2018年01月の記事 - ひこばえ
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日向 亮司

Author:日向 亮司
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ひこばえ


2018年01月の記事

除雪

除雪して天下分け目の地なりけり



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大垣を出て関ヶ原に近づくと辺りは雪景色へと変わっていった。道は除雪しているようで走るのに不自由はないのだが、いつチェーンを付けなければならなくなるかと不安は募ってくる。その時急に道の左手に「徳川家康、最初陣地」の看板が現われた。
「おお、見なければ……駐車場はどこ?」
それらしき駐車場が見当たらない。その先にガソリンスタンドがあったのでひとまず入ることにした。ガソリンは半分以上あったが、セルフ給油のようなので大丈夫である。係員がいるかどうかが問題だが遠くにそれらしき姿が見えた。給油して支払いを済ませたあと、その女性に近づき声を掛けた。
「こんにちは。今、給油を終りました。あそこの家康の碑を見に行きたいのですが、その間ちょっと車を置かせてもらえないでしょうか?」
女性に笑顔はなかったが「どうぞ」と言ってくれた。お礼を言って車を端に移動し、碑へと向かって歩き始めた。もう少し笑顔があっても良さそうなのにと思いつつも、勝手なお願いをしているのは私の方である。停めさせてもらえるだけでも有難い。
「桃配山」である。家康が最初に本陣を構えた場所である。
西暦1600年(慶長5年)9月15日、旧暦なので今の10月21日頃にあたる。深夜、西軍が大垣城から関ヶ原方面に向けて動いたというので、美濃赤坂の岡山本陣にいた家康も雨の中その後を追うのである。夜中の2時に出て朝6時にここに到着して陣を敷いている。
工事人がいて警備の人もいた。何かの工事である。後で聞くと史跡整備工事中とのこと、柵もされていたが間から入らせてもらった。誰も歩いた形跡のない雪に覆われた階段を上って碑の前に立った(写真)。ここに「厭離穢土・欣求浄土」の幟を立てたのである。看板にはその時に使用したと伝わる「腰掛石」と「机石」のことが書かれていたが417年前のことである。石のことは俄には信じがたいが、その後の天下分け目の戦いを想像するには充分な場所であったことはもちろんである。
                                 (平成30年作)




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翁の忌

翁の忌過ぎて訪ねし結びの地



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翌朝ホテルを出て向かったのが関ヶ原である。21年前に訪ねていながら見過ごしてしまっていた古戦場跡を一目見たかったのである。不安は雪である。チェーンは持っているとはいえ付けたことがないので、何とか無しでもいいようにと願うばかりである。途中、大垣市に入り、大垣城の案内を見つける。
「大垣城?なんだっけ。見るべき城だったっけ?」
一瞬迷ったが、迷った時は行くべきである。道を逸れて城へと向かった。城は元国宝。太平洋戦争の戦火で焼失し再建されたものである。これから向かう関ヶ原の西軍石田三成の本拠地となった城である。中には関ヶ原の戦いの前日、西軍の大勝となった「杭瀬川の戦い」のジオラマが展示されており、随分と長い時間を見入ってしまったものである。
ようやく見終わって再び関ヶ原へと向かったが、今度は信号待ちの間に芭蕉記念館の文字を見つける。
「芭蕉?なんだっけ。……おお、大垣だ。奥の細道の最終目的地だ!」
またまた道を逸れて記念館に向かうことになる。行き当たりばったりとはこのことをいう(笑)。
中に入ると「ガイドが説明します」との案内があった。係の女性にお願いすると「はい」と言って中に入っていったがなかなか戻ってこない。ようやく戻って来たが「あいにく今日はガイドの人が全員休んでおります」とのこと。少々落胆する。入ってすぐの所にシアターがあり、3D映像の眼鏡を手渡された。放映中だった。腰掛けて見ていると知った人が現われる。
「おお、まどかさんではないか!」
本人に会える訳でもないのに妙に嬉しくなる。この「奥の細道むすびの地記念館」の館長を務める黛まどかさんである。<美人は得だなぁ>と思いながらも、何本ものビデオに見入ってしまった私であった。関ヶ原は遠い。
                                 (平成30年作)




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道三の死に美学あり美濃の雪



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「蝮、生きていろっ」
と、闇にむかって叫んだ。
叫びながら、信長は奇妙なことに気がついた。あの日は天文二十二年四月二十日であった。いまは年号こそ変われ、その三年後の、しかもおなじ四月二十日ではないか。
偶然かも知れない。
しかし信長には偶然とも思えず、
(どこまで芸のこまかい男か)
と驚嘆した。蝮は、自分と会った四月二十日を選び、おのれの命日にしたかったのではあるまいか。いやそうに違いない。四月二十日を命日にしておけば道三のあとを弔うべき信長にとって二重に意味のある祥月命日になるのであった。されば信長は生涯道三を忘れぬであろう。
(あの男は、そこまでおれを思っている)
若い信長にとって、この発見は堪えられぬほどの感傷をそそった。

以上は司馬遼太郎「国盗り物語」の中で斎藤道三が死ぬ場面である。
金華山を出たあと、岐阜の市街地に向かった。ブラタモリで紹介していた楽市楽座のあった場所を見に行ったのである。「マックスバリュ岐阜元町店」の辺りだというが、何も見出せないままに戻ることになってしまった。3時半にホテルに入った。岐阜城を真向かいにした「岐阜都ホテル」である。早めに風呂に入り、一寝入りしてすぐに夕食となった。ホテルにある和食の店を選んだ。他の店は混んでいたようだが、その店は空いていた。最後まで我々夫婦だけだったように思う。静かでいい雰囲気だった。コース料理にしたので同じ仲居さんが何度も現われる。自然、話が弾み、気心が知れてくる。
その日の雪のこと。年に二三回しか降らない雪がたまたま降ったことを教えてくれた。
私が俳句を詠んでいることを話すと「先程からお聞きしていて思っていたのですが、本当に言葉を上手に使われる方ですよね」と持ち上げてくる。金華山にうっすらと積もった雪を「美濃の雪」として考えていると言うと「まぁ、なんと美しい言葉でしょう」と驚いてくれる。その言葉を彼女がいなくなったあと、手帳にメモする姿を見て「そういうのは本当に聞き逃さないよね」と混ぜっ返す妻。とても楽しい初日の夕食となった。
                                 (平成30年作)




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冬の日

さるぼぼを飾りて冬の日の匂ふ



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城を見たあと、工場長が推奨していた金華山レストランに入ってみた。さすがにウナギを食べた後なので味噌カツには手が出なかったが、長良川を眼下に濃尾平野を一望にする眺めには感服するよりなかった。その時ちょうど工場長からメールが届いた。先程、私が送った問い合わせへの返答である。
「信長のさるぼぼ。吸盤で車のガラスに貼れる小さいやつ」
妻に話すと下の売店で売っていたという。<いやに安い物を言ってきたなぁ>が私の印象である。
ロープウェーで下に降りるとすぐに売店である。
「これでしょ!」
妻が手に取って渡してくれた。<これじゃ、マズイなぁ。何でこんな物が欲しいんだろう?>
500円位のものである。さすがにこれではお土産にも何もなったものではない。
その時、目に入ったのが棚の一番上に飾られていた大きなさるぼぼである。前掛けに「信長」の文字も書かれている。
「こっちがいいよ」
この一言にすぐさま妻が反論してきた。
「やめなさいよ、そんな物を誰が欲しがるというの!」
一瞬たじろいだが、500円のさるぼぼを買うくらいなら、こっちの方が余程いいと思った。
「ちょっと待って。本人に聞いてみよう」
妻に持ってもらい、大きさが分かるように手を翳してもらった(写真)。それをメールした。すぐに返ってきた。
「デカ過ぎます(笑)」
この(笑)のマークを見て確信した。満更でもないらしい。妻は呆れ顔である。
売店の女性とのやり取りである。
私「これ、どれくらい売れますか?1年に1個、それとも1ヶ月に30個」
女性「ハハハハ……」
私「そうそう。人があまり買わない位な方が希少価値があってよろしい(笑)」
(注)説明書きには次のように書かれていた。『さるぼぼとは「幸運の猿の赤ん坊」という意味です。昔、母親が「娘や孫が元気に育つように」と願って作った人形です。あなたも「さるぼぼ」で幸せになりませんか?』
                                 (平成30年作)




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痩せ馬の背にも喩へて雪の尾根



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岐阜城といえば永禄10年(1567)の美濃攻めである。信長が斉藤義興の居城だった稲葉山城を攻め取った戦いである。司馬遼太郎「国盗り物語」からその場面を抜き書きしてみよう。

『信長は城を取り巻いて城外に二重三重の鹿垣(ししがき)をつくり、敵の援軍の来襲を防ぎつつ、持久戦に取りかかり、稲葉山城を兵糧攻めにして干し上げようとした。
滞陣十四日目のことだ。
秀吉はその間、配下の野武士を使い、
「本丸への間道はないか」
と、稲葉山周辺の地理を探索させていたが、ある日、一人の猟師をとらえた。堀尾茂助という若者である。(中略)
この茂助が、
「この山麓の一角に達目洞(だちぼくどう)という小さな山襞がございます。そこから崖登りすれば訳なく二ノ丸に登りつけます」
といった。この一言が稲葉山城の運命を変えた。秀吉はこの茂助を道案内とし、新規に抱えた野武士あがりの蜂須賀小六ほか五人を連れて夜陰、崖登りし、二ノ丸に忍び込んで兵糧蔵に放火し、ついで自分の弟(秀長)に指揮させている本隊七百人を呼び入れ、さらに間道を進んで天守閣の石垣に取り付き、陥落の糸口をつくった。
その翌日、竜興は降伏し、信長によって助命され、近江へ逃げた』

人間の運命とは妙なものである。この稲葉山住まいの若い猟師がこのあと秀吉の家来になり、累進して豊臣家の中老職をつとめ遠州浜松十二万石の大名になるのである。そんなことを考えながら雪道を歩き、城を見学してきた。
                                 (平成30年作)




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これしきの雪を恐れて檻の中



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さていよいよ岐阜城である。「ブラタモリ岐阜編」を見て来ておおよその知識は出来ている。
まずは金華山ロープウェー乗り場へと向かった。そこであることを思い出した。
「そういえば工場長が金華山に行ったら何かを買ってきてくれと言っていたなぁ?何だったっけ?」あんまり下らない物だったので、いい加減に聞いていたようで全く思い出せない。メールを入れてみた。
「何を買うと言っていたっけ?」
しばらく待っていたが返答がない。そのうちロープウェーの時間が来てしまった。
当社の工場長も歴史好きである。城やお寺を訪ねては奥さんとあちこち出掛けている。もちろん岐阜城には何度も来ているようで、城の横にある展望レストランからの眺めの素晴らしさやそこで食べる味噌カツの美味しさをしきりと推奨していた。
ロープウェーで上に到着すると目の前に「リス村」があった(写真)。「日本で最初のリス村だ」と番組で紹介していた。特にリスが見たかった訳ではないがタモリが入ってみたのだから入るしかない。チャートの岩盤で出来ているこの山に煙硝倉という火薬の備蓄庫を作るため、平らに削ったのがこの場所だという。中に入って革手袋をもらい手にエサを載せてみたが肝心のリスが見当たらない。番組ではタモリの手の平や回りにあれほどいたリスがほとんど出て来ない。係員が「今日はこの雪ですからねぇ」と申し訳なさそうに言っている。10分ほどいたが、あまり出て来ないので城に向かうことにした。
「この雪じゃあ、リスも寒くて遊ぼうなんて思わないよなぁ……」
リスの種類は「タイワンリス」と書いてあった。寒さに弱いことは容易に想像できる。
                                 (平成30年作)





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師走空

噛み砕く半助苦し師走空



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犬山城を出て11時である。ウナギ屋を探すか岐阜城へと向かうかの選択だが、走りながら探そうということになった。中途半端な選択である(笑)。木曽川を渡ってしばらく走ったところで妻が見つけた。
「あった!うなぎって書いてある」
「どこどこ?」
「正面!」
「おお、大き過ぎて目に入らなかった(笑)」
川魚料理<うな神>が目の前にあった。大きな駐車場でいかにも繁盛していそうな店構えである。店内も椅子席や座敷席と充分な広さがあり、我々のほかにすでに1組が入っていた。妻は「ひつまぶし(上)うなぎ一匹分」というのを注文した。
「うなぎ一匹分とわざわざ書いてあるところが凄いね(笑)」
妻、ご満悦である。私は「うな重定食(並)」(写真)を頼んだ。空腹を満たすには充分な量と味であったことは言うまでもない。美味しく頂いて店を出た。
車の中での会話である。
私「さっき食べた中に頭のようなものがあった」
妻「うそ!頭なんてないでしょ。尻尾じゃないの?」
私「いや、最初に食べたんだけどカリカリしていて尻尾という感じじゃなかった。あれは絶対に頭だよ、間違いない」
妻「ウナギの頭を食べるなんて聞いたことない」
すぐさまスマホで調べた。
妻「あった!本当にウナギの頭だ。関西では当たり前に食べているみたい。半助って言うんだって。関東では焼く前に頭を落とすんだけど、関西では1匹丸ごと火に掛けて、焼き上がってから頭を落とすんだって」
撮った写真を見てみると「うな重」の隅に確かにその半助が写っている。旅してこその発見である。
                                 (平成30年作)





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霙るる

霙るるや天守に暗き武者溜り



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桶狭間を出たのは8時である。まだ朝食を摂っていない。コンビニで買ったおにぎりを車の中で2つ食べただけである。少し空腹を覚えていた。しかし車はすぐに高速に乗った。次の目的地は犬山城である。岐阜城に行く前に寄らなければならない必見の国宝天守である。
「腹減ったなぁ。どうしようか?」
「私は大丈夫だけど、食べたいのならどこかへ寄る?」
「ここはいい物を食べないとなぁ。旅の初めでいい加減なものを食べたら後悔する。名古屋名物、岐阜名物といったら何だろう?」
「ひつまぶしがいいなぁ」
「おお、ウナギかぁ。いいな。よし、ウナギ屋を探そう」
「ワーイ」
しかし桶狭間から犬山城までは結構な距離である。ちょっとした渋滞もあり、高速を降りた段階で9時半になっていた。城を見学する前にウナギ屋をと思ったが、どこもみな11時か11時半の開店である。
「中途半端な時間になってしまったなぁ。まずは城に行くしかないみたいだなぁ」
「私は全然構わないけど……」
城の駐車場に着き、歩き始めた。雪は止んでいたが、時折霙(みぞれ)まじりに降ったりする。
犬山城の見所は何といっても天守である。二重櫓の上に望楼を載せた典型的な望楼型天守で、高欄とその下にある唐破風が特徴的な意匠となっている。廻り縁への出入口の左右にある花頭窓も美しい。雪のために廻り縁を一回りすることは出来なかったが、木曽川を見下ろし、濃尾平野を一望することは出来たのである(写真)。天守の中に武者走り、武者溜り、武者隠しなるものがあった。この暗くて狭い場所に大勢の武者がひしめき合っていたのだろう。おそらく腹も減っていただろう。自分の腹の虫が鳴くこともあってか、そんな想像をしながら見て回ったのであった。
                                 (平成30年作)




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枯木

義元の駒を繋ぎし枯木かな



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雪は断続的に続き、積もることも覚悟したが桶狭間に着く頃には雨に変わっていた。
「ここが桶狭間かぁ……」
住宅地の中に最近出来たばかりの公園という感じだった。少々物足りなさを覚えたが、信長の時代そのままなどということもあり得ない。入り口に「桶狭間古戦場公園」と書かれた立派な石碑があり、写真の銅像2体も立派なものである。今川義元の「駿公墓碣」と刻まれた墓碑や「義元首洗い泉」「駒つなぎの社松(ねず)」などもあり、盛り沢山である。説明書きには平成22年の整備と記されていた。ほんの7年前である。歴史的に何か重要なものがあるとも見えなかったが相当にお金を掛けて造っただろうことは想像できる。傘を差しながら10分ほど見て回って車に戻った。
「たしか、もう1カ所同じような公園があったなぁ。行ってみるか……」
実は来る前にザックリ調べてみたのだが、この2カ所の関連性がよく分からないままだった。<行けば分かるだろう>と思ったが来てもよく分からないのでやはりもう1カ所にも行くしかないと思った。今度はカーナビに「桶狭間古戦場伝説地」と入れた。車で10分ほどの距離である。すぐに着いた。
こちらは少し古い感じがした。入り口に「史蹟桶狭間古戦場」の石柱が建っていて昭和16年10月の建立とある。太平洋戦争直前である。明らかにこちらの方が古い。中に義元の墓もあった。さっきは墓碑だったが、こちらは墓そのものである。その横にまたまた義元駒つなぎの「ねずの木」が立っている。
「何だか両方で競い合っているみたいだなぁ(苦笑)」
こちらも10分ほどで見て回った。桶狭間に陣取った今川勢の数2万5000を考えれば、どちらもその可能性は否定できないだろう。どこに陣を張り、どこで義元を討ち取ったのか。最初に行った公園が名古屋市緑区桶狭間。後に行った公園が豊明市。双方、譲れないところかも知れないと思いつつ、蝸牛角上の争いにしか思えない現代版「桶狭間の戦い」のようにも見えてくる。
                                 (平成30年作)




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粉雪

粉雪や所詮人間五十年



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さすがに夜の高速道路は空いていたが目的地の桶狭間まで片道320キロ、到着予想時刻は7時20分、長距離走である。コンビニで飲み物などを買い込んでから走り始めた。そしてすぐに用意しておいたCDを掛けた。

下天は夢かや 幻なるか
所詮 人間五十年
燃えて崩れる本能寺
炎の中に信長は男の最後
それよ何んの言葉も要るものか
噫々 嵐呼ぶよな朝が来る

三波春夫の「信長」である。これを聞きながら尾張、美濃、信長の地を訪ねようというのである。私のサービス精神の現われとも言える。しかし掛けてすぐに文句を言われた。
妻「朝から聞きたくないよ、これ……」
私「えっ、信長だよ。信長を訪ねる旅だから絶対にこれしかないよ」
妻「気持ちは分かるけど、三波春夫だけは勘弁して。お願い……」
私「三波春夫が嫌いなの?」
妻「そう、どうもあの声には付いていけない。まだ浪曲なら浪曲だけの方がいいんだけど、途中でいろいろ入れてくるでしょ。子供の頃から好きじゃなかったのよねぇ、台詞混じりの歌い方が……」
いきなり出鼻を挫かれてしまったが、仕方ない。人には好みというものがあるのだ。無難なところで「中島みゆき」などを聞きながら走って行くことにした。
浜松に入った辺りから雪が舞い始めた。
「おっ、雪だ。天気予報はどうなってるの?こんな所から降っているようじゃ、マズイんじゃない?」
車のライトに照らされてどんどん激しくなっていくのが分かる。買ったチェーンが無駄にならなかったのを喜ぶ反面、雪道という未体験ゾーンに急に不安が募る。周りを走る車のスピードが落ち「ユキ注意」の電光掲示が妙に目に付く。
「チェーンの付け方、チャンと見ておくんだった……」
                                 (平成30年作)




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数へ日

数へ日をとまれかくまれ城を見に



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岐阜に行くと決めて最初にしたのが司馬遼太郎の「国盗り物語」を読むことである。随分前のことだったので懐かしく読み返した。油売りの身から一国の主へと駆け上がっていく斉藤道三とその娘婿となる織田信長。全4巻を一気に読み終えた。
次が「ブラタモリ岐阜編」を見ることである。ちょうど12月2日放映だったのでビデオに録画しておき、出掛ける前に見ておいた。金華山の地形、城のありよう、「戦わずして勝つ平和な城」岐阜城。いずれも興味深い内容だった。
その次にしたのが車のチェーンの購入である(写真)。昔、新幹線の中から関ケ原の辺りの雪景色を見たことがあった。浜松でも名古屋でも降らない雪が関ケ原では真っ白に積もっていたのを覚えている。その辺りだけに高い山がないのかも知れない。日本海からの寒気がその一帯に雪を降らせるようなのだ。
「雪が降ったら俺の車じゃマズイだろう?」
「スタットにするかチェーンを付けるかですね」
会社での会話である。一番安いチェーンを一つ買ってきてもらった。中に装着方法を説明したDVDが入っていた。一度見てみたが私には無理だと思った。覚えられない。出来そうにない。買ってきてくれた社員との会話は続く。
「ガソリンスタンドでやってくれるだろう?」
「やってくれます。もし、スタンドがない時はJAFを呼べば大丈夫です」
挨拶回りの車の中でもチェーンの話になる。営業マンが私に教えてくれた雪道での注意事項である。
「雪道を運転する時は気を付けてください。一番気を付けなければならないのがスタートする時と曲る時、それから止まる時です」
「スタートして曲って止まる?それじゃ、全部じゃないか!」

当日、朝3時に妻に起こしてもらった。前日一杯やっている。深酒はしていないが自分では起きられなかったようである。そそくさと着替えを済ませてすぐに出発である。3時半。もちろん辺りは真っ暗である。目的地を「桶狭間古戦場跡」と入れた。岐阜に行くには少し遠回りであるが、信長出発の地である。見たことがないので最初の訪問地とした。天気は良さそうである。2泊3日の旅。
「いざ、桶狭間!」
いざ鎌倉ならぬ、桶狭間へ向けて出発したのであった。
                                 (平成30年作)




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行く年

行く年のたまたま席を隣り合ふ



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平成8年11月15日(金)、今から21年も前のことではあるが、岐阜県にある関ケ原製作所様を訪問している。その会社で展開されている全社員参加の企業活性化運動(ニューセキガハラ活動)を視察することが目的だった。当時の社長はじめ14名のメンバーでバスをチャーターして訪ねている。
「生き物とは変わり続けるもの。企業も常に変革し続けることが大切である」と関ケ原製作所の矢橋社長(当時)の言葉を社内報に載せている。素晴らしい会社であったことは言うまでもない。大いに勉強させてもらったものである。
工場見学のあと金華山に登り、天守閣から濃尾平野を見下ろし宿へと向かった。どういう訳かその時そのすぐ傍にある関ヶ原の古戦場跡を見ていない。おかしなものである。旅館で宴会をしたあと、柳ケ瀬の町に繰り出している。行き当りばったりのスナックだったが、そこで歌ったのが美川憲一の「柳ケ瀬ブルース」である。「柳ケ瀬に来てこの歌を歌わない訳にはいかないだろう」といった乗りである。初めて歌ったのだが自分の声質に合っていたようで妙に上手く歌うことが出来た。それ以来たびたび歌うようになっていた。
その年の暮れ、伊勢佐木町の「川路」というクラブに飲みに行った。会社の忘年会のあとである。結構な混みようだった。カラオケで歌うことになったのだが、何人ものお客が歌を申し込んでいた。いつ回って来るかも分からずに待っていると、とても上手な女性のあとに番が回ってきた。「いやに上手い人のあとになっちゃったなぁ。やりづらいなぁ」と言いながらも、この「柳ケ瀬ブルース」を歌ったのだった。歌い終えて席に戻ると、隣に座っていた男性から声を掛けられた。
「おたく、なかなか上手だねぇ」
「ありがとうございます。褒めてもらっても何も出ないですけど(笑)」
「私はね、昭和40年から45年まで美川の曲のプロデュースをしていたんだよ。あいつはなかなか芽が出なくてねぇ。苦労していたんだ。あれが3曲目だったはずだが……売れたねぇ」
「そうなんですか?」
「私ももう引退したので、こういう場所にはあまり来ないようにしている。人のヘタな歌を聞かされるのがいやでねぇ(笑)。今日は同窓会の流れで来てしまったのだが、おたくの声がなかなかいいので、当時のことを思い出してしまってついつい涙が出て来てしまったよ。僕はクラウンレコードの宣伝部にいた吉田っていうのだけど。知っている人は知ってるんだけど……」
あれ以来「プロを泣かせた歌」ということで何度も歌わせてもらったが、この頃はあまりやらなくなっている。あの時に一緒に撮った写真もどこに行ったのやら、探したが見つからない。
21年振りということになるが、その関ケ原、金華山、岐阜城を訪ねる旅に出掛けてみた。
                                 (平成30年作)

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賀状書く

ご先祖の一人なりけり賀状書く



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毎年、孫達には愛情たっぷりの年賀状を送っている。今年はどんなものを送ろうかと考えたがそう易々と奇抜で面白いアイデアなど思い浮かばない。しかたなく今人気のパンダの絵でお茶を濁そうということになった。シャンシャンにあやかろうというのである。それを知った妻がアドバイスしてくれた。
「さわちゃんは今、パンダではなくウサギがお気に入りのようだよ」
写真左の年賀状がさわちゃんに宛てたものである。<かわいい!>と喜んでくれること間違いなしである(笑)。
「あけまして(ぴょん)おめでとう(ぴょん)ことしは(ぴょん)1ねんせい(ぴょんぴょん)あまり、べんきょうばかりしないで(ぴょん)たまにはおーちゃんともあそんでね ぴょんぴょんぴょんぴょんぴょんぴょんぴょんぴょん」
真ん中が今度4年生になるみやちゃん宛てのものである。勉強がなかなか苦手と聞いている(笑)。パンダの絵の大きさで勝負である。
「あけましておめでとう ことしはやっぱりディズニーランドだよね またゴーカートに乗ろう 勉強もしっかりがんばろう」
そして右端がなっちゃん宛てのものとなる。家系図を書いてみた。自分がいかに多くのご先祖様のお陰でここにいるかということを考えてもらえたらと思ったのである。読書家のなっちゃんに果たして私の思いが届くかどうか。一笑に付される可能性がとても大きい(笑)。
「明けましておめでとうございます。ご先祖さま、ありがとうございます。私は今年6年生になります。ご先祖さまに恥じぬよう一生懸命にがんばります」
                                 (平成30年作)

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福達磨

福達磨富めば則ち事多し



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明けましておめでとうございます。
皆様におかれましては良き新年を迎えられたこととお喜び申し上げます。
平成25年5月に始めたこのブログも皆様に支えられながら4年半を経過し、回数も570回を超えるまでとなりました。
初めの頃は週2回程度の更新でしたが、いつしか週3回となり、毎回楽しみにしてくれている人もいて励みになっております。これも偏に皆様方の心温まるご支援の賜物と心から感謝しております。

多男子則多懼     (男子多ければ則ち懼れ多く)
富則多事       (富めば則ち事多く)
寿則多辱       (寿ければ則ち辱多し)
是三者、非所以養徳也 (是の三者は、徳を養う所以に非ざるなり)

これは老子と共に「道家」の始祖とされる荘子が書いた文章の一節です。
「男の子が多ければその分なにかと心配の種が増え、裕福になるとなにかと面倒なことが増え、長生きをするとなにかと恥をかくことも多くなる。すなわちこの三つのものは徳を養うためのものにはならない」といったような意味です。本来、誰もが望むはずの「子宝に恵まれる」「裕福になる」「長生きする」を悲観的に見て必要ないと言っています。欲望に執着せず、一見立派なようにも見えますが本当に立派なのでしょうか。文章は次のように続きます。
「男子がいくらいても様々な職があり心配することはない。お金持ちになって要らないお金があるのなら人に分ければよい。こだわりのない生活をすれば長生きをしても恥をかくことはない」
一旦思い込むとその考えに凝り固まって間違った判断をしてしまいがちですが、どんな事柄にも別の捉え方や考え方はあるものです。まずはこだわりを捨てるところから始めるべきでしょうと説いています。
新しい年が始まりました。気持ちを新たに進めてまいります。どうか今年もよろしくお願いいたします。
                                 (平成30年作)

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