2017年01月の記事 - ひこばえ
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ひこばえ


2017年01月の記事

冬の蝶

洞に悲話あり木洩れ日に冬の蝶



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ようやくシムクガマの入口に達しようとした時、目の前にあった蜘蛛の巣に引っ掛かり「ワーッ」と声を上げてしまった。想像していた洞窟とまるで違っていて不気味に感じていたのかも知れない。帽子を脱いで蜘蛛の巣を払い、深呼吸して息を整えた。結構、意気地なしなのである。
遠くから写真を撮った(写真)。これで帰ろうかとも思った。しかし、ここは全員が助かった場所であることを思い出し、中へ入ってみることにした。中央に何やら碑が立てられていた。それ位は確認しようと思ったのである。近づいて見ると「救命洞窟之碑」と書かれ、終戦50周年を記念して建てられたことが記されていた。小銭が供えられていた。まずは手を合わせ、戦争の犠牲になった多くの人達に黙祷を捧げた。奥を覗くとずっと続いているようである。1000人もの人が逃げ込んだ場所である。とてもそちらまで行く勇気はない。入口に戻り周囲を見渡してみた。高い木が生い茂り日の光を遮っている。そこを蝶々が舞っていた。降りて来るかと見れば、また揚がって行く。4、5匹がゆっくりと揚がり下がりを繰り返していた。

その日のことを書いておこう。
昭和20年4月1日、上陸した米軍はすぐにシムクガマまでやって来た。読谷村波平区の住民約1000人が息をひそめて隠れている。アメリカ兵数名が入口までやって来て「カモン、コロサナイ、ダイジョウブ」と呼び掛ける。しかし住民たちは米兵が鬼畜であることを教え込まれている。動揺が走りパニック状態に陥る者も出る。大人たちを掻き分けて米兵に立ち向かおうとして前に出たのは少年で構成された警防団の者たちである。竹槍を手に米兵に向かっていった。米兵も驚き銃口を向け、まさに発砲しようとしたその時である。大きな怒号が響いた。
「槍を捨てなさい!」
その場を凍らせるほどの気迫をもって叫んだのはハワイ帰りの比嘉平治さん(当時72才)という人だった。比嘉さんはハワイで長くバスの運転手をしており、英語は堪能。米兵が鬼畜でも赤鬼でもないことを知っていたのである。比嘉さんの一喝で少年たちは引っ込み、米兵との会話が交わされた。日本兵がいないこと、中に約1000人の住民がいることが伝えられたという。米兵はお菓子や缶詰を置き一旦その場を立ち去ることとなった。比嘉さんは同じくハワイ帰りである比嘉平三さん(当時63才)と共に米軍へ出向き、助けてもらうための交渉を行なったのである。殺されて戻らないだろうと思っていた二人が戻り、「アメリカ人は人を殺さない、投降すれば命は保証される」という言葉が伝えられた。しかし住民逹にはその言葉を信じるすべが何もない。その後の比嘉さんたちの説得がどのようなものであっただろう、困難を極めただろうことは容易に想像できる。その後、一人の犠牲者もなく全員無事に保護され「奇跡のガマ」と呼ばれることになるのである。
                                 (平成29年作)

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冬の日

冬の日やガマへ小さき道標



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私がその時に見たのは「戦場となった村・逃げまどう住民」という説明書だった。1945年4月1日に読谷村の西海岸から上陸する米軍の写真を載せ、シムクガマとチビチリガマでの出来事を説明していた。避難した約1000名の住民が全員助かったシムクガマと、逃げ込んだ140名のうち83名が集団自決したチビチリガマ。「重いなぁ」と感じながらも、沖縄に来た限りは必ず見ておかなければならない場所に思えた。
駐車場に戻り、両ガマの位置を確認した。城跡に近いのはシムクガマの方である。全員が助かった方なので最初に行くには良さそうである。早速、ナビに入れて走り出した。それにしても「ガマ」とは何だろう?途中のコンビニに車を停めスマホで検索した。「洞窟」とある。「沖縄本島南部に多く見られる自然洞窟」「沖縄の方言」ともある。なるほど。それにしても1000人もの人が逃げ込む洞窟とはどんな広さだろう。説明書に写真は載っていたが大きさは分からない。私の想像を遥かに超えた広大な場所かも知れないなどと考えていた。車は住宅地を曲っていやに細い道に入っていった。ナビは目的地に近づいて音声案内を止めるという。
「ん?ここ?」
民家の脇で車を停めた。表に出てキョロキョロする。どこだろう?案内板などが見当たらない。少し歩いた四辻にようやく「シムクガマ」と書かれた小さな木の矢印を見つけた。誰かが手作りしたような案内板である。しかも矢印が指す方向は生い茂った草が左右から蔽うようになっている山道である。あまり人が訪ねて来ない場所のようである。角の民家の塀に石敢當が貼られていた。なるほど魔除けも必要かも知れないと思った。矢印の方向に進んでいくと急に道幅が狭くなった。クワズイモの葉やシダ類が茂っている。物音もない。何だか怖いような気がしてくる。道の脇に「ハブに注意」の看板も立てられている。
「なになに、有名な場所じゃなかったの?」
目的地があとどれ位先にあるのかも分からない。道はいよいよ狭くなってくる(写真)。
                                 (平成29年作)

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枯芝

枯芝の座喜味城址や今昔



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腰が痛くて起き上がれない状態であっても、どこかを見ておきたいと思う気持ちは抑えられない。ホテルは本島中央部に位置する恩納村にあったのでその周辺の観光地を探し、隣村の読谷村にある座喜味城跡へと出掛けてみることにした。ホテルから15分ほどでカーナビを使えば迷うこともない。スマホで知るのだが、読谷村は「日本一人口の多い村」だそうである。平成28年10月1日現在の人口38206人とある。私の出身地北海道歌志内市は「日本一人口の少ない市」で平成28年9月30日現在4390人である。村も町も市も基準がどうなっているのかは分からないが、やはり人は多いに越したことはない。羨ましさを覚える。おっと、今はそんなことはどうでもよい、城跡を見てこよう。
到着。車を降りようと少し身体を捻っただけで痛みが走る。イテテテテ……まだあの本に出会う前の話である。あいにく資料館は休館で、その前にある高倉やサトウキビ絞りの臼、厨子甕という骨を納める壺などを見た後ゆっくりと城跡へと歩いて行った。少し上り坂である。アベックや家族連れ、外国人が多い。みんな普通に歩いている。それが何とも羨ましい。腰を痛めてようやく腰が普通に機能している時の有難味を知る。どうしたら治るのか、旅行の間じゅう苦しまなければならないのだろうか。何と不幸なわが身であることかと悔やんだりもする。折角の世界遺産に来て腰のことばかり考えているのだから情けない。意識を城跡に集中しようとするが痛いものは痛い。城は首里城や今帰仁城跡よりも小規模のようである。さほどの距離でもないので、なんとか一番頂上まで辿り着くことが出来た。石垣の上に立ち眺めてみる。美しい。石垣の曲線も美しいが、その向こうに見える青い海も美しい。何も調べずに来てしまったので、この城が外国の敵を相手にしたものか、島の中での争いのためのものなのかも分かっていない。スマホで調べてみる。
14世紀、沖縄本島には中山、北山、南山という3つの小国があり、中山(浦添、首里城を拠点)の尚巴志が1416年に北山(今帰仁城を拠点)を攻略、1429年には南山を攻め滅ぼし、統一国家である琉球国を誕生させる。その後、不安定だった北面の守りを固めるため北山攻めにも参加した護佐丸に命じ、この座喜味城を構築させたとある。なるほど、琉球王国の礎的存在である。石垣に壊れたような箇所がない。よく戦争を潜り抜けたものだと思ったが、やはり沖縄戦の前には日本軍の砲台が置かれ、戦後には米軍のレーダー基地が置かれて一部の石垣が破壊されたとあり、のちに修復されたと書かれている。
一時間もいただろうか。ゆっくりと下りてきた。ようやく下まで降り、お茶を買って一休み。資料館は閉まっていたがそこに近隣の案内図が掲示されていた。順番に読んでいくと、城跡からすぐの場所に「チビチリガマ」「シムクガマ」があることが分かった。腰が痛いなどと言ってはいられない。是非に見ておかなければならない場所である。沖縄戦に向けてすぐに出発である。
                                 (平成29年作)

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草石蚕

箸先に摘まれてゐる草石蚕かな



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元日の朝である。二人でホテルの朝食に出掛けた。和食である。
朝から食べ切れないほどのお節料理が並んでいる。腰の痛みも嘘のように和らいでオリオンビールで一杯やりながらの一時である。料理の中には正月ならではの食材が並べられていて、草石蚕(ちょろぎ)もその中の一つである。向かい合って食べ終えた所で、妻が「お茶を頼んで」という。すかさず「すみません!お茶をお願いします」と係の人を呼んだ。「間髪入れず」である。そして言った。
「これからはお前に言われたことは何でもハイッと言って実行することにした。そして実行したことを忘れないために手帳にメモしておくことにする。お前が本屋に連れて行ってと言ってくれたお陰で腰痛を治す本と出会ったのだから、それ位やらないと申し訳ない。気が付いたことがあったら何でも言って欲しい。全て実行していくから」
そして手帳には「①ホテルにてお茶を頼んだ(1/1)」と書き入れた。(1/1)とは1月1日の意味である。

私の所属している倫理法人会の教えの中に「ハイの実践」がある。人に頼まれたら間髪入れず「ハイッ」と応えるというものである。しかもそのスピードは0.2秒だという。考える暇もない。ハイと応えてから考えるということのようだ。頼んだ側は相当に気持ちがいいに違いない。この学びを妻に実践していこうというのだから夫婦仲はさらに(?)良くなるに違いない。
その後、手帳に書かれた項目である。
②自分の部屋の棚を片付ける(1/3)
③湿布をそのままゴミ箱に捨てない(1/3)
年末に片付けるように言われてそのままにしておいた棚の中を旅行から帰ってすぐに指摘され、即座に「ハイッ」と応えて片付けたこと。腰に貼っていた湿布をそのままゴミ箱に捨てたのを見て「使った湿布は丸めて捨てて欲しい」と言われ「ハイッ」と言って改めたことである。今まではこんなことすらも出来なかったのだから呆れられても仕方ない。
                                 (平成29年作)
(注)写真は「美ら海水族館」で写した「カイロウドウケツ」である。この中に雌雄一対のドウケツエビが棲んでいる。エビは幼生のうちに中に入り込み、成長して網目から一生出られなくなる。漢字では「偕老同穴」と書き、ともに暮らして老い、同じ墓に葬られることから夫婦の契りが堅く仲睦まじいことをいう。

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去年今年

去年今年ときに鎮まる痛みあり



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年末年始は沖縄で過ごした。のんびりと過ごしはしたが、一つだけ気掛かりなことがあった。腰痛である。暮れも押し詰まった頃、通っている書道塾で先生に作品を見てもらおうと立ち上がった時に痛みを覚え、それから徐々に悪くなってきたようである。12月31日の沖縄のホテルで最悪の状態を迎えていた。朝、ベッドから起き上がる時の痛みは相当なもので、ずり落ちるようにして床に足を着けるといった具合である。食事を終えて部屋に戻ってもソファに寝転がってジッとしているより他はない。「まずいなぁ」と思っていた。そうして安静にしている所へ妻が「本屋に連れていって」と言い始めた。持ってきた本を全部読んでしまったというのである。「こんなに痛いのに……」と思いながらも、年の最後である。腰を庇いながらも車を運転して本屋へと向かうことにした。私に読みたい本がある訳ではない。妻が本を選んでいる間、ぼんやりと本棚を見ていると「腰痛は動かして治しなさい」という本が目に付いた。ペラペラと捲ってみると新刊本である。「これだけで簡単に治る」と書かれている。「まぁ、読んでみるか」と思い、買ってみることにした。
帰りの車の中で、妻がその本を捲ってみて「簡単そう、やってみようよ」と言い始めた。そんなに簡単に治るわけはないと思いつつも、「よし、やってみよう」と答えた。部屋に戻って早速その本を読み始めた。いろいろと理屈が書いてある。
「そんなのを読んでいるより、やってみたほうが早いよ」と妻。
「まぁなぁ……」
私としてはその理屈の所をしっかり踏まえてやってみたかったのだが、理屈より実践という意見にも一理あるのでやってみることにした。
「まずお尻に両手を当てて、息を吐きながら上体を後ろに反らす……」
二人で揃って同じポーズを取る。
「いてててて……」と私。
「あら、気持ちいい」と妻。
少し痛みを覚えるところまでと書かれているので何度か続けてみる。次は横バージョンである。壁に手を当てて身体を曲げて行く。これも痛い。痛いがやり終えた時には楽になったような気がしていた。効果があるように思えてくる。
「いいねぇ……」
「そうでしょ」
「痛いけど、身体が動くようになってきた気がする」
「あまり無理しちゃ駄目よ」
「いや、これはいいよ。即効だなぁ」
夕方には見事に最悪の状態を脱していた。「良かったぁ」と思った。それもこれもみんな妻の言うことを聞いたからである。「これからは何でも妻の言うことを聞くようにしよう」と感謝の気持ちで一杯である。
                                 (平成29年作)

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冬日

描きかけの画布に溢れし冬日かな



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初めて東京北区のあっちゃんの家を訪問した。あっちゃんの顔は忘れている。見たら思い出すだろうとは思いつつも、自分の記憶力の悪さを知っているので会うまで自信がない。実に43年振りである。呼び鈴を押すと、すぐにドアが開き「いらっしゃい、すぐに分かりましたか?どうぞ、どうぞ、入ってください」と迎え入れてくれた。電話の声と同様、とても気さくな人である。顔を見てもすぐには思い出さなかった。あっちゃんは会社のホームページなどで私の写真や動画を見ているので「あの頃と変わらない」などと言ってくれるのだが、なにせ43年である。20才の私が63才なのだから浦島太郎の騒ぎどころではない。あっちゃんも25才が68才である。しかも、ビール箱を並べた部屋で「まずい所を見られたなぁ」と思いながら会っていたのだから、正しく記憶にインプットされていたとは考えにくい。部屋に通されて「なるほど、この人だったなぁ」と思い、ご仏壇にお参りし、この度のお礼と母がお世話になっていることへの感謝を申し述べ、お茶が出される辺りでようやく記憶が蘇ってきた。
「40年前とはいえ、とんでもなく散らかっていたでしょうね」
「いえ、いえ、きれいにしていましたよ。伺う前に連絡しておきましたから」
あっ、そうか、来ることが分かっていたのか。抜き打ちではなかったのか。そうだよなぁ、そんな失礼なことをこの人がする訳はないよなぁ。よかった。それにしても40年前のことがなぜにこんなに気になるのだろう。自分に記憶がないので「ああ、こんなことがありましたよねぇ」とやられるのが少々怖いのである。あの時代の自分に全く自信がない(笑)。今も基本は同じなのだが……。

部屋は油絵で一杯だった(写真)。見なかったが隣の部屋も作品で一杯だそうである。油絵を始めた経緯を聞いた。東京で一人暮らしを始めた頃、たまたま自分の住まいのすぐ上に油絵の先生が住んでいて「一緒に描きましょうよ」と誘われ、絵の手ほどきを受けたそうである。初期の作品にその先生の作風が現れているという。日本画風のタッチで繊細に描かれている。その先生の息子さんが茨城に家を建て「アトリエも作ってくれるので一緒に住むことになった」と言って引っ越していったのは、その10か月後だったという。
「あの時は目の前が真っ暗になりました。ずっと一緒に描いていけると喜んでいたのですから、急にいなくなってしまい、その後、何年も描くことから離れてしまいました。何年かしてまた始めたのですが、あの時のショックは今も忘れられません」
その後、展覧会に出品するようになり、賞などももらい、今では絵を描いていない自分は考えられないという。
「年明けに必ず絵を見に来てくださいね。いい感じで飾られていますから」
会社に訪ねて来てくれるようお願いして、お暇させてもらった。あっという間の2時間半。43年という年月を一跨ぎしたような気がしていた。
                                 (平成29年作)

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淑気満つ

薔薇の絵を飾りし客間淑気満つ



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年末の運送業者の忙しさもあってか、絵が届いたのは電話してから2週間の後のことである。その間の待ち遠しかったこと。飾る場所は決めていたのだが、壁が弱そうなので天井のボードを外して梁の鉄骨から鎖を垂らすことにした。人が入られない天井の更にその1メートル上の梁に鎖を掛けるのだから大変である。大人4、5人掛かっての大仕事となってしまった。額縁は懇意にしている額縁屋の社長がいるので、届いたその日のうちに運び込んで作ってもらった。「お急ぎですか」と聞くので「特急でお願いします」と言い、3日ほどで仕上げてもらった。
完成して社長室に飾られた時、自分のイメージしていたものと寸分違わぬ出来栄えとなっていた。事務所の20名には勿論のこと、来る人ごとに案内したことは勿論である。知り合いの社長に「是非見に来てください」と連絡するほどの入れ込みようである。大きさといい、色合いといい、部屋にピッタリの作品となり「これからは社長室と呼ばず、薔薇の部屋と呼ぼう」などと言い出した時には、急にみんな一斉に事務所に戻り仕事に取り掛かったものである(笑)。
取引業者の担当者が来た時のことである。
「おお、いい絵ですねぇ。誰の絵ですか?」と聞いてきた。
当然の質問である。
「いやぁ、実は……」
それからどれ位の時間を話しただろう。私の40年前の話から始まり、上野の美術展の話、油絵の話、好きな画家の話、あっちゃんの話……。
「いや、今日お伺いしましたのは……」
相手が頃合いを見ながらようやく要件を切り出してくるまで私の話は止まる所を知らない。
                                 (平成29年作)

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初夢

初夢にまみえし我の若かりし



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上野に「薔薇の絵」を観に行った翌日、母に電話をした。
「素晴らしい絵だったよ。行先が決まっていなかったら、あの絵を譲ってもらいたいと思うんだけど聞いてみてよ」
「どこに飾るの?」
「会社の社長室だよ」
「たしか、あっちゃんは絵は売ったことはないと言っていたけど、それなら電話してみるわ」
すぐに連絡が取れたようで折り返し掛かってきた。
「お前が社長になったことを伝えていなかったので、社長室に飾ると言ったら、それなら就任のお祝いにタダでやると言ってたわ」
タダという訳にはいかないが、譲ってもらえそうなことが分かったので直接話をさせてもらうことにした。番号を聞き携帯電話に掛けると不在通知になったのでメッセージを残した。しばらくして折り返し掛かってきた。
「もしもし、日向です」
「あらぁ、亮司さん、本当にご無沙汰しております。お母さんにはいつもお世話になっております。もう40年にもなりますものねぇ。覚えていらっしゃいますか、お部屋にお邪魔した時のこと。ビール箱を利用していて、凄いなぁと思いました」
「えっ、40年前?ビール箱?何のこと?……えっ!ヤバーイ」
いきなりの昔話である。しかも私の大学時代の話である。当時私が住んでいた西荻窪のアパートにあっちゃんが訪ねてきてくれた時の話から始まったのである。ヤバーイ。話をしながらも私の頭の中はあの頃の6畳一間のアパートの部屋の中に飛んでいた。ビール箱の不意打ち。
「いきなりここでその話が出るかなぁ……」
当時、故郷にも連絡出来ないようなデタラメな大学生活を送っていた。心配した母が東京に住んでいるあっちゃんに様子を見てきて欲しいと頼んだようで、アパートに訪ねてきてくれたのである。もちろんその時が初対面で私のダラシのない生活ぶりを検分されたのである。ビール箱はどこかの酒屋から失敬してきたもので部屋に並べてベッド替わりにしていたのである。そのビール箱が開口一番に出たということは、あっちゃんにとっては相当のインパクトだったのだろう。私にとってはいきなりの先制パンチである。40年前のこととはいえ、いきなり電話口で冷汗三斗の思いを味わわされることになった。
ひとまず絵を売っていただく話をまとめ、都展から戻り次第会社に送ってもらうことになったが、電話を切ったあとに大きく溜め息をついたことは勿論である。
                                 (平成29年作)

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貝焼

貝焼の生と見紛ふ焼き加減



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旅行は無事に終わったかに見えた。
鴨川グランドホテルを出て鋸山に登り「地獄覗き」などを見学し、昼食を摂って午後3時には会社に到着し解散した。翌日の日曜日は全員ゆっくりと過ごしたと思っていた。しかし、月曜日に出社すると休みの電話をしてきた者がいた。
「何だって?」
「あのバイキングの貝で当ったそうです」
「貝?食べ過ぎたのか」
「救急車で運ばれたそうです」
「あいつだけか?」
「そうです」
「当り運の強いやつだなぁ(笑)」
千葉館山の漁師料理「活貝焼き海鮮バイキング食べ放題60分」で昼食を摂ったのだが、そこの貝に当ったらしい。軽く考えていたが翌火曜日も休み、水曜日になってようやく出社してきた。凄いやつれようである。ゲッソリとしている。
「どうした。大丈夫か?」
「はい、何とか……忙しいところ休んでしまい、済みませんでした」
状況はこうである。食べた翌日の日曜日の朝に下痢が始まり、夕方になって食べた物を吐き始め、夜になって吐いた物の中に血が混じったという。慌てて救急車を呼び点滴を受け、朝まで病院で過ごしたそうである。ノロウイルスも疑われたが貝を食べた時間からしてほぼ原因は貝だという。病名は「急性胃腸炎」。胃の洗浄をするほどではなかったというが薬などはないらしく自然に治るのを待つしかないという。家に戻っても何も食べられず、食欲は湧かず、スポーツドリンクで咽喉を湿らす程度。ようやく火曜日の夕方になってオジヤを食べたそうである。
「あんまり無理をするなよ」
「ありがとうございます」
「貝に当った時の究極の対処方法を教えよう。目には目を、貝には貝を。今夜、貝を食べれば治る」
「えっ、貝ですか?」
「そうだよ。これからの季節、牡蠣鍋、生ガキ、ホタテは美味しいぞ。特に生で食べる貝は止められない(笑)」
「止めてくださいよ。もう当分、貝は食べられそうにありません」
                                 (平成29年作)

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年忘れ

年忘れ膳に山なす海の幸



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この句が閃いた時の安堵感を表現する言葉を知らない。真砂女さんの宿「海の宿」ばかりに捉われていたので、発想が窮屈になっていたのだが、忘年会、年忘れとやるうちに「海の幸」が浮かび、「膳に山なす」が口を衝いて出たのである。一瞬である。しかも最後の最後である。司会者が「社長、よろしいでしょうか?」などとマイクで呼び掛けた一瞬に出来た。色紙に書き入れた時、膳の字を食偏で書いてしまい、字が違うなぁと思いながらも、そのまま舞台に上がったものである。
「社長、講評をお願いします」司会者の勢いはいい。私に俳句が出来ているかどうかなどは気にも留めていない(笑)。マイクが渡された。
「講評を行います。俳句はまず読んだ人に内容が伝わるということが大前提です。読んですぐに情景が浮かぶというのが大切です。短い17文字しかありませんので、何を言っているのか分からないということに陥りがちですが、今日の作品はそこの所は全てクリアされていました」
「おー!」歓声が沸く。みんな、上機嫌である。
マイクを持ちながら、割とマジに話している自分がいた。一つ一つ作品の講評を行い、会場は私が点数を読み上げるたびに大盛り上がりである。85点を取った人は翌日の朝食の席でも上機嫌で「社長が認めてくれたんだから間違いない。才能ありだ」と、ビール瓶を2本も3本も並べていたものである。
「最後に私が詠んだ句を披露します。『年忘れ膳に山なす海の幸』年忘れとは忘年会のことです。今日のこの場を詠んでみました。膳とはお膳です。お膳の上に山のように海の幸が並べられているという句です。皆さんのお陰で今年も最高の業績を収めることが出来ました。忘年会の料理もこのように山盛りにすることが出来ました。来年も同じように山盛りの料理が並ぶよう、みんなで頑張りましょう」
                                 (平成29年作)

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湯豆腐

長考の早や湯豆腐の冷めてをり



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宴会が始まった。冒頭の挨拶を終え、席に着いた。飲み物はバスの中でビールを飲んできているので日本酒をお燗してもらうことにした。コンパニオンも入ってきた。乾杯があり、一気に場も盛り上がり始める。しばらくして司会者が話し始めた。
「みなさーん、これからゲームを行います。あまり酔っぱらわない前に行いますのでよく聞いてください。今日のゲームは俳句です。俳句を行ないます。五七五です。誰でも出来ますので参加してください。出来た方は手を挙げてください。色紙を渡しますのでそれに書いてください。今日のお題は「海」です。俳句の中に海もしくは海に関係する文字を入れてください。講評と点数付けは社長にお願いします。そして社長には最後にご自身で詠んだ俳句を披露してもらいます。分かりましたか?出来た人から手を挙げてくださーい」
「なに?俳句?海?えーっ!何も聞かされていない……」
会場では早くも出来た人が手を上げたり舞台に躍り出たりしている。色紙が配られて回収が始まっている。まるでプレバトである。夏木いつき先生の顔が思い浮かぶ。
「社長、お一つどうぞ」などとコンパニオンのお姉さんがお酌をしてくる。
「ひゃー、それどころじゃない。海、海、海の宿、海の底、冬の海、海、うみ、産みの苦しみ……」考えている最中に色紙が回されてくる。
「社長、採点をお願いします。コメントもお願いします」
「ひゃー、早いよぉ、自分のも出来ていないのに……」
「社長、お酒、ぐっと空けてください」
「それどころじゃないっていうのに……」
5作ほどあっただろうか。色紙の裏にコメントと点数を書き入れた。
「海を見てたそがれている溝口さん」それに対しての私のコメント「ここは固有名詞ではなく冬の人などにしたほうが良い。才能なし、25点」
「冬の海寒さに耐える防風林」コメント「季重なりにはなっているが、情景が目に浮かぶ。才能あり、85点」
「鴨川で皆様と飲むお酒おいしーな」コメント「挨拶という。鴨川を読み込んだところは良し。才能なし、25点」
「波くずれ雪にも似たりしおの華」コメント「似たりはプロ級。潮の華ではなく波の花が季語。才能あり、70点」
こんなことを書き入れながら自分の俳句も考えていたが一向に浮かんでこない。
                                 (平成29年作)

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年惜しむ

波音や真砂女の宿に年惜しむ



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12月16日(金)17日(土)、会社の忘年会を千葉の鴨川温泉で行った。会社を1時に出発し3時に到着、夕方6時から宴会が始まり寝たのが12時である。翌朝ホテルを後にしたバスの中でガイドさんから「社長、ご挨拶はよろしいですか?」と言われた。前日も話しているのでいつもならパスするところだが、一言だけと思いマイクを手にした。

「えー、皆さん、昨日はお疲れ様でした。過去何十回となく忘年会を行ってきましたが、今回は私にとって最も印象深い忘年会になったようです。本当に有難うございました。まさか、俳句が、しかもプレバト形式で行なわれるとは考えてもいませんでしたので、企画してくれた人達には本当に感謝いたします。最高の一夜となりました。
宴会もそうなのですが、実はこのホテルにも驚かされました。泊まったこの鴨川グランドホテルは以前「吉田屋旅館」と言われていたそうです。明治の頃、そこに三人のお嬢さんが誕生します。その三女の方の名前を鈴木まささんといい、10年程前に97才で亡くなられた俳人の鈴木真砂女さんのことなのです。すなわち、宿泊したホテルが真砂女さんの実家ということになります。それだけでも私にとっては感動だったのです。地下1階に真砂女さんの記念館がありました。おそらく誰も行かなかったと思いますが、私は風呂に入ってから一人でその記念館を見てきました。彼女の写真や短冊、思い出の品などが展示されていて宴会が始まる前にどっぷりと俳句に浸っていたのです。いい所に来たなぁと一人感動に浸っていたのです。
そしてあの宴会です。急に俳句が始まり、先生役を指名され、みんなの俳句の講評の後、最後に自分の一句を披露する。急に振られて一生懸命に詠んだ句、今朝起きて読み直してみましたが、なるほどいい句でした(笑)。
最高の一夜となり嬉しく思っています。今日はこれから鋸山や日本寺などを見て回るそうですが、さらに楽しい旅行になることを願っております」
                                 (平成29年作)

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屠蘇の酔

金谷の酒にも似たり屠蘇の酔



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明けましておめでとうございます。
皆様におかれましては良き新年を迎えられたこととお喜び申し上げます。
平成25年5月に始めたこのブログも皆様に支えられながら3年半を経過し、回数も400回を超えるまでとなりました。
初めの頃は認知度も低く、会う人ごとに「読んでくださいね」などと勧めたりしていたものですが、この頃は訪問してくれる人の数も増え、なんと人気ブログランキング「俳句」「ポエムブログ」部門で第1位を獲得するまでになりました。これも偏に皆様方の心温まるご支援の賜物と心から感謝しております。
これからも日常の出来事などを綴りながら、俳句に磨きを掛けていければと考えておりますのでよろしくお願い申し上げます。

高校の漢文の授業の宿題に李白の「春夜宴桃李園序」を暗記するというものがありました。若い頃に覚えたものは忘れないもので今でも諳んじることが出来ます。

夫天地者萬物之逆旅  (夫れ天地は萬物の逆旅にして)
光陰者百代之過客   (光陰は百代の過客なり)
而浮生若夢      (而して浮生は夢の若し)
為歓幾何       (歓を為すこと幾何ぞ)以下略

この詩の最後の辺りに「金谷の酒数」が出てきます。中国の西晋の石崇が金谷園で酒宴を開き、詩を作れなかった人に罰として酒を飲ませたという故事からきた言葉です。私の場合はいつも罰を受けることになりそうですが、今年もまた飽きずに酒宴にだけは出席していきたいと思っていますのでお付き合いのほどよろしくお願いいたします。
                                 (平成29年作)

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