2020年01月の記事 - ひこばえ
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日向 亮司

Author:日向 亮司
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ひこばえ


2020年01月の記事

初詣

初詣成田土産の鉄砲漬



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成田駅を出て表参道の商店街の中を20分ほど歩いて新勝寺に到着する。電車の中でいくら飲んだといってもここはピシッとしなければならないところである。手水舎で身を清め、石段を上がり香煙を浴び、本堂に進む。お賽銭を上げて手を合わせる。<昨年はお陰様で良い年になりました。ありがとうございました。今年も商売繁盛、社運隆盛を願っております。よろしくお願いします>
続いて出世稲荷へと進む。それぞれが油揚げと蠟燭を買い名刺を供えて出世を祈る。私はといえばこの頃は下で待っていることの方が多い。そのあと、いよいよ茶店へと向かう。創業者の頃から通っている店である。女将さんが出迎えてくれる。
私「今日はまた混んでますねェ」
女将さん「この時期に混んでいなくっちゃ、しょうがあんめ。ビールでいいの?」
私「まずはビールで乾杯します」
女将さん「ちょっと、ナカゴメの社長さんにすぐビール持って来て!何本でもいいんだよ。まったく気が利かないんだから。5、6本すぐ持って来て。はい、そっちの若いのも早く座って!」
私「相変わらず元気がいいねェ(笑)」
女将さん「元気がなくなったら終わりだよ。それだけでやってるんだから(笑)。会社はいいみたいだね」
私「お陰様で順調です。過去最高益を続けてます」
女将さん「そりゃ何よりだけどサ、自分一人で良くしたなんて考えたら大間違いだよ。ちょっと良くなったら、すぐにみんな勘違いするんだから。お不動様のご加護があって守られてることを忘れちゃ駄目だよ」
私「分かってます」
女将さん「ホントに分かってるの?」
20代で親から店を引き継ぎ、今80才になろうとしている。当社の創業者がお参りに来ていた頃の話をされるのだから頭が上がる訳がない。
女将さん「天慶の乱(939年)のあと、東国(関東一円)の鎮護のためにお不動様をご本尊として創建されたのがこの成田山新勝寺なんだ。1000年以上の昔からやってるんだからご利益がない訳がないだろ。ちゃんとお参りして、この『のり武』で一杯やって、今年も益々商売繁昌、間違いなし!はい、はい、飲んだ、飲んだ」
                                 (令和2年作)




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松過ぎ

松過ぎの車窓に千葉の松林



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今年の成田山は11日(土)に出掛けてきた。会社の初詣である。以前は8名で出掛けていたが、最近は12名と増えている。JR横須賀駅発の成田空港行き電車に始発から数名が乗り込み席取りをする。グリーン車の1階に4人掛けが2つと2人掛け2つの個室のような場所があるので、そこを占領するのである。当初は1人にビール1、2本程度だったと思うが、そのうちエスカレートしてきてビールの他にチューハイ、ワイン、日本酒と種類も増え、量も増え、ツマミもいろいろと買い揃えて朝から宴会めいてくる。横須賀6時54分発で大船7時19分、成田到着が9時24分なので2時間、2時間半を飲み続けることになる。その間の会話が楽しい。「お参りをする前に何事か!」と叱られそうだが、乾杯の時からテンションが上がっている。私が乗り込む大船駅ではすでに30分飲んでいる人が3~4人いるので釣られてグイグイと始まるのである。話は何でもありである。何を話しても盛り上がる。特に酔ってくると同じ話を繰り返すというのもお決まりのパターンである。葬儀に出席して叱られた話は私の定番である。
私「あいつには参ったよ。お母さんの葬儀には花輪も出し、手伝いも出し、従業員も参列させたのに、その1年後のお父さんの時には家族葬でやると言うんだ。急にやり方が変わった」
あいつとは当社の30年勤続の男子工員である。仕事は真面目で申し分ないのだが口数が少なく、何年経っても無愛想なところがある。その無愛想を説明するのに持って来いの話となっている。葬儀は今から10年も前の話である。
T君「弔問に出掛けて社長が叱られたんですよね」
私「バカヤロウ!俺がこれから話そうって言うんだから先に言うなよ(笑)」
T君「社長を怒るっていうんだから、あいつも相当な奴だよ(笑)」
私「あの頃は家族葬っていうのが一般的じゃなかったんだよ。走りの頃だよ、きっと。だから俺もやり方が分からなかったので、来なくていいと言われたって俺の立場じゃ行かない訳にはいかないと思ったんだ」
T君「それが現れたんで『なんで来たんですか!』と怒ったっていうんだから凄いよ」
私「バカヤロウ!だから俺がしゃべるから黙ってろって(笑)。行ったらすぐに飛び出してきて『来なくていいって言ったじゃないですか!』と凄い剣幕なんだよ。中には入れないというような勢いだよ。参ったねぇ(笑)。『いやいや、焼香だけでもさせてもらおうと思って』と言うと『しょうがないなぁ、ホントに』と言って入れてくれたんだが、あそこまで言うかなぁ、わざわざ来てくれた人に(笑)」
T君「しかも社長だよ。社長が来てくれて怒ってるんだから、あいつも相当な奴だよ」
T君も相当に飲んでいる。知った話なので先回りして話そうとする。「俺が話すから黙ってろ」と言えば言うほど周囲が笑う。初めてこの話を聞く人もいたので大いに盛り上がったのだが、その瞬間……
「あっ!」
手に持っていた赤ワインのコップを落してしまった。私のズボンはワインまみれである。床も汚してしまったが、向かいに座っていたT君は素早く足を除けて被害なしである(写真)。電車は千葉県の市川あたりを走っていた。
                                 (令和2年作)




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厄落し

絵馬の字の「厄」は逆さま厄落し



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昔の話になるが当社の社長が立て続けに不幸に見舞われ、どうしたものかと悩んだことがあった。平成6年に2代目社長が55才で亡くなり、5年後の平成11年に3代目が59才で亡くなり、その3年後の平成14年に4代目が60才で亡くなった。急遽、社長は5代目へと変わり、手続きや挨拶回りなどでドタバタとしていた頃のことである。あまりに良くないことが続くので一度正式に占い師に診てもらおうということになった。占いに正式があるかどうかは分からないがこの流れをどうにか止めたかったのである。いつもお参りに行く成田山の茶店の女将さんに頼んで一番当たるという占い師の店で「何が悪いのかを診てもらいたい」とお願いしたのである。5代目社長と当時常務だった私の生年月日はもちろん、お互いの女房の生年月日も知らせ、会社の敷地や建物の図面なども送った。その時に書いた手紙が残っている。
『ようやく暑さも一段落といった所ですが、皆様にはお変わりなくお過ごしのことを思います。先日お送りした挨拶状の通り、社長が〇〇さんに交代し、こちらもようやく一段落といった所です。〇〇前社長は療養中ですが、あまりいい状態ではありません。トップばかりに災難が起こるのを我々下にいる者は不安な気持ちで見ています。昭和57年に現在地に移転してきたことが悪いのか、平成元年に行なった増築が悪いのか、玄関やら水回りやら、どこか建物の方角に問題があるのか、素人があれこれ憶測したところで始まるものではありません。一度専門家に診てもらい、正すべきところは正そうと考えています。言われた資料は同封いたしました。お手数ですがよろしくお願いいたします』
結果はすぐに出た。電話があり「何の問題もなし」とのことだった。
「何の問題もなし……?」
「問題なし」は喜ぶべきところではあるが、あまりに簡単なので拍子抜けしたものである。9月に成田山に行った際に、念のためにその占いの店にも出掛けて直接話を聞き、建物にもお互いの相性にも問題はないとの太鼓判をもらったのであった。ただしその時、最後に言われたのが「八方除け」についてである。
「こうも不幸が続いていては心配するのも当たり前。会社の近くに寒川神社があり、関東の一ノ宮となっているのでそこにお参りして八方除けのお祓いをしてもらうのがいい」とのことであった。「なるほど」と思った。「それで断ち切れるのであれば一度行ってこよう」ということになり、二人で出掛けたのであった。それ以来のこととなる。一度という訳にもいかず、毎年、暮れになると出掛けてお祓いをしてもらっている。昨年の暮れにも一年のご加護をお願いしてきた。18回目のお参りとなる。
                                 (令和2年作)




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落葉

思ひ出の落葉一枚小机に



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翌朝ホテルで快晴の富士山を眺めながら朝食を済ませ、少しノンビリと過ごしてから横浜の小机に向かった。「小机城址」の見学である。太田道灌を廻る旅の締めくくりに寄ってみたかったのである。
文明10年(1478)、太田道灌率いる軍勢が丸子城と小机城に向かっていた。ようやく古河公方足利成氏と上杉顕定が和睦し、残る敵が成氏に味方していた長尾景春その一派だけとなっていた。丸子城に着くと敵は恐れをなして小机城に下がって集結していた。一気に攻め落とそうと進軍したが、道灌率いる足軽隊の数は百騎たらずである。対する小机城には数百人が籠城している。さすがに足軽隊の士気は上がらない。
「めずらしく足軽隊が敵を恐れています」
「ふむ」
馬上で道灌は考えた。やがて
「いま、おれは軍歌を作った。これをみんなで歌おう」
怪訝な顔をする部下の前で歌い始めた。
「小机はまず手習いの初めにて いろはにほへと ちりぢりになる」
聞いていた者が吹き出した。
「いや、おもしろい歌です。その歌を歌えば、足軽隊も一気に士気が盛り上がるでしょう」
足軽隊もゲラゲラと笑い出した。これから攻める「小机城」と子供が手習いを始める「小机」を引っ掛けたのである。ちりぢりになるとは敵がちりぢりになるということであり、こちら側の勝利を意味する。一斉に歌いながら攻め立てて難なく城を落としたことはもちろんである。童門冬二の「小説太田道灌」の第2章で面白おかしく書かれていたので一度見ておきたかったのである。
JR小机駅から歩いて10分ほどの駐車場に車を停めて歩いた。踏切を越えて民家の中を行くとすぐに城址の登り口となっていた。「小机城址市民の森」という公園になっていて階段や柵などが整備されている。竹林の中を進み、空堀や土塁の跡などを見て回った。本丸広場、二ノ丸跡、曲輪跡、櫓跡などがあり、第三京浜に分断された先には「富士仙元」と呼ばれた曲輪跡もあり日産スタジアムも近くに見えた。日曜日だというのに訪ねてくる人もなく、一人寒林の中で鳥の声を聞きながら500年もの昔に思いを馳せたのだった。
                                 (令和2年作)




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冬の月

泣きながら帰る夜道や冬の月



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ホテルは飯能の駅前に取っていた。3時半に到着し9階にある部屋ですぐにうたた寝をしてしまった。夕方6時になって目が覚め食事に行こうと考えた。折角の旅なので美味しいものを食べようと「飯能、料亭」と検索すると川べりにある店が出たが、行った人のコメントに「店員の態度が良くない」などと書かれていたので二の足を踏んだ。
<昼間の鰻屋と同じように一人の膳はつまらないことになりそうだなぁ>
繁華街に出て居酒屋あたりで軽く一杯飲んでくることにした。通りに面してやっている居酒屋があったので中を覗くとカウンター席でタバコを吹かしながらホッピーなどを飲んでいる男性がいた。<この店に入るとあの男性の横に座らされることになりそうだなぁ。知らない酔っ払いの隣の席はいやだなぁ>そう思うとどこの店も同じように見えてくる。いつもは考えることもなく入って行く店の前で酔っ払いの中でポツンと座っている自分を想像してしまいなかなか入る気になれない。Uターンして駅ビルまで戻って来てしまった。<どこに入るにしても週刊誌くらいは持って行った方が良さそうだなぁ>と思いビルの中の本屋に入ってみた。別に読みたいものがある訳ではない。フラフラと店内を歩き、目に留まったのが「妻に捧げた1778話」という本である。ベストセラーのコーナーに置かれていた。「余命一年と宣告された妻のために毎日一篇の話を書き続けた」とある。新書なので読みやすそうでもあり、迷っている時間もない。買ってエレベーターに乗るとそのビルの中にある「山内農場」という店の広告が目に入った。入ったことはないが駅ビルの中でもあり、少しは高級感もあるように思えた。
「いらっしゃいませ」
足を踏み入れてすぐに後悔した。他の居酒屋と変わりがない。酔っ払いの声が飛び交っている。止めようかと思ったところへ「お一人様ですか?」と女の子が声を掛けてきた。咄嗟に聞いていた。「一人なんだけど個室はあるの?」「少々お待ちください」と言ってすぐに戻ってきた。「こちらにどうぞ」個室があるようである。付いていくと角部屋に案内された。本来3人掛けの部屋ではあるが使わせてくれるようである。<言ってみるものだなぁ>と思った。馬刺しや鳥ワサなどを注文して店員さんと冗談を言いながら気楽に始まった。ビールを飲んでしばらくしてから買った本を捲ってみた。著者眉村卓。作品に「なぞの転校生」「ねらわれた学園」などと書かれている。<ああ、あの人か>
──妻が退院して1ヶ月後、本好きの妻のために出来ることを考え「毎日1話ずつ短い話を書くけれど、読んでくれるか?」と聞くと「読む」と言う。始めて3ヶ月くらいして妻が「しんどかったら、止めてもいいよ」と言ってくれたが「お百度みたいなもんやからな」と言って続けた。その辺りから少しウルウルしてくる。「これほど長く一緒に暮らしているのに、自分には妻のことがろくに分かっていなかったのではないか──と、たびたび思い知らされた」とある。グッとくる。「妻が永眠した。最初の入院・手術の日から数えて五年に十五日足りない。私は遺体と共に家に帰り、『最終回』という話を書いた」──本文を読んでいないというのに涙が流れた。皿を下げに来た店員が私が泣いているのを見て「ど、どうかしましたか?」と聞いてきた。「ワサビが……」と応えるのがやっとだった。
ホテルの部屋に戻ってその夜のうちに全部読み終えたのはもちろんである。
<どうして一人で来てしまったのだろう。これからは必ず一緒に来よう>
妻のことをこうも恋しく思った夜はない。
                                 (令和2年作)




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冬日向

父と子と墓を並べて冬日向



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「山吹の里」の次に向かったのが太田道灌の墓がある「龍穏寺」である。車で30分ほど移動した。
文明18年(1486)、道灌が主君である上杉定正の不興を買い、謀殺されたのが神奈川県伊勢原市の相州糟屋の定正邸の中である。墓は伊勢原の大慈寺、洞昌院、鎌倉の英勝寺などにもあるようだがこの越生のお寺にも建てられている。幹線道路から山道に入り、辺りに何もなくなったような森閑とした場所にお寺があった。想像した以上に大きなお寺で境域が途轍もなく広い。というより周囲が山なのでどこからどこまでがお寺なのか分からないのである。のちに徳川家康が曹洞宗の関三刹(関東における曹洞宗の宗政を司る三個所の寺院)に指定したというほどの寺である。立派な山門を潜り、道灌の像の横を通り、本堂にお参りする。誰もいない。龍神伝説などとも書かれている。道灌の墓はすぐ左手の山を少し登った所にあった。父道真と共に祀られていて五輪塔や宝筥印塔など9体が横一列に並んでいた。あまり横幅がありすぎて写真に収まらないので登り口にあった立て札を載せておくことにした。ここにもやはり山吹の葉っぱが添えられている(写真)。
越生の父の庵で開かれた歌の会に主君定正を招き、後日そのお礼にと定正邸に招待される。重臣達の心配を余所に出掛けていく。上機嫌で迎える定正。「この間は非常に楽しかった。おまえの舞いも相当なものだった。おまえへの礼の宴は別館でやろうと思っている。どうだ、先に行って風呂でも浴びろ」勧められるまま別館に向かい風呂に入った。入浴を終わって戸口まで出ると、突然一人の武士が斬りかかってきた。
「おまえは何者だ?」
「曽我兵庫です。お許しをいただきます!」
わめきながら何度も太刀を浴びせてきた。道灌は風呂場に倒れた。曽我は止めを刺した。止めを刺される直前、道灌は大きく叫んだ。
「当方滅亡!」
自分がいなくなれば扇谷上杉家に未来はないという意味である。

道灌の最期については様々な言い伝えが残されている。
道灌が歌道に通じていることを知っていた暗殺者が次のように問う。
「かかる時 さこそ命の 惜しからめ」
(いざ死ぬとなると、いくら武勇で知られたあなたでも、さすがに命は惜しいでしょう)
それを受けて道灌は次の下句を詠んだという。
「かねて亡き身と 思い知らずば」
(常に死を覚悟していない者ならば、そうであろうよ)
新渡戸稲造が著書「武士道」の中で紹介し、武士のあるべき最期の姿として広く知られるようになったという。
                                 (令和2年作)




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枯山吹

山吹の枯れて回らぬ水車小屋



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食べ終えてすぐに生越町にある「山吹の里」に向かった。車で1時間ほどである。築城した太田道灌については何も得るところのなかった「川越城本丸御殿」だったのでこの公園だけはと期待したのだが、ここもやはり何もないところだった。道沿いの駐車スペースに車はなく、たった一人の訪問客である。道路際に立派な石碑が建っていた。少し長くなるがそこに書かれていた山吹伝説のことを転記しておこう。
「鷹狩りの途中、にわか雨に遭った若き日の太田道灌は、蓑(みの)を借りに貧しい民家を訪ねた。すると、出てきた少女が何も言わずに一枝の山吹の花を差し出した。道灌は少女の謎掛けが解けなかったが、のちに山吹の花にちなんだ古歌『七重八重花は咲けども山吹の実の(蓑)一つだになきぞ悲しき』を教えられた。蓑がない悲しさを歌に託した少女の想いを知り、自分を恥じた道灌は歌道を志し文武両道の名将となった」という逸話である。
公園の入口に水車小屋があった。もちろん水車は回っていない。隣に店屋らしき建物があったが戸も閉まっていて人もいない様子である。「太田道灌を大河ドラマに!署名をお願いします」と書かれた幟が立っていてその横に署名用紙が置かれていたが記入した形跡もない。他に見るべきものもない。細い川に掛けられた橋を渡り、道は山の上へと続いている。折角なので上り始めると結構きつい傾斜になっていた。5分ほどで上り切ったが息が上がった。頂上には小さな広場がありベンチもあったので持参したお茶を飲みながらしばらく休んでいたが、ここが道灌とどのような縁があった場所なのかは知る由もない。振り返ると公園の裏手のもっと高い場所に民家が何軒も建っていて洗濯物などが干されていた。頂上でも何でもないようである。山吹の花が自生する場所というのが売りのようである。「山吹の里歴史公園」というネーミングがいいと言えばいいのかも知れないがもう少し工夫の欲しいところではある。
例のアプリで植物の写真を撮っていたがどれが山吹かはすぐに分かった。黄色い葉が少し残っているだけだったが、アプリは確実に山吹であることを教えてくれていた。写真手前に黄色く写っているのが山吹の花ならぬ「葉っぱ」であるが、すぐに散って枯枝となりそうである。
道川虹洋先生に三溪園で山吹の花を教わった時のことを思い出していた。
「実の一つだになきぞ悲しき……なにィ、知らない?なんだ、何にも知らないんだなァ。山吹の花といえば太田道灌。江戸城を造った人だよ。それくらい覚えておかなくっちゃ(笑)」
NHK大河ドラマに選ばれることを期待しよう。
                                 (令和2年作)




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年詰る

鰻屋の隅に黙すや年詰る



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「本丸御殿」には開門と同時に入り30分程で出てきた。興味深いものはたくさんあったが、太田道灌に関するものは何もなかった。まだ9時半である。川越では昼にウナギを食べることに決めていた。数日前に知人がやってきて川越の話になった時に「川越といえば鰻ですよ。鰻を食べないで帰って来ては何をしに行ったのか分からないことになりますよ」と言われたのである。特に食べたい訳でもないが、そこまで言われてしまうと食べない訳にもいかない。調べると最初に出てきたのが「小川菊(おがぎく)」という店である。何のランキングかは分からないが1位になっていた。知人の手前もあり、まずはその店に入ってみることにして場所を確かめた。開店時間が11時である。1時間半もある。「小川菊」の近くの駐車場に車を停めてまずは「小江戸」と呼ばれる川越の町を歩いてみることにした。天気はいいものの少し寒い。空っ風が吹いている。あちこち見て回って10時半に「小川菊」の前に戻ってきた。インターネット情報に「30分前には並んでいないと入れなくなる」と書かれていたからである。しかし人影がない。人が並んでいるものと思っていたので意外な感じがしたが店先に置かれた予約ボードで理解した。電子式のボードが置かれていたのである。「なるほどなぁ」と感心した。予約ボタンを押すと20番目と印刷された紙が出てきた。紙をポケットに入れ、近くの神社にお参りして時間を潰し、5分前に戻ってみると写真のような有様である。
「お手持ちの札、10番の2名様、いらっしゃいますか?」
店の女性が声を掛けている。呼ばれた人は前に進み、店内へと案内されるシステムである。次々と呼ばれるのでそれほど待たされた訳でもない。15分ほどして私の番が回ってきた。
途中ちょっとした出来事があった。隣が洋装店になっているのだが、その店先を覗いていると奥から女性が出てきたのである。
「鰻屋さんは隣ですよ」
一瞬、何を言われたのか分からなかったが、買う気もないのに覗かれては困るということを言いたかったようである。見ると鰻屋と洋装店の間に小さな柵がされていた。柵からはみ出すと声を掛けに出てくるようである。気の滅入る話ではある。
ようやく呼ばれた。
「20番でお待ちのお客様……お一人様。1階の席でご相席となりますがよろしいですか?」
いやとは言えない。入ると大きなテーブルに案内され、向かいにお年寄りのご夫婦、右にもご夫婦、その前にもご夫婦が座っている。うな重を注文して来るまでの間にカウンターに置いてあった小冊子をもらって来た。
「うなぎ百撰──2020正月号」である。ちょうどそこに「小川菊」が紹介されていた。
「文化4年(1807)創業。鷹狩りに訪れた時の藩主を豊富な川魚でもてなしたことで出店を勧められ、現在の場所で商売が始まる。現在の当主が7代目。10年ほど前までは1階だけで細々と営業していたが、東日本大震災で建物の一部が崩れたのを機に2階での営業も開始し今の繁昌へと繋がっている」と書かれていた。
<フムフム、ピンチをチャンスに変えて創業210年目にして大繁盛か>
「素晴らしい」と言いたいところではあるが話し掛ける相手がいない。黙々と食べるしかない。「年詰る」というより「喉詰る」である。物も言わずに食べるというのは苦しいものである。いつもいる人がいないというのは寂しいものである。
                                 (令和2年作)




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札納め

お社の細き参道札納



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本丸御殿に到着したのが8時半である。開門が10時なのでどうしたものかである。ひとまず外の空気を吸おうと駐車場に出てみると気温は4℃である。寒い。目の前に大きな石碑が建っていた。「わらべ唄発祥の所」とある(写真)。
<ここはどこの細道ぢゃ 天神さまのほそみちぢゃ>
川越城内の天神曲輪に建てられた「三芳野神社」といい、「お城の天神様」として親しまれてきたそうである。境内を一回りしてみた。地域の人が出て参道などを清掃していた。正月を迎えるための大掃除のようである。「通りゃんせ」についての謂れ書きなどはない。お参りしたあと、車に戻ってから調べてみた。

通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの細道じゃ
天神さまの細道じゃ
ちっと通して下しゃんせ
御用のないもの通しゃせぬ
この子の七つのお祝いに
お札を納めにまいります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも
通りゃんせ 通りゃんせ

この歌詞の気になる所といえば「御用のないもの通しゃせぬ」であり、「行きはよいよい帰りはこわい」である。少しばかり意味不明ではあるが「この子の七つのお祝いにお札を納めにまいります」は分かるところである。
平安時代に創建された神社であるが、由緒が明らかになるのは太田道灌が川越城を築城し、城の鎮守と祀ったあたりからである。江戸時代以降は幕府直営の社として庇護を受け、1639年の川越城拡張整備により川越城内に取り込まれると一般庶民の参拝が出来なくなった。信仰心の篤い庶民は「お城の天神様」として遠くから拝むだけであったが、それを見ていた当時の藩主が年に一度の神社大祭と七五三のお祝いだけは参拝を許したという。南大手門から入城し、田郭門を抜け、富士見櫓を左手に見て進み、天神門をくぐって直進し、直角に曲がって参道を進みお参りをする。警備が厳しかったことは言うまでもない。まずは入場チェック。密偵などが入り込まないように「御用のないもの通しゃせぬ」となり、退場の際の所持品のチェックはさらに厳しく「行きはよいよい帰りはこわい」となるのである。
                                 (令和2年作)




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冬晴れ

冬晴れの武蔵の国を縦断す



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28日(土)は帰省ラッシュとのことだったので朝6時には家を出ることにした。まだ辺りは真っ暗である。車の中で聴いていこうと選んだのが以前に買っておいた浪曲「紀伊国屋文左衛門──紀文の船出」である(写真)。高速に乗ってからボリュームを上げて聴き始めた。カーナビの目的地には「川越城本丸御殿」と入れた。首都高速を走るルートである。大井料金所を過ぎた辺りでルートを間違えた。ナビでは山手トンネルを指して左車線を進むようだったが、右側を行ってしまったのである。
<ああああ、間違えちゃった……まぁ、仕方ないか>
浪曲はちょうどいい所に差し掛かっていた。荒くれ男達を前に怒濤逆巻く嵐の海へ梵天丸を漕ぎ出すか漕ぎ出さないかを賽の目で決めようとする場面である。ピンが出れば文左衛門の勝ち、全員が船に乗り込み紀州ミカンを江戸に届けるという約束。ピン以外の2、3、4、5、6の数字が出れば手附の金を受け取るだけで船には乗り込まなくてもよく、全員が命拾いするというシーンである。6つに1つの大勝負である。
コースは美女木方面へと向かうクネクネと曲るルートである。ナビを見ながらの運転は頼りない。何度も間違えそうになる。
<おかしいなぁ、何度も走った道なのに今日はどういう訳か危なっかしい>
<浪曲なんかを聴きながら走っているからかなぁ……>
そしてとうとう板橋辺りに差し掛かったところで致命的な過ちを犯してしまった。本来の道と違う道に向かって走ってしまったのである。
<ヒャー、また、やってしまった……>
カーナビがどうにか新しいコースを検索するも、とうとう高速を降りることになってしまった。一般道に降りて道路脇に車を停めた。
<ここはどこだろう?>
<なんで今日はこんなに間違うのだろう?>
少し先にあったコンビニに入ってコーヒーを買い、席に戻って気が付いた。
<音声案内がないからだ!>
ここのところカーナビは付けていても音声は消している。普段の運転ではそれでいいのだが、高速道路を右だ左だと走るケースでは音声なしでは無理だったようである。現にいつもはやらない間違いを何度もやっている。すぐに音声案内に切り替えて再び高速へと戻った。
<それにしても6つに1つの勝負とは文左衛門、なかなかの男だなぁ>
感心している場合ではない。「紀文の船出」は上手くいったようだが、こちらの船出はイマイチとなってしまった。
                                 (令和2年作)




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数へ日

数へ日に訪ふ道灌の城と墓



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長い正月休みをどう過ごそうかと考えて思い付くのは読書である。1冊や2冊ではすぐに読み終えてしまうので長編が欲しいところである。
<そういえば平将門を訪ねて茨城県を走り回った時は楽しかったなぁ>(平成29年4月28日、ひこばえ「花人」)
同じように関東周辺に歴史上の人物はいないだろうか。その史跡などを訪ねてみるのは楽しいものである。そう思って探して見つけたのが「太田道灌」(1432-1486)である。知っているようで知らない。江戸城を築いた人であり、山吹の花の人であり、歌人であり、主人に暗殺された人である。<よし、調べてみよう>
道灌を調べ始めるとすぐに北条早雲が出てきて、もう少し調べると長尾景春が出てくる。室町後期の関東地方が混沌としていた時代に登場した人物である。童門冬二著「太田道灌」、司馬遼太郎著「箱根の坂」(上中下)、伊東潤著「叛鬼」などをピックアップしてアマゾンで注文した。その話を妻にすると富樫倫太郎著「早雲の軍配者」(上下)という本が家にあるという。風魔小太郎──忍者まで登場してきた。計7冊である(写真)。
<よし、楽しいことになってきたなぁ>
インターネットで「道灌ゆかりの地」と検索すると最初に出て来たのが埼玉県越生町にある「山吹の里歴史公園」である。山吹の花が咲く春が良さそうだが待ってはいられない。
<よし、休み中に行ってくるか!>
いろいろと調べているうちに28日(土)に行かなければならないことが分かってくる。29日以降は正月休みとなり、見たい場所が見られないことが起こりそうである。行く場所も決めずに日付だけは決めた。
<こうなれば一泊してノンビリしてこようか。よし、宿を取ろう>
話は広がってくる。旅館検索サイトで調べてみる。しかし年末年始に宿など取れるものではない。予約で一杯である。
<旅館でなくてもいいや。ビジネスホテルでもいい。カプセルホテルでも何でもいい>
間際になってバタバタと決めていったので果たして本当に大丈夫かどうか分からないが、家でゴロゴロしているよりはいいように思う。安いホテルを予約して、まずは本が届くのを心待ちにしていた。行き当りばったりの旅になりそうなので一人で行くことにした。令和元年最後の旅は一人旅である。
<何か美味いものでも食べて「道灌」を楽しんでこよう>
                                 (令和2年作)




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冬の朝

冬の朝食す鰯のただならず



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旅行から帰った翌日曜日の朝、最後に立ち寄った「道の駅」で買った「オイルサーディン」を食べてみることにした。天橋立の松並木を歩いている途中に見つけた看板に「金樽いわしの話」と題されて、小林秀雄が「考えるヒント」の中で「世界一美味しいサーディンだ」と感動したことが紹介されていたのである。世界にどれだけのサーディンがあり、小林秀雄がどれだけのサーディンを食べたのかは知らないが「世界一美味しい」とまで書くのだから相当なものだろう。サーディンがイワシを意味することすら知らなかった私だが、山積みされて売られていたので3つばかり買って帰ってきたのである。缶の図柄が天橋立なので名産品ということなのだろう。
その前に本棚の奥から「考えるヒント」を取り出して「天の橋立」の章を読んでみた。昔、読んだものだが覚えているはずもない。短い文章である。
冒頭に『丹後の宮津の宿で、朝食の折、習慣で、トーストと油漬のサーディンを所望したところ』とあった。<習慣で?>宿に泊まって朝、トーストとサーディンを所望することが習慣になっているというのだろうか。今まで考えてもみなかった朝食である。バイキングでチョイスするのなら分かる気もするが、その当時にバイキングがあったとは思われない。出されたものを文句も言わず、何でも食べるのが習慣となっている私にとっては宿の人にトーストとイワシをお願いする小林秀雄を想像して<やはり有名評論家は違うなぁ>と感心したものである。
続いて『出してくれたサーディンが非常においしかった。ひょっとするとこれは世界一のサーディンではあるまいか、どうもただの鰯ではないと思えた』と書かれている。すぐに思い浮かんだ言葉が「美食家」「食通」「料理評論家」である。ひとくち食べて<どうもただの鰯ではない>と思うだろうか。<何を出しても美味しいんだか美味しくないんだか分からない>と妻に言われている私にとっては<ただの鰯ではない>と直感することすら想像出来ないのである。
文章を読み終えてから実際に食べてみることにした。取っ手を引っ張って蓋を開ける。中の汁が零れそうなので気を付けて引っ張ったが、蓋の周囲が鋭く、怪我をしそうで危険極まりない。汁を少し零してしまって開け終った。イワシがきれいに並んでいる。小さい(写真)。これがその<金樽イワシ>というものなのか。箸で摘まむも一口である。食べてみた。
<しょっぱい!>
世界一の美味しさを味わう以前にしょっぱさばかりが感じられてビールをグイグイとやってしまったのだから、<美味しいんだか美味しくないんだか>感想も何も言えたものではない。朝からビールが進んだことだけは報告出来そうである(笑)。
                                 (令和2年作)




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藪巻

藪巻の松の橋立渡りけり



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翌日が最終日である。いよいよ天橋立を見学する。宿を出てまずはコウノトリの飛来地を見学し、10時半に丹後一ノ宮「籠(この)神社」側にある食堂に到着した。早目の昼食を摂った後、籠神社をお参りし、それぞれの方法で天橋立の見学に向かうことになった。見学は4つのコースから選ぶことになっていた。
①飛龍観コース(ビューランドからの「股のぞき」)②絶景ウォーキングコース(天橋立を歩いて渡る)③遊覧船コース(海から眺める)④ジェットボートコース(傘松公園を見てボートに乗る)の4つである。
もっとも人気があったのは①の「股のぞき」のようだったが、私たちは②の「歩いて渡るコース」を選んだ。「股のぞき」は写真などで見ているので、実際の白砂青松を歩いてみようと思ったのである。3.8km、およそ50分のコースである。天気は上々である。
歩き始めは同じバスの6、7名が一緒だったが、なぜか遅れがちになりズンズンと離されてしまった。おそらく前を行く人達は50分の時間を考えて先を急ぐことを優先したのだと思うが、我々は急ぐこともなくノンビリと歩くことにした。まず思ったのはこの細長い砂州にしっかりと根を降ろし、年輪を重ねている松の逞しさである。おそらく台風の時などは海水を浴びたり、風に煽られたりしたはずなのに何百年に亘って耐えているのである。8000本とも言われる松の逞しさを思った。
途中、海鳴りを聞いたような気がした。ドドドドド~ンと聞こえるのである。内海を阿蘇海といい、外海を宮津湾というが、海鳴りは宮津湾から聞こえてくる。道を逸れて浜に出てみると、打ち寄せる波が音を立てている。波もなさそうな穏やかな浜辺だが、構造はただの砂浜でないように思った。その場に立ってみないと気付かない発見である。
「大江山生野の道の遠ければまだ文も見ず天の橋立」
小式部内侍の歌である。母親は有名な和泉式部である。年少ながらあまりに歌が上手なのでいつも母親に代作してもらっているのではと疑惑が掛けられている。その母がたまたま丹後国に出掛けている時に歌会が開かれた。
「お母さんが丹後に出掛けていて、この歌会での歌はどうするのですか。お母さんの元へ手紙は出しましたか。返事は返ってきましたか」
代作疑惑を皮肉って聞く人がいたが、その時に即興で詠んだのがこの歌である。あまりの見事さに彼女の本当の実力を知ったという言い伝えの残る歌である。
子供の頃、家でやっていた百人一首で覚えた歌である。50年以上経った今、その天橋立を妻と歩いていることに感慨を覚えずにはいられなかった。ゆっくりと1時間ほど掛けて歩き、智恩寺にお参りしてバスに乗り込んだ。
これでほとんどの旅程を終了したことになる。降り立った時と同じ岐阜羽島駅から新幹線に乗り込み、夜11時近くになって帰宅した。
                                 (令和2年作)




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柳枯る

一の湯のほとりの柳枯れにけり



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食事の後、湯巡りに出掛けた。雨が降っていた。マイクロバスで温泉街の中央あたりに降ろしてもらい「柳湯」に入った。7つある共同湯のうちで一番大きな外湯である。無料パスを首から下げてバーコードを読み取らせるシステムである。志賀直哉が見たらビックリするに違いない。中のシステムもリストバンド仕様になっていてハイテクである。蛇口もシャワーも昔ながらのものではない。情緒に欠けると思うのは私ぐらいなものだろうか。洞窟湯なるものにも入ってコーヒー牛乳を飲んで出てきた。
私「2軒目はどこに行こうか?」
妻「私はいいかな」
私「えっ、どうして。湯巡りだよ」
妻「貴方だけでも入ってきてよ。私は中で待ってるから」
私「じゃ、隣の『一の湯』というところに入って来る」
妻「そうして。ゆっくりでいいわよ」
入ってみると熱いこと熱いこと。<何でこんなに熱いのだろう>と思うほどの温度である。昔から熱い湯は苦手である。
妻「あらっ、いやに早いわね」
私「熱くて入っていられなかった。参った、参った(笑)」
その後ブラブラとお土産屋に入ったり、ソフトクリームを食べたりしてゲームセンターの前まで来た。
私「たまには射的でもやってみようか?」
妻「射的?私はスマートボールの方がいいなぁ」
私「よし、入ろう」
最初に私が射的をやってみた。よく当たる。人形を7個も落とした。玉10発で7個なので相当にいい景品がもらえるだろうと期待したが、小さなマグネット1個だけである。10発落とした時の景品が見てみたいと思った。続いてスマートボールをやってみた。バラバラと落ちてきたガラス玉を弾いたが私は1回入っただけで5分も持たずに終わってしまった。妻の方は次々と入ってバラバラと玉が切りもなく出てくる。20分もやっていただろうか。なにかコツがあるのかも知れないと思った。
翌朝の食事の席での会話である。Iさんと反対の隣にいたのがMさんご夫婦である。前日、夕食前に散歩に出掛けた時もご一緒している。
Mさん「昨日はお風呂に4つも入ってしまいました(笑)」
私「えっ、4つも。また欲張って入ったものですね(笑)」
Mさん「柳湯と一の湯と鴻の湯とまんだら湯です」
私「一の湯は熱くなかったですか?」
Mさん「熱かった、熱かった(笑)。そういえばスマートボールをやっていましたよね」
私「おっ、見られていましたね(笑)」
Mさん「それからソフトクリームも食べていた(笑)」
私「ハハハ、探偵に後を付けられていたようだなぁ(笑)」
狭い温泉街である。今回、Mさんご夫婦にはいろいろな所で話しかけてもらった。楽しい旅行となったのもご夫婦のお陰である。とても感謝している。
                                 (令和2年作)




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松葉蟹

目で愛でて手は不器用に松葉蟹



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年が明けても城崎温泉の旅は続いている。
6時に部屋を出て夕食会場に向かった。それぞれにお膳が用意されていて夫婦向かい合わせで座るようになっている。一番で到着したので仲居さんに熱燗をお願いした。その後すぐに他の人達もゾロゾロとやって来て席に着いた。お燗が届いた。それを見て隣の人も生ビールを注文し、お燗や冷や酒を頼む人もいた。隣に座ったのが後で知ることになるのだがIさんという。
私「伊根の舟屋や玄武洞(写真)では随分と熱心に写真を撮っていましたね(笑)」
Iさん「ああ、見られていましたか(笑)。写真で撮ったものを水彩画に描くんです」
私「水彩画!いや、それは奇遇だなぁ。実は私も最近ですが水彩画を始めたところなんです。3ヵ月です(笑)」
Iさん「そうですか。私は今年初めて高島屋で個展を開きました」
私「ヒャー、それは凄い。本格的ですね」
Iさん「もう始めて8年になります。定年を迎えて、たまたまセミナーに参加したのがキッカケでやってみようかなと思ってそのままその先生に付いて教えてもらいました。風景画を描いています。年間200枚描きます」
私「200枚!それじゃ、毎日描いているようなものじゃないですか」
Iさん「1000枚描いたら個展を開こうと決めていまして、今年思い切って開いてみました。思った以上に好評で何枚も買ってもらうことが出来ました」
熱燗2本を平らげて更に2本を追加する上機嫌振りである。「これからお風呂に行くのよ」と妻に注意されても話は止まるものではない。富弘美術館落選の話、似顔絵展の話、透明水彩・不透明水彩の話と止まるところを知らない。戸塚にお住まいで私の会社の近くの夏島にも最近スケッチに来ているという。
Iさん「来年早々、仲間で作品展を開きます。もしよかったら見に来てください」
私「もちろん、伺います。明日、名刺をお渡ししますので案内状をお願いします」
1時間程の夕食時間だったとは思うが、実に楽しく話したものである。しゃべりっぱなし笑いっぱなしである。
翌朝、タブレットで作品を見せてもらった。見てビックリである。想像していた以上に完成度の高いものだった。岩肌を流れ落ちる滝を描いたものだったが、写真を見るような正確な描写で対象を捉えていた。
<ムムム……>
冷汗が出るような思いである。相手かまわず、しゃべってしまったことをいきなり反省した。こんなにレベルの高い作品を描く人だったとは思わず、いい加減な話をしてしまったものである。語るに落ちるという言葉もあるが、それ以上に考えもせずにペラペラとやるのだから困ったものである。笑いながら付き合っていただいたIさんには本当に申し訳なく思うと同時に、<水彩画をやっている>という言葉は当分禁句にしようと反省したものである。
                                 (令和2年作)




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去年今年

読みさしの虚子を再び去年今年



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明けましておめでとうございます。
皆様におかれましては良き新年を迎えられたこととお慶び申し上げます。
平成25年5月に始めたこのブログも皆様に支えられながら6年半を経過し、回数も910回を超えるまでとなりました。
これもひとえに皆様方からのご支援の賜物と深く感謝申し上げます。

このところ「プレバト俳句ランキング」の影響からか、俄かに俳句の注目度も増しているようです。
句歴23年の私としましてもとても嬉しく思うところではありますが、師道川虹洋先生が亡くなられてからの8年というものはどこの句会にも所属せず勝手気ままに作句している現状からはさほどの成長も望めず、少々忸怩たる思いも味わっているところであります。
新年にあたり、改めて俳句に対する思いを強くすべく「去年今年(こぞことし)」の句を詠んでみました。
「去年今年」といえば高浜虚子の「去年今年貫く棒のごときもの」があり、この句を超える「去年今年」はないと思えばこそ、あえて虚子を織り込んでの一句に挑戦してみました。
「継続は力なり」──今年も気持ちを新たにして進めてまいります。ご支援のほどよろしくお願い申し上げます。
                                 (令和2年作)

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