寿司という滋賀県の郷土料理です。このあたりの人は家で必ず食べます。私は食べませんけど(笑)」
私「えっ、どうして?郷土料理なんでしょ」
男性「臭いが駄目なんです。子供の頃に食べて、二度と口にしたくないと思いました(笑)」
私「臭いがきついんだ!」
男性「いやな臭いの食べ物<ベスト3>に入っていると思いますよ」
私「明日、道の駅で買って帰ります(笑)」
男性「道の駅は明日から休みになるんじゃなかったかなぁ」
私「えっ!!!」
スマホで調べてみた。「道の駅」は確かに翌日から正月休みになると書かれていた。
私「ひぇー、それはないよ。ひどすぎるよー!買っておくんだった!残念!」
<臭い食べ物ランキング>を調べると第1位の「くさや」に続き第2位にランキングされていた。凄そうである。絶対に食べてみたい。どんなことがあっても食べてみたい。
<「道の駅」が駄目なら、あとはどこで手に入るだろう>と考え始めていた私であった。
(注)「道の駅」には「氷魚(ひお)」の佃煮も売っていた。琵琶湖の名物で冬の季語になっている。
                                 (平成30年作)




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石垣は何も語らず冬の城



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関ヶ原から次の目的地「彦根城」まで高速道路に乗った。右手に雪で真っ白になった伊吹山が見えた。関ケ原の戦いのあと石田三成が敗走した山である。山岡荘八著「徳川家康」18巻「関ヶ原の巻」の文章である。
「十五日の夜、三成が伊吹山に逃げ込んだおりには、まだ従う者は二十人を超えていた。
すでに記したように十五日の夜の雨は、この敗戦の主従を間断なく打ちのめした。
ようやく止んだと思うと、又以前に数倍するはげしさで、用捨なく具足の奥の肌にせまる。従者の一人が、三成のためにどこかの百姓家から蓑笠を見つけて来て着けさせたが、そうしたもので凌げるほど安易な雨ではなかった。
十六日の夜の白みそめる頃まで、一行は山中を雨に向ってさまよい続けた。むろん正確に方角や道を知っての彷徨ではない。とにかく発見されまいとしての無目的にひとしい戦場離脱であった」

彦根城に到着した。凄いお城である。江戸時代、多くの大老を輩出した井伊家14代の居城である。その荘厳さは見事というしかない。お堀があり庭園があり様々な櫓が残されている。関ケ原の軍功により石田三成の居城だった佐和山城に入城した井伊直政が、中世的縄張りや三成の居城であったことを嫌い、慶長8年(1603)に彦根城の築城を開始する。天守閣は国宝である。登るとすぐ目の前に佐和山が見える。もちろん城はない。彦根城の完成により佐和山城は廃城となり、徹底的に破壊されたという。敗れた者の宿命ではあろうが一抹の寂しさを禁じ得ない。
お城のどこかで「ひこにゃん」に会えるかと思っていたが会えなかった。登場する場所と時間が決まっているらしい。「ゆるキャラ」とはいうものの著作権問題で揉めたことがあったように記憶している。私でさえ知っているくらいなので揉め事は長引いたのかも知れない。誰と誰が争って、どっちが勝ったのかは知らないが、片方が徹底的に潰されるのだけは良くないように思えたのは佐和山を見たからかも知れない。
                                 (平成30年作)




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雪野原

もののふの声とも風の雪野原



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関ヶ原古戦場は一面の雪野原だった。道路もタイヤ2本分を残して雪に覆われている状態である。ゆっくりと走りながら「笹尾山交流館」という建物の場所まで到達した。笹尾山とは石田三成が本陣を構えた場所である。交流館は生憎の休館日だった。<甲冑体験>の看板が出ていたので<雑兵にでもなってみたかったのに……>と思ったものである。
途中に「決戦地」の幟が立っていたのでその場所まで歩いてみることにした。近づくに従って幟が風にはためく音がパタパタと聞こえてきた。凄い風である。石田三成の「大一大万大吉」と徳川家康の「三つ葉葵」の幟も風に吹き千切られそうである(写真)。大きな石碑と説明書きの看板が建てられていた。そこに書かれていた文章である。
「(略)小早川秀秋が寝返りを決意し、迎撃した大谷隊は善戦むなしく壊滅、西軍は総崩れとなる。その時ここ決戦地一帯は、最後に残った石田隊や島津隊に押し寄せる東軍諸隊で埋めつくされていたと考えられる。東軍の最後の一押しに石田隊もついに壊滅、島津隊は家康の本陣を横切り敵中突破して戦線を離脱して戦いは終わる。天下分け目と言われる国内最大級の戦いは、わずか半日程度でその幕を閉じた」

その場所から笹尾山の方向に幟が立ち馬防柵が並んでいるのが見えた。島左近の陣地である。堺屋太一著「巨いなる企て」、私が時代小説を読む切っ掛けとなった本である。その中で大好きになった島左近である。20㎝ほど積もった雪の中に人の足跡がいくつか続いていた。その足跡を辿りながら陣地まで上っていった。三成に三顧の礼をもって迎えられ「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」と言われたほどの逸材である。<ここで戦い、ここで果てたのだなぁ>と思いながら、しばらく眺めていた。
三成の本陣跡はそのすぐ上である。風は強かったが天気は最高である。<雪晴れ>とでも言うのだろうか、関ケ原を一望するのには打ってつけの天気である。見晴らし台が作られていた。「関ケ原古戦場 史跡位置図」という写真入りの看板があり、東軍西軍の配置が分かるようになっていた。家康の桃配山が見える。小早川秀秋が陣取った松尾山も見える。島津が最後に敵中突破して向かった伊勢街道の位置も分かる。
見晴らし台に他のお客を案内してガイドの人がいた。その説明を聞くでもなく聞いていた。
客「三成の大一大万大吉の意味は何ですか?」
ガイド「一人が万人の為に、万人が一人の為に力を尽くせば世の中は吉となり、太平の世が生まれるという意味です。後世ではとかく悪役に見られがちな三成ですが、佐和山の領民には慕われていたそうです。主君である秀吉が亡くなった後も忠節を尽くし、民の為に心砕いた人だったことが、これからも伝わってきます」
風の音のなかに<もののふ>と呼ばれた武士たちの声が聞こえて来るようだった。勝鬨もあり、啜り泣く声もあった。
                                 (平成30年作)




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雪礫

雪つぶて悲しき我に当りもす



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桃配山を出て西軍本陣が置かれた関ケ原古戦場跡へと向かった。国道21号線を右に折れるとそのすぐ先に関ケ原製作所があった(写真)。
「ここかぁ……」
一瞬にして21年前が蘇った。私が42才の時である。役職は取締役総務部長だった。当時の社長をサポートして張り切っていた時代である。幹部や営業の若手を引き連れて「ニューセキガハラ運動」を掲げ会社を成長させているこの会社を見学に来たのだった。
建物は新しくなっているように見えた。21年経っているのだから、どこがどう変わろうと驚くことではない。変わっていて当然である。ただ、入口に掲げられていた看板の文字を見てあの時と何も変わっていないことに驚かされた。
「限りなく、人間ひろばを求めて───進化しつづけるセキガハラ」
あの時と同じである。
「会社はみんなで創るもの。社員一丸となってチームセキガハラを創ろう」
とも書かれていた。少しも変わっていない。社員のための会社、社員がみんなで創る会社。素晴らしいと改めて思った。それに引き換え、自分の21年間を振り返って少しも学んでこなかったことを痛感した。
「こんなに良い手本があったというのに……」
当時、私を可愛がってくれた社長の顔が目に浮かんだ。少し胸が苦しくなった。21年前に比べると会社は確かに良くなっている。あの頃に比べれば全く別のような会社に変わっている。しかし、ただ変えることばかりに夢中になって大切なものを忘れてきてしまったような気がした。
「従業員がいてこその会社ではないか。本当にみんなを幸せにしてきたのだろうか。俺は何のためにこんなに頑張ってきたのだろう」
車を降りて写真を撮っている間、胸を過ぎったのはそんな自分への反省ばかりだった。
                                 (平成30年作)




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除雪

除雪して天下分け目の地なりけり



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大垣を出て関ヶ原に近づくと辺りは雪景色へと変わっていった。道は除雪しているようで走るのに不自由はないのだが、いつチェーンを付けなければならなくなるかと不安は募ってくる。その時急に道の左手に「徳川家康、最初陣地」の看板が現われた。
「おお、見なければ……駐車場はどこ?」
それらしき駐車場が見当たらない。その先にガソリンスタンドがあったのでひとまず入ることにした。ガソリンは半分以上あったが、セルフ給油のようなので大丈夫である。係員がいるかどうかが問題だが遠くにそれらしき姿が見えた。給油して支払いを済ませたあと、その女性に近づき声を掛けた。
「こんにちは。今、給油を終りました。あそこの家康の碑を見に行きたいのですが、その間ちょっと車を置かせてもらえないでしょうか?」
女性に笑顔はなかったが「どうぞ」と言ってくれた。お礼を言って車を端に移動し、碑へと向かって歩き始めた。もう少し笑顔があっても良さそうなのにと思いつつも、勝手なお願いをしているのは私の方である。停めさせてもらえるだけでも有難い。
「桃配山」である。家康が最初に本陣を構えた場所である。
西暦1600年(慶長5年)9月15日、旧暦なので今の10月21日頃にあたる。深夜、西軍が大垣城から関ヶ原方面に向けて動いたというので、美濃赤坂の岡山本陣にいた家康も雨の中その後を追うのである。夜中の2時に出て朝6時にここに到着して陣を敷いている。
工事人がいて警備の人もいた。何かの工事である。後で聞くと史跡整備工事中とのこと、柵もされていたが間から入らせてもらった。誰も歩いた形跡のない雪に覆われた階段を上って碑の前に立った(写真)。ここに「厭離穢土・欣求浄土」の幟を立てたのである。看板にはその時に使用したと伝わる「腰掛石」と「机石」のことが書かれていたが417年前のことである。石のことは俄には信じがたいが、その後の天下分け目の戦いを想像するには充分な場所であったことはもちろんである。
                                 (平成30年作)




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