2018年02月の記事 - ひこばえ
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日向 亮司

Author:日向 亮司
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ひこばえ


2018年02月の記事

寒北斗

神杉に騒ぐ風なし寒北斗



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富岡八幡といっても東京の深川ではない。こちらは横浜市金沢区富岡にある富岡八幡宮である。源頼朝が創建したとあるので800年以上も続く由緒正しき神社である。その八幡宮で2月4日「立春」の日に「卯陪従(うべいじゅう)」という伝統行事が行われるというので出掛けてみることにした。これもまた情報誌「よこかな」による情報である。初不動に続き、なにかと役に立つ。
まずはその卯陪従が何なのかを調べるところから始まった。インターネットで見ると「夜神楽」とあるので冬の季語かも知れないと調べてみたが、あいにく卯陪従そのものは季語にはなっていなかった。「卯の日に行う陪従の神楽」とある。その陪従の意味が分からない。これは広辞苑に「古代、賀茂神社・石清水八幡宮などの祭儀に、神楽の管弦に従事する地下(じげ)の楽人」とある。フムフム……神楽の演奏者のことのようである。しかも「地下」なので官人の中でも身分の高くない人達のことのようである。その程度の理解で良しとした。深く入っていくと切りがなさそうである。まずは出掛けてみることである。夜7時からというので家を6時半に出た。あまり早く行き過ぎても風邪を引くのが落ちである。夕飯は帰ってからということにした。こういうことになると食べることなどどうでもよくなる(笑)。途中で缶コーヒーを買って八幡宮の駐車場には6時45分に到着した。石段に沿って吊された提灯は見えるが人影は見えない。車から出ると外は深深と冷えていた。風はない。見上げると北斗七星がきれいに光っていた。裏の階段から上がって本殿(写真)の前へと進んだ。暗い中に人がたくさんいた。
                                 (平成30年作)




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初不動

初不動百円護摩木火の中へ



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最後に向かったのが赤井不動尊である。途中「赤井の井戸」と呼ばれる井戸に立ち寄ったが、普通の民家の玄関先である。家の人が出てくるのではないかと思いながら覗かせてもらった。有名な「赤井温泉」は一昨年に閉館している。弘法大師もさぞや無念だったに違いない。大切な物がどんどん失われていく平成の世である。
赤井不動尊に到着した。本堂の前で係の人が中に入れと呼んでいる。第3便の我々は何も分からず導かれるままに入っていく。靴を脱いで椅子に腰掛ける。バラバラと座ると前に詰めるようにと言われる。第1便、第2便はどうしたのだろう。お寺のどこかを見に行っているらしい。予定では全員揃ってご祈祷してもらうことになっていたようである。ガイドの男性が呼びに行くことになり飛び出していった。何とも打ち合わせがうまくいっていない。住職とおぼしきが火を焚いて祈祷を始めた。人はまだ揃っていないが、係の坊さんが「それではこれより初不動のご祈祷を執り行います」と宣言した。話し慣れている。「本来は午後1時より始めるご祈祷ですが、今日はこのように早くからお集まりいただきました皆さんのために特別にお護摩を焚かせていただきます」となにやら特別扱いをしてくれるらしい。太鼓が打たれ、鉦が鳴らされ、お経が始まった。「これよりお不動様にお祈りをしてまいります。願い事を唱えます。一人ずつ前に進んでいただき護摩木に願い事を書いてもらいます。表にまず氏名と年齢を書き入れます。そして裏面に願い事を書き入れてください。家内安全でも商売繁盛でも何でも結構です。書き終わりましたら、そのお札を火の中に投じてください。書き終わった人から順番に前に進んでください。札は一枚百円となります。それでは、どうぞ。前にお座りの方からお進みください」お金を取るらしい。ただで祈祷をしてくれるのはないようだ。前列の人から立ち上がり、護摩木を受け取り、願い事を書き始めた。百円玉がなくてバタバタしている人もいる。それでもドンドン人の列は続く。住職の前の火の中に護摩木を投じ、一回りして席に戻る。そこに女性が甘酒を配って回る。これも百円かと思ったが、こちらは無料である。他の人達も入ってきて百円護摩木の列に並ぶ。見る見る人が集まり、燃え立つ火は勢いを増す。ちょうど正午である。甘酒をいただいて外に出たところで解散となった。とても寒い日ではあったが、いい物を見ることが出来た一日となった。ガイドの人にお礼を言って帰って来た。
                                 (平成30年作)




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探梅

探梅の人を遠目に見てをりぬ



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不動尊から50メートルほど登ると金沢自然公園や鎌倉まで続いている旧道「金沢道」に出た。そこを左に少し進むと見晴らしの良い「能見堂跡」に到着した。梅が咲いていた(写真)。まさに探梅である。「オー!」今年初めて見た梅に句心が動かされた。かといって名句が生まれる訳ではない(笑)。
ガイドさんの説明にも熱が入った。バインダーを取り出し、あらん限りの説明を始めた。まずは「金沢八景」の説明である。江戸は元禄の時代、明から渡来した心越禅師という僧がここから見た景色の美しさが故郷の「瀟湘八景」にそっくりなことに驚き「武州能見堂八景詩」という漢詩を詠んだ。これが「金沢八景」の名の由来になったとの説明である。江戸時代に描かれたという絵を取り出して<これがあそこで、あそこがここで>と熱く語る。仕舞いには「ここ一帯が海だったと想像してください。あのマンションも大きな工場もみんな海の中。山々だけが残った状態をイメージしてくれるとこの絵と同じ風景が目の前に浮かんできます」という。そう思って見てみると、なるほどそう見えてくるものである。「なるほどなぁ」と思いながら話を聞き、江戸時代の美しい光景を思い浮かべていた。その日のハイライトだったかも知れない。
能見堂跡なのでもちろん建物はない。あったと思われる場所に礎石などが置かれていたが、最近になって作ったもののようである。碑が何基かあったが、忙しく見て回っただけである。ガイドの人が話そうとしても、先輩格の男性が先を急ぐのである。
「ゆっくり話してる場合じゃないよ。大分遅れてるから急いで、急いで」
第3便なので先の人達との遅れを言っているようである。人の良さそうなガイドさんは資料を広げながらも先輩に言われた時間も気になるようで途中で話を端折ることに。時間配分もガイドの大切な仕事のようである。あちこちに散らばって写真など撮っているメンバーの人達に声を掛け、最後の目的地である赤井不動尊に向けて歩き始めた。
私「時間が足りなかったみたいですね(笑)」
ガイド「あの説明で分かってくれましたでしょうかねぇ」
私「充分、充分。興味のある人はあとで自分で調べますから、あれで充分ですよ。分かりやすかったですよ」
ガイド「ありがとうございます」
なぜか慰め役に回っている(笑)。
                                 (平成30年作)




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悴む

悴んで不動参りのしんがりに



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ビーコンヒルの高層マンション群を抜けて閑静な住宅地へと入って行った。下には横横道路が走っている。最初にガイドさんが目指したのは「谷津関ケ谷不動尊」跡地である。バインダーの中の不動堂の古い写真を見せながら「おそらく、この辺りにあったはずです」と説明している。何もないのでほとんどの人は興味を示していない。歴史散歩とはそのようなものかも知れない。写真に写っていた石段の場所の今は石段を壊してダラダラ坂となっている。そこをゆっくりと下って行き大きな池に出た。「不動池」という。その日の寒さに池は凍っていた。そこでまたトイレ休憩である。年寄りが多いからか、いやに休憩が多い。
私「この池は昔からあったものなんですか?」
ガイド「いえいえ、これは宅地造成の過程で出来た人工の池です。削った土は八景島の埋め立てに使われました」
私「そうなんですか。あの島はここの土で出来ているんですか」
ガイド「毎日毎日、何台も何台もダンプカーで運んで行ったそうです」
休憩のあと、そのすぐ横にある「谷津関ケ谷不動尊」の石段を登った。50段位あっただろうか。途中で休んでいる人もいる。登ると人が溢れていた(写真)。お参りをする人が列をなしていた。地元の人だろうか。随分と大勢である。信心深い人はまだまだ多いようである。お参りの順番はすぐに回ってきた。お堂の中を見たかったが、そんな雰囲気ではない。左へ流れて紅白幕を回らされた広場へと進んだ。そこにも大勢の人がいた。接待所と書かれ、甘酒が用意されていた。
「少しここで休憩しましょう」
また休憩である。30分そこいらで3回目の休憩となる。先発隊も第2便もいてごった返していた。地元の長老のような人達が特別席のような場所に集まっている。市会議員の知った顔も見える。日頃は誰もいないような場所だが、やはりこの日だけは違うようである。いかに宅地化が進み昔の面影を失っても、伝統を守る日本人の心はしっかり受け継がれているようで、いい物が見られたと少し嬉しく思えたものである。
                                 (平成30年作)




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日脚伸ぶ

駅前に増える人の輪日脚伸ぶ



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1月28日(日)朝、能見台駅集合である。9時15分から30分の間に集合とのことだったので9時10分に到着したが、すでに大勢の人が来ていて第1便が出発する所となっていた。受付で参加費500円を支払いその場で待っていたが、まだ来ない人がいるらしく9時30分になってようやく第3便として出発することになった。10名のメンバーである。ガイド役は私より年配と思われる男性と付き添いの男性である。二人とも70才位に見えた。出発前に能見台駅についての説明があった。
「この能見台駅はもともと谷津坂駅という名前でした。京急がこの周辺に大規模な住宅地を開発することになり、昭和57年に改名しました。もともとは軍需工場のために作られた駅で昭和19年に開業しています。谷津坂とはこの駅の前にある坂のことです。行ってみましょう、すぐそこです」
資料を見ながら説明していたので歩きながら聞いてみた。
私「ガイド歴は長いのですか?」
ガイド「いえいえ、まだ2年目です」
私「その資料は自分で作ったのですか?」
ガイド「自分で揃えたのもありますが、協会でくれた資料がほとんどです」
私「相当に勉強したんでしょうね?」
ガイド「そんなことはありませんよ。家にいても暇なだけですから(笑)」
私「しゃべることは決まっているのですか?」
ガイド「先輩に付いて何度か歩いていますので自然と覚えます。誰でも出来ますよ(笑)。今、ガイド募集中です」
私「いえいえ、とてもとても(笑)」
まるで私がガイドに応募しようと思っているとでもいうような話し方をされ少し慌てる(笑)。歩き始めてすぐに質問したので、それを見ていた人がすぐにまた私に話し掛けてきた。しゃべり好きな人はいるものである。横浜市の役人さんだった人で金沢区のことをいろいろと説明しようとしてくるのだが、少し自慢話のような口調である。こういう人とは親しくならない方が良さそうに思った。歩き始めて5分の場所にあるイトーヨーカドーでトイレ休憩となったので、その人とは少し距離を置くことにした。
その一帯を「ビーコンヒル」と言うらしい。アメリカ、マサチューセッツ州のボストン市にある高級住宅地の名前である。その町並みを真似て高層マンションが建てられている。道路に架かる橋の名前は「ボストン橋」(写真)。少し歩くとビーコンヒル同様「ガス灯」も設置されている。
ガイド「ここにはもともと日平トヤマという会社がありました。戦前に出来た大日本兵器という会社が始まりです。戦後、日平産業と名前を変え、軍需産業から平和産業と変わって行きましたが、その後、トヤマキカイという会社と合併し日平トヤマとなり、今から10年程前にブルドーザーで有名な小松製作所に買収され、この地から撤退しました。今は見ての通りのニュータウンです」
                                (平成30年作)




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寝言とも春呼ぶ神のお告げとも



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会社に横浜金沢観光協会から「よこかな」というパンフレットが届いた。何気なく見ていると「ボランティアガイド養成講座受講生募集中」の文字が目に留まった(写真)。「面白そうだぁ」と思った。
主催するのは「横濱金澤シティガイド協会」というNPO法人である。この会の催すウォーキングには何度となく出掛けている。これに参加者側ではなくガイドとして参加するというのである。興味をそそられた。
家に帰って家族にこう言い放った。娘二人がたまたま家にいた。
私「会社を辞めて次にやることを見つけた!」
娘1「なに、なに、急に何を言ってるの?冗談でしょ!」
私「いやいや、本気(笑)」
娘2「一体、何をやるというの?教えてよ」
私「以前、行ったことがある金沢区の名所旧跡巡りのウォーキング。あれのボランティアガイドを募集していた。これは面白いぞ。結構、覚えることも多そうだし、歴史にも詳しくなければならない。『えー、皆さん、こちらをご覧ください』ってやるんだよ」
娘1「ハハハハ……無理、無理、おーちゃんには絶対に向かない。何を言い出すかと思った(笑)」
娘2「そんなの一回でいやになっちゃうよ。<こんなお金にもならないこと、やってられない>って言うに決まってるよ。無理、無理、驚かさないでよ(笑)」
娘1「第一、余計な話が長すぎて合格出来ないんじゃない?長く話せばいいってもんじゃないからねぇ(笑)」
妻「冗談言ってないで、早くお風呂に入ってきて。こっちはやること一杯で忙しいんだから」

ひとまず、申込期限は過ぎていたが1月28日の「初不動に行ってみよう」に申し込んでみた。家のすぐ近所にある不動尊2ヶ所を巡るのだが、どのようにガイドするかを見て来ることにした。
                                 (平成30年作)




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枯岬

かはらけの跳ねて砕けし枯岬



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年末に出掛けた旅を長々と書いてしまったが、ようやくこれが最後の記事となる。
道の駅で鮒寿司を買って上機嫌で向かったのが長浜港である。そこから「竹生島(ちくぶじま)」に渡ろうというのである。<城ばかり見てきたので最後は島を巡るのもいいだろう>との思いつきである。「神の棲む島」と言われ古来より信仰の対象とされてきたと書かれている。島の弁天様は日本三大弁天の一つである。行くしかないと思った。
船に揺られること30分。小さな港に着いた。係員の係留を待ってゾロゾロと乗客が降り、それぞれがバラバラに先へと進んでいく。何の案内もない。後に付いていくと宝厳寺拝観の受付があり、自販機で切符を買う。かわらけ投げの受付もあったが、何のことか分からずパスをしてしまう。下調べなしというのは後悔の元である。<投げてみたかったなぁ>と旅の最後に小さな悔いを残してしまうことになってしまった。
石段を登り、本堂の前に。弁天様を拝み、小さな姫ダルマに願いを込めてお参りした。その周辺には不動明王、三重塔、宝物殿などがあり、中に入っても何かと気忙しい。時間に限りがあるのでゆったりと見学という訳にはいかないのだ。そそくさと見て回り、次なる観音堂へと向かう。国宝の唐門は見所だが、生憎の修復工事中で覆いがされて見ることが出来ない。中の通路もベニヤ板で養生され、工事作業中。千手観音があったはずだが、見たのだか見なかったのだか。なにやら悪い時に当たったようである。それでも重要文化財の船廊下だけはさすがに趣があり、豊臣秀吉の御座船の船櫓を利用したと聞けばなるほどとも思えてくる。都久夫須麻神社本殿は国宝である。見事な装飾にしばし見取れる。その先に龍神拝所があり、かわらけ投げの場所である(写真)。何人かが願い事を書き入れ、遠くの鳥居目掛けて放っていたが、いずれも届かずじまい。そう易々と願いを聞き届けてくれるものではないらしい。時計を見ながら少し慌て気味に港に戻る。「琵琶湖周航の唄」の碑など見たのち船に乗り込む。滞在80分。ガイドのなしの慌ただしいばかりの竹生島見学になってしまったが、これも旅の思い出である。暮れ押し詰まっての2泊3日の旅。走行900キロ、最後は渋滞に巻き込まれての帰路となった。
                                 (平成30年作)




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成木責

手心のなき傷一つ成木責



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翌朝「道の駅」は開いていた。正月休みという情報は何だったのだろう。開店と同時に入ってパック詰めの鮒寿司を一つ買い求めた。
私「臭いってどれ位なものだろう?家に帰ったらまずはカズ君に食べさせて、どんな反応するか試してみよう(笑)」
妻「止めなさいよ。冗談でもそういうことはするもんじゃないでしょ」
私「冗談、冗談。する訳ないジャン(笑)」
妻「分からないからねぇ、あなたっていう人は」
行動に信用のない私である(苦笑)。家に帰ってすぐに自分で食べてみた。
一口目、何と言うことはない。
二口目、「???」
私「何ていうことないジャン。全然、臭くないよ」
妻「あら、良かったじゃない。美味しいの?」
私「まぁまぁだなぁ。ちょっと臭みはあるけど、気になるほどじゃない。これが<臭い物ランキング>第2位とは意外だなぁ。もっと臭いのかと思った。ただ、しょっぱいだけだ」
妻「そんなにしょっぱい物を、全部食べちゃ駄目よ。身体に悪いわよ」
私「オッケー、半分で止めておきます」

残った半分を会社のメンバーで出掛けた初詣に持って行った。ビールのつまみである。
それを見た当社の工場長が即座に言った。
「明智光秀が接待に出して信長に怒られたという例のやつですね」
「接待?えっ、家康の接待か!あの時、この鮒寿司を出したんだっけ?」
「たしか、そうだったと思いますよ」
迂闊だった。そうとも気付かずに危うく全部食べてしまうところだった。確かに本で読んだことがある。あの時の接待に出した物だというのか。すぐに調べてみた。出所は「川角太閤記」というものらしい。私が読んだ本が何だったかは思い出せないが、そこに書かれていた概略は次の通りである。
天正10年(1582)5月、徳川家康は主だった重臣を引き連れて安土へと出発する。信長は街道の警備はもちろん、家康一行の宿泊予定地の領主にも出来る限りの接待を命ずる。15日、安土到着。安土での饗応役は光秀である。京や堺の珍しい食材を調達して最高のもてなしを準備したはずである。その検分に訪れた信長が一歩門に入ると魚肉の腐った臭いがした。怒って台所に向かい「この様子では家康の御馳走は務まるまい」と言って光秀を解任し、饗応役を堀秀政に替えてしまった。赤恥をかかされた光秀は腹立ちまぎれに肴や器を堀に投げ捨てたのでその悪臭が安土の町に吹き散らされたという。この時の遺恨が本能寺での謀反へと繋がったというのが「怨恨説」である。腐った魚がこの鮒寿司だったという話になる。
(注)写真は「絵本太閤記」による。「饗応役を解任され、食い下がって森蘭丸に殴打される光秀」と記されている。
                                 (平成30年作)




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氷魚

氷魚も佳しさりとてまずは鮒寿司を



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2日目の宿は琵琶湖北端の尾上温泉に予約していた。湖に向いて全室露天風呂付きというところで決めたようである。彦根から長浜を抜け琵琶湖沿いの道を北へ走った。宿に到着する手前で「道の駅」に立ち寄った。飲み物やスナックの補給である。妻が買い物をしている間、店内をぶらついてみた。いつもの癖である。興味を惹いたものが一つあった。「ニゴロ鮒」である(写真)。
私「これ、美味そう。一つ買っていく?」
妻「何、また変な物でしょ」
私「飯寿司(いずし)みたいな物だと思うけど……北海道じゃ、鮭とかニシンとか使っているけど、鮒というのがどんなものか、食べてみたいよね」
妻「車の中に置いておくのも何だから、明日の朝にしたら……」
私「よし、そうしよう。明日の朝、買いに来よう」

その日の夕食時の給仕に来てくれた宿の男性とのやり取りである。
男性「それは鮒寿司という滋賀県の郷土料理です。このあたりの人は家で必ず食べます。私は食べませんけど(笑)」
私「えっ、どうして?郷土料理なんでしょ」
男性「臭いが駄目なんです。子供の頃に食べて、二度と口にしたくないと思いました(笑)」
私「臭いがきついんだ!」
男性「いやな臭いの食べ物<ベスト3>に入っていると思いますよ」
私「明日、道の駅で買って帰ります(笑)」
男性「道の駅は明日から休みになるんじゃなかったかなぁ」
私「えっ!!!」
スマホで調べてみた。「道の駅」は確かに翌日から正月休みになると書かれていた。
私「ひぇー、それはないよ。ひどすぎるよー!買っておくんだった!残念!」
<臭い食べ物ランキング>を調べると第1位の「くさや」に続き第2位にランキングされていた。凄そうである。絶対に食べてみたい。どんなことがあっても食べてみたい。
<「道の駅」が駄目なら、あとはどこで手に入るだろう>と考え始めていた私であった。
(注)「道の駅」には「氷魚(ひお)」の佃煮も売っていた。琵琶湖の名物で冬の季語になっている。
                                 (平成30年作)




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石垣は何も語らず冬の城



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関ヶ原から次の目的地「彦根城」まで高速道路に乗った。右手に雪で真っ白になった伊吹山が見えた。関ケ原の戦いのあと石田三成が敗走した山である。山岡荘八著「徳川家康」18巻「関ヶ原の巻」の文章である。
「十五日の夜、三成が伊吹山に逃げ込んだおりには、まだ従う者は二十人を超えていた。
すでに記したように十五日の夜の雨は、この敗戦の主従を間断なく打ちのめした。
ようやく止んだと思うと、又以前に数倍するはげしさで、用捨なく具足の奥の肌にせまる。従者の一人が、三成のためにどこかの百姓家から蓑笠を見つけて来て着けさせたが、そうしたもので凌げるほど安易な雨ではなかった。
十六日の夜の白みそめる頃まで、一行は山中を雨に向ってさまよい続けた。むろん正確に方角や道を知っての彷徨ではない。とにかく発見されまいとしての無目的にひとしい戦場離脱であった」

彦根城に到着した。凄いお城である。江戸時代、多くの大老を輩出した井伊家14代の居城である。その荘厳さは見事というしかない。お堀があり庭園があり様々な櫓が残されている。関ケ原の軍功により石田三成の居城だった佐和山城に入城した井伊直政が、中世的縄張りや三成の居城であったことを嫌い、慶長8年(1603)に彦根城の築城を開始する。天守閣は国宝である。登るとすぐ目の前に佐和山が見える。もちろん城はない。彦根城の完成により佐和山城は廃城となり、徹底的に破壊されたという。敗れた者の宿命ではあろうが一抹の寂しさを禁じ得ない。
お城のどこかで「ひこにゃん」に会えるかと思っていたが会えなかった。登場する場所と時間が決まっているらしい。「ゆるキャラ」とはいうものの著作権問題で揉めたことがあったように記憶している。私でさえ知っているくらいなので揉め事は長引いたのかも知れない。誰と誰が争って、どっちが勝ったのかは知らないが、片方が徹底的に潰されるのだけは良くないように思えたのは佐和山を見たからかも知れない。
                                 (平成30年作)




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雪野原

もののふの声とも風の雪野原



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関ヶ原古戦場は一面の雪野原だった。道路もタイヤ2本分を残して雪に覆われている状態である。ゆっくりと走りながら「笹尾山交流館」という建物の場所まで到達した。笹尾山とは石田三成が本陣を構えた場所である。交流館は生憎の休館日だった。<甲冑体験>の看板が出ていたので<雑兵にでもなってみたかったのに……>と思ったものである。
途中に「決戦地」の幟が立っていたのでその場所まで歩いてみることにした。近づくに従って幟が風にはためく音がパタパタと聞こえてきた。凄い風である。石田三成の「大一大万大吉」と徳川家康の「三つ葉葵」の幟も風に吹き千切られそうである(写真)。大きな石碑と説明書きの看板が建てられていた。そこに書かれていた文章である。
「(略)小早川秀秋が寝返りを決意し、迎撃した大谷隊は善戦むなしく壊滅、西軍は総崩れとなる。その時ここ決戦地一帯は、最後に残った石田隊や島津隊に押し寄せる東軍諸隊で埋めつくされていたと考えられる。東軍の最後の一押しに石田隊もついに壊滅、島津隊は家康の本陣を横切り敵中突破して戦線を離脱して戦いは終わる。天下分け目と言われる国内最大級の戦いは、わずか半日程度でその幕を閉じた」

その場所から笹尾山の方向に幟が立ち馬防柵が並んでいるのが見えた。島左近の陣地である。堺屋太一著「巨いなる企て」、私が時代小説を読む切っ掛けとなった本である。その中で大好きになった島左近である。20㎝ほど積もった雪の中に人の足跡がいくつか続いていた。その足跡を辿りながら陣地まで上っていった。三成に三顧の礼をもって迎えられ「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」と言われたほどの逸材である。<ここで戦い、ここで果てたのだなぁ>と思いながら、しばらく眺めていた。
三成の本陣跡はそのすぐ上である。風は強かったが天気は最高である。<雪晴れ>とでも言うのだろうか、関ケ原を一望するのには打ってつけの天気である。見晴らし台が作られていた。「関ケ原古戦場 史跡位置図」という写真入りの看板があり、東軍西軍の配置が分かるようになっていた。家康の桃配山が見える。小早川秀秋が陣取った松尾山も見える。島津が最後に敵中突破して向かった伊勢街道の位置も分かる。
見晴らし台に他のお客を案内してガイドの人がいた。その説明を聞くでもなく聞いていた。
客「三成の大一大万大吉の意味は何ですか?」
ガイド「一人が万人の為に、万人が一人の為に力を尽くせば世の中は吉となり、太平の世が生まれるという意味です。後世ではとかく悪役に見られがちな三成ですが、佐和山の領民には慕われていたそうです。主君である秀吉が亡くなった後も忠節を尽くし、民の為に心砕いた人だったことが、これからも伝わってきます」
風の音のなかに<もののふ>と呼ばれた武士たちの声が聞こえて来るようだった。勝鬨もあり、啜り泣く声もあった。
                                 (平成30年作)




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雪礫

雪つぶて悲しき我に当りもす



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桃配山を出て西軍本陣が置かれた関ケ原古戦場跡へと向かった。国道21号線を右に折れるとそのすぐ先に関ケ原製作所があった(写真)。
「ここかぁ……」
一瞬にして21年前が蘇った。私が42才の時である。役職は取締役総務部長だった。当時の社長をサポートして張り切っていた時代である。幹部や営業の若手を引き連れて「ニューセキガハラ運動」を掲げ会社を成長させているこの会社を見学に来たのだった。
建物は新しくなっているように見えた。21年経っているのだから、どこがどう変わろうと驚くことではない。変わっていて当然である。ただ、入口に掲げられていた看板の文字を見てあの時と何も変わっていないことに驚かされた。
「限りなく、人間ひろばを求めて───進化しつづけるセキガハラ」
あの時と同じである。
「会社はみんなで創るもの。社員一丸となってチームセキガハラを創ろう」
とも書かれていた。少しも変わっていない。社員のための会社、社員がみんなで創る会社。素晴らしいと改めて思った。それに引き換え、自分の21年間を振り返って少しも学んでこなかったことを痛感した。
「こんなに良い手本があったというのに……」
当時、私を可愛がってくれた社長の顔が目に浮かんだ。少し胸が苦しくなった。21年前に比べると会社は確かに良くなっている。あの頃に比べれば全く別のような会社に変わっている。しかし、ただ変えることばかりに夢中になって大切なものを忘れてきてしまったような気がした。
「従業員がいてこその会社ではないか。本当にみんなを幸せにしてきたのだろうか。俺は何のためにこんなに頑張ってきたのだろう」
車を降りて写真を撮っている間、胸を過ぎったのはそんな自分への反省ばかりだった。
                                 (平成30年作)




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