2016年09月の記事 - ひこばえ
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ひこばえ


2016年09月の記事

三尺寝

押入れの幅は三尺寝てをりぬ



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中島のじっちゃんが寮長を務めていた美山寮には10所帯の臨時職員の家族が暮らしていた。母に聞くとその時の寮の住人の名前をスラスラと挙げていった。50年も前に、わずか3年ばかり住んでいた場所だというのに全て覚えていた。
「一階のウチの隣が渡辺さんでその隣が菊地さん、高橋さん、小林さん。向かいの中島さんの隣に佐藤さん、山口さん、小島さん、久保さんが住んでいた。二階には単身の寮生が住んでいた。しばらくして新しい興山寮が出来たので寮生はそっちに移っていき、中島さんチもそこの寮長として移って行った。一階の人達は新宮下の住宅などにそれぞれ移っていって、最後まで住んでいたのがウチだった。誰もいない大きな建物だから、夜に便所に行くのがおっかなくて困ったもんだ。美山寮はその後、第一興業という会社に売られたァ」

部屋は一間で子供3人がいるのだから狭いことこの上ない。父は夜10時に出勤する3番方などもあるので寝る場所がなくて押入れの下で寝ていたという。押入れの壁はベニヤ1枚で、その裏が共同の流し場になっていた。寝ていても人の声は聞こえてくる。スケベな話をして笑ったりする者もいるのでおちおち寝てもいられなかったらしい。疲れ切った姿が思い浮かぶ。亡くなる前の話を書いておこう。
「虫の知らせっていうのかも知れない。あの頃はめったに服なんかは買わなかったんだけど、呉服屋の宮本さんという人が訪ねてきてジャッケットを勧めるもんだァ。父さんにも相談したと思うんだよねェ、勝手に買うわけないから。美唄にでも出掛ける時に着て行けばと思い一着買ったんだけど、服が来たら急に怒り出して『着る時はないから仕舞え』と言うもんだァ。どうして怒るのか分からなかったけど、本当に一度も着ることなく死んでしまった。死んでからそのジャケットは宮本さんに引き取ってもらったァ」
「その日、押入れを開けるとぐっすりと寝ていたァ。まじめ万太郎だから他人の倍も働いて疲れ切っていたんだと思う。2番方明けで家に戻っても誰かが休めば、寝ないでまた出掛けて行くような人だったァ。そのまま寝させておいたらゆっくりするんだろうとは思ったけど、起こさなかったら怒るだろうしと思い、仕方なく起こした。いつも食べなかったカリントウだけど、出すとお茶を飲みながら美味しい美味しいと言って食べてそれから出掛けて行ったァ。人間、疲れたら食べ物の好みが変わるってこともあると聞いていたので、それで食べたのかも知れないと思ったァ。普段は食べなかったカリントウだから、仏さんになっても供えることをしなかったけど、考えてみると最後に美味しいと言って食べた物なんだからと思い直し、しばらくしてから供えるようにしたァ」
                                 (平成28年作)

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花アカシア

訪ね来て花アカシアの家の前



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父は当初、美唄炭鉱で働こうとしたようである。油戸炭鉱が閉山し、自分の長兄が母(ばばちゃん)を連れて先に美唄に移住していたのだから当然である。父の働く場所を見ておきたいと思った母は3人の子を連れて美唄に「遊びに」行ったのである。「そこで住もうとは考えていなかったんだから、遊びに行ったようなもんだァ」とは母の弁である。
それがなぜ美唄ではなく歌志内に住むことになったのか。歌志内に親戚がいたからである。母の母親は6人兄妹でその兄が歌志内に住んでいたのである。日向常次という。母にとっては伯父である。美唄に来たついでに挨拶して行こうということになり、父と母は子供2人を連れて歌志内に向かったのである。一番下の弟は美唄に預けて出掛けた。まだ1才かそこいらである。歌志内には常次(おじじと呼んでいた)とその長女はなゑ(ばっちゃん、写真右から二人目)、その夫中島松次郎(じっちゃん、写真左端)、その子博、昌人がいた。じっちゃんは歌志内炭鉱の偉方だった人で訪ねた当時は寮の寮長をしていた。見ての通りの大男である。父母が挨拶をすると初めに聞かれたのが子供のことであり、そのことで母はひどく叱られることになる。
「どこに一番小さい子供を置いて来る親がいる。どうしても一人置いて来なければならないなら、上を置いて小さいのを連れて来るのが当たり前だろう」
母にしてみると「どこに連れていっても泣いてばかりいるし、人様に見せられるような顔もしていないので」ということだったが、そんな言い訳をして却って怒られることになる。初対面で食らった説教である。
我ら3人兄弟、そののちの一時期、ばらばらに過ごす時期がある。私は親許だが、次男は美唄、三男が中島家に預けられる。すなわち、三男(寛、写真左から二人目)はそんなことがあってからか、終生じっちゃん、ばっちゃんに可愛がられることになるのである。

初めての挨拶の場でじっちゃんから「山形と北海道に分かれて暮らすこともない。どうせ働くなら歌志内に来ればいい」と言われ、丁度じっちゃんが寮長をしていた美山寮に部屋が空いているからと言われるのである。父母にとっても我々兄弟にとっても実に人生の分かれ目ということになる。たまたまもう一部屋が空いていたので、父は油戸炭鉱で一緒だった佐藤さん一家のことも頼んで入れてもらうことにした。その家族とは不思議な縁があり、私の人生にとっても大きな影響を与えられることになるのだが、今はその話を書く時ではない。昭和33年11月に美山寮に引っ越してきた。
                                 (平成28年作)

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生身魂

生身魂朝な朝なに日を拝み



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母はこの9月25日に米寿を迎えた。大きな病気もせず、長生きしてくれていることに感謝している。母の生活振りを見ていると年齢にも拘らず、とにかくよく動く、よく働く。
朝起きて寝るまでひと時も休んでいる姿を見たことがない。ざっと挙げてみると次のような生活振りである。
朝5時半起床。まずは畑に行き胡瓜やトマトを収穫する。もちろん豆も南瓜も何でも植えている。その時、お日様を拝む。ご飯を炊き味噌汁を作り朝食の用意をする。庭で花を摘み仏壇に供え、水やご飯などを供える。お盆だからだろうか、私がいた時は御霊供膳(おりくぜん)を供えていた。それからお経をあげる。読経はおよそ30分掛かる。朝食を摂り、NHKの連続ドラマを見る。テレビはNHKだけのようである。私が行った時はたまたま連続ドラマを見損ねたようで、見ていない私にドラマの感想などを語っていた。食事の後片付けをする。途中思い出したように近所の友達の所へ行き、なにやら話をしてくる。畑仕事に出る。草取り、種蒔き、収穫といろいろあるらしい。昼が近づくと昼食の支度。私がいた時はお盆なので、墓参りの用意や人を迎える準備などで忙しそうだったが、いつもは老人クラブやら社会福祉協議会、お寺の用事などがあるらしい。その他に病院通いや体操教室、書道教室などに出掛けているようである。夜は食事の準備。風呂を沸かし、部屋を片付け掃除をする。食後は新聞を読み、テレビを観るらしい。妙に時事問題、政治経済に明るい。途中誰かから電話が入るとまたその話が長い。とにかくジッとしていられないタイプなのである。

3日間とも朝のお経を後ろで聞いていたが下手な坊さん顔負けの流暢さである。曹洞宗なので読経の合い間に鐘を打つのだが、これがまた妙に調子がいい。経本にはカナが振られているが全て暗記しているようで、出だしの漢字をちょっと見ただけで流れるようにお経が口をついて出てくるという。凄い境地に達しているように見えた。
お経を唱えたあと、亡くなった人達に向かってお礼を言う。まずは日向家、そしてお世話になった中島家、父の実家である田澤家の人達にそれぞれ声に出してお礼を言う。
「有難うございます。今日こうして幸せに暮らしていられますのも〇〇さん〇〇さんのお蔭でございます。本当に有難うございます。今日もこれから三度の食事を食べさせていただきます。これからも健康で無事に暮らしていけますようにお守りください。お願いいたします」
中島家の人達は私達が歌志内に移り住んだ時から本当にお世話になった人達である。まずはそこから書いていこう。
                                 (平成28年作)

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秋立つ

人死んで埠頭にひそと秋立てり



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留萌での思い出話を2つ書いておこう。
1つは釣りである。生まれて初めて船に乗って釣りをしたのが留萌である。中学生の頃だったが、炭坑の人達が連れて行ってくれるというので留萌の港から船に乗った。船は留萌の小父さん(明ちゃんの夫)が仲間に頼んで用意しておいたものである。もちろん母が橋渡し役をしたのだろう。「お前も行ってみるか」と言われ、珍しく「うん」と言ったようである。歌志内からトラックの荷台に揺られ2時間の道のり。早朝に出発し途中で気分が悪くなったが無理してそのまま船に乗り込んだ。海は荒れていて一瞬で酔ってしまった。港に戻るまで何時間そうしていたのだろう。船の床に寝て吐いていた。港へ戻ろうと自分の竿を巻き上げるとカサゴのような魚が一匹釣れていた。私の初獲物である。

2つ目は小遣いの話である。小学生の頃、留萌に遊びに行く時に母からこう言われたようである。
「留萌も大変なんだから、お金をくれるって言っても貰うもんじゃないよ」
その母の言葉を忠実に実行に移すのである。案の定、明ちゃんは帰りがけに紙に包んで小遣いを渡そうとする。それを「いらない」と断る勇気はない。何か言ったところで聞いてくれそうな明ちゃんではない。「いいから貰っとけ。母さんに言うことない」と言われるのが子供心にも分かるのである。しかし母から言われたことだけは守りたい。そこで私が選んだ方法が「そっと返しておく」である。当時のトイレはもちろん和式である。トイレットペーパーでなく、チリ紙が置かれていた。明ちゃんには私より年下の子供が3人いるので、返したお金が子供達に見つかってはどうなるかは分からない。大人に見つかるようにしておかなければならないと考えたのである。私が選んだ場所はそのチリ紙を入れた箱の下である。子供が箱を動かすことはない。大人なら掃除をしたりして見つけてくれるだろう。果たしてすぐに見つかったのか数日後だったかのかは知らない。見つけた明ちゃんは相当に驚いたらしく、すぐに母に電話を寄こし、その後誰彼構わずその話をすることになる。30年経っても40年経ってもその話は繰り返された。
「あん時はビックリしたァ。めこちゃん(私の母の愛称)から貰って来るなって言われたんだべさ。それにしたって、便所さ置いとくことないべさ。わっはっはっは……亮司は昔っから、そういう子だったァ……」
                                 (平成28年作)

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玫瑰

玫瑰や遙か沖ゆく樺太船



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話が山形から北海道へと進んだので、一息入れることにする。
帰省中に訪ねた留萌のことに触れておこう。留萌には明ちゃんが住んでいる。洞爺丸事故の時、9か月だった私を油戸まで連れて行ってくれた当時20才の叔母である。昭和9年生まれなので今82才になっている。生まれた時から大きくなるまで私をとても可愛がってくれた。結婚して留萌に住んでいたので子供の頃は夏休みになると遊びに行ったものである。その明ちゃんの夫が81才でこの8月9日に亡くなり、葬儀を11日に行なった。1日間に合わず、私はその翌日に母と訪ねることになった。
昼に大町3丁目の明ちゃん宅を訪ねたが出掛けているようで鍵が掛かっていた。近くに行っているに違いないので、戻ってくるまでの間、黄金岬を見て来ることにした。子供の頃よく海水浴した場所である。車を崖の上の「海のふるさと館」の駐車場に停めたので階段を下りて見に行った。母は上で待っていた。碑の写真や岩場で遊ぶ人達の姿を写した。玫瑰(はまなす)は花の終わりかと思ったが、とても清楚に見えた。
この句はその場で口を突いて出た。田澤家が戦後、樺太から命からがら引き揚げてきた話を思い出したのである。ばばちゃんから聞いた話だろうか。うろ覚えだが、一つ船を違えれば命がなかったような話である。樺太になぜ渡ったのかは母も知らないようだったが、全員引き揚げてきて加茂に戻ったのであった。
「お前も足が丈夫なもんだねぇ」
石段を上って来た時に言われた。「母さんほどじゃないよ」と言いたかったが、昔ほど健脚自慢をしなくなった母なので止めておいた。

再び自宅を訪ねると明ちゃんが子供の車で戻ってくるのと一緒になった。最近は目が弱くなったという明ちゃんだが、子供達が「歌志内が来てくれたよ」と伝えると「亮司かぁ……」と言って道の真ん中で泣き始めた。
「こんなに遠くまで……ありがと、ありがと……」
涙が止まらなくなったのは明ちゃんだけではない。
                                 (平成28年作)

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野分雲

釣り人の帰り支度や野分雲



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母の古いアルバムの中に新聞紙が挟まっていた。昭和29年9月26日に発生した青函連絡船「洞爺丸」事故を伝える新聞記事である(写真)。死者、行方不明者合わせて1155人という日本海難史上最大の惨事である。洞爺丸を沈めたその大型台風15号はもちろん加茂をも通過している。海の側の我が家では母が一人で留守番をしていた。その日、父の勤める油戸炭鉱で運動会があり、坑夫はもちろんその家族もみな応援に出掛けていたのである。祖母のばばちゃんも出掛けている。父の一番下の妹で私にとっては叔母に当たる明ちゃん(当時20才)が我が家に寄り、まだ生まれて9か月目の私を連れてその運動会に出掛けていた。
「どうして、母さん一人だけ行かなかったの?」
「私も今それを考えていたァ。どうして行かなかったんだろう。明ちゃんはお前のことが可愛くて可愛くて、とにかく大丈夫だからって連れて行ったんだ。ばばちゃんもいることだし、大丈夫だろうと思って出したサ。帰ってくるまで心配で心配で……」
風雨が激しくなり、前の岩場で釣りをしていた人達が釣りを止めて避難して来た。知らない人が風雨を避けて家に入って来たという。
「家の入り口に店をやっていた場所があって、そこで台風が弱まるのを待っていたァ」
「店?」
「昔、店をしていたんだ。お菓子や文具、山で採れたサツマイモなどを売っていたァ。釣竿も置いていた。酒の量り売りもしていた。母親からは酒を売る時は目方を絶対に誤魔化しては駄目だと厳しく言われた。酒の量を誤魔化すと片輪の子が生まれると言われたもんだ。お客の前で枡に注いで測るんだから、お客はよく見ている。表面張力で盛り上がるまで酒を注いで売ったもんだ。戦争中、物が配給になる頃までやっていたァ」
ようやく風が治まってからみんな帰ってきたという。あとで聞いた話では運動場のテントが空高く舞い上がったとか。「風速42メートルの風が吹いた」と、なぜか細かい数字も覚えていた。あれ以来、子供はどんなことがあっても側に置いておこうと思ったという。

油戸炭鉱は昭和32年に閉山した。そこで働いていた人達は方々に働き先を見つけて散って行った。美唄、歌志内、夕張と炭鉱景気に沸いていた北海道が移転先に選ばれた。父は最初、油戸の第二炭鉱に勤務する予定だったが、そこもすぐに水が出て働けなくなってしまったらしい。会社から勧められたのが常磐炭鉱である。父はそこに単身で行く予定だったが母が泣いて止めたので断ったという。次に紹介された北海道行きの時は決心したようで「今度はお前が泣いても俺は行くからな」と言ったそうである。
先に美唄に渡っていた田澤家を追い掛ける形で、単身、父は出掛けたそうである。母が北海道に来たのは転居のためではない。父がどんな所で暮らし働いているのか見るためだったそうである。その時、私の下に弟2人が生まれていた。3人の子供を連れて美唄のばばちゃんチを訪ねたのである。
                                 (平成28年作)

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蚊帳

蚊帳吊りて子に添ふ三国一の母



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父と母は昭和28年2月に結婚した。
新婚の頃、母は父のことをどう呼ぶかで困ったらしい。名前を呼ぶことはもちろん「貴方」などと呼ぶ術は知らない。山形県で人を呼ぶ時に使う「おめやァ」という言葉があるらしい。お前さんという意味である。母いわく、同じ「おめやァ」でもイントネーションを少し変えるだけで意味は違ってくる。優しく言えば愛情表現だし、きつく言えばそれなりの意味になる。父を呼ぶ時はもちろん優しく言ったという。分からないではないが、やはり母の屁理屈のように聞こえてくる(笑)。現に父からは「旦那をつかまえて、お前呼ばわりはなぁ」と言われたようで、その後「おめやァ」も使えなくなったそうである。困り果てた母の顔が思い浮かぶ。その年の12月に私が生まれたので、自然に「父さん」という呼び方に納まっていったそうである。ちなみに父は母のことを「みー」と呼んでいたそうで、私が今妻を呼ぶときと同じ呼び方なので驚いたものである。母の名前は美枝子であり、私の妻の名はみどりである。
結婚して初めての父の給料についてである。田澤家の家は加茂水族館の元の場所の向かいの坂の上にあった。なにせ11人兄弟である。亡くなった人もいれば独立していた人もいただろうが、連れ合いもいれば子供もいる。大家族である。その家を父が建てたらしい。住宅ローンを組んだので、そのローンは結婚しても自分で返していくといい、母も了解していたらしい。父は結婚して初めての給料を何も言わずに神棚に上げたという。当時、母も働いていたが、人が稼いだ給料をどうしたらいいものか見当も付かなかったらしい。使っていいものか、どうしたものか途方に暮れたという。父も一言ぐらい言えばよさそうにも思うが、何とも初々しい話にも聞こえてくる。
ちなみに母は丸通を解雇されたあと、農協に勤め、農協の閉鎖のあとは信用金庫に勤めていた。いくら昔の話とはいえ、身寄りもない母が信用金庫で働けたのは陰に母の父親の力があったのではないかと思うと話していた。
田澤の家でみんなと一緒に食事をする機会が多くなった。それまでの一人の食卓からは劇的な変化である。
「いっつも宴会をしているように見えたァ。一汁一菜の食事だったけど、ホントに楽しくて淋しさから解放されたァ。嬉しかったァ。ババちゃん(父の母親、私には祖母に当たる)は暖かく迎えてくれて、女一人増えたところで何の問題でもないと笑ってくれて有難かったァ」
その年の12月に私が生まれることになる(写真)。
                                 (平成28年作)

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白地

白地着て三国一の婿なりき



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「母さんの話にはいつも母親は出てくるけど、父親という人は出てこないねぇ」
「それはお前が聞いてきたことがないからサ。聞いてこないことを話すこともないし……」
「どういう人だったの?」
「今泉の斉藤亀五郎という人だァ。通産大臣から何回も表彰されるような人で灯台守をしていたァ」
あっさりと話し始めたので「ふんふん」と聞いていたが、内容は軽いものではない。当時の世相、加茂の習慣に思いを致さなければ理解出来そうもない話である。森敦著「われ逝くもののごとく」を読んでいたので「ふんふん」となった部分もあったようである。

その後、ようやく父との出会いの話になっていく。おそらく二日目の夜になっていたかと思う。規則正しい生活習慣を身に付けている母は夜の11時近くになると「さて、寝るとするか」と急に話を打ち切ろうとする。血液型B型のマイペースな性格の持ち主である。そして本当に打ち切る(笑)。
父の姓は田澤である。11人兄弟の6番目で、加茂の隣町の油戸炭鉱で働いていた。
「どうして田澤でなくて日向なの?」
「そりゃ、日向の家は私だけなんだから家を継ぐのは当たり前だサ。向こうはたくさん居るんだから……」
「なるほど……」
お見合いの話を持ってきてくれたのは、父の伯父に当たる人だという。父の母親の末の弟で普段は物も言わない静かな人だが、話がある時は少し酒を飲んで来る。酒が入らないと話せない人だったらしい。母はそれが少しいやだったという。隣の家の人が違う見合い話を持ってきてくれたそうだが、それは断ったという。それでその人とは少し気まずくなったのだが、のちに父の人柄を知る所となり最後は「三国一のムコさんだ」と褒めてくれたそうである。三国とはどこの国のことかと思ったが、調べてみると世界一のことを言うらしい。勤勉実直、よく稼ぎ、本当に真面目な人だったようである(写真)。
家の近くの「ヨシド」という店の二階でお見合いをしたという。お見合いする前に、やはりどんな人かと気になったらしい。田澤家のどの人だろうと家の前を通る時に眺めていたらしい。油戸炭鉱に向かうトラックの荷台に乗る男達の中から、あの人が私のお婿さんに違いないと思った人がいたらしいが、それは父ではなく、父の長兄の息子だったというからとんだ人違いである。のちのちの笑い話となったようで、私もその話は何度か聞いている。
                                 (平成28年作)



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三光鳥

三光鳥兄の御霊を悲しめり



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13才年の離れた兄は母親が亡くなった2年1ヶ月後の昭和22年12月19日に亡くなっている。病名は脊椎カリエス、享年32才である。
もともと兄は横浜の東芝鶴見工場で働いていた。どんな仕事をしていたのかは聞いていないという。戦争中ではあるが身体が小柄で弱かったので甲種合格とはならず、昭和19年に奉仕袋を持ってひっそりと出征していったという。行先は満州牡丹江省で輜重兵として馬の世話をしていたらしい。しかし現地で風邪を引いたのが元で肋膜炎を患い、本国に送還される。初めは弘前だったが途中須賀川の療養所に移された。母親が亡くなった後は妹一人を置いておく訳にもいかず、無理をして加茂の実家に戻ってきたが、病状は一向に良くはならずいつも2階で寝ていたそうである。
亡くなる年の5月からは庄内病院に入院しなければならなくなった。当時、母は丸通で事務の仕事をしていたが看病で会社は休みがちとなっていた。戦争が終わり、兵隊さんが大量に戻ってくる時代である。休みがちな女性など必要でなくなったようで、ある日上司が訪ねてきて解雇を言い渡されることになる。
「いくら解雇といったって、その月の給料はもらえるもんだとばかり思っていたァ。支払えないと言われ、ほんとに途方に暮れたァ。職も失い、お金も無く、病人を抱えてどうすることも出来なかったァ……」
病院でも兄の病状は日に日に悪化し、身体から膿が出るようになる。その洗濯は母が行なったそうである。当時は今のようなゴム手袋もなかったので洗濯物にクレゾールを付け素手で洗うのだが、あまりの汚らしさに人がいない時間にこっそり洗っていたそうである。病院の人からも、母に病気がうつることを心配して「もし身体に変調があったらいつでも言ってきなさい」と言われたそうである。
亡骸はリヤカーに乗せ、鶴岡まで運んだという。死亡証明書をもらい荼毘に臥そうとするのだが、未成年なので誰か身寄りを連れて来いと言われたそうである。身寄りは誰もいないので頼み込むしかない。役所でも可哀相と思ったのだろう、何とか手続きをしてくれたそうである。18才で天涯孤独の身となったのである。
病院から家に戻ると当時飼っていた猫が野生化していた。家中が酷い有様で子猫まで産んでいたという。顔を見ると跳びかかってきたので、あれ以来、猫は嫌いだという。
                                 (平成28年作)

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盂蘭盆

盂蘭盆や幼なに聞きし母の唄



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「そもそも、父さんとはどうやって出会ったの?」
「ああ、そこからか……それを話すんだったら、その前に母さんの親のことを話しておいた方がいい。母さんの母親は昭和20年11月2日に亡くなったんだけど、ひどい喘息持ちでねぇ……」
その当時住んでいた家は今も現存する。加茂水族館がクラゲで有名になり大勢の観光客で賑わっているが、水族館の住所は鶴岡市大字今泉字大久保657-1である。私が生まれた家が653-1であれば、いかに目と鼻の先であるかが分かる。小さな二階家で、そこで母親と13才年上の兄と3人で住んでいたのである。
「夕方になると喘息が酷くなって凄い咳き込みが始まるんだァ。一緒にいた友達もそれが始まると怖くなって帰っていくんだけど、自分でもホントに淋しい気持ちになったもんださァ。時に調子の良いこともあり、そういう時は母親も気分が良いようで鼻歌みたいなものを口ずさんでいたァ。母親が歌う時はホントに朗らかな気持ちになったもんだァ。家に一人でも病人がいると暗い家になるというけど、ホントだァ」
母親が口ずさんでいたという歌の話になった。
「米を粗末にする人がいるけど、そういう人を見るのはイヤなもんだ。気が知れない。米のとぎ水を流す時、流しに一粒でも流さないようにしてきたけど、それは母親が歌った唄で覚えたような気がする」
その歌を口ずさんでくれた。母が歌うのを聞くのは何年振りだろう。初めてということはないだろうが記憶がない。

『お米ナ 一粒もヨ 粗末にするなヨ 八十ナ 八度のヨ チョイト 手がかかる』

歌い終わって母は「この歌を聞くと不思議な気持ちになるもんだァ。母親に抱かれたような、親恋しの気持ちになるもんだァ。80を超えて、初めてこういう気持ちを知ったァ……」
母は「お米の唄」と言っていたが、果たしてそのような歌があるのかどうかスマホで検索してみた。「お米一粒も粗末にするな」と入れてみた。すると、すぐに「籾摺り唄」がヒットした。山形県民謡とある。掛けてみた。
「ああ、これだァ……初めて聞いたァ……」
私が横浜に帰るまで何回掛けたことだろう。その度に母は母親のことを思い浮かべていたに違いない。
(注)写真右は母と祖母、左は母の兄である。母が小学生の頃のものだろう。
                                 (平成28年作)

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帰省子

帰省子に山と盛られし馬なんこ



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この盆休みに北海道歌志内市の実家に帰省してきた。妻は用事があるというので一人旅である。一人は気楽でいいのだが、何でも自分でやらなければならないのが大変である。まずは飛行機の乗り方である。キップというものがない。プリンターから吐き出された用紙のバーコードで搭乗手続きをするという。
「キップはいらないの?」
「何言ってるの、前にもやったことがあるでしょ!この紙一枚で大丈夫。もしこの紙を失くした時のために確認番号を教えておくから手帳にメモしておいて」
妻の口調はキツイ。前にも同じことをやっているのに全く覚えていないというのが不思議らしい。私の頭の中を考えるに、興味のないものには記憶という機能は働かないらしい。紙を失くさないということを肝に銘じた。
千歳空港から滝川まで行き、予約しておいたレンタカーを借りる。帰省中、留萌に行ったり墓参りをしたりするのに車が必要なのだ。それにしても、このレンタカー屋の位置にはいつも迷わされる。町が碁盤の目ではなく斜め模様になっているからである。
「もっと駅の近くに移転したほうがいいよ」と来るたびに文句を言う。文句を言う割にはいつもそこにするのだから、それほど悪いお客ではない。

母は今か今かと私を待っていたに違いない。風呂を沸かし、料理を作り、焼酎も買っておいてくれた。少し背が小さくなったような気がした。
「まず、風呂サ入ればイッショ」
イッショとは「いいでしょう」の意味である。妙に熱いお湯を水でうめながら汗を流した。風呂を出るとテーブルに「なんこ」(写真)が用意されていた。大好物である。馬の腸を味噌仕立てで煮込んだ歌志内の名物料理である。子供の頃から食べている物が今さら名物と言われてもという感じはあるが、閉山後の町おこしには持って来いだったのかも知れない。
「今回はいろいろと聞いておきたいことがあるから教えてね」
「何を?」
「山形のこととか、父さんが死んだ時のこととか……今まで何度も聞いてきたかも知れないけれど、今回はしっかり聞いておきたいから……」
「そうだよ。何でも正しく知っておくことはいいことだ」
意外とすんなり了解してくれて、三日間に亘る昔語りが始まったのである。
                                 (平成28年作)

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山滴る

慰霊碑に刻む父の名山滴る



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社内報、平成16年7月号に書いた「私の故郷(後編)」である。

『何年ぶりかで訪れたふるさとの町は想像以上に凋落が進んでいた。大正末期いらい、石炭一筋に栄えてきた町だが、戦後の復興期を過ぎるころから重油の進出に押され始め、一時期大小十指を数えた炭坑がつぎつぎと姿を消していった。(中略)この町に産業と呼ばれるものは、もう全く何ひとつ残されていない。(高橋揆一郎著「虫の墓」より)
                       ***
昭和32年、北海道の歌志内市に移り住んだ。まだ炭坑が活気にあふれ、市の人口も4万人を超えていた時期である。父と母、4才の私と弟2人の5人家族だった。石炭を積んだ貨車が走り、たくさんの炭鉱夫が町に溢れ、あちこちにズリ山があり、採炭機が回っていた。長屋の煙突はいつも真っ黒い煙を吐き、町を流れる川は黒く炭川と呼んでいた。
私が小学1年生の時、炭坑の落盤事故で父が亡くなり、以来、母の手一つで育てられ大学まで出してもらった。言うまでもなく母に対する思いには特別なものがある。今のうちに親孝行しておかなければならないといつも思っている。
大学に入学するため上京した昭和46年頃というのは、閉山が相次ぎ、人口もどんどん減っていった時期で、帰郷するたびに町の様子は変わっていった。今では人口も6000人を下回り、日本一のミニ市になっている。北海道の中央に位置しながら、一番片隅に追いやられたような町である。
冬は雪に覆われる。山々が芽吹き始める春の訪れをいつも心待ちにしたものである。歌志内は面積の75%が山で、山の間を流れる川に沿って細長く拓けた町である。今はお盆の頃だけが少し賑やかになる。遠くに離れた人達が家族連れで墓参りに戻ってくるからである。線香の香りが山を蔽う。
炭坑がなくなり、長屋も解体され、ズリ山にもいつしか草木が生え、炭川もきれいに澄んだ流れとなっている。
高橋揆一郎の作品に昭和初期の歌志内の様子を描いたものがあり、緑に覆われた美しい山中が描かれている。今、歌志内では町おこしに懸命のようだが、炭坑が無くなってしまった今となっては、昭和初期にあった自然がいっぱいの美しい町に帰っていくのもいいのになぁなどと勝手に思ったりしている。私の大切な故郷である。』
(注)高橋揆一郎(1928~2007)小説家。小説「伸予」で第79回芥川賞受賞。歌志内出身。写真は氏の画文集「帽灯に曳かれて」の表紙に描かれたものである。
                                 (平成13年作)

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蟹の棲む断崖を背にわが生家



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社内報、平成16年5月号に書いた「私の故郷(前編)」である。

『母に薦められて森敦著「われ逝くもののごとく」を読んだ。山形県鶴岡市にある小さな漁港町「加茂」のことが詳しく描かれている。私が生まれた町である。
2年前の5月連休に妻と二人でその加茂を訪ねてみた。
新潟から羽越本線で日本海沿いを走る。電車が日本海を離れ庄内平野に入ろうとする時、左に荒倉山、高館山という山並みが見えてくる。その山々の向こう側に隠れるようにしてひっそりとあるのが加茂である。
右手に月山を見ながら庄内平野に入る。鶴岡駅で下り、車で湯野浜温泉まで行く。そこで見る夕日が美しい。
翌朝、旅館を出て加茂まで歩いてみた。小説の中で主人公のサキ(女の子)が歩いた道だ。振り返ると遥か彼方に鳥海山が見える。小説には太平洋戦争の頃の加茂の様子が描かれているが、今も町並みはその当時とほとんど変わっていないようである。
1時間ほどで加茂に着いた。まずは自分が生まれた家に行ってみた。外壁は新しくなったようだが、形はそのままだ。小さな家だ。記憶にはないが、その前で遊んでいる私の古い写真が残っている。それからサキの家を探してみたいと思った。母が一緒に遊んだというから近くにあるに違いない。
「サキの家だば、どこサあんのだろ?」と庄内弁で誰かに訊いてみたい気もしたが、さすがにやめておいた。小説を読んだだけでそれらしきものを口に出来るのだから、私の中には今も庄内弁が生きているように思う。
小さな港を囲むようにして古い倉庫や民家があり、昔は遊女屋だった木造の二階屋が並んでいる。狭い集落にもかかわらず、お寺があちこちにあり、小説に出てきたお寺にも行ってみた。
加茂には4才までいた。父の勤める油戸炭鉱が閉山となり、親戚を頼って北海道に移り住むまでの短い期間だった。もし両親が北海道へ移らなかったとしたら、どうだっただろう。ここで育ったのかも知れないと考えてみると、ちょっと不思議な感傷にも捉われてしまう。
2泊3日の旅。レンタカーを使ってあちこち回ってみた。森敦が長く滞在し彼の文学記念館もある注連寺や湯殿山。龍神様を祀る善宝寺。鶴岡市にある致道博物館。酒田まで足を延ばして西郷隆盛を祀る南洲神社などを回ってみた。妻にとってはさぞかし退屈な旅行だったろうが、私にとっては自分のルーツを探るとても貴重な旅となったのである』
(注)森敦(1912-89)小説家。小説「月山」で第70回芥川賞受賞。写真はその旅行で高館山から生家の方を写したものである。
                                 (平成14年作)

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