2016年06月の記事 - ひこばえ
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ひこばえ


2016年06月の記事

光秀忌

受けて立つ側に隙あり光秀忌



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カラオケで85点を出したということを黙っていられるタイプではない。いつも一緒に歌いに行くMさん(生命保険会社、営業所長、56才、写真)に話した。
「それは聞き捨てなりませんねぇ。日向さんが一番上手いと言っているように聞こえます(笑)」
と言うことで、さっそく歌いに行くことになった。Oさん(不動産会社、部長)Iさん(保険代理店経営)、いつものメンバーも誘って中華料理を食べてから出掛けた。何度も行っているのでそれぞれの実力は大体分かっている。しかし、点数を付けて歌うというのは初めてである。上手いと思っても意外と低い点数だったりするので、こればかりはやってみないと分からない。全員の基準は私が出した85点である。
初めにOさんが歌った。聞かせる歌い方をする。五木ひろしの「夜明けのブルース」が持ち歌である。
「ここは松山 二番町の店 渋い男の夜明けのブルース」と歌い上げる。
上手い!本当に上手い。ビブラートが効いている。さすがである。全員で拍手する。「敵わないなぁ」が飛び出す。「これは凄い点数だよ」と勝手なことを言う。しかし意外にもカラオケの機械による採点は78点であった。
「えっ!……」
「うそでしょ!」
「きっと、五木ひろし本人が歌っても、そんなもんだよ」
慰めにもならない言葉が飛び交う。
次にMさんが歌った。この人は仕事をしていないのではないだろうかと思うほど色々な歌を知っている。妙にねちっこい歌い方をする。ポマード頭が遊び人風である。そのMさんがいきなり88点を出した。満面の笑みである。上機嫌である。焼酎の緑茶割りを一気に飲み干して「お代わり!」などと言っている。
Iさんの実力は分かっているので、他の二人はほとんど聴いていない。次に自分が歌う曲の選曲に入っている。三人の歌が終わったところで私が歌うことになる。すでにハードルは88点に上がっている。フランク永井「霧子のタンゴ」を歌った。自信のある選曲だったが、1点及ばず結果は87点だった。Mさんがその瞬間一気に緑茶割りをあおった。
「……」
コメントがなかったところが全てを物語っている。その日の最高得点は彼が歌った沢田研二「ヤマトより愛をこめて」の91点であった。カラオケ屋の前で別れたが、その後ろ姿はスキップしているかのように軽やかに見えた。
                                (平成28年作)

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薔薇

薔薇一輪さして舞台の袖に立つ



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小雨模様の5月27日(金)、誘われるままに磯子公会堂へ出掛けてきた。12時半開演の10分前に到着した。受付で「出演の方ですか?」と聞かれた。もしそうなら、弁当とお茶がもらえたようである。
150人はいたかと思うが、600人収容のホールなので疎らに見えた。ほとんどがひばり世代である。誘ってくれた社長の姿を探したが見当たらなかった。特に行くとも伝えていなかったので、用事が出来たのかもしれない。結構、忙しく仕事をしている社長である。
定刻に緞帳が上がり、実行委員長、主催者側の挨拶があった。平成21年、公会堂前に「美空ひばり生誕記念碑」が建てられ、その記念に始まった前夜祭だそうで今回が8回目だという。ひばりの出身地の磯子であり、ひばりの歌を愛してきた人達の集いである。挨拶の一言一言にその思い入れの深さを感じた。
「ひばり音頭」のテープが流れ、女性5人が盆踊りのように輪になって踊った。揃っていないように見えた。開演第1曲目である。最低でも15人くらいは欲しいところである。しかも衣装ぐらいは揃えておいてもらいたかったと思った。手作り感が満載で、入場料500円の意味がなんとなく分かってきた。
そのあと、次々と歌い手が出てきた。舞台の照明は良し。色とりどりでとてもきれいである。カラオケのボリュームもエコーも申し分ない。登場する人の衣装も相当にお金を掛けている。しかし、どうしても素人感が拭えないのはなぜだろうか。やはり、ひばりの歌はひばり本人の歌声を基準に聞いてしまうからかも知れない。出てくる人、出てくる人をそんな目で見ながら、来年の自分の姿をそこに思い描いていた。
3時に会社に来客があるので遅くても2時過ぎには出なくてはならない。大体のレベルはわかったので、10曲ほどを聞いたところで帰ることにした。傘と荷物を持ち、腰を上げたその時である。聞こえてきた歌声に立ち止まった。歌い出しだけで上手いと分かった。最後まで聴いてしまったことは勿論である。なるほど上手い人はいるものだなぁと感心した。もう一曲聴いてみることにしたが、その人もまた上手い。
「うーん……」
危うく上手い人がいることを知らずに帰るところであった。自分にも歌えるなどと思い上がってしまうところであった。やはり上手い人はいるのである。美空ひばりの歌を歌おうというのである。ひばりを愛した人達がみんな上手いというわけではないが、ひばりであるがゆえに卓越した人もいるのである。
あれ以来、カラオケで「波止場だよ、お父つぁん」を歌ったことはない(笑)。
                                 (平成28年作)

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黴臭き酒場に低き流し唄



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銀行の集まりのあと、知り合いの社長さん達と4人で飲みに行った。知っている店があるというので付いて行ったが、入った途端に昭和の名残を感じた。テーブルもソファも古く店全体が黴臭い。ママ1人でやっている店のようである。
「先日はどうも」と言っているので、時折通っているらしい。
「飲み物は何にしますか?」と言うので、めいめいが好きなものを注文した。焼酎のウーロン茶割り、緑茶割り、冷酒、それと暖かい麦茶。それぞれ前の集まりで飲んでいるので口汚し程度の注文である。カラオケの操作盤が置かれ「どんどん歌ってください」という。飲み放題、歌い放題の店なのである。
他に客がいないので、さっそく1曲目が始まった。カラオケの画面に向かって横一列に座り、前にママさんがこちらを向いて座る構図である。年の頃、65才位とみた。少し疲れている感じ。化粧もそれなりで、髪もほつれている。昔は美人だったかも知れないが、今はぱっとしない年の取り方をしている。
「曲名を言ってください。こちらで入れますから」とカラオケを勧めてくる。初めての客なのに、何者かも尋ねてこない。一見の客と決めているようだ。お茶だけ飲んでいる社長が1曲目を歌った。この社長、一昔前は酒豪だったが酒乱の気があり、いろいろと問題を起こし、今はふっつりとお酒を断っているという人である。2曲目を歌った社長は妙に明るくいつも冗談を言っているタイプの人である。グループサウンズの曲などを選んでくるので、私と同世代であることが分かる。冷酒を飲んでいる社長は歌わない。聞いているだけでいいという。すなわち、誰もいない店で3人が代わる代わる歌うわけだから順番の回りが早い。入れたと思うとすぐに回ってくる。
何曲目かに美空ひばりの「波止場だよ、お父つぁん」を歌った。ママから褒められた。
「お客さん、上手ですね」
名乗っていないので、お客さんと呼ばれることになる。
「採点も出来ますから、もう一度歌ってくださいな。きっといい点数が出ますよ」
周りも勧めるので、再度歌うことにした。妙に咽喉の調子がいい。85点が出た。
「凄い!今までこんな高得点は出たことがないですよ」とママ。
お茶飲みの社長も話を重ねてきた。
「今月、磯子公会堂で美空ひばりの生誕前夜祭があります。ひばりの歌ばかりを40人位が歌います。日向さんも聞きに来てください。今年はもうプログラムも出来上がっているので駄目ですが、来年は大丈夫です。私が運営に係わっていますので申し込んでおきます。来年は是非舞台で歌ってください」
                                 (平成28年作)

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茂り

鈴の緒を振れば茂りに動くもの



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伊豆の旅を終えてしばらくした日曜日、猫の写真を一枚撮ろうとして杉田あたりを2時間ほど歩いてみた。自宅周辺はマンション群なので、猫を見かけることはない。杉田駅方面の住宅地に向かって歩くことにした。門の中などにいる場合を想定して、ポケットには煮干しを用意しておいた。たくさんいた時のことを考えて結構な量を詰め込んでおいた。家々の周囲や壁の上、路地の奥などを注意深く見て回った。ブログに書いた内容から、探すのは「黒猫」である。しかも太ってどっしりした奴がいい。メイン道路は避けて民家の密集するような場所に入って行った。空き地に群がっている姿や縁側で昼寝でもしている猫を考えていた。しかし、30分ほど歩いてみて様子が違うことに気が付いた。そんな姿の欠片もないのである。どうしたのだろうと思った。猫って、どこにでもいるものではなかったのだろうか。夕方という時間帯が悪かったのだろうか。家の中に入ってしまったのだろうか。猫はみんな家猫になってしまったのだろうか。もしかして家猫以外は保健所に駆除されてしまったのだろうか。いろいろなことを考えながら歩いているうちに杉田八幡神社に到着した。疲れたので少し休憩しようと思った。
康平6年(1063年)8月、源義家公創建という古い神社である。拝殿前の狛犬も有形文化財となっていて、特徴ある顔付きをしている(写真)。手水舎で手を清め、賽銭を上げ、鈴の緒を振った。猫の代わりにはならないが、折角なのでと狛犬の写真を撮っていたその時である。神社の前の通りを横切る黒猫の姿を見つけたのである。いたっ!
神社の前の広い駐車場に入ったようである。急いで向かった。車は2台しか停まっておらず、空き地同然である。人も誰もいない。しかし、今いた黒猫の姿が見当たらない。あれっ、どこだろう?まだ花が咲く前のアジサイの茂みの中も、駐車している車の下も覗いてみたが見つからない。塀は高く、そんな上を飛び越えたとも思われない。
「???」
どこへ行ったのだろう。見かけてまだ1分と経っていないのに……。
「狐につままれる」「狐に化かされる」と狐のことわざが頭に浮かぶ。猫のことわざが浮かんでこない。「猫の逃げ足」「猫の逃げ上手」「猫に煮干し」「猫と言えばニャー」
帰りも猫には出会うことなく重い足取りで自宅に戻ってきた。二、三日して出てきたふくらはぎの筋肉痛を猫の肉球型按摩器でほぐしながら、今これを書いている。
                                 (平成28年作)

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子供の日

子供の日強きもの名はヘラクレス



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修善寺の旅を終え帰路に就いた。子供の日である。高速道路から眺める家々に鯉幟が泳ぎ、富士山もまぢかに雲一つない姿を見せていた。あらためて頼朝の韮山、蛭が小島を見、山木の地を眺めながら走った。いいものを見た旅だったと思いつつ、次はどこの地を訪ねようかなどと考えていた。
「やはり次は石橋山だなぁ」と思っていた。
山木襲撃の勝ち戦に気分を好くした頼朝と北条軍は次に相模の大庭景親の背後を襲おうということになった。まずは味方である土肥実平の本拠地・湯河原へと軍を押し進めた。その数三百。山木襲撃時より数は増えている。源氏の嫡流を象徴する白旗をなびかせて、先には以仁王からの令旨を掲げている。大庭が平家の命令でくるなら、こっちには皇子の御命令があるというのである。いったん土肥に集結し、真鶴を通って海沿いの道を小田原方面に進んでいく。この時、大庭軍が各地の板東武者を掻き集めて三千の大軍に膨れ上がっていることを頼朝は知らない。三百対三千である。小田原から程近い石橋山で、谷一つ隔てて矢合わせが始まった。頼みとする三浦の加勢も間に合わず、脆くも敗れ去る「石橋山の戦い」である。次はその辺りを訪ねてみようかなどと考えながら運転していた。

その時である。車の中でカズ君が「お土産!」と叫んだ。そういえば旅行中、なにも買ってやっていなかったことに気付いたのである。慌てて次のパーキングエリアに立ち寄ることにした。小さなパーキングエリアだったが良くしたもので、その土地の「特産物のコーナー」はもちろん「お孫さんへのお土産コーナー」というものまで用意されていた。至れり尽くせりの日本道路サービス業である。店の中に入ってカズ君が迷うことなく選んだのが写真の「世界のカブト・クワガタ 闘虫コレクション」である。入って僅か2,3分の出来事である。いつの時代も男の子は強いものに憧れるようである。
                                 (平成28年作)

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虹鱒

身のほぐれやすき虹鱒食らひけり



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宿に戻って一風呂浴びたあたりで雨は上がっていた。ドライヤーでズボンを乾かしていると急に青空が広がってきた。あの雨は一体何だったのだろう。私と蛙を会わせるための雨だったのだろうか。いろいろなことが起こるものである。さて、魚好きのカズ君を連れてどこへ行こうかということになった。近くに水族館もあったようだが、結局は観光コース「浄蓮の滝」を目指すことになった。私自身はもう何度も来ている。会社の旅行でも来ている。その度に下の滝壺まで降りていき、また上って来るのである。まだ足腰に不安はない。過去、同じような場所で上がり降りしたいろいろな人達を思い出していた。秋保大滝でのおばあちゃん、那智の滝でのおじいちゃん、霧降の滝での道川先生など懐かしい人ばかりである。この上がり降りが出来るかどうかが人間の分かれ目のようである。
滝壺に降りる手前に鱒釣り小屋があり、これをカズ君が見逃すわけがない。滝を見るどころの騒ぎではない。「やりたい、やりたい」が始まった。釣れるとも思えないので、ひとまずワサビ味ソフトクリームでごまかそうとしたが、それはもちろん食べつつも、やはりどうしてもやりたいと言う。「釣れない時の落ち込みがこわい」と思いつつも竿を借りてきた。1時間釣り放題で釣った魚は買い取るという。食べていくことも出来るという。ほんとうに釣れるのだろうかとも思ったが、釣れた魚を持ってくる人を何人も見掛けたので意外と簡単かも知れないと思った。
渓流には人が溢れていた。あちこちで釣れている。子供も釣っている。簡単そうである。エサのイクラを針先に付け竿を出す。流れが速い。目印の浮きがアッという間に流されてしまう。上流に投げ直すがすぐに流され、思う場所に留まってくれない。そう簡単でもないらしい。そのうちに隣の人の竿にヒットする。自分の場所にはいないような気がしてくる。釣れた人の場所でやってみたくなる。場所を移動する。割り込みである。しばらくしてようやく一匹釣り上げた。やはり場所のようだ。カズ君大喜びである。終わり頃になって係の人が来て袋に入れた鱒を放流した。なんだ、そうか、養殖だったのか。もっと早く入れに来てくれよ。結局、娘がもう一匹釣り上げて終了となった。
小屋に戻るとその場で捌いてくれ、奥の部屋で焼いて食べるように言われた。ガスコンロの網の上で塩をまぶした虹鱒を焼いた(写真)。妙に網にくっつく。身が崩れやすい。しかも小骨が多い。2匹の魚を4人で分け合って食べる図柄は妙につましい。それよりも何よりも、何度か来たこの滝の滝道の脇にこんなに狭い部屋があり、そこで養殖の虹鱒を焼いて食べていることに得も言われぬ非現実感を覚えていた。
                                 (平成28年作)

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蠑螈

範頼の墓に池あり蠑螈棲む



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「赤蛙公園」から5分程の山畑の細い道を上った場所に源範頼の墓があった。歴史的には二代将軍頼家ほど有名ではないが、頼家同様修禅寺に幽閉され殺害されている。激しくなる風雨を傘で受けながら、ぬかるむ坂道を上っていった。
範頼は頼朝の異母弟に当り、義経の異母兄に当る。平治の乱で父義朝が死んだあと、出生地の遠江国で密かに養われ、治承4年(1180)頼朝の挙兵に伴ない参戦し、以降木曽義仲の討伐、平家との戦いで大将を務めるなどしている。
建久4年(1193)頼朝が催した富士裾野での巻狩りの際、曾我兄弟の仇討ちが起こる。頼朝が討たれたとの誤報が鎌倉に入り、嘆く政子に範頼は「後にはそれがしが控えておりまする」と慰めるが、この発言がのちに頼朝から謀反の疑いありと責められることとなる。歴史書に残る記述でしか推測は出来ないが、あらぬ嫌疑というような内容である。
墓は大きな五輪塔が据えられ、地元の人達により手篤く護られているように見えた。墓の手前に池があり、覗いてみると蠑螈(いもり)が底に棲みついていた。
山道を下り住宅地の中を歩き、「独狐の湯」のある虎渓橋方面へと戻っていった。途中、古い建物や旅館などがあり、島木健作が「赤蛙」を書く際に宿泊した応対の悪い宿とはどこだろうなどと考えたりしていた。

旅行が終わり、会社で修善寺の話をすると「火事は大丈夫でしたか」と聞かれた。
「火事?」
ニュースで何度も流れていたという。調べてみると我々が泊まった5月4日の午前10時半頃に温泉街で火事があり、住宅8棟アパート1棟が全焼し、別の住宅5棟の一部が焼けたとある。私が範頼の墓を見て虎渓橋へと戻るその途中の場所である。歩いたその5時間ほど後に起きた惨事ということになる。その時、我々は浄蓮の滝に出掛けている。午後2時頃に一旦宿に戻ったが、私はすぐに韮山へ出掛け、家族はカズ君の昼寝に付き合い温泉地には出掛けていない。夥しい数の消防車が出動したようであるが気付かずにいたのである。火災が起きた時間には強風注意報が出されていたというが、我々が宿を出る朝9時頃には朝方の雨はカラリと上がり青空が広がっていた。写真は出掛ける少し前に宿から撮した火災前の修善寺の町並みである。
                                 (平成28年作)

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昼寝

尾に隠し切れぬふぐりや昼寝猫



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「赤蛙公園」の話のついでに、妻と「黒猫」の話になったことを書いておこう。これも島木健作の短編小説で、彼が亡くなる半年くらい前に書いた作品である。あらすじを話してあげた。「ドエリャー猫の話だよ」と言って話し始めた。

「昭和20年というから終戦間際の物のない時代、病気で寝たり起きたりしている作者が家の中で起きた出来事を書いている。食べ物のない犬や猫が家の前をウロウロする中でいやに堂々とした黒猫が目の前に現れる。他の猫は痩せているのに、その猫だけは普通の倍もある大きさだ。人間と目が合っても逃げることもなく、腹が減っているはずなのにガツガツしていない。『いやに堂々としたやつだなぁ』と作者は感心して見ている。
ある日、人からもらった塩引きを焼いた。いい匂いが台所にこもった。その夜、台所がドタバタする。何者かが侵入して床の上げ板を押し上げたという。何も取られなかったが、また来るといけないので板の上に大きな漬物石を載せておくことにした。しかし、その夜、賊はまたやってきて石を持ち上げたという。一緒に暮らしているのは母と妻。母はあの黒猫が犯人に違いないと疑っている。あの大きな石を持ち上げるには相当な力がいる。あの猫以外考えられないというのだ。しかし、昼間見る黒猫はいつもと変わりなくどこ吹く風といった素振りである。
ある晩、また台所で騒ぎが起こった。物音がして二階から妻が掛け下りて行く。妻の叫び声が聞こえ、いよいよ犯人が捕まった。やはりあの黒猫である。妻が言うにはえらい力で暴れて、棒で叩きつけたりして、ようやく母が風呂場に縛り付けたという。作者は話を聞きながらも黒猫の貫録を思っていた。堂々と夜襲を敢行し力の限りに戦って捕えられ、しかもニャーとも言わないのである。人間ならば一国一城の主、たまたま猫に生まれてしまったのは運命のいたずら。庇いたい気持ちも沸いてくる。しかし、母はその黒猫を始末してしまう。家の中を狙い、畑のものを荒らす厄介者なので生かしておくわけにはいかないのだ。聞くと黒猫は最後の時もニャーとも言わなかったという。凄い生き様に思えたと作者は書いている」
話し終って「こんな話だよ」というと「面白そう、私も読んでみたい」という。喜んでもらえたようで、とても嬉しかった。
                                 (平成28年作)

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青蛙

雨脚の届かぬ葉陰青蛙



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修善寺に行くと決まりいろいろと調べている内に「独鈷の湯」の先に「赤蛙公園」という場所があることを発見した。何だろうと調べてみると、作家島木健作(1903-1945)が書いた「赤蛙」という小説に因んだ公園だという。中学校の国語の教科書に載っていたような気がしたので改めて作品を読んでみた。
修善寺に結核の療養に訪れた作者が宿の不誠実な態度に憤りながらも散策に出掛けたのであった。桂川のほとりで何気なく川を見ていると、中洲の上に大きな赤蛙を見つける。しばらくその様子を見ていると不思議な行動をしている。向こう岸に渡ろうとするのか、流れに飛び込むのだが、その度に流されて這い上がり元の位置に戻ってくる。何度も何度も同じ行為を繰り返し、最後は疲れ果てて川に流され渦巻の中に飲み込まれてしまう。病弱な作者の目にはこの滑稽にも見える蛙の行動が神々しくも見えたのである。ひたむきな生への努力に共感し、運命に従ったものの持つ静けさに感じ入ったのである。作者はその短編を書き上げた数か月後に亡くなっており、遺作として発表された作品である。

カラオケを終えてすぐに寝た私は翌朝4時には目が覚め、家族が寝ている間に朝風呂に行き、着替えを済ませた。公園を見に行こうというのである。外は雨だった。しかも相当に激しい雨である。誰もいないフロントを横切り、旅館の傘を借りて外に出た。10分ほどで公園に到着した。写真を撮りながら園内を歩いてみたが、健作が見たような桂川を見るような場所はない。赤蛙でも出てくれたらと思いつつも、そんな奇跡は起こるはずもない。傘を叩きつけるような雨と横殴りの風が襲ってくる。一通り見たところで、近くにある源範頼の墓へ移ろうと歩き出した時である。
「ケロッ、ケロッ、ケロッ……」
えっ?嘘だろう!蛙の声ではないか。夢ではないだろうか。こんなことってあるのだろうか。自分の顔を確かめることは出来ないが、おそらく人に見せられないような素っ頓狂な表情をしていたはずである。
「カッ、カッ、カエルだっ!」
どこだ、どこだ、どこだ。ひとまず四阿に入り、耳を澄ませてみる。小さな池があり、黄菖蒲が生い茂っている。その中のようだ。目を凝らして見てみるが一向に見えない。5分ほど見続けていたが見つからないので、傘を差して近づいてみることにした。一瞬鳴き声が止まった。傘は風に煽られるので上の方を掴んでいるが、背中といい腰といい徐々に濡れてくるのが分かる。鳴き始めるのを待つ。また鳴いた。しかし、蛙の姿が捉えられない。確かにこの方向に居るはずなのだ。覗き込むようにして中を見た時である。ようやくその姿を捉えた。居たッ!見つけた!菖蒲の茂みの中である。こんな雨の中でも雨が吹き込まないような奥の葉っぱの上で鳴いているのである。デジカメを取り出した。一枚撮っておきたいと思ったのである。電源を入れるが片手状態ではなかなかやりづらい。ピントが合わない。手前の葉っぱに焦点が合ってしまう。買ったばかりのデジカメなので、どうやってピントを合わせるのかが判らない。何枚も写すが肝心な蛙は常にボケている。そのうち間違ったボタンを押してしまったようで急にフラッシュがたかれた。再生して確認しようとするとまた違うボタンを押してしまう。身体はどんどん濡れてくる。風に煽られて傘が飛ぼうとした時、池に片足を落としてしまった。
「………」
なぜにこうまでして俺は蛙の写真が欲しいのかと、ふと我に返った。四阿に戻り、撮った画像を確認しつつ、大雨の中でこんなに夢中になってしまった自分に呆然としていた。
(注)写真中央に背中を向けた蛙が写っているのだが、分かってもらえるだろうか。
                                 (平成28年作)

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麦秋

麦秋や好みはつねに和食なり



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ある日、相当に飲んで帰ってきた。夜12時を回っている。しかも上機嫌である。「面白い歌を覚えてきた」と言って大はしゃぎである。「何という曲?」と妻が聞くので「納豆売り」と答える。まずはユーチューブで聴いてみようということになりパソコンの前に座ったが、酔っているのでその時に妻の肩を押したようである。
翌日、そのことを責められることになる。「酔うとすぐに人の肩を押す癖がある」と言うのである。たまたまその時だけのことなのだが、毎回やっていると言うのである。心当たりはないが、ここは謝るしかない。
正しい曲名は覚えていない。カラオケで仲の良い社長が歌ったのを聞いて私があまりに大笑いしたので「そんなに気に入ったのなら、日向さんの持ち歌にしたらいい」と言われて帰ってきたのである。曲が流れた。初めて聞いた妻は「くだらない。早く寝なさい」と、にべもない。しかし、決して言葉通りではなかったことは修善寺の夜に証明された。
夕食の席で「カラオケに行こう」と誘うと満更でもない様子。「納豆売りを歌う」と言っても笑っていたからである。本来なら「くだらない」と言うはずのところなので、仲居さんにカラオケルームを頼んだのであった。

部屋に入るなり「納豆売り」を掛けた。そして歌った。
「納豆売り 良いな出来たんすや これ食わんと 美人に……」
フリオ・イグレシアスの「黒い瞳のナタリー」の替え歌で、この歌詞の通りに歌うと原曲のように聞こえるという仕掛けである。一杯入っているので声は大きい。調子に乗って歌っていると途中で孫のカズ君(3才)が泣き出した。歌えば歌うほど泣き声は大きくなる。娘は何とか宥めようとするが一向に泣き止む様子はない。歌い終わった時、娘はカズ君を連れて部屋を出て行き、妻と二人が残されてしまった。それから1時間、一人カラオケが始まり、「納豆売り」も2回歌うことになってしまった。延々と続く私の歌に最後まで付き合ってくれた妻には感謝するばかりである。
                                 (平成28年作)

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河鹿鳴く

頼家が憤死の川原河鹿鳴く



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源頼家が殺害されたことを歴史書は次のように書き記している(ともに現代語訳)。
「7月19日、己卯。酉の刻に伊豆国の飛脚が(鎌倉に)到着した。『昨日18日に左金吾禅閤(源頼家)[年は23歳]が当国の修禅寺で亡くなられました』と申したという」(吾妻鏡)
「そしてまた次の年、元久元年(1204年)7月18日、修禅寺において頼家入道を刺し殺したのであった。急に攻めつけることが出来なかったので、首に紐をつけ、ふぐりを取ったりして殺したと伝えられた」(愚管抄)

「独鈷の湯」に裸になって入った我々の騒ぎどころではない。「ふぐりを取った」と筆者が書き記すほどなので、当時は語り草だったに違いない。2代将軍の哀れな末路である。しかし、この「ふぐり」には疑問が残る。時政に遣わされた刺客が人を殺すのに、わざわざふぐりなどを取りに行くだろうか。これは頼家の思わぬ抵抗に遭い、殺そうとした弾みに誤って刃先が触れてふぐりを落してしまったと見るべきではないだろうか。命を取りにいった者がふぐりを取るというのは如何にも不自然、というのが私の解釈である。まさに珍説である。
頼家の墓(写真)は虎渓橋より5分ほどの山の麓にあった。石段があり、鳥居があり、石の柵が回らされてあった。「征夷大将軍」と書かれた大きな石が供養塔で、これは元禄16年(1704年)頼家の500周忌にあたって、時の修禅寺住職が建てたものだという。本物の墓はその後ろに据えられた小さな五輪塔である。
墓の手前に看板が立てられていた。永井路子著「頼家と実朝」などでは酒と女が好きで、だらしのない、わがままな放蕩息子、蹴鞠にうつつを抜かす粗暴で暗愚な将軍だったように描かれているが、その看板の文章は頼家の苦労を称えるものとなっていた。歴史の二面性を見る思いがした。
「正治元年(1199年)に父頼朝の後を継いで、18歳で鎌倉幕府の二代将軍となった頼家は、父の没後に専横になった北条氏を押さえて幕府の基礎作りに懸命であったが、大きく揺れ動く時流と、醜い駆け引きに終始する政争に破れ、在位わずか6年でこの修善寺に流され、元久元年(1204年)祖父北条時政の手で入浴中に暗殺された(享年23歳)」
                                 (平成28年作)

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葭簀

葭簀立て窮屈さうな足湯小屋



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もう20年以上も前のことになるが、会社の気の合った仲間で「呑兵衛会」というものを作っていた。行きつけの飲み屋で盛り上がるだけでは飽きたらず、旅行にも出掛けた。ワゴン車に乗って、飲みながら行く旅の楽しさは格別である。関東近県、新潟、富山、石川、山梨、長野、岐阜、愛知と方々に出掛けたものである。伊豆にも行った。途中、修善寺温泉に寄り、町の真ん中にある「独鈷の湯」にも入った。酔った勢いというのであろう、周りの観光客の目も気にせず、白昼堂々7、8人で裸になったものである。
今回20年ぶりに訪ねて、その時のことを懐かしく思い出していたのだが、着いてみると少し様子が変わっているのに気が付いた。場所も少し違うようだし、そもそも浴場ではなく足湯になっていたのだ(写真)。記憶違いかと思ったが、やはり変わったようである。まさか、あの時の我々の馬鹿な行為が原因ではないだろうが、足湯に変貌してしまうとは変わり過ぎのような気がした。弘法大師ゆかりの場所の風情が損なわれてしまったのではないだろうか。歴史的価値のあるものが観光目的に作り変えられたりするのは如何なものだろう。裸になった男が言えるような話ではないが、一抹の淋しさを感じたことは事実である。

さて、修善寺にはその「独鈷の湯」をはじめ九つの共同湯があったが、昭和20年代に自噴泉はほぼ枯渇してしまったそうである。その一つ「筥湯(はこゆ)」も同様だが、ここは平成12年に新装されモダンな建物に復元されていた。
父頼朝の急死を受けて鎌倉幕府2代将軍となった源頼家が北条氏に追われ修禅寺に幽閉されたのは建仁3年(1203年)のことである。その翌年の元久元年7月にその修禅寺門前の虎渓橋際にあった「筥湯」の中で頼家は殺害されている。「独鈷の湯」にしても「筥湯」にしても、昔の面影をそのままに残しておいてもらいたかったものだが、そうもいかないものらしい。
                                 (平成28年作)

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山際のあたりが平家幟立つ



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翌日のことである。家族を修善寺に残し一人でまた韮山に戻ってきた。どうしても旗揚げの地が見たかったのである。今度は山木兼隆館跡を直接訪ねてみようと思ったのである。資料に韮山山木という住所が書かれていたので、そのあたりに行けば分かるに違いないと思ったのである。韮山郷土資料館というのがあり重要文化財江川邸というのがあった。その近くと目星を付け、車を走らせた。案の定、大きな駐車場の脇に「山木判官平兼隆館跡」の方向を示す標識が立てられていた。細い道なので、矢印の方向に進めば目的地に着くはずと思い車を進めた。香山寺という寺があり、皇大神社というのもあった。途中に館跡の標識がないのでさらにその先と思い、山の方へと登って行った。しばらくすると道は車一台が通れるほどに狭まり、Uターンも出来ない状態になってしまった。運転が下手な私にとっては窮地である。崖から落ちないように確かめながら漸く戻る場所を見つけて戻ってきた。危うく香山寺の裏の墓地に転落するところであった。最初にあった駐車場まで戻り、そこにいた観光バスの運転手に聞いてみることにした。
「矢印の先を行ったすぐ先ですよ。何もないですよ」と言う。
何もないことはないだろうと思いつつ、車を置いて歩いていくことにした。先程車で通った場所である。確かに何もない。標識もない。当てずっぽに曲ると看板があった。「この先の高台一帯が平兼隆館の跡です」と書かれている。そうか、今はその後に民家が建っているのだ。古地図でもなくては特定のしようもない。しかし、雰囲気は分かった。山を背に大きな館があり、流されてきた頼朝を見張り、その地を治めていたのだろう。山木の名がいまだに地名に残されている。
写真は駐車場を出てすぐの路上から写したものである。そのあたりということである。山の緑は800年前と変わるはずもない。「頼朝旗揚げの地」をしっかりと目に焼き付けて大満足の私だったのである。
                                 (平成28年作)

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