2017年06月の記事 - ひこばえ
background movie

ひこばえ


2017年06月の記事

青嵐

青あらし神事の前の馬騒ぐ



IMG_3605_convert_20170528172538.jpg



馬が6頭もいた。それぞれ鞍を付け、派手な房のようなものをぶら下げている。美しい。係の人に聞いてみた。
「立派な馬飾りですね。結構するのでしょうね?」
「一式70~80万円と聞いています」
「そんなにするんですか!一番高いのは鞍ですか?房ですか?」
「いやぁ、そこまでは分かりません」
「この馬達は笠懸とか流鏑馬とかがない時には何をやっているのですか?」
「???」
「これ専門ですか?」
「そうです」
もう少しまともな質問をすれば良かったものを、その後もどうでもいいようなことばかり聞いていたので煩がられてしまったようである。その人はすぐに馬から離れて行ってしまった。働いている人に飲みながらの質問は無礼千万、失礼も甚だしい。しかもほとんど知識のないことを聞くのでピントが外れている。

「道寸祭り」とは言うものの三浦道寸の命日ではない。道寸が新井城で自害したのは永生13年(1516年)7月11日(陽暦8月19日)である。三浦一族最後の当主として3年に亘る籠城戦を戦い抜き、いよいよ最期の時を迎える。
「武士の散り際は義明殿のように潔く死にたい。三年間の籠城の間、多くの苦難によく耐えてくれた。厚く礼を申す。落ちようと思う者あれば落ちよ。死せんと思う者は討ち死にして後世に名を留めよ。わしはたとえ一人ででも、この城で生涯を全うする覚悟だ。来世で又会おうぞ」
残った兵たちに最後の決意を語った道寸だが、ただの一人も逃げることなく全員が切腹して果てたという事実は道寸の人望が如何に高かったかを伝える話である。道寸65才、相対する北条早雲その時85才。生き長らえた方が勝つと信じての籠城戦だったが、叶わぬ夢となった。辞世の句を詠んでいる。
「討つ者も討たるる者も土器(かわらけ)よ砕けて後はもとの塊(つちくれ)」
道寸の無常観がさらりと表現されている。絶えず死と隣り合わせの武将の死生観が窺えると「砕けて後は、もとの土くれ」の作者は書いている。

笠懸を見学した。疾駆する馬上から小さな的を射抜いていく。見事なものである。そのあと観潮荘の露天風呂に入り、マグロ丼を食べて帰ってきた。レンタサイクルのムッシュかまやつに迎えられ自転車を返却したのが午後4時である。
「如何でしたか、初めての電動は?」
「最高でした。三浦半島の山坂も電動に掛かれば何ということもなかったですね」
「道寸祭りはどうでした?」
「良かったですよ。郷土の誇りです。もっともっと広くアピールしてもらいたいと思いました」
                                 (平成29年作)

にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村

スポンサーサイト

武具飾る

一族を称へ三浦の武具飾る



IMG_3580_convert_20170611172613.jpg



「引橋」の写真を撮りたかったが、下から木が伸びていてどうしても橋ということが伝わらない写真になってしまう。下を覗くと随分な高さであるが、木は橋の高さまで届いている。水が流れているようでもないので自然に出来た断層であろうか。新井城の攻防で重要な役割を果たした場所なのでしっかり見たい所であったが先を急がなければならない。帰りにもう一度通るはずなので、その時に見ることにした。
「道寸祭り」の会場に着くと、新井城址の見学の場所を教えられた。自転車を柵に固定し、急いでそちらへ向かった。目の前に「観潮荘」があった。昔、会社の行事でマグロの兜焼きを食べながら一杯やったことを思い出した。その先には油壺マリンパークがある。なっちゃんとイルカのショーを見に来たことがあった。まだ3才頃のことである。久し振りの油壺である。
「東京大学臨海実験所」の看板が出ていた。いつもは立入り禁止の場所である。その中に城址の遺跡か何かがあるのだろう。受付で記名した後、オレンジ色のジャンバーを来たガイドの周りに集合することになった。次から次と人が来るのですぐに10数名が集まり出発である。何を説明してくれるのだろう。道川先生と一緒に出掛けた吟行のことを思い出した。先生なら草花から歴史、遺跡の見方まで何でもござれだったので横で聞いているだけで利口になったのだが、そのような人には出会えまい。
少し奥に進むとテントが設置されていた。鎧兜を並べ実行委員とおぼしき人達が椅子に腰掛けていた(写真)。ガイドの男性は三浦一族の説明から始めていた。本で読んだばかりなので私にとってはお浚いである。奥の方へ歩きながらも、そのあたりの話をしていた。何を見せてくれるのだろうと期待したが、結局は城の周りにあった「空堀」を見ただけだった。もっと凄いものを期待していたので少し拍子抜けの感じがした。話も知ったこと以上のものではなかった。「まぁ、良しとしよう。そんなに凄いものが世の中にあるはずはない」と思うことにした。
道寸祭り会場は荒井浜である。着いた時はちょうど和太鼓の演奏中だった。係の人に聞くとメインの「笠懸」はまだまだ先とのこと。馬が走る場所に沿ってロープが張られ、すでに場所取りをしている人もいたが並んで待つほどのこともないだろう。ビールを飲むことにして注文すると見慣れないビールが出てきた。普通のビールは置いていないという。レモン水のような味で美味しくはなかったが他に無いというのだから仕方ない。飲みながらこれから「笠懸」を走る馬が繋がれている浜の外れに行ってみることにした。
                                 (平成29年作)

にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村

春惜しむ

産土に神鈴振りて春惜しむ



IMG_3553_convert_20170612213658.jpg



白旗神社へは10時を回って到着した。少し焦っていた。道寸祭りの始まりが11時だからといって焦っていたのではない。その日1日だけ一般公開される東京大学の敷地内にある荒井城跡の見学が午前中だけなので、それに遅れたくないと焦っていたのである。1年に一度だけと言われれば、何としても見たいと思う野次馬根性、スケベ根性である。
鳥居の横に自転車を停めて50段の石段(写真)を一気に上った。この神社は弘長3年(1262年)和田に住む村人たちが和田義盛の善政を偲んで建てたもので、義盛の銅製の肖像をご神体としているという。上るとすぐ目の前に本殿があるという狭い神社である。和田義盛について触れておこう。以下は中村豊郎著「砕けて後は、もとの土くれ(三浦一族鎮魂譜)」によるものである。

祖父義明は多くの子供や孫の中で特に義盛を寵愛し、武将としての教育を直々に授けた。弓の名手として高名で、竹を割ったようなさっぱりとした性格が気に入っていた。
「義盛はわしの若い頃にそっくりじゃ、将来が楽しみだ」
それが義明の口癖であった。義盛を三浦一族の後継者として嘱望していたのである。その期待に応えて平家追討や奥州討伐などで活躍し、幕府創立後は初代侍所の別当に就任した。建久元年(1190年)頼朝の上洛に際しては先陣の栄を賜り、頼朝の推挙により勲功の賞として左衛門尉に任じられている。これは頼朝の義盛への信頼の深さを如実に示すものである。
これほどの義盛が頼朝の死後、北条との争いに敗れていく。建保元年(1213年)義盛は兵150騎を率いて北条義時と重臣大江広元の屋敷を急襲し、鎌倉で2日間に及ぶ市街戦を行うが、将軍源実朝の名による「御教書」で反幕府軍とされ大敗を喫することとなる。享年67才。「建保の乱」「和田合戦」などと呼ばれるが、ここに和田一族は滅亡する。

大急ぎでお参りし、すぐに交差点「和田」の近くにある和田義盛旧里碑へと向かった。そこは義盛の館があった場所である。本拠地だった場所だが今は小さな公園のようになっていて当時の面影は何もない。そこも大急ぎで見て「引橋」へと向かった。時間があまりない。電動自転車にはだいぶ慣れてきたが、車道の脇の白線の細さには一向に慣れない。大型のバスやダンプカーが横を走ると生きた心地がしない。渋滞しがちな車の列を追い越しながら「引橋」に到達した時はホッとしたものだが、時間はすでに11時になろうとしていた。
                                 (平成29年作)

にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村

夏川

夏川を越え農道にペダル漕ぐ



IMG_3547_convert_20170528172418.jpg



来福寺を出て白旗神社へ向かった。ここも和田義盛を祀る神社である。一応地図は持っていたがそれほど詳しいものではない。地図よりも頼りになるのが「三浦半島の史跡みち」という本である。作者の手書きの地図が書かれていて説明文もあるので今回の旅ではとても役に立ったのである。しかし、来福寺を出て走った道は畑の中である。右にも左にも行ける道ばかりで、目指す白旗神社へは近づいているのかどうかさえ分からなくなってしまった。途中、畑仕事をしている人がいたので聞いてみることにした。
「すみません、ちょっと道を教えてもらいたいのですが……」
「……」
「白旗神社に行きたいのですが……」
「……」
最初、何も言わないで近づいてくるので声を掛けたことに怒っているのかと思った。70才位の男性である。ムッとしているようにも見えたが、そうでもないらしい。地図を見て、どう説明しようか迷っているようである。ようやく行く方向を指で差し示してくれたが、どこをどう曲るかとなると口では言いづらいらしい。
「あぁ……うぅ……」
唸りながら私の地図の上に指を置いたが、その瞬間ボタボタとその上に顔の汗を落とした。慌てて拭おうとするが、手が汚れているので却って酷いことになる。
「大丈夫です。自転車屋でもらってきた地図ですから気にしないでください……」
三浦の人は口が重いのかも知れない。分かったような分からないような道案内にお礼を言いながらも、その人が言った「大き目の碑が立った曲がり角を曲る」を目指して自転車を進めることにした。スマホでナビが使えるはずだが、使い方を知らないのでこういうことになるのである。今度、教えてもらうことにしよう。
結局は男性に教えてもらった通りの道を走り、迷うことなく白旗神社に辿り着いたのだから感謝するばかりである。それにしても農道というのは分かりづらい。
                                 (平成29年作)

にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村

畑打ち

畑打つて一族の血を今に継ぐ



IMG_3542_convert_20170528172350.jpg



走り始めてすぐに迷ったのが「自転車は車道か歩道か」である。もちろん車道だとは分かっているが、車道に書かれた自転車用の白線が如何にも細くて頼りない。少しふらついただけで車に巻き込まれそうである。最初の目的地である「来福寺」までは三浦海岸駅からずっと上り坂で、しかも結構な急坂である。初めのうちは歩道を走っていたが、デコボコが多すぎて走りづらく車道の方が安全だと分かる。一気の上りを後ろの車を気遣いながらも上り切った。さすがに電動自転車は力があり、1日2600円の価値はあると実感した。
「来福寺」(写真)は和田義盛を祀っている。和田義盛は三浦義明の早逝した嫡男の子、すなわち義明の孫に当る。この一帯を和田というのは和田義盛の領地だったからである。これだけの坂を上って来たのだから山の上かと思いきや、一旦下って盆地のような場所に造られていた。とても厳かな雰囲気を感じた。
私がその日訪ねることを知って待っていてくれた人がいた。三浦市南下浦町上宮田に住む会社の松原さん(67才)である。私が訪ねたのが9時20分頃で、松原さんが寺の境内で待っていてくれたのが8時半から9時頃までだという。すれ違いである。
「社長のことだから早い時間に来るのだろうと思って散歩がてら待っていたのですが、来ないので諦めました(笑)」とは翌月曜日の会話である。「三浦のことならこの人」とばかりにいろいろ話していたので自転車で回ることも話していたのだが、まさか来福寺で待っていてくれたとは知らなかったので悪いことをしたものである。
松原さんとは会社に入社以来なので30年以上の付き合いになる。ずっと上宮田の人なので地元の歴史などには詳しい。
「松原さんの先祖も三浦一族じゃないですか?」と聞いたことがあった。
「まさか、そんなことはないでしょう」と笑うばかりである。
しかし先日インターネットで見ていたところ、たまたまヒットしたのである。「上宮田の豪族、松原新左衛門」と出たのである。「上宮田の松原!これは間違いない!」すぐに大喜びしたくなる私なのである。
「松原さん!凄いのを見つけましたよ。松原さんのご両親も三浦の人ですよね?」
「そう、ずっと三浦に住んでいると聞いているけど……」
「これを見てくださいよ。永禄10年、西暦1567年といいますから、関ケ原の前のことですよ。手柄を立てて士分に取り立てられたと書かれています。間違いなく、松原さんの先祖ですよ。十劫寺という寺を知っていますか?」
「ああ、家のすぐ近くです」
「そこに松原新左衛門に関するものがあるようです。間違いなく松原さんのルーツですよ。ロマンだなぁ」
勝手に決め込んで一人で盛り上がっているのは私の方で、当の松原さんは「今度の休みにでも行って調べてきます」と至って冷静に笑っているばかりである。
                                (平成29年作)

にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村

アロハ着る

アロハ着て貸自転車屋の主



IMG_3540_convert_20170528194808.jpg



5月28日(日)三浦市油壺の荒井浜で行われる「道寸祭り」は三浦一族の最後の当主三浦道寸の祭なので必見である。いつもは立入禁止になっている新井城址の一部もその日だけは公開されるというので何日も前から楽しみにしていた。何で行こうかと考えた。電車とバスという手もあるが、それでは他に見たい所を回ることが出来ない。車で行けば渋滞にはまる。そこで考えたのがレンタサイクルである。今は電動自転車もあるので、あちこち見て回るにはいいかも知れないと思った。早速、レンタルショップを探した。三浦海岸にあった(写真)。お店のホームページを見ると自転車にもいろいろな種類があって事前に選ぶようになっている。日頃、電動自転車に乗っている娘に聞くと「普通のアシスト付でいいんじゃない?」と言う。アシストとは何かが分からないままホームページに入力して申し込んだ。しかし、すぐには返信がない。見てくれたのかどうかも分からない。待っていても仕方ないので翌日直接電話をすることにした。女性が出た。「すぐに申込内容を確認します」ということになり手続きをしてもらった。メールで返信も来た。
「ご連絡が遅くなりましたことをお詫び申し上げます。以下の内容で予約を承りました。当日はよろしくお願いいたします。楽しいサイクリングになりますように」
担当者は女性のようである。いい感じである。

当日は朝8時に杉田駅を出発し、京浜急行で8時45分には三浦海岸駅に到着していた。9時の予約である。メールをくれた女性はどの人だろうと思いながら、店に入った。
「お早うございます。予約してあります日向です」
「お早うございます。少々お待ちください」
2組ほどの先客がいて対応中である。少し待っていた。
「お待たせしました。こちらへどうぞ」
対応に出たのは女性ではなく男性だった。アロハシャツを着たムッシュかまやつ似の男性である。店主かも知れない。名簿を見て内容の確認をして代金支払を済ませた後、自転車の方へと案内された。
「電動は初めてですか?」
「はい」
「始めに使い方を説明しますから、まず乗ってみてください」
「こうですか?」
またがって少し走ってみた。ビューン。
「あっ、危ない!お客さん、ちょっと待って」
サドルの高さも調節せず、ふらつきながら走り出したので慌てたようである。それから10分ほど使い方の説明などを受け出発することになった。久し振りのサイクリングである。ムッシュかまやつが見送ってくれた。
                                 (平成29年作)

にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村

夏潮

夏潮の底を浚ひて地引網



IMG_3405_convert_20170606051350.jpg



5月14日(日)辻堂海岸で行われた地引網に参加してきた。主催は倫理法人会である。当然連れていったのは魚博士のカズ君(4才)であるが、地引網というものを知らないので一向に盛り上がって来ない。そこでスマホで動画を見せたところ食いついてきた。
「スゲー、たくさん入っている。あっ、シマダイだ。サメもいる。タコもいる。ウツボもいるかも知れない……」
一気にヒートアップした。こんなに期待させて大丈夫だろうかと思うほどの盛り上がりである。私自身がやったことがないので、本当に獲れるものなのかどうか分からない。当日の天候は晴れ。絶好の行楽日和である。バケツ、熊手、サンダル、着替えと準備万端で出発した。
海岸に着くと大きなテントがいくつも張られていて知った顔がたくさん集まっていた。家族連れが多い。奥さんや子供さんが大勢来ている。受付を済ませるとすぐにビールである。いやはや、これは楽しい。毎年恒例になっているという意味がよく分かった。天気はいいが波が荒いようである。午前に2回、船を出す予定だったが1回目は中止となった。「えー!こんなに天気が良いのに……」
地引網は漁船が底引き網で漁に出て、その網を砂浜から引き揚げるのだという。なるほど、ようやく仕組みが分かった。それなら大漁もあるだろう。思わぬ魚も入っているかも知れない。待つこと2時間、ようやく船が出た。波打ち際で舳先を天に向けるほどの荒波である。沖に漕ぎ出せばそれほどでもないのだが、荒波に漕ぎ出す漁師とは大変な仕事である。しばらくして船が戻ってきた。いよいよ地引網スタートである。2本の綱を手繰り寄せていく(写真)。カズ君も一生懸命である。あんなに働く姿を見たことがない。やる気満々である。しかし、引き揚げた結果はサッパリで、見るべきもの無しという結果である。あちこちで溜め息が漏れるが、これだけは誰かを責めるという訳にもいかない。
途中に抽選会があった。受付でもらった番号札のクジ引きである。こちらは缶ビール1ケースが当りカズ君も大喜びである。しばらくして予定していなかった2回目の船が出た。今度は大漁である。様々な魚が獲れていて網を囲んで子供たちは大はしゃぎである。イワシが山のように獲れていた。子供たちが手掴みでもらってくる。カズ君も山盛りにもらってきてバケツに入れた。
「よし、フライだ。帰ったらフライにして食うぞー」
いやぁー、その揚げ立ての美味いこと。カズ君も食うわ、食うわ。「まるでウツボの如し」とは少し前のブログに書いたばかりだが、ここでもまたそう書かずにはいられないほどの食欲である(笑)。
                                 (平成29年作)

にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村

竹散る

竹散るや武士は主君のために死す



IMG_3250_convert_20170508053447.jpg



「三浦一族の衣笠城には、一族の大祖父と仰ぐ八十九歳の大介義明も立て籠っていたが、砦の運命も、早これまでと迫った日、子や孫を集めていうには、
(古巣の城は焼け落ちてしまう。かえってお前たちの為だ。広い世の中へ、各々、力いっぱいの巣立ちをせよ。―――この義明は、累代源氏の御家人と生れ、八十余歳まで生きのびた効いあって、今、佐殿の旗挙げを見た欣しさ。
……これで死んでもいい。落城の火の粉は、孫や子たちの出世の種蒔じゃ。こんなよい往生があるものか)
そして、去りがての孫や子たちが、落ちてゆくのを見届けてから、八十九歳の老将は、華々しく戦死した」
(吉川英治著「源頼朝」より)

大善寺を出て車で5分ほどの「満昌寺」(横須賀市大矢部)へ向かった。この寺は建久5年(1194年)源頼朝が三浦大介義明追善のために創建したものである。
治承4年(1180年)の源頼朝の挙兵に三浦一族が果たした役割は大きい。「平家の世はもう長くはありません。起つなら今でございます、佐殿」と決起を促したのは都帰りに伊豆へ立ち寄った三浦義澄(義明の次男)と千葉胤頼である。「頼朝の決心が最終的に決まったのは実にこの時ではないかと想像している」と永井路子氏は「源頼朝の世界」の中に書いている。伊豆の目代山木兼隆を襲い、三浦の本拠地に近い鎌倉を目指すという作戦。大庭景親を総大将とする平家側と石橋山で対決し惨敗を喫するが、すぐさま千葉へと移り再起を図り鎌倉入りを果たす。全ては三浦一族なしでは出来なかった快挙である。衣笠合戦で命を落とした三浦義明に対する頼朝の思いがどれほどのものであったかは想像するまでもないことである。鎌倉政権樹立の立役者なのである。

境内には「頼朝公お手植えの躑躅」が植えられていた。御開帳の寺ではあるが、朝が早すぎて誰も見当たらない。勝手に門から境内へと進み、本堂にお参りさせてもらい、左手奥にある義明公の御廟の方へと向かった。簡易的な門扉を開いて進むと、「羅漢さんの庭」なる看板が立てられていた。廟所に至る石段の横に33体の羅漢像が並べられていて、「皆さまと似た顔があるかもしれません」などと書かれている。「いろんな物を作るもんだなぁ」と思いながら石段を上っていった。御廟は崖の斜面に造られているように見えた。写真を撮ろうとしても後ろは崖になっていて下がることさえ出来ない。墓を囲む塀は立派なものだが、如何せん狭さを感じた。背後の山に植えられた竹から頻りに落葉が降っていた。立役者の墓にしてはと思ったが、前日に見た頼朝の墓を思い出し、墓は大小ではないと思い直すことにした。まずは深くお参りし、心に刻んで石段を下りてきた。そのあと、近くの史跡を見て回ったがそれほどのものではない。私のゴールデンウィークは実にこの2日間で終わったようなものである。
                                 (平成29年作)

にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村

山若葉

山若葉絶えず水湧くひとところ



IMG_3237_convert_20170508053358.jpg



それから話が始まった。まずは上り坂のことである。
「元々はあんなに急でなかったんですよ。舗装工事をした時に土を盛ったようで、傾斜が急にきつくなりました。車で来た人はとにかく驚きます(笑)。衣笠城址の看板も分かりづらかったですか?昔は坂の上り口に大きな看板があったのですが……」
「城址には行ってきましたか?今あそこは公園とはいうものの、誰も管理する人がいなくなったので木も伸びっぱなしの状態です。昔は柴を刈って横須賀に売りに行く人がいましたから、枝を落としたり、伸びた木を切ったりとそれなりに手入れもしていたんです。桜の木も小さくなりました。周りの木が伸びて桜が枯れるんです。まだ少しは残っていますが昔に比べると寂しい限りです。物見岩に上っても何も見えなかったでしょう。昔は見晴らしがよく、下の道路や民家の屋根が見えたんです。今では想像も出来ません。周りの木もそうですが、孟宗竹なんかを伸ばしっぱなしにするから何も見えなくなるんです」
「不動井戸は見ましたか?まだですか。それではこちらへどうぞ」
<ワー、うれしい、ラッキー!>という感じである。寺を見たり、城跡を見たりしても一人では素通りと同じである。こんなにいろいろと教えてもらえることは少ない。女性の話は続く。
「昔からある井戸です。私が子供の頃はこの井戸の水が溢れ出していつも小さな流れを作っていました。そこにホタルが来て、とてもきれいなものでした。今ではコンクリートにされてしまいましたのでホタルは来ません。この井戸はこんな山の上にあるのに涸れたことがありません。目の前の山の水であれば雨が降らないと涸れるはずですから違う所から湧く水でしょう。富士山の水か丹沢の水に違いないと言っています。この水は本当にきれいです。雨が降ると土砂が流れ込んで井戸も濁ってしまいますが、雨がしばらく降らないととてもきれいに澄んでいます。井戸の奥にお不動さんがいますよね(写真)。水が澄んだ時に夜、懐中電灯で照らすと本物のお不動さんと水に写ったお不動さんが見分けが付かないほどそっくりに見えます。とても神々しいですよ」
女性とは30分以上も話しただろうか。いろいろと教えてもらった。まだまだ聞きたいことがあったのだが、向かいの若奥さんがゴミを捨てに出てきてそちらと話が始まってしまった。私との話を中断することになって若奥さんは恐縮していたが、なにやら込み入った話のようだったのでお礼を言って立ち去ることにした。お寺の駐車場から車を出してゆっくりと下りて行くと竹箒を持ったまま見送ってくれた。とてもいい人である。感謝、感謝である。
                                 (平成29年作)
にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村

著莪咲く

著莪咲いて谷の深さのほの見ゆる



IMG_3228_convert_20170528173214.jpg



城跡公園を下り大善寺をお参りし、その下にある「旗立岩」というものを見に行った。民家の庭のようにも見えるが、立入禁止の札が立っている訳ではない。ガイドブックにも載るほどの物なので咎められることはないだろう。その家の車庫に入って岩の下まで進んだ。岩の上に小さな祠があるのが見える(写真)。上ることは出来るのだろうかと思って見ると、岩の回りに道があることに気付く。進んでいくと道はグルッと回っていて頂上に上がって行けるようになっていた。道の左手は崖である。辛うじて柵がされているが、落ちたら大怪我である。シャガの花が美しい。道に沿って植えられ、崖の下にまで続いているようである。足元に気を付けながら上って頂上に立った。いい眺めである。他人の家の庭に入って「いい眺めだ!」などと言っているのも気が引けるが、昔ここに三浦軍が旗を立てたのだと思うとまずまずの気持ちである。祠は小さなものだったが、立派な作りをしていた。手の込んだ作りで屋根も据えられ、職人技でしっかりと作られたものであることが分かった。所々に錆びついた個所もあるが、鍵などが掛けられ今も大切にされているのが見て取れる。三浦一族の家紋「丸に三つ引き」が彫られている。写真を撮って下に降りてきた。
道路に出ると家の周りを竹箒で掃いている女性に出会った。年の頃、70代前半と見えた。声を掛けさせてもらった。
「お早うございます。岩の上の祠は立派なものですね」
「ありがとうございます。あれは昭和30年に近所の銅工屋さんが作ったものなんです。その前にはあそこには何もなかったんです。穴は開いていたと思うんですが、誰も掘ろうなんていう人はいません。ある時、そこから骨が出たんです。盃と一緒に人の骨が出たので、みんな大騒ぎになりました。あんな場所に骨を入れておくのは名のある人のものに違いないということになり、大介(おおすけ)のものだということになりました。本当のところは分かりませんが、みんながそう言うのでそうだと言うことになったようです。それであの祠を作ってお祀りするようになったんです」
大介とは三浦一族の当主「三浦義明」のことである。
                                 (平成29年作)
にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村

夏雲

夏雲や山に物見の岩一つ



IMG_3211_convert_20170508053302.jpg



ゴールデンウィーク2日目。翌日は衣笠城を目指した。またまた早起きして渋滞のない道路を走り抜けた。順調に来て「衣笠城址前」という交差点の前で迷った。車を停め、持って行った「三浦半島の史跡みち」(鈴木かほる著)という本で位置を確かめた。この本はなかなかな物である。三浦半島じゅうの史跡を分かりやすく解説してくれている。
衣笠城址の近くに大善寺というお寺があるらしい。カーナビに入れて、その通りに走り出すと細い脇道を上り始めた。凄い坂道である。いきなり傾斜30度はあろうかという急勾配に差し掛かった。途中で力を緩めると落ちて行きそうである。踏ん張って上った。しばらく行くとまた急勾配である。本当にここだろうかと不安になった。しかし、まずは大善寺まで辿り着かなければならない。最後の傾斜を上り詰めてようやく寺の駐車場に到着した。運転の下手な私には朝っぱらからの試練である。少し汗を掻いた。さて、大善寺は分かったが衣笠城址はどこだろう?それらしい案内がない。キョロキョロしてようやく見つけたのがこの標識である(写真)。「分かりづら~い!」
大善寺の横の階段を上って衣笠城址へと向かった。城址なので何がある訳ではない。草が生い茂り、鳥の声が聞こえるばかりである。ベンチがあり、その前にマンガ入りの案内図が立てられていた。絵によるとそこは「衣笠城跡公園」と呼ばれているらしい。桜の花が描かれていたので、その季節には花見客で溢れるのかも知れない。「物見岩」と書かれ石の上に立つ女の子も描かれていたので、四方を見渡せる岩があるらしい。どれくらい上がるのだろうと思いながら上り始めたが、そこから1分もしない場所にあった。
「これっ?」
物見岩とは名ばかりで木々に囲まれて何も見えない。想像すら出来ない。木が伸びるのに任せてしまったようである。「衣笠城址」と書かれた石碑が立っているので辛うじてそれと分かるが、無ければ只の大きな岩である。三浦一族の本城。三浦大介義明が最期を遂げた城という割にはあまりに見る物がない状態になっていた。
「本当にここに城があったのだろうか?」
狐につままれたような面持ちで引き返すことになった。
                                 (平成29年作)
にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村

磯遊び

磯遊び四肢踏ん張つて覗きをり



IMG_3206_convert_20170508053234.jpg



娘と立石公園で待ち合わせ、秋谷漁港の隣にある岩場へと向かった。ここはもしかして立入禁止区域になっていたかも知れない。しかし以前は普通に入れた場所である。柵はあったが人が潜り抜けられるように穴が開き、ハシゴが掛けられていた。もちろん誰もいない。浜大根が咲き乱れ、静かに波が寄せたり引いたりしている。磯遊びには絶好の場所である。きっとそこに行けばカニや小魚、イソギンチャクなどで楽しめるはずと思ったのである。案の定、娘もカズ君も大喜びである。
「こんな場所があったなんて知らなかった!」と痛く気に入っている。誘った甲斐があったというものである。
カズ君は魚博士である。魚の図鑑だけでも数冊持っている。しかも、そこは知らなくてもいいだろうという「深海魚」「毒を持つ魚」が得意分野である。読めないはずの漢字を眺めて、なぜかそれを正しく読んでいく。魚の名前は如何に難しかろうとスラスラと読んでいく。興味を持つということの素晴らしさを4才児に教えられている。
岩場の入口に死んだウツボが打ち上げられていた。流されてきたものだろう。よくトビに攫われなかったものである。魚博士は大興奮である。
「ウツボだ!ウツボ、スゲェー!」(この頃、保育園でガラの悪い言葉づかいを覚えてきている)
棒を拾ってきて突いてみようとするが、歯を剥き出した顔はさすがに怖いようで「おーちゃん、やって」と言う。口の中に棒を突っ込んで持ち上げてみると「こっちに持ってこないで!」と怖がっている。意外と意気地がない。この「ウツボ」は魚博士お気に入りの魚ベスト3に入っている。あとの2つは「ダイオウイカ」と「ヌタウナギ」である。どこがいいのかは知らないが、いつも図鑑を食い入るように眺めている。
カズ君は靴を脱いでいきなり水の中に入り始めた(写真)。小魚を掬おうと迷いなく網を差し入れるので、まぐれで入ったりする。大喜びである。平和だった潮だまりが一瞬にして戦場のようになる。すぐにズボンはずぶ濡れである。片や、娘が捕まえたのが「ケブカガニ」である。娘もカズ君の影響でいろいろと詳しい。全身を茶色の毛で蔽われて、水の中ではカニには見えない。よく見つけたものである。二人で感心し合っている様子は「ケブカガニ」冥利に尽きるというものである。
ウミウシもいた。その横に黄色い中華麺そっくりのウミウシの卵もあった。なるほど、磯遊びとは面白いものである。図鑑持参で来たならば、さぞや佳い俳句が詠めるに違いないと思ったものである。
磯遊びのあとは立石公園の横のレストラン「ドン」に入った。食うわ食うわ、恐るべき4才児である。その大食いの様はウツボさながらである(笑)。
                                 (平成29年作)

にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村

御開帳

あの山もこの山もみな御開帳



IMG_3178_convert_20170506154934.jpg



鐙摺山を下りて駐車場に戻ったのが8時半だった。その日に回ろうとしていた場所を全て見終わった。ゴールデンウィーク第1日目の予定が朝8時半に終了してしまったのには我ながら笑ってしまった。娘にメールを入れた。
「カズ君を連れて葉山においでよ。海は静かで磯遊びが出来るよ」
「これから鎌倉??」
「もう、みんな見て来たよ」
「はやっ!」
「歴史は朝作られるんだよ」
「へぇ~」
そのあと海沿いの道を走って芦名城址へと向かった。三浦義明の弟三郎為清が築いた城である。走っているとその手前に「大開帳」の幟を立てている寺があった。「浄楽寺」(横須賀市芦名)である。寄ってみることにした。参拝客が数名いた。本殿にお参りし、裏の収蔵庫に回った。角塔婆が立てられ紅白の紐が建物の中へと伸びている(写真)。記帳をして拝観料を支払った。中央に金色に輝く阿弥陀如来像が据えられ、その両脇に観音菩薩、勢至菩薩、更にその横に不動明王と毘沙門天が立っている。国の重要文化財、運慶作である。これは凄いと思った。いい時に訪ねたと思った。その美しさにしばらく見惚れていた。
外に出ると向こうから慌てるようにしてお参りに来る自転車乗りの姿をした男性とすれ違った。結構な急ぎ足である。私が駐車場にいるとその人が戻って来て自転車に乗ろうとするので声を掛けた。
「随分と急いでますねぇ」
「まだ回らなければならないお寺がいっぱいあるので……」
「なんだって、そんなに急いでいるのですか?」
「今、ご朱印サイクルラリーっていうのをやっているんです。49のお寺を回るんですが、移動するだけでもいい加減、時間が掛かるので中をよく見ている余裕はないんです……」
「なるほど」
4月28日から5月28日まで三浦の二大霊場で132年に一度の同時大開帳が行なわれていた。三浦不動尊霊場(28か所)が12年に一度、三浦薬師如来霊場(21か所)が33年に一度開帳するのだが、それが今年重なったという。そこを自転車で回ってご朱印を集めているのである。
「これから憎っくき鎌倉に行ってきます(笑)」
別れ際、そう言いながら漕ぎ出して行った。熱烈な三浦一族ファンのようである。

家に帰って「浄楽寺」のことを調べてみて驚いた。見てきた阿弥陀如来像ほか5体の仏像は和田義盛が伊豆の北条時政の「願成就院」に対抗して運慶に作らせたものだという。
「おおっ、昨年のゴールデンウィークに訪ねたあの寺のことではないか!」
見る見るうちに記憶が蘇ってきた。国宝の仏像5体を見せてもらったあの寺である。本堂の扉の隙間からちょっと覗こうとしただけで注意されたあの「願成就院」である。(平成28年5月30日、ひこばえ「青梅」参照)
何という偶然だろう。
「こんなことならもっとしっかり見て来るんだった」
何も調べずに出掛けてしまったことを後悔したものである。

                                 (平成29年作)

にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村

検索フォーム
ブロとも申請フォーム
QRコード
QR
フリーエリア