春疾風 - 天文
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日向 亮司

Author:日向 亮司
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春疾風

首塚や討たれし時も春疾風



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幸手インターを降り5分ほど走った所に浄誓寺はあった。あたりは広大な畑である。山門を潜ると正面に本堂があり、その裏に首塚があった。周囲をコンクリートブロックに囲まれ、高さ3メートルほどの塚になっている。頂上に五輪塔が据えられていた。入口にあった説明書きでは上の3つは後世のもので、下の2つが江戸時代以前のものということである。「北葛飾郡内最古の五輪塔の可能性が高い」と書かれていたが、いやに狭い地域に限定しており、しかも「可能性が高い」という言い回し自体が何とも頼りない。
平将門は新皇となった僅か3ヵ月後の天慶3年(940年)2月14日(陽暦3月30日)、俵藤太(藤原秀郷)と平貞盛の連合軍に敗れ36才で討死している。首級は京まで送られて晒し首となったが、3日目に夜空へ舞い上がり、故郷に向かって飛んで行き、あちこちに落ちたという言い伝えになっている。最も有名なのが東京大手町の首塚である。すなわち、浄誓寺山門前の立札に書かれていた「愛馬が運んできた云々」というのは俄かには信じられないことなのだが、真実が分からない今となっては各地に伝わる言い伝えこそが手掛かりでありロマンなのである。
将門の最期についての文章を載せておこう。(吉川英治「平の将門」より)

乱れ立った敵陣のさまを見て、
「かかれっ。貞盛の首、秀郷の首、二つを余すな」
将門自身、馬を躍らせて敵の怒濤のなかへ没して行った。(中略)
まさに、乱軍の状である。いや、坂東の土が生んだ、将門という一個の人間の終末を、吹き荒ぶ砂塵と風との中に、葬り消すには、まことに、ふさわしい光景の天地でもあった。
将門はもう、将門という人間ではなくなっている。一個の阿修羅である。(中略)
刹那、彼の顔に矢が立った。
「…………」
何の声もなかった。
戦い疲れた顔が兜の重みと矢のとまった圧力に、がくと首の骨が折れたようにうしろへ仰向いたと見えただけである。
馬から、どうと、地ひびきを打ってころげ落ちた体躯へ向って、たちまち、投げられた餌へ痩せ犬の群れが懸るように、わっと、真っ黒な雑兵やら将やらが、寄りたかっていた。あっけなく、天下の騒乱といい囃すには、余りにも、あっけなく、相馬の小次郎将門は、ここに終った。
                                 (平成29年作)

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