2016年08月の記事 - ひこばえ
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ひこばえ


2016年08月の記事

紙風船

紙風船飛ばし薬を匂はする



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平成12年7月号の社内報に載せた「たこの吸い出し」という文章である。

『母の話によれば、むかし我が家にも富山の薬売りが来ていたという。柳行李を担ぎ、玄関先で商いをしていたそうである。しかし残念ながら当時4、5才だった私にはその記憶がない。ただ、土産にもらった紙風船で遊んだことだけをうっすらと覚えているだけである。
その薬箱の中に「たこの吸い出し」という膏薬が入っていた。今となってみれば何ということもないただの塗り薬だが、あの頃はそれを付けると言われただけで怖くなり泣き出してしまったものである。何があんなに恐ろしかったのかは定かではないが、「吸い出す」という言葉に空恐ろしい想像を掻き立てられていたのかも知れない。
あれから早や四十年が経った。先日、我が家の薬箱の中にその「たこの吸い出し」を発見して大いに驚いたものである。実に四十年ぶりの再会ということになる。箱の能書きを丹念に読み、蓋を開け、匂いを嗅ぎ、少し肌に塗ってみたりなどして、ようやく「なーんだ」ということになった。
今度、母に会ったとき、どうしてあんなに怖がってしまったのかを聞いてみようと思う。
それにしても四十年も忘れることのなかった「たこの吸い出し」という命名には今更ながら感服するばかりである』
                                 (平成12年作)

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熱帯夜

熱帯夜覚めて俗世に少し老ゆ



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先日「かってなよしこちゃん」のことを書いてみたところ、どんなものか読んでみたいという声もあったので4作だけではあるが載せてみることにした。ちょうどオリンピックが終わった所なので、その辺りの作品を選んでみた。写真が小さくてよく見えるかどうか分からないので念のために内容を簡単に説明しておこう。寝そべってテレビを観ているというのが3作もあり、私のだらしのない生活振りを反映している(笑)。
1番右側の作品は「2002FIFAワールドカップ」と書かれていて14年前の作品である。人気のベッカムに夢中のよしこちゃんが飼い犬のポチに「今日からはお前の名前はベッカムだよ」と言っている。急に人気者の名前に変えられたポチが「トホホ」とつぶやいている。ちなみにこのポチは過去50作の何回かに登場しているが、この後ろ姿以外の形で出てきたことはない。
2番目の作品もサッカー観戦である。夜更かしをするよしこちゃんの頬っぺたにニキビが出来てしまう。年頃の女の子なのである。慌てたよしこちゃんはサッカーファンがみんなやっていたペインティングで日の丸を描き、ニキビを誤魔化そうとする。
3番目の作品はオリンピックのテレビを見過ぎて目がかすんでしまったよしこちゃんの検眼結果である。〇が五輪に見えるという。
左側の作品はグラグラしてきた歯に糸を結んで、一気に引き抜くという昔ながらのやり方を教わったもののイマイチ勇気の出ないよしこちゃんである。
いずれも他愛のない内容であるが、一読して分かるようには描かれている。

社内報には4コマ漫画のほかにも様々なコーナーがあった。特に「私の入社した頃」と「私の故郷」は従業員それぞれが思い入れたっぷりに書くので面白いコーナーだった。私自身の入社した頃の記事はなかったが、「小文」と「私の故郷」があったので載せてみようと思う。
                                 (平成28年作)

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天高し

天高し日本一と褒めらるる



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8月20日(土)、神奈川公会堂で第4回「神奈川県倫理法人会活力朝礼コンテスト」が開催され、当社も現場中心の職場横断若手チーム13名を編成して参加した。従業員と共にご家族の方々にも大勢応援に駆けつけていただき、日頃の鍛錬の成果を如何なく発揮出来たようである。結果、見事に「最優秀賞」の栄冠に輝き、終了後にはたくさんの人からお褒めの言葉をいただくことになった。
「感動した」「素晴らしい」「鳥肌が立った」「美しかった」「日本一だ」
いやはや絶賛の嵐である。特に賞賛されたものに「3分間スピーチ」がある。その内容を掲げておこう。250人の前で行なったスピーチは本当に感動ものだった。

『3分間スピーチを始めます。会社でこの活力朝礼を始めて約2年が経ちました。初めの頃はなかなか声を出すのも難しく、ぎこちない感じがしていました。職場単位でやっているのですが、全体的に盛り上がりません。お辞儀をするのもバラバラで、輪読も小さな声で読むだけです。
「会社がやれというので、やっている」というのが正直な所だったかと思います。
事務所に呼ばれて何名かずつで練習しましたが、練習の時は大きな声が出ても、いざ現場に戻ると小さな声に戻ってしまいます。やはり皆がその気になっていないのに、自分だけがやるというのは抵抗があったのかと思います。
しかし、ある時から急に変わりました。この中の何名かだと思いますが、いきなり大きな声を出し始めたのです。それまで周りの人に遠慮しながらやっていた所を、急に大声でやり始めたのですから驚きました。それと同時に「偉いなぁ」と思いました。
やはり、いいことは人がどう思おうとやるべきなのです。
私もその人と同じように大きな声を出すようにしました。それから、いろいろな役もやるようにしました。私は板金職場という部署にいるのですが、本当にいい感じで毎朝朝礼を行っています。

朝礼をやるようになってから、職場のコミュニケーションがよくなったように思います。一日の作業内容の説明もありますし、問題が起きた時も話があります。
それまではバラバラと掛かっていた仕事も話し合ってからやるようになりました。
一日の初めにきちんとした朝礼をやるというのは気持ちのいいものです。
これからも、しっかりと続けていこうと思っています。3分間スピーチを終わります』
                                 (平成28年作)

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滴り

滴りや洞の奥へと追ひ詰めし



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駐車場には先客の車が1台停まっていた。4人の若者が大きな声で騒いでいた。私の姿を見てすぐに彼らは洞窟の方へと歩き始めた。大声で話したり笑ったりしている声が霧の中に遠ざかっていった。しばらくして私も歩き始めた。看板に「しとどの窟(いわや)まで徒歩20分」と書かれていたので往復1時間と当りをつけ、車に戻ってお茶を持ってきたのだが、あとあとこれが正解だったことを知る。
道に蛍袋などが咲いていた。写真など撮っていると先に行った若者たちの声は完全に聞こえなくなった。城山隧道というトンネルがあり、その向こうは霧で真っ白である。少し心細くなってきた。その先に広場があった。たくさんの仏像や石碑が並んでいた。いよいよ、そこから洞窟に下りて行くようである。「しとどの窟まで四〇〇百米」という石柱を見つけた。40キロメートルのこと?石を彫るというのにこのような単純な間違いをしていいものだろうか。建てる時に誰も気が付かなかったのだろうかとも思ったが、実際に下りて上がってきた時の思いは40キロメートル踏破だったので、あながち間違いとも言えないと思った。一方的に下りて行くだけの坂道である。道の回りにたくさんの石仏が置かれていた。崩れたものもあれば、首のないものもある。何かの信仰なのかも知れない。時折、濡れた草木に触れてヒヤッとすることがあった。あの若者たちも通ったに違いない。一人きりなら怖いような気もした。このような場所に隠れた頼朝主従も凄いが、それを追い掛けてきた平家方も凄いと思った。そろそろ終わりだろうと思いながらも道はどんどん下って行った。ようやく下に着いた時、彼らの声が聞こえてきた。挨拶のあと、話が始まった。
「どこから来たの?」
「僕は川崎ですが、こいつは埼玉です」
「随分と遠くから来たねぇ。なんだって、こんな山奥まで来たの?」
「ここは心霊スポットなんですよ。チョー有名です」
「そうなのか」
「おじさん、今来るとき、首のない地蔵を見ませんでしたか?」
「あったなぁ……」
「いくつ見つけましたか?」
「二つ、三つあったんじゃないか?」
「ヒヤー、おじさん、ヤバイですよ。三つ見つけたら死ぬんですよ」
「ヒヤー、それはまずいじゃん」
「大丈夫です。あそこから落ちてくる水を飲めば助かるそうです(笑)」
彼が指差した水とは「しとどの窟」の中央を落ちている水であった(写真)。
彼らが居なくなり、静かになった洞窟で私が最初にしたことはその水を飲むことだったのだが、お蔭で私は今も生きている。
                                 (平成28年作)

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夏霧

山道はみな夏霧の中へ消え



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城願寺を出て湯河原駅前の土肥実平像を見ようとしたが駅前では大規模な改修工事が行われていた。随分と大がかりな工事のようで広場全体に柵がされて、もちろん像には近づけない。遠くから写真を撮ってみたがイマイチである。この像を写真に収めようとすると余計な背景が入ってくる。駅の建物が入ったりビルが写ったりと、どうしても像の歴史性が薄れるのである。私なら背後に大きな壁を作るか木々を植えるのだが、どうだろうか。とても立派な夫婦像なので写真を撮る時のことも考えてもらいたいと思ったものである。
この実平像、実は駅を出てきたお客様にお尻を向けている。後ろ姿である。湯河原温泉に来てくれたお客様を歓迎している訳ではなさそうである。佐奈田霊社でもらった小冊子にはそのことを「伊豆山神社から土肥館へ来る頼朝を迎える方向を見ている」と書かれていた。

次の目的地は奥湯河原の山の上にある「しとどの窟」である。温泉街を走り抜けた。途中、昨年倫理法人会の集まりで宿泊したホテルの前を通った。その二次会で飲みに行ったスナックもあった。万葉公園の横を通る。黛まどかさんを思い出す。あの時一緒だった「饅頭」こと田中さんはどうしているだろう。いろいろお世話になったシングソングライターの「さいとう眞由美」さんは元気だろうか。まだ一年も経っていないというのに遠い昔のような気がする。昔泊まった「伊藤屋」の前を通る。確か島崎藤村ゆかりの宿である。もう30年以上も前のことである。奥湯河原に入り日本飛行機の保養所の前で車を停めた。10年前のその日、句会の皆さんと泊まり、なっちゃんの誕生を知った場所である。「白駒の隙を過ぐるが如し」である。
カーナビの案内通りに車は椿ラインへと入って行った。ずっと上り坂が続く。しかも蛇行の連続である。一歩間違えれば谷底というようなカーブをいくつも越えていく。運転が下手な私には飛んでもない所へ来てしまったような気分である。唯一助かったのは、後続の車がなかったことである。坂道でピッタリと後ろに付かれると否応なく緊張する。対向車とすれ違うこともなく、自分のペースで上って行けたのは幸運であった。途中、霧に覆われて最徐行したこともあったが、無事に「しとどの窟」の駐車場に到着し緊張から解放された。車から降りて深呼吸したものである。
                                 (平成28年作)

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茂り

茂りへと身を潜めけり便意急



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焦っていると身の回りに注意が行かないものである。停めた町役場が土曜日に開いていなかったのだろうかということである。最近、土日に何かのサービスをしているような役所もある。車を走らせ、しばらく行ってから気付いた。戻ろうかとも思ったが、信号待ちで前にも後ろにも車がいる。諦めるより仕方がない。
カーナビは次の目的地である湯河原の城願寺の道案内を始めている。キョロキョロとコンビニなどを探すが、こういう時に限って見つからない。どんどん、調子よく目的地に近づいていく。あまりに調子がいいので途中で観念した。お寺でトイレを借りることにしたのである。本来、お寺は人助けをするべき場所であると勝手に決めつけ、あるかどうかも分からない寺務所でお願いすることにした。「ご朱印をお願いします」という所を「トイレをお願いします」と言うだけのことである。いくら何でも無いとは言わないだろう。ガード下のような細いトンネルを通り抜け急坂を上った。まずは駐車場を探さなければならない。どこだろうと探していると大きな文字で「公衆トイレ」と書かれた文字が目に飛び込んできた。
オオオオオオオー!
私の雄叫びである。歓喜の声である。地獄に仏とはこのことだろう。土肥一族を祀る寺が公衆トイレを用意しておいてくれたのである。車を停めるのももどかしく、早速中に飛び込んだ。とてもきれいである。臭いがしない。汚れていない。清掃が行き届いている。しかも広い。素晴らしいと思った。私は一生、この寺のことを忘れないだろう。思う存分、思いを遂げたあと、外に出てベンチで少し休んだ。九死に一生を得た思いである。息を整えてからお寺をお参りした。賽銭はもちろん弾んだ。奥にある一族の墓(写真)をお参りし、戻って樹齢800年のビャクシンを見上げた。向かいの七騎堂も見学した。素晴らしいお寺である。とにかくトイレが素晴らしい。今となってはそのトイレの写真を撮ってこなかったことがとても悔やまれてならない。

この句について一言書いておこう。わが師道川虹洋先生が「ありうべき嘘」について話していたことがあった。俳句は創作である。時としてオーバーな表現をする時もあるだろうし、許される範囲内で嘘をつくこともある。あっても不思議ではないような嘘、そう表現しなければならないような嘘なら大目に見ようということだったと思う。さて、この句の場合、茂みに身を隠すようなことはなかったので全くの嘘ということになる。しかし私としては公衆トイレを見つけるまでの思いを表現すれば、一言「野糞も厭わず」だったのである。全くの嘘という訳ではなかったことだけは書いておきたかったのである。
                                 (平成28年作)

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灼く

南無と書き石灼けてをり石工の碑



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美術館を出て2つ目の寄り道の場所に向かった。「石工の碑」である。最近まで真鶴が石材業の町だったということを知らなかった。門井慶喜著「家康、江戸を建てる」という本を読み、江戸城の石垣が伊豆の山を削って造られたということを知ったばかりである。真鶴にも石切り場があったことを知り、興味を持ったのである(もちろん、真鶴の石も江戸城で使われている)。碑は真鶴町役場の前にあるということなので、そこの駐車場に車を入れた。道一つ隔てた石段の下に碑があったので「これかなぁ」と思い覗いてみたが、目的の碑は石段を上った先にあると書かれていた。石段をどれ位上るのかは書かれていない。矢印があるだけである。この場合、上るしかない。「よし、上ろう」と思った時、また少し便意を覚えた。「まぁ、大丈夫だろう」とも思った。性格は神経質なようで結構いい加減なところがある。「その時はその時でどうにかなるはず」と思ってしまう辺りは正直怖い性格である(笑)。石段の幅は広く、歩幅に合ったものではない。一段一段、妙に下っ腹に力が入る。「専祖畑道」とかいう名前の旧道で、切り出した石を港まで下ろした道のようである。
「うーん、昨日、何か変なものを食べたかなぁ」と考えていた。

そもそもはその日の朝、ホテルの部屋を出る時に始まっていた。朝食後は必ず大をするという規則正しい習慣を持っている私だが、朝食会場から部屋に戻ると部屋のトイレは誰かが使っていた。帰り支度をしながら空くのを待っていると、その人は出てきたがすぐそのあとに別の人が入って行ったのである。それぞれが大のようでいやに時間が長い。「人が済ませたすぐ後に、よく入っていけるなぁ」と感心しながらも、自分はホテルの別のトイレを使おうと考えていた。荷物を持って部屋を出たところで知り合いの社長に会ってしまった。そこが運命の分かれ目だったようである。そのまま話をしているうちにロビーに到着し、トイレに入るタイミングを失ってしまったのである。

石段を上ってようやく碑に辿り着いた。しかし考えていたのはトイレのことである。碑文を読もうとか、句材を探そうとかの余裕はない。南無阿弥陀仏と書かれていることだけを確認し、いい加減な写真を1枚写して早々に降りてきた(写真)。いつもは数える石段の数にも興味が湧かない。「どこだろう。コンビニかファミレスか。道沿いに何かあるに違いない」ゆとりを失った心で車に乗り込み、大急ぎでエンジンを掛け急発進させた。
                                 (平成28年作)

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野牡丹

野牡丹やよべの芸者の薄化粧



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源頼朝の足跡を辿る計画の中に2つの寄り道を入れた。1つは中川一政美術館である。真鶴まで来ては寄らずに帰ることの出来ない憩いの場所である。もう何度も訪ねてはいるが、来るたびに感動を新たにする。
車を停めて入ろうとすると「アトリエ見学可」の看板が目に入った。見たことがなかったので申し込んでみることにした。受付の女性にその旨を伝えると、先に館内の作品を見て来て下さいという。準備があるようである。まずは一回りすることにした。来るといつもそうするようにロビーの椅子に腰を掛け、流れているビデオを見始めた。以前に見たものが流れている時もあるが、その日はたまたま初めてのものが流れていた。中川画伯が壺の薔薇を描いている。画伯の目はしっかり実物の薔薇を捉えているが、画布に描かれる時、実物の細部への拘りは捨てているようである。迷いなく置いていく絵の具が小気味よい。壺を描いているかと思うと、薔薇に移り、すぐまた背景に手を入れたりする。描きたいように描いているのである。そのスピードが迫力を生んでいるのかも知れない。「感動を描いている」と聞いたことがあったが、正しくそのような描き方である。友好のあった武者小路実篤が人物画を描いている中川一政を見て次のようにコメントしているビデオが残っている。
「(中川一政の)絵は似ていないものもある。だが生きている。しかし似ていない所も感じは出てくる。生きている。変な所もあるが、そこも面白い」
絵は写真ではないので実物そっくりに描く必要はない。画家が感じた感動そのものを描いていくのである。

そのあと館内を見て回った。何度見てもその力強さには圧倒される。山を描いても然り、薔薇を描いても然りである。一回りしている途中、トイレに行きたいと思った。トイレは受付の脇を通った奥にある。受付に戻ると先程の女性が待っていてくれた。
「アトリエにご案内します」
「ちょっと待ってください、トイレに行ってきます」と言えば良かったのであるが、小ではなく大の方なので、中で相当の時間を要する。すなわち、行けば大だとすぐに分かるのである。これからアトリエを見て絵の話をしようというのに、大では格好がつかないような気がした。トイレは戻って来てからにしようと決め、アトリエに向かうことにした。
「何度来ても感動させられます」
「ありがとうございます。今日はどちらからお越しですか?」
話をしながら100メートルほど先にあるアトリエに連れて行ってもらった。アトリエの横に野牡丹の花が咲いていた(写真)。生理現象とはよくしたもので、時間が経つと治まってくるものである。見学を終え、美術館に戻った時には便意は消えていた。丁重にお礼をいい車に乗り込んだ。彼女は車が出るまで見送っていてくれた。「ちょっとトイレを貸してください」というタイミングをまたしても逃してしまった。
                                 (平成28年作)

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蜘蛛の囲

蜘蛛の囲のかつて主従を匿へり



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謡坂から車で2、3分の場所に「しとどの窟」があった。真鶴漁港に面した崖に刳り貫かれた小さな洞窟である。
治承4年(1180)8月23日夕刻から始まった石橋山の戦いに敗れ、箱根山中をさまよい、箱根権現に身を寄せたりしていた頼朝が、土肥、真鶴へと戻り、房州へと船出したのが28日である。すなわち、その間4度の夜を過ごしていることになる(もちろん夜も昼もなく身を隠していたと思うが……)。頼朝主従が身を隠しているのを知りながら情を以ってこれを隠し命を救った敵将梶原景時の話は有名であるが、その隠れた場所には異説があるようで湯河原山中の「しとどの窟」や土肥の「大杉の洞」などが挙げられている。この真鶴の「しとどの窟」もその時の場所だと書かれているようであるが、一目見て違うような気がした。
「こんなに狭くては隠れようもないだろう」である。
しかし、そこに立てられていた看板を読むと一概に違うとも言えないようにも思えてくる。今は幅3メートル、奥行き11メートルの狭さであるが当時は奥行き130メートルもあったといい、過去の地震で隆起する前は海に面していたとも書かれている。またこのあたりの岩を飛行場建設の資材として切り出したとあり、地形が大きく変わったことを説明しようとしている。海に面した場所か山中か、あまりにも大きく違い過ぎているが歴史書は将来の疑問などには意も介さない。

中を覗いてみた。暗くてよく見えないが何やら仏像のようなものが一体据えられている。写真を撮ろうとカメラを近づけると、いきなり耳元で藪蚊の声がした。お蔭で写真はピンボケである。それでも一枚だけは撮っておこうと牢屋の鉄格子のような小さな穴にカメラを差し入れると、またまた蚊が襲ってきた。そして自分の頭のすぐ上に大きな蜘蛛がぶら下がっているのを見つけた。
ヒャー!
世の中で最も嫌いなものを三つ挙げよと言われたら、間違いなくカマキリ、蜘蛛、バッタの類である。洞窟の中の写真を撮ろうなどと考えたのが間違いだったようである。早々に飛び出して、シャツを脱ぎ、虫が付いていないか丹念に掃ったことは勿論である。奇跡的に一枚だけ仏像らしきものが写っていたのがあったので掲げておく(写真)。
                                 (平成28年作)

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夏暁

夏暁の坂謡ひつつ笑ひつつ



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船出の浜から300メートルほど上った場所に「謡坂(うたいざか)」という地名がある。危機を脱した頼朝主従が、無事を祝い再起を願い謡い踊りながら坂を下ったという言い伝えによる。
「謡坂之記」なる石碑が立っていたので読んでみた。
「治承4年8月23日、源頼朝公石橋山に敗れ28日この地に遁れ来り房州に渡らんとす。
従う者土肥実平等総に七騎のみ。時に天未だ明けず。西を望めば兵火土肥村落に起こり、火焔空を蔽う。土肥は実平の領邑にしてその邸宅のある所なり。実平これを見て公が危うきを脱し得たるを喜び、併せて前途の幸運を祝福し舞い且つ謡いて曰く、土肥に三つの光あり、一つは八幡大菩薩、わが君を守り給う和光の光と覚えたり。二つはわが君、平家を討亡し一天四海を鎮め給う和光の光なり。三つは実平を始めとし君に志ある人々が御恩に依りて子孫繁昌の光なり。(以下略)」

我が家を焼くなら何度でも焼け。頼朝の世になったら、土肥の杉山の木を伐って家屋敷など何度でも作り変えてやると歌うのである。あとからの作り話だろうとは思うが、喜びに満ちた主従の姿が目に浮かぶようである。
家に帰って佐奈田霊社でもらった小冊子「東国武士の鑑 土肥実平」を広げてみると、その時に実平が舞った「焼亡(じょうもう)の舞」のことが書かれていた。「焼亡の舞保存会」まであるようである。現在の会員は13名、内7名で踊るのだが60~70代が中心だという。「今後、若い人が入会するよう、あらゆる機会を捉えて勧誘していく」と意気込みを語る記事も載せられていた。
どんな舞だろうかと思いユーチューブを探したところ、あった、あった、甲冑姿で扇子を広げて踊る姿が映っていた。昨年4月に行われた「土肥祭」での一コマなのだろうがゆったりと踊っている。全員女性である。あまりゆっくりし過ぎていて、少し迫力に欠けるような気がした。振り付けや動きの中のどこかに謡坂での喜びが表現されているのだろうが、今一つ伝わってこない。「謡坂之記」を読んで感じた喜びとは程遠いものに感じたが、おそらく私の鑑賞力不足によるものだろう。
                                 (平成28年作)

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土用波

頼朝主従土用波へと漕ぎ出さん



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石橋山から真鶴半島の岩海岸へと向かった。湯河原や熱海に向かう時に必ず通る場所だが今まで一度も降りたことはなかった。この海岸の名前「岩」は私の父方の祖母の名前である。子供の頃にとても可愛がってもらったので、そこを通るたびに思い出していたのである。
海岸へはすぐに到着した。海岸の駐車場を案内する若い男の人が寄ってきて誘導しようとするので「写真を一枚撮るだけだから、どこかにちょっと置かせてよ」というと、その先の船揚げ場を教えてくれた。船と船の間に車を停めて、浜辺の写真を何枚か写したあと、御礼を言おうと若者の所へ近づいていった。
「この辺りに源頼朝の船出したことを書いた石碑があると思うんだけど、どこだろう?」
「???……知りません」
「あっ、そう」
訊く相手を間違えたようである。地元の人だからといって誰でも知っているわけではない。自分で探すしかないと思った時、そのすぐ横にその碑が建っているのを見つけたのである。
「あった!これだよ」
「あっ、これですか」
いくら何でも、一日中、車の誘導をしているそのすぐ横にある石碑である。しかも相当に大きい。これが何なのかに一切目がいかないというのだから話にならない。写真を撮ろうとすると碑の前を横切って縄が一本張られていて、これでは絵にならない。
「あの縄はいつもああやって張られているの?」
「今月お祭りがあるので、そのためです」
「お祭り?」
貴船祭である。そうか、この時期かぁ。私が所属していた浜風句会でも吟行したことがあった。私は仕事があって参加できなかったのだが、相当に見応えがあったようで「日向君も来れば良かったのに……」と先生に何度も言われたものである。

石橋山の戦いで九死に一生を得た頼朝が、再起を期して船出した浜である。家族連れが早くも海水浴を楽しんでいた。能の演目「七騎落ち」を持ち出すまでもない。地元の漁師の案内で無事に安房の地に辿り着くのだが、漕ぎ出す舟に乗り込む主従の姿が目に浮かぶようである。
                                 (平成28年作)

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梅雨

薄闇の堂に飴売る梅雨の寺



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一通り境内や史跡を見た後、また本堂に戻った。のど飴を買おうと思ったのである。与一が首を刎ねられたのは刀が鞘から抜けなかったからと書いたが、一方では声が出ず、助けを呼べなかったからとの説もあるようで佐奈田霊社ではその謂れによりのど飴を販売しているのである。最初に覗いた時に本堂に誰もいなかったので、今度は中の人に声を掛けてみようと思ったのである。
やはり本堂には誰もいなかった。「飴は本堂で販売しています」と書かれているので靴を脱いで上がってみた。中を覗くと灯は点いていないが、飴を並べた台がぼんやりと見える。廻り縁を伝って社務所の方へ行ってみた。すると男の人の後ろ姿が見えた。
「すみません、飴を買いたいのですが……」
「はいはい、今そちらに行きます」
すぐに来てくれた。
「のど飴を買いたいのですが。昨日、カラオケをやり過ぎました(笑)」
「はいはい、どうぞ、どうぞ、中にはいってください。今、電気を点けます」
私の冗談は通じなかったらしい。カラオケには反応がなかった。電気といっても祭壇の上の灯なので、ぱっと明るくなった訳ではない。
「えーと、どれにしましょうか?」
「この飴と水飴と、一つずつお願いします」
「ありがとうございます。文三堂などには行かれましたか」
「一通り、見てきました」
「歴史はお好きですか。それではこれを差し上げますので読んでみてください。この霊社のことや与一のことも書かれています」
「東国武士の鑑 土肥実平」という小冊子だった。本堂から出た所で話が始まった。住職が病気で入院していること、その留守番を頼まれていること、その日10時から木遣りの奉納があること、その人達が下から上がって来るので石段をきれいに掃いたことなどを話してくれた。
「カラオケもいいですが、是非、木遣りを聞いて行ってください。素晴らしいですよ」
ようやくカラオケが出てきた。聞いていたのに敢えて反応しなかったようである。
木遣りにはあと1時間半も待たなければならないことになる。
「これから頼朝の足跡をあちこち辿ることにしていますので……」と断ったが、ようやく話が弾んできた時だっただけに申し訳ないような気がしたものである。
                                 (平成28年作)

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八重葎

矢合わせのあとの乱戦八重葎



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山を下りて佐奈田霊社にお参りし境内を見て回った。「与一塚」や「与一の手附石」「木遣り塚」、そしてなぜか「そろばん塚」まであった。さらに細い石段を下りて行くと「佐奈田与一義忠討死の地(ねじり畑)」の標識(写真)が建っていた。その先には与一の郎党である陶山文三家康を祀る「文三堂」もあった。

北条時政と大庭景親の名乗りが終わると、それぞれの先陣の者が選ばれ一騎打ちを行い、それを合図に戦が始まる。頼朝軍から選ばれたのが真田与一である。
「三浦の太郎義明が舎弟、岡崎悪四郎が嫡子、真田与一義忠、生年二十五歳!源氏の世を取り給う門出の戦の先陣なり、われと思わんやからは出て組めや!」
敵陣からは大庭景親の弟股野五郎景尚が進み出て戦は始まった。両人が馬を寄せて大手を広げて組み合ったままドッと馬から落ちると、もはや敵味方入り乱れての乱戦になっていた。二人は組んず解れつ争った。股野の徒弟が駆けつけて馬から降り、取り組む二人を透かし見て声を掛けた。
「股野殿は上か下か」
上になっている与一がすかさず偽った。
「上が景尚ぞ。長尾どの間違うな」
驚いて下の股野がさえぎった。
「景尚は下じゃ。間違うな」
与一はこの時すでに相手の首を押さえて、しきりに首を掻こうとするが、不思議なことに首が切れない。抜いた刀の鞘が固く、そのまま鞘ごと抜けていたのだから掻けないはずである。そうこうするうちに与一は首を掻かれてしまう。
「長尾新六、真田与一義忠が首、打ち取ったり……」
その頃から乱戦は次第に頼朝勢不利へと変わっていく。

その10年後の建久元年(1190)、伊豆山権現参詣の帰途にこの地を訪れた頼朝は無き両人与一と文三の忠節を偲び涙を流したと伝えられている。
                                 (平成28年作)

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山滴る

敵陣へ放つ鏑矢山滴る



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朝食後、早々に宿を出て石橋山古戦場跡へと向かった。5月に訪れた「蛭が小島」の続編をやろうというのである。
治承4年(1180)8月17日の山木判官襲撃を成功させた源頼朝は父祖ゆかりの地である鎌倉を目指して進軍し、石橋山で大庭三郎景親の軍と対峙する。谷一つ隔てた山に陣取った大庭軍の数は総勢3000、対する頼朝軍は300である。
箱根湯本の宿から15分ほどの真鶴方面へと向かう海沿いの道を山側に入った場所にあった。いやに狭い道で車1台が通るのが精一杯だったが、「古戦場跡」「佐奈田霊社」などの看板が出ていたので間違うことはなかった。猿が5、6匹、道路に寝そべっていて、車を見かけても逃げる訳でもなく近寄るまで退けようともしない。運転の下手な私には緊張させられた急坂である。駐車場に到着し、辺りを見渡してみる。目の前には相模湾が広がっている。位置関係は調べておいたので、佐奈田霊社の前は素通りしその先の山道を上っていった。今来た駐車場やビニールハウス、民家の屋根も見える(写真)。大庭軍が陣取った場所である。ここで両軍が睨み合ったのだなぁと836年前に思いを馳せていた。
戦が始まる前の大庭景親と北条時政の名乗りの様子が山岡荘八著「源頼朝」に描かれているので載せておこう。

大庭方3000が鬨の声を上げる中で、景親が源氏の陣に近づいて馬の鐙に踏ん張って立ち、こう叫ぶのである。
「やあやあ、当今日本国に、光を放って肩を並ぶる者もなき平家の御世を傾け奉らんと企むは誰人ぞや!」
すぐさま、時政が応じる。
「黙り居ろうぞ。そもそもわが君は清和天皇第六の皇子六孫王経基より九代の後胤、八幡太郎どのには曾々孫にあたる兵衛佐どのにてましますなり。かたじけなくも以仁王の令旨を賜わり首に掛け給う。関東八カ国の中のともがら、誰か源氏の御家人にあらざるや。馬に乗りて仔細を申すとは無礼千万、速やかに馬から下りて申せッ」と言い放つ。
「これはおかしや、むかし八幡どの後三年の合戦に御供して(中略)いまだに武名雷のごとくとどろく鎌倉権五郎景政が末葉、大庭三郎景親は我れなるぞ。わが勢三千、汝らのその無勢で敵対しようとはおこがましい。すぐ山を下りて伊豆へ帰れ」とやり返す。
「語るに落ちたぞ景親、その鎌倉権五郎の子孫ならば、何ゆえ三代相恩の主君に弓を引き矢を放つぞ。祖先に済むまい。早々に兵をまとめて、退るがよいわ」
「うぬッ!主でないとは申さぬわ。だが、昔は主でも今は敵、目下は平家の恩を蒙ること海山もただならず、昔のことを言い立てて降参させようとて、その手に乗るものかッ」
その頃の戦は今では考えられないほどの悠長さを持っていたようである。相手も自分も長々と名乗り合い、それから鏑矢を放って矢合わせしたのち、戦を始めるのである。山の上に立ち、石橋山方面を見渡しながら、武家政治七百年の基礎を築いた頼朝の姿をそこに見つけようとしている自分がいた。
                                 (平成28年作)

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