2020年04月の記事 - ひこばえ
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Author:日向 亮司
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ひこばえ


2020年04月の記事

春の闇

目覚めてはなほ痛みあり春の闇



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事件は前日から始まっていた。31日(火)夜、腰にちょっとした痛みがあるので寝る前に妻に湿布を貼ってもらった。
妻「どこ?このあたり?」
私「そこそこ。ヒャー、冷たい!念のため、その上にも一枚貼っておいて。そうそう、そこそこ。ヒャー、冷たい」
翌1日(水)は普通に過ごした。全体朝礼でコロナウイルスの話をし、午後には金属が歪む原因「残留応力」について調べたりしていた。帰宅して風呂に入り夕食を摂ってテレビを観ていた。何のテレビか覚えていないが興味がなかったようでコタツに入ったまま寝てしまった。1時間程度だったと思うが、その時の姿勢に問題があったようである。目覚めて起き上がろうとした時に強烈な痛みに襲われた。前日の痛みどころではない。
私「ミー、ミー、ちょっと起こして。ヤバイ、ヤバイ、痛くて起き上がれない」
妻の名前は<みどり>である。
妻「変な格好で寝てるからよ。布団に行って寝ればいいでしょ」
私「分かってる、分かってる……分かってるけど、これは普通じゃない……」
妻「どんな感じ?」
私「これは強烈だ。味わったことがない。間違いなく長引く」
妻「鍼(はり)でも行く?」
私「知ってるところ、あるの?」
妻「もう何度もやってもらっている所がある。すぐ近くだからやってもらったら」
私「治るのならやってもらいたい」
妻「分かった。電話してみる」
翌日の10時に予約してもらった。会社は鍼を打ってもらってから行くことにした。何年ぶりかの遅刻である。

翌朝である。4時に目が覚めた。
<何時だろう?>
時計を見るため手を伸ばそうとして腰が動かせないことに気付いた。
<ん?イテテテテテ……オッ~、何だこれは……動けない……>
仰向きから俯せに身体の向きを変えようとしても痛くて動かせない。布団に手を付いて力を入れようとしただけで激痛が走る。まだ日が出ていない。真っ暗である。目だけはしっかりと開けて見えない天井を見ている。
<どうなってしまったんだろう?>
枕元の本棚の桟に掴まってハイハイの姿勢になるまでに10分以上掛かった。部屋を出て柱に掴まって立ち上がりトイレに行くまでさらに5分である。
<寒い……>
<痛い……>
<どうしよう……>
<どうなってしまったんだろう……>
                                 (令和2年作)




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涅槃吹く

涅槃吹いて家断絶の塚一つ



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カーナビに結城市の「松月院」を入れた。結城一族の御廟を見に行くのである。「生井の桜堤」から約40分の場所にある。結城市に何があるという訳ではない。「結城合戦」の舞台となった結城城はすでになく、本丸跡の辺りは公園となっている。写真で見る限り目新しいものは何もないのだが、旅の終わりにどうしても訪ねておきたかったのである。南原幹雄の「天下の旗に叛いて」(学陽書房・人物文庫)を読み、結城親子、特に父の氏朝の武士の誉れを書いておきたかったのである。

京都の幕府に反抗して敗死した鎌倉公方足利持氏の遺児、春王丸と安王丸が流浪の末、結城城を頼ってくる。使者が来て「公子二人をお頼みしたい」との手紙を持参する。結城家にとって鎌倉公方持氏は旧主である。しかし持氏が死んだ今となっては公方の家来ではなく室町将軍の家来となっている。旧主の遺児を匿うということは将軍に反旗を翻すことに他ならない。父氏朝と子持朝が意見を交わす。「親を失い、国を追われた春王さま安王さまはお労しい限りですが、そのためにわが結城が謀反人になることは出来ません」と子が言えば、「左様じゃ、わが代で結城の名に泥を塗り、家を潰して、先祖代々の名誉を汚すことは断じて出来ぬ」と父が答える。話は決まったかのように見えたが、使者を前にした氏朝の答えは違っていた。「拙者、当城の城主ではあるが、一族、縁者、重臣どもに諮って、皆の考えを聞いてやらねばならぬ。その上でご返事をいたしたい」
すぐさま結城領の各地から人が集まり評定が始まった。
「公子の消息が見つかったなら、一日も早く結城の城へおいで願うべきではないか」
「消息を知って、素知らぬ顔をいたしておったら、結城の名折れぞ」
「わが結城一族は、長年鎌倉公方の恩顧を賜わってきた家である。天下の孤児となられた公方家の公子をみすみすお見捨ていたすことはできまい」
「鎌倉公方の弔い合戦をいたす絶好の機会ぞ」
止めどなく強硬意見が続出する。
「公子を匿うことは幕府に対し謀反の旗を挙げること」「幕府の軍勢はおそらく十万、いやそれ以上の大軍が……」「結城の行く末を考えれば……」などの消極的意見はことごとく一蹴される。二日に亘る評定の末、氏朝は公子を引き取り籠城することを裁断する。結城一族の最期が決まった瞬間である。約1年に亘る籠城戦の末、嘉吉1年(1441)4月16日、結城城が落城、一族郎党みな腹を掻き切って壮烈な最期を迎えたのである。

「松月院」の駐車場に車を停めて御廟を探したが見つからない。二人で寺の周囲をウロウロしてしまった。車に戻って資料を確認して思い出した。御廟のある「慈眼院」は廃寺になったものか建物はなく、登録する住所がないので近くにあった「松月院」を入れておいたのである。車をそのままに1分ほど歩くと御廟が現れた。塚を作り、土塁を廻らし、床面に大谷石を敷き詰め、全体に玉石を並べていた。中央に前壇を設け、初代朝光から十六代、さらに無銘のものなども含め二十基の五輪塔が並んでいた(写真)。負けを承知で挑んだ戦いである。お参りをして旅の終わりとした。
                                 (令和2年作)




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末黒野

末黒野になどて一叢焼け残る



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翌朝は早目に起きていつものように一人で散歩に出掛けた。車で渡良瀬川沿いを訪ねたのである。まずは雀神社。その横の土手の上に田中正造の顕彰碑が立っているのである。ランニングの人が時折通るだけである。前日、記念館で聞いた話を思い浮かべながら碑の前に立った。「田中正造翁遺徳之賛碑」と書かれ、正造が明治天皇に対し書状を持って直訴する場面を描いたレリーフが彫られている。土手の向こうの渡良瀬川は見えるようで見えない。ゴルフ場が邪魔をしているのである。成るようで成らなかった正造の想いとどこか通ずるような気がした。
少し離れた場所に「まくらが」の碑が建っていた。万葉和歌である。
「まくらがの古河の渡りの唐梶の音高しもな寝なし子ゆえに」
意味は「いまだ誰とも係わりを持ったことのない女性なのに、ウワサばかりが高くなって困る」というものである。「まくらが(枕香)」は古河に係る枕詞であり、古河は「許我」と書かれているが「滸」であり「川のほとり」「水辺に船をすすめる」という意味がある。
車を移動して「古河城本丸跡」の碑を探した。<このあたりだろう>と見当を付けた場所に車を停めて土手を登ると5メートルと離れていない場所に出たので驚いたものである。碑の前に立って説明文を読んでいると真上でヒバリが囀っている。
<チュルル、チュルチュルチュル、ピー、チュクチュク、チュルチュルチュル……>
ずっと同じ場所に留まっている。少し位置を変える。囀りは同じである。急に声が止み、急降下した。目の前の土手に下りた。ヒバリは警戒して自分の巣から離れた場所に下りると聞いたことがあった。降りた場所を見ていたが動くものは見えない。しばらくして下りた辺りに巣がないかと歩いてみると、およそ離れた場所から2羽が飛び立った。
写真で見ていた木製の碑と違うものが建っていた。立派になっていた。いつまでもヒバリが囀る土手であって欲しいと思った。

ホテルをゆっくりとした時間に出て、前日最初に訪ねた「生井の桜堤」を再び訪ねてみた。焼け跡を見たかったのである。「末黒野」「末黒葦」などの季語がある。一句、詠んでおきたかったのである。到着すると係の人がいて土手の下に降りるのを防いで三角コーンを立てていた。
私「下りちゃ駄目なんですか?」
係員「はい、申し訳ありません。まだ火が消えていないので立入禁止にさせてもらいます」
確かにまだ火が燻ぶっている場所がある。白煙が立っているのである。やむを得ない、係員のいない場所に移動するしかない。車に戻って100メートルほど移動した。すると係員も移動して来てまた三角コーンを立てているのである。
<しょうがないなぁ……>
私「土手の向こうまで歩いてこよう」
妻「いいよ」
200メートルくらい先に下りる場所があることを前日歩いていて知っていた。さすがにそこまでは追って来ない。煙も立っていない。思い通りの一枚(写真)を手にして次の目的地「結城市」に向かうことにした。
                                 (令和2年作)




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花桃

花桃や李白の前の酒一斗



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歴史博物館を出てそのままホテルに向かおうかとも思ったが、近くに古河総合公園があるので行ってみることにした。本来なら「桃まつり」で賑わっているところだが、コロナウイルスのため中止となっている。<お祭りはなくても桃の花は咲いているだろう>と寄ってみることにした。車中の会話である。
私「桃と花桃って違うんだろうか?」
妻「どうして?」
私「桃の花が満開になるのはいいけど、そこに実が生ったら大変だよ。みんな公園に行って桃を食べることになる。公園の木に桃の実が生るっていう光景は考えられない。桃の実は桃畑で作るだろう」
妻「調べてみる。……あった、いい?……桃は大きく分けて花桃と実桃に分けられる。花桃は花が咲くのを見て楽しむといったように観賞用に栽培される。実も生るがとても小さく食べられない。一方、実桃は食用として栽培され、花は小さい」
私「へぇ~、知らなかった。同じ桃だけど、品種が違うんだ」
漢詩の「春夜宴桃李園序」(李白)を思い出していた。桃の花、李の花の下で宴を催している。酒を飲み、詩を詠んでいる。<あの時の桃の花って、花桃のことなんだろうなぁ。今までずっと桃の実を想像していた>
公園はお祭り中止のはずだが駐車場は混み合っていた。入口に誘導する人がいて夕方にも拘らず列が出来ていた。
私「お祭り中止でこれだから、中止でなかったら凄いことになってるなぁ」
駐車場に停めて歩いた。花桃が咲いている。赤、ピンク、白と品種がいろいろあるようで枝ぶりも違っている。とてもきれいである。順路に沿って広い園内を巡ってみた。マスクをしている人がほとんどだが、していない人もいる。中国に端を発したウイルスは今やヨーロッパ、アメリカで猛威を振るっている。その日は3月21日、日本の感染はそれほどでもないように見え、その後の爆発的な蔓延を予想する人は誰もいないかに見える。のんびりと春の行楽を楽しんでいる人達であり、我々もその中に紛れていた。

ホテルは駅前のビジネスホテルを取っていた。建ったばかりのようでとてもキレイである。誰もいない大浴場に入り、ホテルのレストランで軽めの食事を摂った。お酒は熱燗2合を注文した。運んで来てくれた仲居さんが気を利かせてお酌までしてくれた。
私「ありがとうございます(笑)」
お猪口に口を付けた。
私「アチッ、アチアチアチ……」
熱くて飲めるものではない。徳利に触ってみた。持てるような熱さではない。
私「よくこの熱いのを持てましたねぇ」
仲居さん「厚いのは面の皮だけじゃないみたいなんで……」
私「???、ヒャヒャヒャヒャ……」
楽しい夜を過ごした。
(注)杜甫の詩「飲中八仙歌」の中に李白を詠った「李白一斗詩百篇」がある。意味は「李白は一斗の酒を飲めば百篇の詩を詠む」である。
                                 (令和2年作)




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初桜

まくらがの古河の水辺の初桜



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蓮池を見たあとはいよいよ古河市入りである。テレビで葦焼きのニュースを見て、渡良瀬遊水地の場所を確かめ、その近くにある古河市を見つけ「オオ、古河公方の古河ではないか!」となったところが抑々の始まりである。
改めて「古河公方」について少し書いておこう。

室町幕府6代将軍足利義教(よしのり)の時代に鎌倉公方である足利持氏が足利将軍家に対して反旗を翻した。これを受けて幕府は討伐軍を鎌倉に派遣する。討伐軍は関東管領上杉憲実と協力して攻め立て、持氏は鎌倉の永安寺にて自害する(1438年、永享の乱)。持氏の死により四代に亘って関東を統治してきた関東公方は空席となり、替わって関東管領である山内上杉家が関東を治めることになる。
その後、京都では将軍義教が暗殺され、跡を継いだ7代将軍義勝も10才で亡くなり、8代将軍義政の時代となっていた。
「いつまでも鎌倉府が空席というのも良くない。死んだ持氏の子を公方に任じるか……」
「上杉憲実が関東管領ならば誰が公方になっても同じだろう」
ということで上杉憲実に頼んでみるとキッパリと断ってきた。永享の乱で主君を自害に追い込んだことに心を痛め、隠居したいとまで言っている。やむを得ず息子の上杉憲忠を任じることとしたが、関東管領を受けた息子に対し父の憲実は勘当を言い渡したという。心の傷は相当なものだったようである。
持氏の息子成氏(しげうじ)が5代鎌倉公方に就任し、10年振りに鎌倉府が再興されるが、10年のブランクは大きい。しだいに足利派と上杉派の対立が深まり、あちこちで合戦などを繰り返し、1455年(享徳4年)、とうとう成氏は憲忠を殺害してしまう。これがそれ以降28年間続く「享徳の乱」の始まりである。上杉方の攻撃を受けた成氏は鎌倉に戻ることが出来ず下総国「古河」に拠点を移し城を構える。それより古河公方と呼ばれるようになる。享徳の乱は成氏が幕府に対し和議を申し入れ、和睦が成立する1483年(文明14年)まで続く。その後、成氏が亡くなり、子孫4代に亘って古河公方は続いていくが、権勢振るわず、1582年(天正10年)5代公方義氏が亡くなって古河公方は滅亡することとなる。時代は北条早雲の台頭、戦国時代へと移っていく。

初代古河公方足利成氏が築いたという古河城は明治6年の廃城令により取り壊されている。渡良瀬川の堤防の上に碑が立っているだけである(写真)。まずは城址の中心地に平成になって完成したという古河歴史博物館に行ってみることにした。「何かあるだろう……」と思ったのである。建物の周囲には曲輪跡と見られる水堀が巡らされていて<なるほど>と思ったが、中には見るべきものはあまりなかった。上記のことなどを分かりやすく説明したビデオがあったので二人でそれを見て出てきた。
「何もなかったなぁ……」
(注)「まくらが」は古河に係る枕詞である。
                                 (令和2年作)




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蓮根掘

眼鏡の泥は拭はず蓮根掘



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次の目的地「古河」に向かう途中で水を噴射しながら作業している人を見掛けた。
「蓮根掘りだ!」
200メートルほど先にあったホームセンターの駐車場に停めて見に行くことにした。
男性が一人、蓮池の中でホースを使って掘り出している。写真を撮ろうとしたが、慌てていたようでスマホを車の中に忘れてしまった。
私「戻る」
妻「どうしたの?」
私「スマホを忘れた」
妻「……」
蓮根掘りの男性もこちらを見ていたが、すぐに戻ったので話し掛けることも出来なかった。車に戻ってすぐに現場に立ち戻った。車から出て男性に後ろから声を掛けた。勢いよく水を放出しているので大声で話し掛けた。
私「テレビでは観たことあるんですけど……」
男性「ワッ、驚いたなぁ」
土手に臥せておいたプラスチック製の小舟を浮かべて、掘り出したレンコンを回収しているところだった(写真)。
後ろ向きだったが、声を掛けたのでこちらを向いてくれた。
私「テレビでは観たことあるんですけど、実際に観るのは初めてです(笑)」
男性「いやぁ、急に大声を出すんでビックリしたよ(笑)」
私「今日は暖かくていいですね」
男性「暖かいといっても水の中に入っているんだから寒いよ。入ってみる?(笑)」
私「これは本来、冬にやるものですよね。正月用に出荷するんじゃないですか?」
男性「一人でやっているんで、掘れる時にしか掘れないんだよ」
私「向こうの蓮池も旦那さんのものですか?」
男性「向こうは別の人。昔はこのあたりで何軒もやっていたんだけど、今はその人と自分だけになってしまった」
私「水で掘るというのも大変ですよね。自然薯みたいに掘りやすい仕掛けを考えればいいじゃないですか」
男性「考えてもらいたいよ(笑)」
私「回収したレンコンはあとどうするんですか?」
男性「洗って車に積んで、帰って箱詰め」
私「そのまま出荷するんですか?」
男性「そう。それもまた大変なんだけどね……(笑)」
回収しながら水の噴き出している辺りに行ってしまったので話が出来なくなり終了となった。
思わぬところでいいものを見ることが出来て得をした気分である。
                                 (令和2年作)




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菜の花

菜の花や土手は群馬か埼玉か



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食事を終えて向かったのが利根川べりにある「川俣締切跡」である。利根川に架かる「昭和橋」を渡った先に大きな「道の駅」があり、その敷地の中に碑が建てられている。直木賞作家門井慶喜の小説「家康、江戸を建てる」を読んで、一度は訪ねてみたいと思っていた場所である。すぐに到着した。
私「ちょっと待って、咽喉が乾いた。お茶を買って来る」
妻「私はソフトクリームを食べようかな」
私「おっ、いいな、俺も食べようかな」
大きいのは食べ切れないので、二つに分けられるモナカを買って半分にした。
私「あった、あった、あそこだ、あそこだ」
モナカを食べながら碑に近づいていった。
本は3、4年前に読んでいる。江戸時代に行なわれた利根川東遷事業の話である。面白かったことだけは覚えていたが、詳細となるとまるで覚束ない。改めて旅行の前に読み直してみて、いい加減にしか覚えていなかったことを痛感した。印象に残っていたのは1654年に赤堀川を開削して利根川を太平洋側へと通じさせるシーンである。上流の堰を決壊して新しい河道に水を通そうとしている。赤い水が地響きを立てながら迫って来る。
『速い流れが水路の床や壁を削って近づいてくる。
「まずい」
この堤防も崩れるのではないだろうか。

ど~ん
大砲を連発するような音と共に、赤い水が体当たりしてくる。
地震が起きた。水が空へ躍り上った。
<あやうし>
<全員、避難しろ!>
そう下知しようとした瞬間、水位が下がり始めた。』
このシーンをてっきり家康に命じられた伊奈忠次の仕事だと思っていた。実際には忠次の子の熊蔵、その弟の忠治、さらにその子の半左衛門と受け継ぎ、赤い水のシーンはその半左衛門の姿を描いたものだった。伊奈家3代4人の男が取り組んだ大事業であり、忠次が川俣で「会の川」を締め切った1594年から60年も経って完成したことになる。
碑の前に立った。するとその時、すぐ真上から大きな音が聞こえてきた。
<ジャーンジャ、ジャーンジャ、ジャジャジャジャジャ~>
知っている曲である。
<なになになに?なんなの、この曲は?>
井沢八郎の「ああ、上野駅」が大音量でスピーカーから流れてきた。
<エエッ、群馬に来て、なんで上野なの?>
作詞家がこの地の出身者のため顕彰碑が建てられたようである(写真)。「川俣」の碑の前に立ちながら「上野駅」を聞くという不思議な体験である。<音が大き過ぎるなぁ>と思いながらも、ついつい聞き惚れて口ずさんでしまっている私がいた。<やたらと碑を建てたがる群馬県民かも知れない>と思っていた。
(注)利根川の地図を見ていると県境を表す線が川の中央に引かれていないことが分かる。すなわち「土手は群馬か埼玉か」は真実なのである(笑)。
                                 (令和2年作)




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春燈

客待ちて春燈消ゆることのなし



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昼は鰻と決めていた。茂林寺の駐車場の壁に大きく看板を出している鰻屋があったのでそこに行ってみることにした。800メートル先である。到着して駐車場に入れたところで貼り紙を見た。<コロナのため休業いたします>である。
私「いくらコロナだからといって、全部が全部、休みということもないだろう。検索してみてよ」
妻「ちょっと待って、近くに『魚玉』という店がある」
私「魚屋みたいな名前だなぁ、住所は?」
カーナビに入れると1.5キロ離れていると出た。
私「近い、近い。だけど営業してるかなぁ?」
妻「営業中と書いてある」
私「へぇ~、随分と親切な店だなぁ(笑)」
旅に出るとなぜか鰻が食べたくなる。昨年暮れに出掛けた川越での一人膳は直近のことだが(令和2年1月17日、ひこばえ「年詰る」)、2年前の金華山を訪ねた時に入った鰻屋のことも印象的である。鰻の頭を「半助」と呼び、ご飯の上に載せられていたのを「ああでもない、こうでもない」と話したことはいい思い出となっている(平成30年1月17日、ひこばえ「師走空」)。
すぐに到着した。店の横に駐車場があったが何台も停まっていた。店構えがいいと思った。料亭にあるような看板「川魚料理 魚玉」には昼だというのに灯りが点いていた(写真)。誰も並んでいなかったのでそのまま入ろうとすると女性が出てきて「外に置いてある受付の紙に名前を書いてお待ちください」という。「並んでいる人もいないのに……」と思ったが、中に入ってみると先客が待っていた。それでもそれほど待たされることもなく座敷席に案内された。注文は待っている間に済ませている。
私「コンセントはあるか?」
妻「見当たらない」
私「頼むしかないな」
実は私の携帯の充電が切れそうになっていたのである。寝る前に充電器に繋いでおいたので起きた時には100%だったのだが、野焼きの写真を撮り過ぎたようで「田中正造記念館」に着いた時には15%まで減って赤信号が灯っていたのである。この先いろいろと待っている。ここで充電しておかなければ写真が撮れないことになってしまう。必死である。見ると壁にコンセントがあり、カバーなどして充電させないようにしている。「充電お断り」のカバーのようである。
私「スミマセン。携帯の電池が切れてしまって充電させてもらいたいんですけど……」
先程の女性に頼んでみた。
女性「充電ですか……」
ちょっと嫌な顔をしている。
私「これからいろいろと回らなければならないので本当にスミマセン、お願いします」
いいとも悪いとも、言ったような言わなかったような、曖昧な表情をしている。勝手にオッケーと判断した。
私「ありがとうございます。感謝します」
お礼を言ってしまうと女性も仕方ないと思ったようである。黙認してくれた。
鰻は絶品だった。量も味も申し分なしである。<上州に美味い店あり>とは群馬県館林の「魚玉」のことである。
                                 (令和2年作)




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酒煮る

酒煮るや化けし茶釜は三貫目



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私「分福茶釜ってどんな話だったっけ?」
妻「えっ、ちょっと待って、調べてみる……」
「桜堤」を出てしばらく走った辺りでの会話である。
妻「お寺に迷い込んだタヌキが捕まりそうになって茶釜に化けたのはいいが、火に掛けられて熱い熱いと転げ回る内に元に戻れなくなってしまった。怪しい茶釜なので和尚さんは道具屋に売り渡す。道具屋に助けられたタヌキはそのお礼に綱渡りの芸などをしてお金を稼ぎ、道具屋は大儲け。茶釜はお寺に返し、タヌキはお寺でのんびりと暮らしたとさ」
私「オカシナ話だなぁ。道具屋はいい人で、悪いのは和尚さん?お金を儲けたのは道具屋で、のんびりと暮らすのは和尚さんのところ?ちょっとオカシクない?」
妻「オカシイところもあるけど、お伽噺ってそういうところもあるのよね(笑)」
昔、なっちゃんに百日の寝物語をしたことがあったが、分福茶釜の話はしなかったようである。記憶がない。茶釜から手足と首を出した絵と、綱渡りをしている絵を覚えているだけで内容の記憶がない。果して茂林寺ではどのように伝えているのであろうか。
「田中正造記念館」からすぐの場所である。門前の土産屋のシャッターが目立つ。タヌキの置物ばかりを並べたような角の店の前を通り、山門をくぐり、参道に進んだ。両脇にタヌキの像が並ぶ。台座に俳句が書かれている。見るとタヌキを詠み込んで四季折々の季語を使い<まぁまぁ>の句になっている。しかし、所詮タヌキを詠み込めばこうならざるを得ないという句ばかりである。川柳と紙一重と言えば失礼な言い方になるが、参道を歩む人全員に読めと言っているようなものなので、ついつい一言余計なことも言いたくなる。
拝観料を払い本堂へと進む。お参りをする前に資料室のような部屋へ入っていった。一つの部屋が細かく衝立で分けられていてテーブルが何台も置かれている。その上に資料が並べられている。雑誌、ポスター、切り抜き、新聞、写真集などが私の机の上より乱雑な状態で積まれている。まずは素通りして先に進むと、納戸に「茶釜」が仕舞われている。その前にタヌキの置物が3つとお菓子を載せた三方、それに賽銭箱が置いてある。パチリパチリと写真を撮ったが、見ると「撮影禁止」の札も立っている。<どうして撮影禁止なのだろう?>と思ったが従う他はない。戻って資料を細かく見てみると興味を引くものがあった。古い写真である。フランキー堺や森繁久弥、ジャイアント馬場などが写っている。映画のスナップ写真である。「喜劇、駅前茶釜」とあり、「駅前シリーズ」の一つだったようである。この写真だけは一枚撮らせてもらった(写真)。

家に帰ってからの話である。
レンタルビデオショップのTSUTAYAにこのビデオが置いてあるかどうか電話してみたのである。
私「もしもし、レンタルビデオの在庫の確認をしてもらいたいんですけど……」
女性「はい、かしこまりました。作品の名前をどうぞ」
私「喜劇……」
女性「喜劇ですか?」
私「そう、喜劇悲劇の喜劇。次が駅前……」
女性「駅前?(笑)」
私「茶釜……」
女性「……」
私「ブンブクチャガマの茶釜……」
女性「(大笑)」
(注)茶釜の下の貼り紙に「十一.二瓩(約三貫)」と書かれていた。
                                 (令和2年作)




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春の川

渡良瀬の昔を今に春の川



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「生井の桜堤」から「茂林寺」までは所用時間40分である。分福茶釜の話などをしながら走っていたが、途中でカーナビの画面の片隅に気になる文字を見つけた。
私「ワワワワワッ、ストップ、ストップ、ストップ」
妻「どうしたの、急に?」
私「まずはそこの駐車場に入れよう」
妻「どうしたのよ」
私「田中正造記念館があった。忘れていた。去年、足尾銅山に行った時に遠くて寄れなかったんだけど、ここだった。行ってみよう」
正式名称「足尾鉱毒事件田中正造記念館」。群馬県館林大手町6-50。茂林寺まであと5分という距離である。青い幟が2本立っていた。立派な門をくぐり、民家のような建物の戸を開いた。
私「スミマセン。どなたか、いらっしゃいますか?」
奥から女性が現れた。
私「中を見学してもよろしいでしょうか?」
女性「どうぞ、お上がりください。お二人ですか。よろしければこちらにお名前を記入していただきたいのですが……ありがとうございます。このご時世ですのでお話しするのも何なのですが、館内の説明はいかがいたしますか?よろしければ私がご案内いたしますが……」
コロナウイルスのことを言っているらしい。
私「是非お願いします」
女性「お時間は大丈夫ですか?」
私「大丈夫です」
時計を見た。10時15分である。話は足尾銅山の煙害から始まった。昨年、見学してきたばかりである(令和元年9月18日、ひこばえ「山滴る」)。しかし訪ねたことは伏せておいた。観光地と化した銅山のトロッコ電車に乗った話とこれから始まる鉱毒事件の話は似つかわしくない。渡良瀬川の魚が死に、穀倉地帯の農産物が汚染され、人体に影響が及ぶ話である。下流に住む人々に健康被害が出て、人の命が損なわれていく。田中正造が登場する前の話が蜿蜒と続く。そこが大切な話なのである。健康被害ばかりでなく食べ物もなくなり飢えに苦しみ、上に訴えるも相手にされず苦しみ抜いて行く。被害民への暴力、拘留、国の無力を訴えていく。ようやく最後あたりに田中正造が登場する。天皇陛下への直訴、極貧、胃がん、死。一通りの話が終わって11時15分になっていた。ちょうど1時間である。女性には本当に丁寧な説明をしてもらった。入場料無料でガイド料も無料である。「もしよろしければ、最後にお気持ちでも……」と最初に言われている。こんなに丁寧な説明を受けたのである。もちろん幾許かを置いていかなければならない。財布を見るとたまたま1万円札しか入っていない。小銭もない。
私「お前はいくら持ってるの?生憎、財布に万札しか入っていない」
妻「えっ、私の財布は車の中だよ。持って来ていないよ」
私「ええっ、この場合お釣りは貰いにくいよ」
妻「そうよねぇ」
私「いいや、1万円を置いていく」
妻「えっ……」
結局は田中正造の伝記をビデオ化したCD「赤貧洗うがごとき」(定価3500円)を買い、5000円を取ってもらうことにした。「こんなに頂戴しては……」と恐縮していたが、とてもとても恐縮されるような金額ではない。貴重な話を聞かせてもらった上に帰ってからの楽しみも増えることになったのである。予定していなかっただけにとても得をした気分になっていた。
                                 (令和2年作)




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葦焼き

焼け残る葦に煙のまとひけり



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冗談ばかり言って屯していると思いきや、誰かの合図があったのだろうか、男たちは一斉に土手を下って左右に散っていった。始まりの挨拶も何もない。普通ならここで一言あっても良さそうなところである。
<お集まりの皆さん、只今より令和2年度の葦焼きを始めます>
県会議員や市会議員、地元の名士などが集まり、ワイワイやっている姿を想像する。何の挨拶もないということはあくまでもこれが農作業だからなのだろうか。それとも知らない場所で終わって一杯の場所が用意されているのだろうか。燃え始めた葦の前でくだらないことを考えている。火は瞬く間に大きく燃え上がった。メラメラメラと音がする。
<オオオオッ、凄い、凄い、凄い……>
あちこちで火の手が上がる。小さく燃えている場所もあれば大きく炎を上げている場所もある。熱さが土手まで伝わってくる。小鳥がパラパラと飛び立って行くのが見える。その遥か向こうに黒煙が上がる。遊水地の他の場所でも一斉に火が放たれたようである。右にも左にも向かいにもいくつもの黒煙が上がっている。狼煙のようにも見える。合戦の場のようにも見える。<昔の戦もこんなようなものだったのかなぁ>
次の日に予定している結城合戦の攻防を思ったりしていた。
「火の付きが悪いなぁ」
「これじゃ、いい写真が撮れない」
「二日前に降った雨の所為か」
「相当に燃え残るぞ、これは……」
あちこちで声が聞こえ始めた。確かに見ていると隣の葦に移らないで炎が小さくなっていく。一瞬大きく燃え上がってもその火が消えて隣の葦を残してしまう。
私「こんなもんじゃないんですか?」
男「全然、全然、これじゃ、燃えている内に入らないよ」
私「結構、迫力あるように見えますけどねぇ」
男「いつもだったらもっと大きく上がるんだけど……もっと上の方まで炎が上がるんだ」
毎年来ている人には物足りない火の勢いだったかも知れないが、初めて見る私には充分に思えた。初めての「野焼き」「野火」である。
1時間ほど見て次の目的地に向かうことにした。
私「明日、もう一度この場所に来てみる」
妻「どうして?」
私「結城城址に向かう途中だから遠回りにはならない。焼け跡を末黒野っていうんだけど、どうなっているか近くで見てみたいんだ。写真も撮りたい」
空が黒煙で曇り、太陽がお月様のように見え、葦焼きの灰がひらひらと降ってきていた。
                                 (令和2年作)




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野焼き

風受けて土手に押っ立つ野焼き前



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渡良瀬遊水地の広さは33平方キロメートルである。途轍もなく広い。問題は葦焼きをどこで見るかである。公式サイトでは3ヶ所の駐車場が紹介されていた。いずれも遊水地の西側に200台、300台、500台と用意されている。メイン会場はそちら側と考えるべきである。しかし念のために「渡良瀬遊水地、葦焼き、ベストショット」と検索してみると一番に「生井の桜堤」が出てきた。ドローンで撮影された動画のサイトまであった。土手の上に並んで広大な葦焼きを眺めている人々を映し出していた。
<ヨシ、桜堤にしよう!>
迷わずに決めた場所である。一通り歩いてみて三脚を立てて白サギを写していた70才位の男性に声を掛けてみた。
私「人出は多い方なんですか?」
男性「全然。いつもの半分もいないよ。みんな、コロナで自粛したんだよ」
私「去年だかの映像を見ましたが、凄い人ですよね」
男性「そうだよ。いつもは三脚が立てられないほどになるんだけど今年はどこにでも立てられるよ。どこから?」
私「横浜です。朝4時半に出てきました」
男性「去年は岡山から来たという人もいたよ。遠いところをご苦労さんです(笑)」
私「地元の方ですか?」
男性「そう。毎年、同じ写真を飽きもせずに撮りに来るんだ(笑)」
私「撮ってどうするんですか?」
男性「俺は読売写真クラブに入っているから、そこに出したり、葦焼きの写真展に出したり、いろいろだよ」
私「たまには入賞したりするんですか?」
男性「ないなぁ。ここんとこ、全然ない。そろそろ止めようかと思っている(笑)」
それから話はコウノトリに移った。5年ほど前に初めて飛来して以来、ほぼ毎年飛来するという。遊水地の中に人工の巣の塔も立てたという。いやにコウノトリへの想いが熱い。ヒカル、レイ、カズなどと名前で呼んでいる。今年も来ているという。昨年、岡山に旅行した時に見た<あれが確かコウノトリだったなぁ>などと思ったが<何十羽もいた>などとは言い出せない雰囲気である。
8時半の少し前に関係者と思われる男性十数名が土手の中央付近に集まった。同じジャンバーを着ている。「OYAMA CITY」と書かれ、背中に鳥の飛翔する絵があしらわれていた(写真)。NHKのカメラマンを囲んで冗談を言っている。
私「これから点火ですか?」
男「そう」
私「このジャンパーの背中の鳥はコウノトリですか?」
男「そうだよ」
ここの人はなぜこうまでもコウノトリが好きなのだろうか。
                                 (令和2年作)




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風光る

曲るたび光る風あり高速路



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3月21日(土)、いよいよ葦焼き見学である。出掛けてきた。
カーナビで検索すると最初の目的地「生井の桜堤」まで129キロ、所要時間2時間半と出た。葦焼きの点火が8時半で、その1時間前にはカメラマンの三脚が土手にズラッと並ぶという。遅くとも4時半には出ようと考えていた。10分ほど遅れて出発した。車の中での会話である。
妻「いつも出掛けにドタバタするよね。前の日から準備しておけばいいのに……」
私「何だカンだと言っても、結果はオーライになるんだよ、いつも(笑)」
妻「……」
私「あっ!」
妻「何!どうしたの?大きな声を出さないでよ」
私「昨日の夜、寝る時に見ていた地図を枕元に忘れた。いろいろとメモを書き込んでおいたのに……」
妻「戻る?」
私「いいよ、行く場所は全部覚えているから」
妻「……」
私「あっ、歳時記も忘れた」
妻「……」
車はすでに高速道路に入っている。
妻「携帯電話の充電器は?」
私「それは持って来たけど……歯間ブラシと帽子も忘れた……」
まぁ、旅行が出来なくなるという訳ではない。準備という概念がスッポリと抜け落ちてしまったようである。
東北自動車道を走り、カーナビの指示通りに久喜インターチェンジで降りた。空は晴れ渡っている。
私「加須で降りると思ってたけどなぁ……」
妻「大丈夫?」
私「渡良瀬遊水地に一番近いのが加須だったんで、てっきりそこで降りると思っていたんだけど、カーナビがそう言うんだから間違いはないだろう(笑)」
妻「いい加減ねぇ(笑)」
私「俺よりカーナビの方が正しいよ」
妻「それはそうだけど、普通、それくらいは調べておくよね」
いろいろと言われながらも7時には目的地に到着した。予想では土手の駐車場は車で一杯のはずだったが停める場所に事欠かないくらいに疎らである。コロナウイルスの影響のようである。疎らとはいっても三脚は並んでいる(写真)。トイレに近い場所に停めて外に出てみた。
<寒い……>
モモヒキは穿いてきたが、セーターを忘れたようである。横浜で9℃だった気温が2時間半経って4℃に下がっていた。
                                 (令和2年作)




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花散る

花散るや斜線だらけの予定表



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30日(月)志村けんさん(70)の訃報が流れた。コロナウイルスに感染したことが報じられて6日目の出来事である。身近に感染した人がいなかったのでどこかで呑気に構えていた自分がいたようだが、この訃報でコロナの本当の恐ろしさに直面させられたような気がした。
私「驚いたなぁ、まさか亡くなるとはなぁ……」
夕食を摂りながらの会話である。
妻「病院側だって相当に手を尽くしたんでしょうけどね」
私「どこかに疾患でもあったんだろうか?」
妻「4年ほど前に肺炎を患っていたらしいわよ」
私「なるほどなぁ。高齢者や基礎疾患のある人は要注意というけど、本当だなぁ」
妻「会社の人は大丈夫なの?」
私「今のところは大丈夫。明後日の全体朝礼で不要不急の外出についてはご家族も含めて自粛してもらうようにお願いする」
妻「そうね。じゃ、高尾山はキャンセルするからね」
私「えっ、なんで?関係ないじゃん!」
妻「関係あるでしょ。人にお願いする立場の人が山登りに出掛ける訳にはいかないわよ」
私「山は大丈夫だよ、誰とも接触しないし」
妻「する。ガイドの人もいれば、参加者同士で話もする」
私「しない」
妻「する。するしないの問題じゃなくて、これはモラルの問題だよ。キャンセルするからね」
私「じゃ、俺一人で行ってくるよ」
妻「自分が移らないだけじゃなくて、人に移さないことも重要だよ。貴方が感染したら完全に私にも移るんだからね。私を守ってくれないの?」
私「……」
妻「はい、キャンセルするよ」
私「しょうがないなぁ。富士山が消えてしまう……」
妻「消えないわよ。コロナが終焉すればいつだって行けるでしょ」
私「フ~」
                                 (令和2年作)




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四月馬鹿

妻に説く三従の道四月馬鹿



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新型コロナウイルス感染症の拡大が止まらない。東京都などの感染者数が増える中、これからどのように影響が及んでくるのかと慎重に見守っているところである。幸いにして今のところ会社の従業員や仕事の内容に直接的な影響は出ていないが、これからの展開次第では様々な事態も想定される。心して対処していこうと考えているところである。
そんな中、一発目の影響が出た。スマホに妻からメールが転送されてきた。
『クラブツーリズムをご利用いただき、誠にありがとうございます。
この度、お申込みをいただきました下記のご旅行でございますが、現時点でお申込みの方が最少催行人員に達しないため中止せざるを得なくなりました。
誠に申し訳ございません。謹んでお詫び申し上げます。
ご予約内容
「富士山に登り隊 第1回 高尾山から景信山 日帰り」』
<ムムムム、あんなに来ていた事前説明会だったのに……>(令和2年3月15日、ひこばえ「獺の祭」)
不要不急といえばその通りだが、山登りに「密閉、密集、密接」が該当するのだろうか。
<あっ、バスか!>
横浜から高尾山までバスで向かうことになっていた。確かにバスの中では3つの「密」が危ぶまれる。
<そうだなぁ。正しい判断だなぁ>
キャンセルした人達の心に思い至った。
私「どうする?金時山でも登ってくるか」
妻「今はそういう時ではないと思う」
私「閉じ籠ってばかりいるのもなぁ……コロナはおそらく長期戦だよ」
妻「旅行会社が中止するくらいだから山登りも問題なんだよ」
私「そうかなぁ……」
その数日後、手紙が届いた。クラブツーリズムからである。<返金手続きか何かかな?>と思って開けてみると別の日に行われる同じコースへの誘いである。
私「おお、やっぱり山自体には問題ないんだよ。バスに問題があったんだよ。よし行こう。申し込もう。一緒に行こうよ、お願い……」
妻「高尾山の集合場所まではどうやって行くの?」
私「車だよ。電車は危ない」
妻「そうね。それなら大丈夫かもね」
日時は変更になったが予定通り富士山を目指すことになった。妻も一緒である。富士山までの道のりは遠い。
「お願い……」が功を奏したようである(笑)。
                                 (令和2年作)




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