2017年12月の記事 - ひこばえ
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日向 亮司

Author:日向 亮司
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ひこばえ


2017年12月の記事

冬ぬくし

文豪の愛用の椅子冬ぬくし



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しばらくして直木邸の前所有者である知人の会長にお会いした。その前日、別の会合でたまたまそのお嬢さんである現社長にもお会いしている。
会長「やぁ、日向さん、あの家に行ったんだって?」
私「そうです。昨日はお嬢さんにもお会いし、話を聞かせてもらいました」
会長「そうだってねぇ。何だってまた、あそこに興味を持ったの?」
私「文学を志す者としては一度は見ておきたい場所です(笑)」
会長「わっはっは、藝術は短しと書いてあっただろう(笑)」
私「そもそも、直木三十五や菊池寛と何かご縁でもあったのですか?」
会長「いやいや、僕の父が別荘を探していた時に海が見えて良かろうとたまたま選んだ場所なんだよ。あそこが直木三十五の家とは知らずに買ったんだよ。だいぶ経ってから大仏次郎が新聞のコラムか何かに<直木が亡くなる直前に富岡に家を建てた>と書いたので、その後NHKが来るわ、新聞社は来るわで一挙に注目が集まったという訳なんだよ」
私「あそこにずっとお住まいだったんですか?」
会長「元々は井土ヶ谷に住んでいたんだが、途中から富岡に越して私が子供の頃はずっとあそこに家族で住んでいた。夏は良かったけど、冬は寒くてねぇ(笑)。私が結婚すると同時に横にあった運転手用の家を改装して新居にしたんだけど、両親はずっと住んでいたよ。直木三十五の貧乏話は聞くけど、家の横に運転手の家まで建てたんだから分からないもんだよね」
私「壊したのはつい最近ですよね」
会長「そう、持っていても仕方なかったからねぇ。文士の家ということで横浜市や金沢区に引き取ってもらおうともしたんだが、いろいろと改装などしているので歴史的建物とは見做されなかったみたいだねぇ」
私「遺品なんかはなかったんですか?」
会長「特にそれらしいものはなかったと思うよ。ただ、取り壊しが決まった時、大阪にある直木三十五記念館の人が見えて中に在った品物を引き取って行ったよ。どうせ処分する物だからとみんな持って行ってもらったが、その中にあった椅子なんかは直木愛用の椅子ということで記念館に飾られているんじゃないかなぁ。直木三十五が使ったものか、オヤジがあとから買った物か僕には分からないけど(笑)」
(注)写真は牛鍋屋「荒井屋」でのものである。ここで会長から話を伺った。
                                 (平成29年作)

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掛取り

無い袖は振れぬ掛取りとの問答



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すぐに本が届いた。「直木三十五伝」(植村鞆音著)。作者は三十五こと本名植木宗一の甥でテレビ東京の取締役を務めた人である。若い頃から伯父のことを調べていて定年を機に執筆したという本格的な評伝である。

大阪生まれで大阪育ちの宗一は20才で早稲田大学に入学するため上京。学生生活半年で知り合った女性(のちの妻、佛子寿満)と同棲を始め、実家からの仕送りを使い果たし生活に困窮する。学費も儘ならなくなり退学。大正4年は就職難の時代。級友たちが就職していく中で取り残され、極貧生活の中で長女が誕生。就職出来ぬまま借金を始める。
ようやく春秋社、冬夏社という共同経営の道を見つけ、創立者として取締役に加わり破格の月給を取る身分となる。しかし長くは続かない。仲間との亀裂、浪費、芸者遊び、倒産。その後に関わる経営もことごとく失敗し借金に追われる日々となる。借金については哲学があるようで<高利貸しからしか借りない><借金取りからは逃げない>というものだった。無口でぶっきら棒、傲慢で反抗的、人の恨みを買うことに意を介さないという性格である。
直木三十五というペンネームは本名の植木の「植」を分けて数え年を付けたもの。直木三十一から始まり三十五で止めた。三十四は「惨死」に通じるとして使わなかったが、一篇だけ印刷所に回ってしまったものがあるという。
大正12年、菊池寛が私財を投じて「文藝春秋」を創刊。直木も執筆の場を与えられ創刊号から筆を振るう。雑文、随筆の類いだが、匿名で書いた文壇人を肴にしたゴシップ記事が注目され、創刊したばかりの「文藝春秋」の発行部数を伸ばすのに大いに貢献した。
「文藝春秋」創業3周年の大正14年と10周年の昭和7年に勧進元菊池寛の名で「文藝春秋執筆回数番付」が出されているが、両方とも西の正横綱は直木三十五である。ちなみに3周年の東の正横綱は芥川龍之介、10周年は武者小路実篤である。昭和10年に菊池が賞を設ける時、「直木賞」「芥川賞」と二人の名を用いた意味が解ろうというものである。
昭和8年、初めて家を建てる。富岡の家である。借金に追われ続けた彼が家を建てた理由は自身の病気療養と家族と共に暮らしかったからだと書かれている。設計は直木本人。建坪48坪。書斎、次の間、茶の間、子供部屋、女中部屋の5室。玄関はない。終の棲家となるはずだったが、直木本人が住んだのは10日足らずですぐに東京に戻っている。
翌年の昭和9年2月24日、43才で亡くなっている。
                                 (平成29年作)

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鍋焼

鍋焼の汁のこぼれて届きけり



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家に帰って私が最初にしたことはアマゾンで直木三十五の本を買うことである。彼が書いた本ではなく、彼の一生が分かる本である。たまたま「直木三十五伝」(植木鞆音著)という本があったのですぐに注文した。そもそも芥川龍之介の「芥川賞」は分かるが、直木三十五の「直木賞」は分かりづらい。<そんなに有名な作家だったのだろうか?>である。どんな人だったのだろう。いい機会なので調べてみることにした。

直木三十五は明治24年大阪の生まれで、昭和9年に43才で亡くなっている。昭和5年に「南国太平記」を発表し一躍ベストセラー作家になる。幕末の薩摩藩のお家騒動、いわゆるお由良騒動を描いたものである。しかしウィキペディアを読む限りでは良いことが書かれていない。「直木とマキノ省三」という章には次のように書かれている。
『直木は三十三と名乗っていたころ、マキノ省三の家に居候していた。当時中学生だったマキノ雅弘は、なぜ直木が家にいるのか分からなかった。(中略)このころ直木は朝から晩まで着物をぞろりとひっかけるように着て、マキノ雅弘をつかまえると「おい、マサ公」と決まって用をいいつけた。金もないのに「スリーキャッスル(煙草)を買ってこい」といい、「おっさん、金がない」と答えると「盗んで来いッ!」と怒鳴るような人物だった。(中略)直木は大正14年に映画製作に乗り出した。資金は全てマキノ省三に出させていた。映画人からは「作家ゴロ」「映画ゴロ」と陰口をたたかれ、マキノ雅弘は「直木三十五って男は活動屋のブローカーになり下がった奴で、金が欲しいだけで何も書かない作家だ」と人から教えてもらったという』

また次のようなエピソードが残っている。
ある日、直木の家に何人もの借金取りが押しかけて来た。
「今日こそは、どうしても返済してもらいますよ」と詰め寄った。
しかし何をどう責められようと彼はひたすら沈黙し、ダンマリを決め込む。
「利子だけでも頼みますよ」と言われても馬耳東風を貫く。
やがて借金取りの方が疲れて一人二人と帰って行き、粘り強い三人となった時にとうとう直木が口を開く。
「腹が減った。金を貸してくれないか。何か食おう!」
<人を馬鹿にするのも程がある>と怒ってそのうちの二人が去って行ったが、最後に残った一人がウドンを注文して一緒に食べたそうである。
                                 (平成29年作)

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小春

海へ向く小春の坂の文学碑



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12月8日、ひこばえ「鈴懸の実」の続きである。
富岡総合公園でプラタナスの実の写真を撮ったあと、すぐ近くにある直木三十五の家を見に行くことにした。ここには20年以上も前に富岡八幡宮に出掛けたついでに覘いたことがあったのである。車で一旦国道16号に出て細道を入って行った。ゆっくりと走りながらその家を探した。<たしかこの道沿いだったはず>である。慶珊寺という寺の前まで行き<見過ごしてしまった>と思い車を停めて歩いてみた。寺の塀の隅に「直木三十五宅址」の石柱が建てられていた。
「???」
<どうしてこの場所が「宅址」なのだろう>と思った。以前、見た時はその道路沿いにあったと思っている。<壊されたのだろうか?>スマホで場所を調べていた。するとその石柱の横の坂道の上だと書かれている。
「???」
半信半疑で上がって行くと立派な石碑が建っていた。「藝術は短く、貧乏は長し」と刻まれた大きな碑である。「直木三十五の文学碑」の看板もあり、読むと昭和35年に建立されたとある。なるほど、間違えていたようである。以前来た時はこの上まで辿り着いていない。道沿いの小さな家を見て<これが直木三十五の家だ>と勘違いしてしまったようである。あらためてよく読み、隣に立てられた「旧直木三十五邸」という看板も読んでみた(写真)。家屋の間取りや外観や内部の写真が掲げられている。読むと平成23年に建物を解体されたと書かれている。<折角の建物を>と思ったが事情があったようである。
看板の一番下に旧所有者の名前が書かれていた。
「おっ!」
知っている人の名前である。よくある名前かも知れないが、私の知っているあの人に違いないと思った。立派な会社の経営者である。100年企業と言われる明治創業の会社の社長なので直木三十五が亡くなったあと、その家を譲り受けたとしても不思議ではない。
「へぇー、そういうこともあるんだなぁ。調べてみよう。そして次回お会いしたら聞いてみよう。ヒャー、面白くなってきたなぁ」
<一人悦に入る>とはこのようなことを言う(笑)。
                                 (平成29年作)

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湯ざめ

湯ざめして箱根の宿の長廊下



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保養所「みやぎの」は東京都家具健保組合の保養施設である。メンバーにその組合の関係者がいるのでいつも格安で宿泊させてもらえるのである。どこの健保組合も組合員の減少などで厳しい財政状態だろうが、ここもバブル崩壊を経て大変な困難を乗り越えて今に至ると聞いている。運営を続けていくためにも格安方針を掲げ集客に努めているようで、「会社でも使ってね」などと言われている。バブル前の建物なので造りはとても豪華である(写真)。部屋の造りも広い。1部屋に和室、洋室が都合3つもあるという意味のない広さである。そこに3人が割り当てなので殊のほか広く感じられる。夕方6時集合の通知をもらっていたので5時過ぎに到着したが、東京、名古屋から駆けつけてすでに一杯飲んでいる人がいた。大急ぎで風呂に入り仲間に加わった。

A社長「日向さんのところは相変わらず忙しいんでしょ?」
私「年末に掛けて今がピークです。連日大変な状況です(笑)」
A社長「どこか、手伝ってくれる所ないですかねぇ」
B社長「そんなに仕事、入っているんですか?」
A社長「やってもやっても終わらないという感じです」
C社長「あらいいじゃない。羨ましいわ(笑)」
D社長「〇〇さんの所に相談してみたら?先日お会いした時にそんなに忙しくないという話をしていましたよ。連絡してあげましょうか」
A社長「ありがとうございます。お願いします。助かります」
こんな風に話が始まる。いつも本音で話をする。困った時は相談出来る場所にもなっていて、みなさんの近況が分かるようになっている。今回は全員が忙しいような話しぶりである。世の中が少し上向いて来ているような感じがした。
ぎりぎりで到着した人も揃い、夕食となった。宴会場はただっ広い。30人も入れそうな畳の間である。少人数では申し訳ないと思いつつも、いつもこの部屋を使わせてくれる。料理も最高で、値段を聞くと驚くしかない安さである。一人ずつの近況報告を終えた頃には飲み物がドンドン運ばれてくる。全員がよく飲み、よく食べ、よくしゃべる。いいだけ飲み食いしたあとはカラオケへ流れ、部屋で二次会となり、部屋に戻ったのは12時である。
翌朝は横浜で9時に用事があったので朝食も摂らずに出発したのだが、どこで寝ているのか大きなイビキが2ヵ所から聞こえてきた。朝から一人で笑ってしまった。ちょっとした渋滞に嵌まりながらもノリノリで帰ってきた。マイケルを聴いていたことは勿論である。
                                 (平成29年作)

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冬夕焼

犬連れてセーヌの河畔冬夕焼



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ポーラ美術館で私がいつも期待するのはラウル・デュフィの「ドーヴィルの競馬場」である。10年以上も前に見た作品であるが、これが忘れられず何度となく足を運んでいるが未だ出会えたためしがない。美術館所蔵の作品のようなのでタイミングが良ければ見られるはずだと信じての10年である。今回もまた期待したが、違うデュフィの作品が飾られていた。(平成26年7月7日、ひこばえ「万愚節」参照)
平日なので空いていた。音声ガイドを聴きながら、ゆっくりと回ることが出来た。印象派の作品といっても画風はそれぞれである。作品を見ながら、作者の姿を思い描く。風景画ならその風景の前に立つ姿を思い、描いている様子を想像する。<なぜこの場所を選び、この構図にしたのだろう?>。<一気に描いたのだろうか、少しずつ描いて行ったのだろうか>などと考える。<よくもまあ、こんなに細かく描いたものだ>と驚き、<この人はこの太陽の美しさに心奪われたに違いない>などと考える。<なぜこのように描いたのだろう?>と考え、その画家の天才性に近づく時もある。私なりに納得出来た時はとても嬉しく感じるものである。
写真はアンリ・ルソー(1844~1910)の作品である。ルソーの作品は熱帯のジャングルを描いたものが有名である。シダに覆われたジャングルの中に動物を配し、樹木や草花の葉っぱ一枚一枚を丹念に描く作風である。原色を配した色使いは漫画チックで面白い。昔その作風を真似ていろいろと描いてみたことがあったくらいである。
作品は「エッフェル塔とトロカデロ宮殿の眺望」と題されていた。オレンジ色に染まったパリの夕景が美しく、橋の下の太い輪郭線が印象的な作品である。ブログに載せる写真ならこの一枚と思った作品である。

<同じ空を見上げても選ぶ色は人それぞれ。芸術に正解はない>
<いま目の前にあるものが輝いて見えるのは、自分自身が輝こうとしている証>
<10年前に見た名画。今日また新しい魅力を見つけた。時間と経験は感覚をかえるもの>
<何を思い何を感じるのかを知ること、それが自分と向き合う時間>
これはポーラ美術館オフィシャルサイトのプロモーションビデオに流れていた文章である。「上手いことを書くものだなぁ」と感心しながら読んだものである。
                                 (平成29年作)

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冬来る

やはらかにムーミン谷に冬が来る



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ススキ原を出て「ポーラ美術館」に向かった。箱根に来た時は必ずと言っていいほど立ち寄る場所である。ちょうど開館15周年記念「100点の名画でめぐる100年の旅」という企画が開催されていた。
入ってすぐの場所に「この展示室では作品を撮影することができます」と表示されていた。<写真撮影お断り>のはずが、どうして許可しているのだろう?俄かには信じられない気がした。誰かが実際に写しているかどうかを確かめてみた。すると確かに写している。係員が横にいて写しているので本当のようである。ちょっと驚いた。先日、ダ・ヴィンチ展で模型を撮影可にしていたのを思い出したが、あれは最近になって造った作品だからである。今回はなぜ写していいことになっているのかが知りたかった。
私「スミマセン、ちょっとお尋ねしますが、作品の写真を撮ってもいいというのは本当でしょうか?」
係員「ハイ、大丈夫です。しかし、中には撮影をお遠慮いただいている作品もございます。撮影不可の表示がされていますのでご協力お願いいたします」
私「撮影が出来る出来ないはどうやって分けているのですか?」
係員「著作権の関係でお分けしています。美術館所有の作品は原則撮影可としております」
<おっ、出た、著作権!>と思った。<ここでまた著作権か!>と驚いた。実は数日前にちょっとした出来事があり、著作権のことが話題になったばかりなのである。

5年程前、家族で台湾を旅行した。その時私が用意したのがムーミンに登場する「ミー」の絵である(写真)。台湾語の分からない私でも食事を終えた時くらいは店員に感謝の言葉を伝えたい。コースターや紙ナプキンなどにその場でこの絵を描き、「謝謝(シェシェ)好吃(ハオチー)」を書き添えた。「ありがとう、美味しかったよ」の意味である。どの店でもとても喜んでくれた。そんなことからこの「ミー」の絵だけはスラスラ描けるようになっているのである。
先日、忘年会のチラシを作るというので私がこの「ミー」を描いて渡したところ、印刷屋の社長からクレームがついた。社長とは30年来の友人である。
社長「日向さん、これはマズイですよ。一部の人だけに配るチラシだといっても堂々と印刷までする訳ですから、外した方がいいですよ」
私「そんなに目クジラを立てるほどのことでもないでしょ、私がサッサッと適当に描いただけの絵ですよ(笑)」
社長「いえいえ、これには著作権というものが問題になってきます。慎重にいかないと、何か起きてからではマズイですから(笑)」
私「著作権とはまた難しいことを言って来たねぇ(笑)。どう転んでもムーミンの会社が私に文句を言ってくるとは思えないけど……」
                                 (平成29年作)

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芒野

芒野に亡き師と似たる後ろ影



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車はススキ原の手前の駐車場に停めた。離れていたので結構歩かされた。と言ってもマイケルでノリノリなので何ということはない。聴いたばかりのメロディーが歩調を速くしてくれる。スイスイと人を追い抜きながら歩いて行った。
記憶のある場所に到着した。ススキ原の入口である。
「あれから何年経っただろう?あれ以来、一度も来ていない」

あれからとは浜風句会の皆さんと吟行に出掛け、娘達とばったり出会ったあの時からである。「なっちゃんが今10才で、あの時は確か2才だったはずだから……」などと計算していた。平成20年10月の出来事なので9年前ということになる。道川虹洋先生と出掛けた吟行の一泊旅行。総勢17名。大涌谷を見学したあと、ケーブルカーで桃源台駅に行き、そこからバスに乗り込んでススキ原に向かっていた。片や、なっちゃんを連れての初旅行に出掛けた娘夫婦。箱根の森美術館で遊んだあと、ススキ原に向かっていた。期せずして同じ日に同じ箱根を選ぶことになったのだが、まさか広い箱根の中で出会えるとは思っていない。バスの中でメールを見ると「今、ススキ原に着いたよ」の文字。
<おお、こんなことがあるのだろうか>
神様が仕組んだイタズラかと思った。ススキ原の真ん中の広場になったような場所で出会った。
「えっ!なっちゃん?」
「どうしてここにいるの?」
「2年前のあの句会の時に生まれたなっちゃん?」
句会の皆さんに囲まれて、なっちゃんは天使のように華やかだった。とても感動的な瞬間だったことを昨日のことのように思い出す。あの時と同じ道を歩きながら思い出していた。
あれから9年経ち、先生も亡くなり、句会も辞めてしまった。「失って気付く大切な物」という言い方があるが、本当に道川先生に師事した15年間は私にとって大切な時間だったのである。
<もっと真剣に勉強しておくのだった>
<もっとたくさん教えてもらうのだった>
<もっとたくさん話をしておくのだった>
道を歩きながら涙が溢れてくるのをどうすることも出来なかった。マイケルでノリノリだった私が、その30分後にはススキ原の中で泣いているのだから情緒不安定と言われても仕方ない(笑)。
(注)前回の記事は平成25年11月2日、ひこばえ「芒」に書かれている。
                                 (平成29年作)

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冷まじ

冷まじや序奏に物の割るる音



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業界の集まり「鋼製家具懇話会」の忘年会に出席するため箱根に車で向かった。途中、立ち寄った東名高速のパーキングエリアにDVDやCDの安売りコーナーがあった。500円と大書きされている。
「随分安いなぁ。バッタものだろうか?」
見てみると中には高いものもある。
「全部が500円という訳じゃないんだ!」
「500円はこちらです」
係の男性が指を差す。興味があるのは演歌の類いだが、それは500円ではない。定価のような物まである。誇大広告のようにも思ったが、文句を言うような場面でもない。500円コーナーは外国のCDばかりである。「これじゃ、選びようがないなぁ」と思ったが、その中に知っている名前があった。マイケル・ジャクソンである。あとはあまり知らない。どうせ車の中で聴くだけなので、何でもいいと思った。知らない人の物を買うというのは冒険である。冒険するタイプではないのでマイケル・ジャクソンを買うことにした。

車の中というのは一人で音楽を聴くにはちょうど良い空間である。誰に気遣うこともなく、ボリュームを目一杯に上げられる。高速を走りながら、マイケルの「DANGEROUS」を聴き始めた(写真)。初めに茶碗が割れる音がした。
「ガチャーン」
「何だろう?……」
仙石原のススキ原に着いて、このCDジャケットやススキ原の写真を送りながらの娘とのメールのやり取りである。
私「車中、シビれたよ!!」
娘「箱根までマイケルとはカッコいい!!」
私「マイケルは最高だよ!!」
娘「ワムもいいよね」
私「もちろんだよ」
娘「天気はあまり良くなさそうだね」
私「たとえ雨でもマイケルでノリノリだよ」
娘「マイケルモチベーション、凄いなぁ(笑)。何という曲が良かったの?」
私「Why You Wanna Trip On Me(なぜ僕なんかに構ってるんだい)」

(注)「ワム」とはイギリスの音楽グループの名前である。代表曲「ラストクリスマス」が私のお気に入りということになっている。
                                 (平成29年作)

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鈴懸の実

訃に接し来て鈴懸の実を拾ふ



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はしだのりひことシューベルツの「風」の思い出は高校時代に遡る。北海道歌志内市中村の実家から一人で旅に出た。一人旅といっても大袈裟なものではなく、歌志内、赤平、滝川、砂川を一回り歩いてみようとしただけのことである。しかも全てを歩ける距離でもなく、途中でバスに乗ることになるだろうと小銭を持って出掛けたのだった。記憶は定かではなく、滝川まで歩いてそこからバスで帰ってきたと思う。赤平からの道の途中に滝川の町が一望できる峠のような場所があった。50年近く経とうというのに、その時に見た光景がいまだ忘れられないでいる。その時に口ずさんでいたのが「風」である。あれ以来、この曲を聴くたびにあの滝川の町の風景が目に浮かび、高校時代を思い出すのである。

カズ君がプラタナスの実を拾ったのは富岡総合公園だという。日曜日で天気も良かったので車で出掛けてみることにした。家から10分も掛からない距離である。公園の横の道を下ると大きなプラタナスの木が見えてきた。犬を遊ばせている人がいたが、すぐにどこかへ行ってくれた。犬の放し飼いは苦手である。木の下に行き、青空に伸びる枝の写真を撮ってみたがイマイチ気に入らない。実が小さすぎてプラタナスの木だとよく分からないのだ。それではと落ちている実を探したが、カズ君が持ってきたような枝付きのものなどは見当たらない。あの日は台風のような大風の日のあとだったので枝ごと落ちていたのである。実を一つずつ拾い集めて枯葉と共に写してみた(写真)。「風」を口ずさみながら、はしだのりひこさんの死を思い、公園を少し歩いてみた。まだまだと思いながらも、確実に年を取っている自分がいた。
(注)そのあとそのすぐ傍にある直木三十五の旧居を訪ねてみたのだが、そのことは後日書くことにしよう。
箱根に出掛けてきた時の記事が出来ているのでそれを先に載せることにする。
                                 (平成29年作)

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日向ぼこ

ひとりづつ人に死は来る日向ぼこ



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先日、孫のカズ君がどこかの公園で木の実を拾ってきた。
娘「何だろう、これ?」
私「あれだよ、あれ……」
娘「あれって?」
私「灰田勝彦の……何たっけかなぁ」
娘「誰よ、それ?」
私「何の道と言ったっけなぁ……すぐに思い出せなくなってしまった(笑)」
娘「……」
私「あっ、鈴懸の径だ。そうそう、すずかけ、鈴懸の実だよ、これは」
娘「すずかけ?」
頭にイメージが浮かんでも、すぐに言葉が出てこなくなってしまった。老化現象の始まりのようでもあり、少し焦ってしまう。

12月3日(日)朝、新聞にはしだのりひこさんの訃報が載っていた(写真)。72才だという。私が高校生だった頃のヒット曲はしだのりひことシューベルツの「風」は忘れられない思い出の曲である。歌詞の2番目にこれが出てくる。
『プラタナスの枯葉舞う冬の道で
プラタナスの散る音に振り返る
帰っておいでよと振り返っても
そこにはただ風が吹いているだけ
人は誰も恋をした切なさに
人は誰も耐えきれず振り返る』
プラタナスがここでいう「鈴懸の木」のことである。
                                 (平成29年作)

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冬の雨

冬の雨げにこよなくも堪えがたし



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しばらくして上中里団地にある床屋に出掛けてきた。もう35年近くも通っている。横浜に来て以来の付き合いである。日曜日の朝、電話をすると「今からでもいいですよ」という。予約が入っていないようだ。珍しいこともあるものだ。ザンザ降りの雨に客足が向かないのかも知れない。店に入るとすぐに一番手前の椅子に腰掛ける。35年でその椅子以外に座った記憶がないと言う位、決まった席である。時候の挨拶もそこそこに信用金庫の担当者の話になり、カークラブの話になった。
「カークラブはもう無いんじゃないかなぁ。年寄りが多くなったし、今の若い人達もあまり車に乗らないみたいだから駐車場も昔のようにはいらなくなったと聞いています。借りていた土地も返したはずですよ」と言う。
そんなものだろうか。100台以上はあったはずである。如何に高齢化が進んだとはいえ全部を返すとは思えない。散髪を終えて外に出ると少し小降りになっていたので、カークラブが借りていた駐車場を見に行くことにした。興味半分、郷愁半分である。住んでいた31棟の前を通り、私を呼び出して文句を言った会長の棟の脇を通った。まだ住んでいるだろうか?ポストの名前を確認するとまだ表札が出ていた。あれから20年である。「フゥー」と溜め息が出た。
団地の駐車場は昔と変わりなく見えた。その奥にカークラブ駐車場があるはずである。行ってみるとそこに車はなく、ただの空き地になっていた。車止めだけが残っていて、容赦なく雨がコンクリートを打ちつけていた(写真)。本当に返却したようである。柵越しに駐車場を眺めながら昔を思い出していた。傘を打つ雨音を聞きながら、ヴェルレーヌの詩を思い出していた。

巷に雨の降るごとく
われの心に涙ふる
かくも心ににじみ入る
この悲しみは何ならん

やるせなき心のために
おお、雨の歌よ
やさしき雨の響きは
地上にも屋上にも

消えも入りなん心の奥に
ゆえなきに雨は涙す
何事ぞ、裏切りもなきにあらずや
この喪そのゆえの知られず

ゆえ知れぬ悲しみぞ
げにこよなくも堪え難し
恋もなく恨みもなきに
わが心かくも悲し
                                 (平成29年作)

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夜廻り

一人まだ来ず夜廻りの始まらぬ



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信用金庫の担当者が変わった。年齢29才。イケメンである。住まいを聞くと上中里団地だと言う。
私「えっ!何棟?」
担当「38棟です」
私「おおー、俺が住んでいたのが31棟だから、すぐ隣だよ」
担当「何時ごろまでいらっしゃったのですか?」
私「もう20年位前かなぁ。今でも、あそこの床屋さんにはお世話になっている(笑)」
担当「私も子供の頃は刈ってもらっていました。今は違う所に行ってます(笑)」
それからしばらく団地の話になった。
私「今でもカークラブはあるの?」
担当「カークラブって何ですか?知りません」
私「あっそう、知らないんだ」

団地に住んでいた頃、カークラブの当番が回ってきた。棟の代表で出て行ったのだが、運悪くクジ引きで副会長の役を当ててしまった。これが当ると翌年は会長をやらなければならないというルールである。面倒なことになったと悔やんだがクジだから諦めるしかない。
カークラブとは団地内の敷地に置き切れない車を周囲の地主から借りた土地に置かせるための管理団体である。1年目は良かった。何もすることがない。定期的に集まり、たまに夜回りなどする位なものである。集まるとすぐに飲み会が始まった。その時の会長だった島さんが「たまにはいいでしょう」と言うものだから、集会所でビールなどを飲んでいたが、そのうちにいい所に行きたくなる。「たまには外で一杯行きましょうか?」ということで居酒屋に行き、焼肉屋に行き、スナックに行くようになる。人間、悪い人はいないが、呑兵衛はいるものである(笑)。
2年目に会長職が回ってきた。カークラブにはいろいろな仕事がある。会費の徴収、督促、クレーム、車の出し入れ、車庫証明の発行、現金管理などである。すべて妻にお願いした。私は働いているのだからお願いするしかない。
妻の苦労は相当なものだったと思う。会長の私は毎月の集まりとたまに行う夜回り、そして飲み会である。いやに好きな人ばかりが揃ったもので、野室さん、佐藤さん、貝通丸さんなどの顔が今でも浮かぶ。島さんはいなかったが、1年前の飲み会の習慣だけは確実に受け継いでいた。
1年任期の会長職が終わり次の会長に引き継いだ。その会長からある夜、彼の自宅に呼び出された。何だろうと思って出掛けてみると会計の内容に問題があるという。
会長「日向さん、これは何ですか!随分といろんな所に行っていますね。使い過ぎですよ」
私「いや、調べてください。私の前の会長の時代よりは減らしたつもりです。みんな、それが楽しみで集まってくれたのですから、私になって急に止める訳にはいきませんよ。最初に立てた予算の範囲内で収まっているはずですから確認してください」
そういえば彼だけはいつも集まりのあとすぐに帰って行ったものである。飲む人から見ると詰まらない人に見えたが、彼から見れば我々はただの呑兵衛に見えたかも知れない。その後、どのように運営されたかは聞いていない。
                                 (平成29年作)

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