2017年05月の記事 - ひこばえ
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ひこばえ


2017年05月の記事

卯波

卯波寄す小舟の舫ふ和賀江島



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次に向かったのが材木座の光明寺である。治承4年(1180年)8月17日、源頼朝挙兵に駆けつけた三浦勢は台風の大水のため酒匂川の手前で撤退を余儀なくされる。頼朝が「石橋山の戦い」に敗退したとの報に接しつつ戻る途中、由比ヶ浜で敵方と出会ってしまう。小争いが始まり小坪峠に布陣、両者とも痛手を負うことになる。
「光明寺の裏山から小坪6丁目に抜ける道に小坪峠がある」と資料に書かれていたので行ってみることにした。光明寺はとても大きな寺だった。想像以上の大きさである。そこから裏山に抜ける道があるはずである。寺の右手に回ってみたが行き止まり。戻って左手に回り山を上って見たが、これも行き止まりである。「裏山から抜ける道」とはどこなのだろう。裏山に辿り着けない。探し切れずに諦めることにした。
次はすぐ傍の住吉城址である。カーナビに住吉城跡と入れても該当がないので、その近くにある正覚寺を入れてみた。すると「トンネル上に目的地を設定しますか?」と問うてきた。「はい」か「いいえ」である。「トンネルの上」の反対は「トンネルの中」しかないだろう。中に設定する人がいるだろうか。もちろん「はい」と答えた。道案内が表示されたので走り始めた。500メートルほどの距離である。トンネルの手前の道を指定してくる。しかし、そこには「この先、行き止まり」の札が立てられていた。「違うな」と思った。すなわち、曲らずにトンネル内に進み小坪マリーナの中に入ってしまった。「おかしいなぁ」と思った。車を停めて考えた。「トンネルの上」が駄目なのかも知れない。しかし、そもそも行きたい場所は正覚寺ではなく住吉城址である。近くにいた女性に聞いてみた。
「この山の上に城址があるはずなのですが、入口を知らないでしょうか?」
すると右手の道を指して、この先に入口があると教えてくれた。ナビより人に聞いた方が早い。トンネルの手前の空き地に停めて探すと「住吉城址」と書かれた小さな看板を見つけた。矢印に従って細い階段を上り始めた。すぐに次の看板が現れた。「ここは立入禁止(私有地)」「住吉隧道(トンネル)を下り公園上の白い建物付近一帯です」と書かれている。親切な看板だと思った。間違って私有地に入ってしまう人がいるに違いない。大助かりである。急坂を上り、隧道に到着、中を通って反対側に出た。しかし、あるはずの公園がない。白い建物も見当たらない。道を真っ直ぐに進み下りて行った。相模湾が見えるのでそのまま行くと海岸に着いてしまいそうである。城は山の上のはずなので間違っているようである。来た道を戻り、またトンネルの場所に戻った。左手に人の家のようだが広場のようにも見えるので入ってみることにした。朝なので誰もいない。上って行くと廃屋のような家があった。白い。これだろうか。この空き地を公園というのだろうか。写真はその空き地の崖っぷちから写した相模湾である。和賀江島が見える。
車に戻った。住吉城址は分からない。仕方がないので先程「行き止まり」と書かれた正覚寺の道に入ってみることにした。また元の道を戻る。道は細かった。擦りそうな場所もあった。突き当りに正覚寺があった。車を降りて寺の脇道を上り始めた。城は上にあるはずである。しばらくすると「あれっ?」と思った。見覚えのある場所なのである。
「あっ、さっきトンネルを出て下りてきた場所だ」
同じ山を違う方向から2回上ったことになる。しかも城址が見つからない。「フー」と大きく溜息を吐いた。
「今日は止めておこう。ここはまたの機会にしよう」
足がパンパンである。戻って車の中でしばらく休むことにした。
                                 (平成29年作)

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樟落葉

裏山の小さきやぐらや樟落葉



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出掛けに少しまごついたので鎌倉の白旗神社に着いたのは5時10分だった。家から30分の距離である。
ここは宝治元年(1247年)三浦氏が北条勢と戦い、一族郎党五百余名が切腹して果てた法華堂のあった場所である。
神社にお参りし、その横の石段を上り源頼朝の墓を訪ねた。ここに来たのは何時だったろう。思い出そうとしても思い出せない。35年位前だったような気もする。誰と来たのだろう。随分と年を重ねたものである。いつでも来られる場所に住みながら35年の月日を何をして過ごしていたのだろう。来し方を振り返り少し感傷的になった。
墓の右側に岩場の登り道がある。足場を求めて一歩ずつ上がると山腹の細道に出る。右側が崖となって落ち込んでいるので気を付けながら行くと玉垣に囲まれた立派な三つの墓の前に出た。島津と毛利の墓である。宝治合戦の際、両家の始祖だった者が源氏政権を乗っ取った北条氏に反発し、三浦氏に組して法華堂で自刃したのである。荒れていた墓を両家が整備したのは安政年間(1775年頃)のことである。
その墓の辺りを三浦一族の墓を求めてキョロキョロしたが一向に見当たらない。やむなく墓の前の石段を下り、鳥居をくぐったところで、先程歩いた山腹の崖の下に小さなやぐらがあるのを見つけた(写真)。第一印象は「いやに小さいなぁ」である。島津も毛利も頼朝の墓もきちんと整備されていたにもかかわらず、なぜ三浦一族の墓だけはやぐらの中なのだろうと思った。義明の墓も義村の墓も道寸の墓も立派に建てられたというのに一族の墓だけはそのままである。しばしその場で考えてみたが分かるものではない。疑問が解決出来ぬまま、次の目的地である材木座の来迎寺に向かうことにした。三浦義明の墓があるのである。
来迎寺の門は閉まっていた。まだ6時前である。駐車場にも入れないので道を塞がない程度に寄せて路上駐車をした。門は勝手に開けさせてもらって入ることにした。断わる相手もいない。誰もいない社務所の横を通り正面の本殿へと進んだ。すぐに墓は見つかった。源頼朝が三浦義明の菩提を弔うために建立した寺である。しっかりお参りしたつもりではあるが、誰もいない寺の中というのは居心地が悪い。長居も出来そうにないし路上駐車も少し気になる。早々に立ち去ることになってしまい、何とも慌ただしい気がしたものである。
                                 (平成29年作)

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明易し

落武者となりし夢見て明易し



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会社に三浦半島の外れに住んでいる女性がいる。私が車で行くことを話すと「休日の道路はすごく混みますよ」と教えてくれた。家の前の道路が渋滞で動かなくなるという。そういう場合の彼女は家の裏側から地元の人しか知らない道を通って駅まで送ってもらうのだそうである。
「いろいろ回るのでしたら、車より自転車がお勧めです」
「なるほど、その手があったか」
ヘルメットを被って自転車で走っている人がいたことを思い出した。すぐにレンタルサイクルを探した。鎌倉にも逗子にもあった。「いいことを思い付いた」と思った。出掛ける前日の話である。結構、行き当りばったりなのである。
家に帰って、そのことを話すと家族から反対する意見が噴出した。
「危ないんじゃない?大丈夫?道も狭そうだし……」
「借りた場所にまた戻って行かなければならないというのも大変だよ」
「結構、上り下りがあるんじゃない?相当に体力を使うよ」
「それなりの準備も必要でしょ。着るものとか持ち物とか……」
急に自信がなくなってくる。言われると何でもそう思えてくる。
「自転車にはカーナビがないので、目的地を探すのにも苦労するんじゃない?」
決定的な一言となった。確かにお寺一つ探すのにも苦労しそうである。

結論は布団に入った時に思い付いた。
「よし、明日の朝、渋滞しないうちに車で全部回ってしまおう!」
スマホで日ノ出の時刻を確認した。4時48分とある。
「その時刻には三浦一族の墓の前にいるようにしよう!」
目覚ましを3時半に合わせて速攻寝た。寝起きもいいが寝付きもいいのである。
                                 (平成29年作)

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初夏

山越えていざ鎌倉へ初夏の旅



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いつものゴールデンウィークならとっくに計画を立てて旅館の手配も済ませているところだが、今回はなぜかボンヤリしていた。気が付いた時には宿に空きがないという状態である。
「これから探してどこか行くところがあるだろうか」
はじめは平将門を訪ねる旅を考えたのだが、性格がせっかちでゴールデンウィークまで待てずに出掛けてしまったのだから仕方ない。そこで考えたのが自宅から出掛けられる三浦半島探訪の旅である。三浦一族の歴史を調べ、ゆかりの場所を訪ねてみようと思ったのである。1ヵ月ほど掛けていろいろな本を読み、一族の歴史の概略を頭に入れて計画を立ててみた。読んだ本は次の通りである。永井路子「執念の家譜」中村豊郎「砕けて後は、もとの土くれ」伊東潤「疾き雲のごとく」司馬遼太郎「街道をゆく(三浦半島記)」等々。

三浦一族の始まりは平安時代中期に遡る。元々は桓武天皇のひ孫「高望王」を祖とする桓武平氏の武士であった。永承6年(1051年)奥州に起きた「前九年の役」で源頼義に従い参陣した平為通がその論功行賞で相模国三浦の地を与えられ、その時三浦為通と三浦姓を名乗ったのが始まりである。為通は衣笠城を築きそこを居城とした。以後一貫して源氏の郎党となり、やがて三浦義明の代となり勢力を拡大する。「保元平治の乱」や頼朝挙兵、平家追討、義経追討、そして奥州合戦には義明の子や孫達が参戦し鎌倉幕府樹立に貢献していく。鎌倉に近いという地の利を活かして頼朝の信頼厚く幕府に重きを成していく。源氏三代の時に一族は絶頂期を迎える。しかしその後、北条氏による有力御家人粛清の対象とされ、次々と一族が滅ぼされていく。宝治元年(1247年)の「宝治合戦」では一族全てが北条氏との戦いで滅ぼされる。一族の歴史はそこで一旦途絶えたかに見えたが、分家の佐原盛時だけが生き残る。一族でありながら北条側に加勢し、合戦ののち三浦介の名を継ぐことを許され三浦半島南部を領有したのである。鎌倉末期、南北朝、室町時代を足利、上杉などの郎党となりながら命脈を保ち、やがて三浦時高の代になり勢力を回復し三浦氏を再興する。しかし時高はその子道寸に討たれる。そして最後の戦いに臨む。永正13年(1516年)三浦一族最後の当主道寸は新井城に於いて北条早雲との最後の戦いに臨み一族は完全に滅亡する。宝治合戦より270年の後の出来事である。長い長い歴史を年譜にしながら、まずは鎌倉にある一族の墓を訪ねるところから始めることにした。
                                 (平成29年作)

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茄子の花

芸人に長き下積み茄子の花



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もう一人、当会の有名人のことを書いておこう。ビートきよし師匠である。昨年のモーニングセミナーで講演をしていただいたところ、すっかり会の趣旨に賛同してくれて入会までしていただき、たびたび飲み会などにも参加してくれているのである。今回の歓迎会にも来てくれて一言挨拶をしてもらったのである。
師匠とは忘れられない思い出がある。昨年暮れの事である。私の前で飲んでいて俳句の話になった。
師匠「この間、NHKの番組に出てよォ、山形まで行って最上川で船に乗ってきたんだよ。俳句の番組でよォ、そこで一句詠めって言うんだよなァ。結構、難しいもんだよ、あれは」
私「俳句は師匠が本当に考えたのですか?」
師匠「そりゃそうだよ。大変だったよ。紅葉の句を作ったんだけど頭使ったよ」
私「俳句はたった17文字ですが、なかなか難しいものです。自分でいいと思っても他人が読むと何を言っているのかサッパリ分からないというのもあります。大切なのは、誰が読んでもその情景がパッと目に浮かぶということです」
師匠「詳しいねぇ!」
私「俳句歴20年です。大体のことは分かります(笑)」
それからしばらく飲んでいたが、随分経ってから師匠がやおら舞台に上がってマイクを持って話し始めた。
師匠「いやぁ、この間のNHKの番組を見てくれた人がいるかどうかは分からないけど、俳句の番組で山形まで行ってきたわけよ。俳句っていうのは難しいねぇ。五七五しかないんだから。大変だよ。最上川に三難所という場所があってそこを船で下った時に作ったんだけど、今日はちょうど俳句の先生が来ているというので俺の俳句が良かったのかどうか聞いてみたいと思ってよ。なんたって作った俳句でどっちが上手いか対決することになっていて、相手の〇〇ちゃんとは引き分けということになったので、いいのか悪いのか分からないと来ているんだよ。詠んだ俳句を披露するので判定してもらいたいと思ってよ」
結構、お酒が入って上機嫌な私である。文字を見ないで読み上げた俳句にコメントするということになってしまった。その時の俳句を今ではすっかり忘れてしまったが「激流や……」で始まる句であったことは確かである。句はその激流に紅葉が映って美しかったというような内容だったと思う。酔っているというのは恐ろしいもので、師匠から振られた瞬間「駄目、駄目、全然駄目!」とやってしまったのである。今思い出しても冷や汗が出る。
私「激流や、ですよね。激流といえばラフティングをするような白波のイメージですよ。そこに美しい紅葉が映ったというんですか。映らないでしょう。白波に紅葉が映るっていうことは考えられない。紅葉が映るとしたら、流れの緩やかな瀞(とろ)のような場所ですよ。激流に映ることはないでしょう。激流と紅葉の組み合わせでしたら、飛沫(しぶき)に濡れる紅葉とか、散った紅葉が流れに散り込むとか。そのほうがイメージしやすい。まぁ、才能ありか無しかと言われれば、まずは凡人だなぁ……」
師匠「なるほど、俺も作っていて何か変だなぁと思っていたんだよなぁ……」
あとで考えると師匠には本当に大人の対応をしてもらったと感謝している。普通は頭から駄目と言われればカチンと来るものである。そこを「なるほど」と収めてくれたのである。酔った勢いとは恐ろしいものである。調子に乗ってはいけないことを思い知らされた。あれから何度か飲んでいるが師匠とはあれ以来俳句の話をしたことがない。
                                 (平成29年作)
(注)茄子の花には無駄花がなく、必ず結実するという。

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風船

キユツキユツと風船の首絞める音



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「ジーコ」こと遠見さんに15年振りにお会いした。昔参加していた集まりに私が行かなくなってから、お会いする機会もなく時間が過ぎてしまっていたのである。
私「いやぁ、久し振りですねぇ。お元気そうで……」
遠見さん「日向さんも元気そうで。少し太ったね(笑)」
私「少しだけです(笑)。まだ、お勤めですよね?」
遠見さん「定年は過ぎたけど、まだ置いてもらっています(笑)」
名刺交換をした。社長になった私の名刺を持っていないという。遠見さんの名刺が振るっていた。
私「ジーコ?これは何ですか?パントマイムですか?」
遠見さん「そう、今これが忙しくてね。あちこち飛び回っているんだよ」
私「昔からやっていましたっけ?」
遠見さん「もう15年になるかなぁ。いろんな場所でやっているので、日向さんの会社でも何かあったら声を掛けてくださいよ」
これが今年2月の出来事である。

倫理法人会で新入会員の歓迎会を行うことになり、何か出し物はないかという話になった。遠見さんを思い出した。
「もしもし、遠見さんですか。日向です。実はお願いしたいことがあります」
二つ返事で了解してくれた。打ち合わせに会社まで来てくれた。
当日は大きな荷物を抱えて、始まる1時間半も前に会場に来てくれた。会場はライブハウスである。控室で着替えをし、化粧をするのに40分も掛かるという。衣装も本格的である。50人ほどの会員が集まり歓迎会が始まった。遠見さんの出番がやってきて、司会者からマイクを渡され、私が遠見さんの紹介をした。
「今日は私の20年来の友人であります遠見さんに来てもらいました。パントマイムを行っていただきます。これを始めたキッカケというのがお孫さんの誕生だったそうです。可愛らしい女の子のおじいちゃんになった時に『女の子は男親を嫌う傾向がある。父親が嫌われるのであれば、おじいちゃんは尚更のこと』そう思った遠見さんは大きくなってからもお孫さんに喜んでもらえるような技を何か身に付けたいと思ったそうです。そこでパントマイムに出会い練習を始めたそうです。先日、私が電話をした時もちょうど野毛の大道芸に出ていた時で芸は本格的なものです。しかも今日は出演料なしでやってくれると言っています。これだけのことをお願いしてお金は要らないと言われて困りました。『それでは』ということで皆さんには投げ銭をお願いすることに致しました。先程、楽屋でそれに使う入れ物はないかと遠見さんに聞きましたところ『あるある』と言ってとても大きな入れ物を預かりました(笑)。ほんの気持ちで結構です。お回しいたしますので、よろしくお願いします」
とても素晴らしいパントマイムを見せていただいた。皿回しやボール、風船などを使った芸もあり客席の心を一瞬でワシ掴みである。時間はたったの10分間だったが、最高の盛り上がりを見せてくれた。
最後にマイクを向けてお孫さんのことを聞いてみた。このゴールデンウィークにも高校生になったお孫さんと二人で東北に出掛け、パントマイムでボランティアをして来るとのこと。お孫さんの心もワシ掴みにして遠見さんの作戦は大成功だったようである。芸名の「ジーコ」はもしかしてお孫さんにそう呼ばせるための名前だったかも知れないと勝手に考えたが、当らずとも遠からずであろう。今度、聞いてみようと思っている。
                                 (平成29年作)

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新皇を今に称へし桜かな



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「一言神社」を出てその日最後に向かったのが「将門公苑」すなわち平将門が生まれ育った「豊田館址」である。今回、坂東の地を訪ねるきっかけとなった場所である。取引先の岡村製作所つくば事業所の場所にほど近い。時刻は1時半を回っており少し空腹を覚えていたが、公苑が分かりづらい場所にあるようにも書かれていたので、まずは探し当てようと先を急ぐことにした。結構な距離を走った。広大な畑が続いていた。この広い坂東の地を駆け抜ける将門の雄姿を想像しながら走っていた。
場所は意外と簡単に見つかった。「平将門公本拠豊田館跡」と書かれた碑が建っていた。その向かいには将門公のレリーフがあった。しかし一番凄かったのは「豊田館址と平将門公事蹟」と書かれた大きな顕彰碑である(写真)。
「随分と長い文章だなぁ」と思いながら読み始めた。読みながら驚いていた。これは単に史跡を解説したものではない。本当に平将門のことを慕い、郷土の誇りと思いながら描いた一代記である。碑の大きさもさることながら、その切々とした文章に胸打たれるものがあった。民衆と共にこの地を開拓した英雄「平将門」への讃歌が綴られていた。

この文章を読みながら考えていたことがあった。実は海音寺潮五郎「平将門」3巻、文庫本1847ページを一気に読んだのだが、最後の辺りにある「勝風負風」の章を読めずにいたのである。これは将門が最後の戦いに臨み、討ち取られる場面を描いた章である。一番大切な場面なので本来はしっかり読まなくてはならないところなのだが、描かれた将門像に肩入れし過ぎたためか、悲しくて読めないのである。次の章「流人」、最後の章「祟り」は平然と読めたのだが、この章だけは読みたくないのである。ペラペラとページを捲り、書かれている内容の把握をしただけで次の「流人」へと進んでしまった。吉川英治「平の将門」で同じシーンを読んでいるので、あえて悲しい場面を読む必要はないと自分に言い聞かせたようである。1847ページの中の最も重要な最後の30ページを読まないで終わる私の将門への想いをこの顕彰碑を読みながら思い出していたのである。

帰りの道を走りながら「坂東太郎」を探していた。「この地に来た限りは坂東太郎だろう」と勝手に決めていた。お腹が空いていた。「そういえば将門煎餅というのがあったなぁ」などとお土産のことも考えたが、事前に場所も確かめずに来てしまったので売っている場所はとうに過ぎていた。道は谷和原インターに向かって進んでいたが、途中からいつも得意先に行った帰りに通る道を走っていた。3時を過ぎているためか、いくつかの店が看板を下ろしていた。坂東太郎は見当たらない。最終的に入った店はいつも営業担当と一緒に入るラーメン屋である。この広い坂東の地を走り、新しい発見を求めた旅の最後がいつものラーメン屋である。我ながら呆れてしまった。旅は計画的であるべきである。
「何にいたしますか?」と聞かれ、これまたいつもと同じラーメンを選んでしまったのだから笑うしかない。
                                 (平成29年作)

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春陰

春陰や穴より覗く御神鏡



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延命寺の目と鼻の先に「石井の井戸」があった。平将門が王城の地を求めてこの地を見回っていた時に途中で咽喉が渇き水が欲しくなったそうである。そこに老翁が現れて大石を持ち上げ大地に投げつけたところ、そこから水が湧き出したという言い伝えである。井戸は見当たらなかったが、いくつもの碑が建てられていて桜の木や百日紅などが植えられ大切にされているのが分かった。そのすぐ傍に「一言神社」があった。その老翁を祀っているという。常総市の「一言主神社」とは比べ物にならないほどの小ささである。
鳥居をくぐり、社殿に進んでいった。途中から妙な違和感を覚えた。何だろうと思ったが、すぐに気付いた。参道に据えられた灯篭や狛犬が左右バラバラな位置に置かれているのである(写真)。何だろう、何か意味があるのだろうか。意味もなく置かれたとしたら、相当にバランス感覚のおかしな人達の手によって造られたことになる。そんな訳があるはずがない。きっと訳があるはずだ。灯篭の文字を読んだり、狛犬を調べたりしたが分からない。もう一度、鳥居の方に戻って振り返ってみた時に意味が分かった。
「なるほど!」
鳥居から本殿まで約50メートルある。参道は真っ直ぐに進み、途中あと15メートル位を残した辺りから少し右寄りに折れるのである。なぜ折れるかと言えば、本殿の中央を目指すからである。しかし、この参道、昔は鳥居から本殿まで一直線だったようである。灯篭も狛犬もその昔の直線に添って配置されていたのである。本殿の中央に進まない参道はおかしいとの声が起きたはずである。そこで参道の向きは変えられた。そのとき、灯篭も狛犬も移動すれば良かったのである。私だったら、おそらく位置を変えただろう。しかし変えなかった。きっと、次のようなやり取りがあったはずである。現地の言葉でお届けしよう。
「参道はやっぱり、本殿の中央さ向かうのがいがっぺ」
「まっつぐしてる参道を途中から折り曲げんのぉ?」
「んだ。参拝者には本殿に向がってまっつぐ進んでもらった方がいがっぺよ」
「灯篭と狛犬は動がさねぇのが?」
「んなごどしたら、将門さまの祟りがおごっど!!おお、おっかね!」
                                 (平成29年作)
(注)最後5行の茨城弁による会話文は取引先であります岡村製作所様つくば事業所の「梅ちゃん」こと生出様にご教示いただきました。仕事中にも拘らず快くお引き受けいただき心より感謝しております。本当に有難うございました。

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花御堂

みな片手拝みに雨の花御堂



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國王神社を出て延命寺の方へ向かうと「花まつり」の幟が並び、たくさんの参詣人の姿が見られた。車で1、2分の距離である。狭いながらも門前には駐車場が用意され、係員も数名出て整理に当たっていた。境内には屋台も出ていて村人で賑わっていた。その前に訪れたフラダンス会場の賑わいとは別物の、昔ながらの懐かしい賑わいを感じた。駐車して車を出た時に目の前の田圃で花火が揚がった。とても大きな音だった。曇り空に白い煙がポンポンポンといくつも浮かんだ。村を挙げてのお祭りといった感じである。寺はこんもりとした森に囲まれ、その周囲には田圃が広がっている。村の鎮守といった趣である。
この寺は将門の軍事拠点「石井営所」の鬼門除けとして建てられたものだが、天慶3年(940年)に藤原秀郷、平貞盛の軍勢に襲われ焼失している。その際、将門の守り本尊だった薬師如来像は堂から持ち出され、世の中が治まるまでどこかに隠されていたそうである。そののち、将門の子孫にあたる相馬氏により寺は創建されたが、またもや火災に見舞われ本堂も薬師堂も焼失し、今ある山門だけが残ったそうである。山門は茅葺切妻造りの四脚門で、近郊に比類のない造形美を示し、相馬氏の将門に寄せる思いを感じさせるものだという。

門をくぐり石造りの太鼓橋を渡ると花御堂が据えられていた。4月8日はお釈迦様生誕の「花まつり」の日である。参詣の人が手に手に杓を取り甘茶仏に甘茶を掛けていた。カシャカシャと写真を撮り始めた。花御堂の遠景から甘茶仏の接写まで何枚も写していた。写真を上手に撮るコツはたくさん写すことと心得ている。甘茶を掛けている人の背中越しにも写していた。私が写真を撮ろうと構えているのを見て、しばらく手前で待ってくれていた老夫婦がいた。
「あっ、どうぞ、どうぞ、適当に写真を撮っているだけですから、どうぞ」と私。
「爺ばばを撮ってもしょうがあんめぇ(笑)」とお婆さん。
「大丈夫です。手だけ撮っているんですから」
「手だけ?どれ?」
と言うのでこの写真を見せたのである。
「こんな具合に撮っています」と私。
「いやぁ、手だけは見せられねぇ(笑)」
「……」
いやいや、決してモデルになってくれと言っている訳ではありませんと言いたかったのだが、もちろんそんなことは言える訳もない。たまたま目が合ってこんな会話になってしまったが、結局お婆さんと旦那さんは甘茶も掛けずに立ち去ったのだった。たかが写真一枚といっても、人の感じようは様々で心しなければならないと思ったものである。
                                 (平成29年作)

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春の虹

騎馬像の春の虹へと駆け出さん



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「それ!」
突如として小次郎は絶叫し、抜きはなった刀を高々とふりかざし馬腹を蹴った。馬はおどろいて前足をあげて、二三度空をかいてもがいたが、その前足をおろすや、疾風のように駆け出した。(海音寺潮五郎「平将門(中)」より)

車で5分ほどの場所に立派なブロンズの騎馬像が立っていた。「ベルフォーレ」という名前の総合文化ホールである。音楽ホールやアトリウム、図書館などの複合施設となっており、その前庭に有無を言わせぬ存在感を放っていた。
初めからここだと分かっていれば、あんなに歩かなくても良かったのにと思いながらも、一目見るや、やはり来てよかったと思った。美しく作るものである。前からも後ろからも、どの方向から見ても美しいと思った。写真は何枚も撮った。その中から近代的な建物を背景に収めたこの一枚が最も美しく思えた(写真)。
以前、流鏑馬神事を見学した時、目の前を勢いよく駆け抜けていく馬の迫力に圧倒されたことがあったが、戦いの場で馬に乗る者と乗らない者の差は途轍もなく大きいに違いない。馬上の将門像を仰ぎ見ながら、振り下ろされる刀剣の鋭さや引き絞る弓の力強さを想像すると同時に、それに立ち向かう雑兵の心持ちも分かるような気がしたのは気のせいだっただろうか。

騎馬像を見たあと、すぐに「國王神社」へと向かった。将門終焉の地である。神社はそこにひっそりと佇んでいた。
将門戦死の際、その難を逃れ奥州にて隠棲していた将門の三女「如蔵尼」が父の33回忌にあたる天禄3年(972年)にこの地に戻り創建した神社である。付近の山林にて霊木を得て、将門の像を刻み、祠を建て安置したのが神社の始まりとされる。一言主神社などとは比べようもないほどの小さな神社であるが、古びた社殿と境内の静かな佇まいに尼の想いが見えるような気がしたものである。
                                 (平成29年作)

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花の雨

川べりを旅してひとり花の雨



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目的地「國王神社」まであと1キロとなったところでお茶を買いにコンビニに立ち寄った。入口に「桜まつり会場、すぐそこ」のポスターが貼られていた。場所はそのコンビニから数百メートルの場所にある岩井公民館だという。そこには確か平将門の騎馬像があったはずである。満開の桜の下に立つ騎馬像。これは絶対に見逃すわけにはいかない。行ってみることにした。
車で会場に近づくと係員が立っていて「駐車場は満杯です」と言われ、遠くの臨時駐車場を教えられた。随分と離れた場所である。途中で止めようかと思った。なにせ剥離骨折である。相当の距離を歩けば骨に悪いに違いない。しかし、痛くて歩けないという訳でもない。駄目なら途中で引き返そうと思い、傘を差しながらゆっくりと歩き始めた。距離にして片道1キロである。随分と歩いたものである。メイン会場にはたくさんの屋台が出ていて大勢の観客で賑わっていた。舞台ではフラダンス大会が行われていた。夏でもないのにどうしたのだろうと思ったが、折角練習したものはいつでも人に見てもらいたいものである。雨の中では可哀そうなものだが、会場は意外と盛り上がりを見せていた。私は騎馬像を探してウロウロしたが、結局は見付からなかった。人に聞いて初めて隣の図書館にあることを知った。
「フー」と溜め息を付く。
間違った情報ほど恐ろしいものはない。私のメモに「騎馬像、岩井中央公民館」と書かれていたので「中央」があるか無いかの違いである。どこかに書かれていたものを写したはずなので信じて確認をしなかったことが悔やまれる。しばらく椅子に腰掛けフラダンスを眺めていたが、それからまたゆっくりと1キロの道を戻ってきた。途中で雨が上がり、傘を差さずに歩いて来られたのだけは不幸中の幸いであった。
写真は通りがかりの公園にあった恐竜のモニュメントである。こんな大きな物を作ってどうするのだろうと思ったが、子供達には喜ばれているに違いない。雨の桜もまた美しいものであり、坂東市民の娯楽を少し垣間見られたのも良い経験だったかも知れないが、恐竜に見下ろされた頃より急に足の痛みを感じ始めていた。
                                 (平成29年作)

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春の雨

将門の御霊鎮めよ春の雨



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立派な神社である。大きな鳥居をくぐり、広い駐車場に車を停めた。さすがに平将門である。坂東の誇りである。この荘厳さは紛れもなく将門崇拝の現れである。小糠雨が降る中、感動を以って境内を進んでいった。まずは神社の由緒書きを読んでみた。大同4年(809年)社殿西方に筍が生え、数夜にして三又の竹に成長したとあり、すなわち神社が「三竹山」と称される所以であると書かれている。フムフム、なるほど。しかし、読み進むうちに疑問が湧いてきた。将門の守護神で水を司る一主明神を祀っているとパンフレットには書かれていて、将門が水を求めて彷徨っているときに現われた老翁の話が出てきたが、ここの看板にはその話は出ていない。本殿は将門の子孫が長禄3年(1459年)に再建したと書かれているだけである。
お守りを売っている巫女さんに聞いてみた。
「平将門に関するものはどこにあるのでしょうか?」
「あっ、それはここではないんですよ。よく間違われます(笑)」
「えっ!」
常総市の一言主神社と坂東市の一言神社。よく似た名前だが全く別の神社だったのである。「紛らわしい」と文句を言いたくもなったが、間違ったのは自分である。帰りの雨が妙に冷たく感じられたものである。

気を取り直して車を走らせ、しばらく行くと看板が現れた。「平将門の胴塚」と書かれている。「延命院」とある。
「えっ、延命院?延命寺じゃないの?」
カーナビに入れた目的地「國王神社」の隣にあるのが「延命寺」で、もちろんこれから見学しようとしていた場所である。その寺とまたよく似た名前の「延命院」である。
「おいおい、どうなっているの?また一字違い?」
そう言いたくなる気持ちも分かってもらえると思う。こうも同じような名前を付けたがるものだろうかと思いながらも胴塚となれば見逃すわけにはいかない。入って行くことにした。
結果は素晴らしいものとなった。絶対に見逃してはいけない場所だったのである。境内に不動堂がありその裏に円墳があった。将門の胴塚である(写真)。将門山または神田山と呼ばれているようだが、大きな栢(かや)の木がその塚を抱くように根を張っていた。敵の矢を受けて討たれた将門の首は京に送られ晒し首となったが、遺体の方はひそかに部下の手でこの場所に運ばれたというのである。この地は相馬御厨の神領だったことから暴かれることなく守られてきたという。誰もいない境内で静かにお参りをし、その日最初の将門ゆかりの地となったのである。
                                 (平成29年作)

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