2016年05月の記事 - ひこばえ
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ひこばえ


2016年05月の記事

青梅

旗揚げの地や青梅のまだ小粒



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車で5分程の場所に「願成就院」があった。いただいたパンフレットには運慶作による仏像が5体展示されてあり、すべて国宝だと書かれている。こんな場所に国宝5体とは凄いと思った。門をくぐるとすぐ左手に北条時政の墓があった。たしか娘政子に追われ、隠居したはず。権勢を誇った男の晩年はどうだったのだろうと考えたりしていた。
本堂の賽銭箱の先に扉があり、どんな具合かと覗こうとすると「入場券、買ってから入ってください」とお婆さんに注意された。決して買わずに入ろうとしたわけではないのだが、そう見えたのかも知れない。右側の売店で2人分の券をお願いし千円札を出すと、受付の女性に「早くお金、もらって」とまたお婆さんが注意している。おそらく嫁姑の関係ではないかと思った。そんなにお金お金と言わなくてもと思ったが、お金で苦労した人生なのかも知れない。「すみませんねぇ」と言う受付の女性の心やさしさが伝わってきた。
入ると正面に5体が並んでいた。ガラスケースか何かに入っているものと思い込んでいた私には、あまりに近くに国宝があって意外な感じがした。先程の受付の女性が入ってきて解説を始めた。これが正真正銘の運慶作であることがどのようにして判明したかを説明していた。あまり慣れていない話しぶりだったので、ある日、急に国宝になって入場券をもらうことにし、一家で商売を始めたというようにも見えた。「写真撮影禁止」と張り紙がされていたが、それがあまりにも目立ち過ぎていて美観という観点からも如何なものかと見えてしまった。

隣に守山八幡宮があった。ボランティアガイドの人がそこに登れば山木兼隆の館があった辺りが見え、襲撃を見守っていただけの頼朝はそこから眺めていたはずと言っていた場所である。鳥居の前に車を停めて一人で入って行った。奥に石段があった(写真)。その上に絶景を一望できる場所があるのだと信じて数を数えながら上がっていった。152段。途中、息が切れそうになり、膝が笑いそうになった。ようやく最後の1段を上り切り、大きく深呼吸して振り返った。
「あっ……」
唖然とした。一望どころではない。石段の脇の杉が大きく伸びて視界を遮っている。全く何も見えないのだ。
「ひゃく、ごじゅう、にだん……」と心の中で数えてきた声がまだ耳の奥に残っていた。
後になって考えたのは、ガイドの男性は守山八幡宮と言ったのではなく、その背後にある守山という山を言ったのかも知れないということ。または頼朝の頃には杉はなかったのかも知れないということ。いずれにしても叶わなかった「旗揚げの地一望」である。しかし、これで諦めないのが私である。
                                 (平成28年作)

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初夏

頼朝の配流の地へと初夏の旅



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5月連休をどうしようかということになり、真っ先に思い浮かべたのが伊豆修善寺である。鎌倉比企が谷に比企一族の墓を訪ねているので源頼家の眠る修善寺温泉はどうしても見ておきたかったのである。インターネットで調べてもらうとほぼ満室状態だという。「もっと早く言ってよ」と妻に叱られたのはいつものことである。ようやく宿を決めてからは、休みとなると頼朝、頼家、北条政子のことを調べていったことは勿論である。「吾妻鏡」を読もうと図書館にまで出掛ける念の入れようである。凝り性なのは何も肩や脹脛ばかりではない(笑)。
3日の朝7時に家を出発。どこへ出掛けるにも4時前には出ていたのだが、3才のカズ君が一緒なのでゆっくり出掛けることにした。伊豆は近いと思っていたが、案の定東名高速の渋滞に嵌まってしまった。何事も早いに越したことはない。油断大敵である。
最初に到着したのが伊豆の国市にある「蛭ヶ小島公園」である。修善寺に向かう途中にあり、頼朝が配流された場所なので見逃すわけにはいかないのである。公園の一画に小さな山を作り、そこに夫婦の銅像が建てられていた。
「治承元年(1177年)頼朝31才、政子21才、二人はこの地で結ばれる」と書かれていた。小説などを読み、勝手に想像していた風景とはおよそ違っていた。もう少し山の中かと思っていたのである。800年も経っているのだから、山も削られたことだろうと思いながら、公園を歩いてみた。
ボランティアガイドの男性が立っていた。私の姿を見つけて近づいてきた。首からデジカメを下げ、石碑などを読み、何やら手帳に書き込んでいる姿を歴史好きと見たに違いない。
「今日はどちらからお越しですか?」から始まった。
「頼家の墓を見ようと修善寺に向かう途中です」と答えた途端に話が始まった。格好の話し相手発見である。
「修善寺に行く前に是非頼朝の旗揚げの場所を見て行ってください」
早速、地図が広げられた。北条館の跡、時政の墓がある願成就院、国宝の運慶作仏像5体、その隣に山木兼隆館跡の辺りが望めるという守山八幡宮、政子産湯の井戸、頼朝との悲恋に死んだ伊東祐親の娘八重姫を弔う真珠院など矢継早な紹介である。
たしか山木を襲ったのは夜だったはずと思いながらも、八幡宮の上に登れば旗揚げの場所が見渡せるのだと知り、興味を惹かれた。話は山木邸襲撃のルートに及ぼうとしていた。切りがなさそうなので、ひとまず資料をもらい、願成就院に寄ってみるということにして話を終えた。車に乗り込んで振り返ると、男性はまた違う人のところへ行って話を始めていた。頼朝をこよなく愛する人のようである。
                                 (平成28年作)

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夏空

夏空を映し校舎の大時計



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5月21日(土)小学校の運動会があった。4年生のなっちゃんも2年生のみやちゃんも元気溌剌である。少し遅れて到着したが観客でごった返していた。グラウンドに父兄の観客席はない。一部の敬老席を除き、全員立っての応援である。望遠レンズを構える人、踏み台を持ち込む人、ビデオを持つ手を高く上げている人などいろいろである。後ろに立つ人も大変だが、前列にいる人もしゃがんだりして大変である。私が教育委員会の担当なら簡易型の足場を用意し、必要な学校に貸し出すのだがと余計なことまで考えたくなる。だれも本気で考えていないだけのように見える。
昼休みになり、学校の庭で弁当を広げることになった。娘の手料理は絶品である。娘婿のお母さんも来ている。そこで私がその朝に聞いてきた話を始めた。
「問題です。『ありがとう』の反対語はなんでしょうか?有難くないではないですよ。ちゃんとした解答があります」
「えー、なんだろう。わからない」と、お母さん。
「全然考えていないようなので、分からなくて当たり前です(笑)。正解を言います。正解はその『当たり前』です」
「当たり前?」
「そう、当たり前。たとえば、毎日お母さんが作ってくれる料理。本当は『ありがとう』ですよね。しかし、これを『当たり前』と思っていませんか?」
「なるほど(笑)」
人は本当に理解した時、笑顔になるものである。全員がこの答えを聞いて笑顔になったようである。

午後の部の競技が始まり、徒競走、騎馬戦、リレーと盛り上がりを見せた。二人とも大活躍である。4時を過ぎて、ようやく終わりとなった。少々立ち疲れの様相である。私はさわちゃんを抱っこしている。さわちゃんは今4才。幼稚園の年中さんである。終わると同時に一斉に帰り支度が始まった。帰りの人でごった返した。人がぶつかってくる。ドンと衝撃があった。
「おー、危ない、危ない」と独りごちた。
その時である。抱っこされているさわちゃんが私にこう言ったのである。
「おーちゃん、人にぶつかった時は『ごめんなさい』って言うんだよ……」
「えっ!……」
一瞬、虚を突かれた感じがした。
「そうだった。忘れていた。ごめん、ごめん」
偉そうに「ありがとう」の講釈を垂れている場合ではない。4才児、侮るべからずである。
                                 (平成28年作)

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春眠

春眠へ誘ふ施術台の穴



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随分と長い間、頭蓋骨を揉まれていたが途中から急に左膝へ移った。頭から急に膝というのが意外に思え、何かルールでもあるのだろうかとボンヤリ考えていた。しばらく左膝を揉まれ、右膝に移り、ウトウトし始めた頃にうつ伏せになるように言われた。施術台の穴の開いた部分に顔を入れ、脹脛(ふくらはぎ)が揉まれ始めた。ここも長い間揉んでいてくれたように思うが、眠くなってしまい途中から記憶がなくなってしまった。目が覚めたのは施術台の穴の角に咽喉が圧迫され、窒息しそうになったからである。苦しくて少し慌てた。どれくらい寝ていただろう。その時、まだ脹脛を揉まれていた。それから背中と背骨の辺りを押され、しばらくしてからゆっくり起きるように言われた。
台に腰かけて肩、背中、腕を揉まれた。ようやく目が覚めてきた所で説明が始まった。
「日向さんは年の割には若いですね。しかし、肩凝りが凄く、特に左の脹脛はとても凝っています」
「えっ、私に肩凝りがありますか?」
「本人は気付いていないかも知れませんが、とても凝っていますよ。コリがどれか今から押してみますね」
「いててて……」
「今押してこりこりしているのが分かりますよね。これがコリです。背筋にもあります」
「いててて」
「腕にもあります。しかし、それほど酷いものではないので、何回か通えばなくなります。日向さんの一番問題なのは左の脹脛です。ここはとても凝っています。脹脛というのは足の血流を体の上に戻すという役割を担っていますので大切な場所です。同じように左のお尻も凝っています。まだ若いですから問題にはなりませんが、年を取ってから症状が出てきますので今のうちに改善しておいた方がいいと思います」
いつの間にお尻を揉んだのだろう。寝ていて気が付かなかったようである。あとで斉藤さんが書いたカルテらしきものを見てみると、気になるところが書かれていて「左尻」とあった。
終わって冷たいお茶を出してくれたが、時計を見て驚いた。予定時間75分とは1時間15分のことである。それが2時間近く経っていたのである。随分寝ていたようである。それで1000円だという。次回の予約を入れたことは勿論である。このように商売っ気が感じられない人がいるだろうか。次回は大目にでも支払いたいと思ったほどである。
                                 (平成28年作)

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目借時

ツボといふツボを押されて目借時



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予約した時刻の15分前に到着した。呼び鈴を押したが応答がないので電話しようとしたところ、隣の家から斉藤さんが出てきた。そちらが母屋のようである。
「少し早いのですが着いてしまいました」と私。
「大丈夫ですよ。すぐに準備をしますので、腰を掛けて待っていてください」
入口の鍵を開け中に案内したあと、母屋に何かを取りにいったようである。通された部屋を見渡してみると普通の家である。そこに施術台が置かれ、整体関連の本が何冊か本棚に並べられているだけである。「整体院」という割には見てくれにはあまり気を使っていないようである。大きなバッグを抱えて戻ってきた。
「昨日も別の場所でやってきましたので、道具一式がこのバッグに入っています」
出張も行なっているようである。準備に10分ほど掛かったが、それが申し訳ないと思うようで「時間を取らせて済みません」と何度もいう。私が早く来過ぎたというのに、待たせていることが気になるらしい。いい人である。
「この仕事は最近始めたと言っていましたよね」
「はい、開業してまだ2年です。この場所は4月からですから、まだ2週間しか経っていません」
「前職は何をしていたのですか?」
「中学校で算数を教えていました。先生をやりながら整体を勉強し、かれこれ20年になります。いろんなやり方を学びましたが、どれもしっくり来なかったのですが、このドイツ式カイロプラクティックに出会って自分に一番合っていることが分かりました。それで定年まで2年を残して教員は退職し開業しました」
それからしばらく修業の話になり、どこでどう話がそれたのか邪馬台国や古事記の話になり、ようやく仰向けに寝るように言われたのであった。
最初に眉間の辺りを揉まれた。
「このあたりを押していると脳下垂体ホルモンが分泌されます」と説明してくれる。いろいろ説明してくれるが正直あまり分からない。しばらく揉んでから、こめかみ、頭蓋骨へと移っていった。気持ちのいいものである。薄い布で顔を覆われているからか、眠たくなってくる。本当に頭の中の血の廻りが良くなるような気がしたものである。
(注)「蛙の目借時(かわずのめかりどき)」は晩春の季語である。蛙がしきりに鳴く頃、人は物憂く眠たくなる。これは蛙に目を借りられるからだという。
                                 (平成28年作)

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山笑ふ

誘はれて踏み出す一歩山笑ふ



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いつも通っている土曜日の早朝勉強会に見学希望者がやってきた。たまたま私の隣の席に座ったので始まる前に勉強会のあらましを説明することになった。年齢は私より上に見えた。斉藤さんという。いただいた名刺には整体師とある。最近開業したばかりのようで、キャンペーン1000円とも刷り込まれている。
「1000円とは随分安いですねぇ。普通はおいくらするのですか?」
「まだ始めたばかりですので、お客様に知ってもらうことが一番と思い、初回に限り安くしておきました。通常は75分6000円です」
「整体とはどのようなことをするのですか?台湾で背中の上に乗られ、足の裏でぎゅうぎゅう押されたイメージがあるのですが……」
「私の所はドイツ式カイロプラクティックと言いまして手で行います。頭蓋骨はじめ、身体全体の状態を正していきます。とても気持ちいいですよ」
勉強会が終わって食事の席で、自己紹介と同時に1000円のPRをしたので、あちこちから「安い!」という驚きの声が上がった。さっそく内容の質問があり、早々に予約をする人もいた。
その翌週、勉強会へ正式に入会することが決まり、みんなから拍手で迎えられた。聞くと会長はじめたくさんの人が予約したという。「日向さんも行こうよ」と誘われた。
「お蔭さまで結構、予約が詰まっておりまして、いま申し込んでいただいても3週間後になります」とのこと。やったことはないが、家から近いこともあり、お付き合いなので申し込むことにした。必要のない私でも受けてみようと思うのだから、1000円の効果は凄いものである。「整体の技」の前に「集客の技」を見せてもらったようである。
                                 (平成28年作)

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海棠

花海棠散るや小袖の花模様



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比企邸に隣接した小御所にいた若狭局と源頼家の嫡男一幡(いちまん)も北条方の手に掛かり火焔の中に消えた。
二天門をくぐるとすぐ右手の木陰にその一幡の袖塚がある。焼け跡から一幡の小袖が焼け残って見つかったのである。
袖塚、若狭局の墓、比企一族の墓とお参りし本堂へと向かった。この本堂と二天門は天保年間(1830~1844)の再建だという。本堂の前に海棠が花を散らしていた(写真)。
若い二人連れの女性がその写真を撮っていたが、花の名前は知らなかったようだった。
「これ、桜?」
「そうでしょ、この色は桜だよ」
と、話している。しまいには
「遅咲きの桜もいいよねぇ」などと言い始めたので、さすがに見かねて声を掛けさせてもらった。
「これは桜ではなくて海棠(かいどう)という花ですよ」と教えてあげた。
一応は信じてくれたようであるが、聞くやいなやそそくさと行ってしまったところを見ると、彼女たちにとっては桜でも海棠でもどちらでもよかったようである。親切に教えた割には随分と素っ気ない態度だったなぁと思っていたが、もしかして急に話しかけてきた不審な男と見えたのかも知れないと気付き、なるほどと納得した。調子に乗って小袖の話でも始めた分には走って逃げられたに違いないと一人で苦笑する始末である。
ひとまず比企の墓を見て当初の目的を果たしたことになるのだが、「比企の乱」のあとに起こる「頼家の死」について書いておかなければ話は中途半端な気がする。比企と頼家は切っても切れない仲である。場所は伊豆修善寺に移るのだが、書く前に少し間を置くことにしよう。話し始めれば切りがないのが歴史談義である。
                                 (平成28年作)

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草茂る

根絶やしに遭ひし一族草茂る



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日曜日、朝のうちは雨だった。「いくらなんでも雨では……」と思っていたが、昼近くになって止んだ。いつも賑わう鎌倉もさすがにこの天気では混んでいないだろうと思い出掛けてみることにした。朝比奈峠を越え、十二所のあたりでも渋滞することはなく、家から30分で比企が谷の「妙本寺」に到着した。総門の脇を通り木々に囲まれた参道を進み、二天門の手前の駐車場に車を停めた。比企一族の墓(写真)をお参りする前に少し歴史を振り返っておこう。

源頼朝の乳母だった比企尼(ひきのあま)は頼朝が伊豆に流された時、故郷の比企(埼玉県)に帰っていた。しかし、つねに頼朝をいとおしみ、娘婿(養子)の能員(よしかず)や一族の安達盛長ら若者を使い四季折々の食べ物や日用品を届けさせていた。治承4年(1180年)頼朝の挙兵に従い、能員や盛長らが命がけで働いたことは言うまでもない。無事に鎌倉入りを果たした頼朝は比企尼や能員にこの谷(やつ)全てを与え、能員はそこに大きな邸を構えたのである。その後、能員の娘若狭が頼朝の嫡男頼家の室に迎えられ、長男一幡(いちまん)を儲ける。正治元年(1199年)頼朝の突然の死により頼家が二代将軍となる。能員はじめ比企一族が将軍の外戚として重責に付くことは当然である。しかし、それまで頼朝の室政子の父として力を保っていた北条時政が比企の台頭を嫌い、両者の駆け引きが始まる。時政は将軍頼家の権能を抑えようと図り、頼家の反感を買い、母政子も息子頼家が妻の実家に肩入れするのを疎ましく思え、いよいよ北条と比企の対立はエスカレートしていく。そんな中、頼家が病床に就き危篤に陥る。建仁3年(1203年)9月2日、将軍頼家の病気平癒の祈願を行うとして時政は能員を私邸に招き斬殺し、同じ時刻に北条方は比企邸を襲い、火を放って攻め立てた。不意打ちに見舞われ、比企一族は紅蓮の炎の中で全滅していったのである。
                                 (平成28年作)

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疎まるるほどの饒舌虻唸る



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新規取引先の担当者が挨拶に来た。その時の応接室での一こまである。名刺を見ると「埼玉県比企郡」とある。
「おお、比企一族だなぁ」と私。
「何でしょうか、それは?」
「何だ、比企に住んでいて比企一族を知らないのか。源頼朝の後を継いだ二代将軍頼家の妻が比企一族の出身で、頼家の力を恃んで勢力を伸ばしたが、北条氏の陰謀に遭って一族郎党ことごとく抹殺されたんだよ。その比企だよ」
「はぁ、知りませんでした。帰ったらすぐに勉強します。それにしても詳しいですねぇ」
「いや詳しくはないよ。私もたまたま最近、本を読んで知っただけだよ。鎌倉のすぐそばに住んでいて、頼朝のことも北条政子のこともよく知らなかったのだから、偉そうに言えたものじゃないよ」

初対面で名刺を受け取るとその名前や住所に反応する。珍しい名前ならすぐにその由来や出身地を聞き出そうとする。興味のある地名や自分が行ったことのある場所なら、いきなりその時の話が始まる。先方は驚くかも知れないが、しゃべりたいだけしゃべらせてもらうというのがいつもの私のやり方である。それが相手へのPRであり、初対面の緊張を緩和する役目も果たしているかも知れないと勝手に思い込んでいる。
しかし、自分で言い出したのにも拘らず、のちのち気になってくることがある。比企のこともそうだ。もう少し知らなければと思い始めるのである。再びその人が来社して「比企について調べてきました」と言われた時、それに応える充分な知識がないというのでは申し訳ないと思うのである。厄介な性格である。その解決のために何かをしないではいられなくなる。まずは比企一族の墓くらいは見ておこうと日曜日に出掛ける算段をし始めることになる。
                                 (平成28年作)

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夏来る

手に顔に機械油の夏来る



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イタリア旅行を終え、早や2か月になろうとしている。長々とブログを綴り、ようやく旅の終わりまで辿り着いた。
最後に、今回購入した工作機械について書いておこうと思う。
私がオーストリアの工場で現物確認した機械はその翌日には分解され、船積みの準備が行われた。その機械が横浜港に到着し、大型トレーラーに載せられ4月29日に我が社に到着した。5月連休中に組み立てられ、試運転のあと、今週中に本稼働する予定である。
そもそもは昨年7月、工場のスタッフと東京ビッグサイトで開催されていた工作機械展を見に行ったことに始まる。初めてその機械を見て、その加工スピード、加工能力に全員釘づけとなった。他メーカーの機械も見たが、その機械を見たあとでは全く興味が沸かなかった。早速、営業担当を呼んでもらった。現われたのがN君である(写真右端)。
「お声を掛けていただきまして本当に有難うございます。今まで気になっていたのですが、敷居が高くてお邪魔出来ませんでした」
「敷居が高いって、どういうこと?」と私。
「実は……」
話を聞いて驚いた。当社工場の隣に10年程前まで大きな工場があった。当社と同じ製品を作っていた。今は別の業種の会社に売却されているのだが、長い間いつも隣同士で競うように仕事をしていたのである。N君はそこで長く働いていたのである。
「なんだ、そうだったのか。それじゃ、当社のことはよく知っているはず。もっと早く来てくれれば良かったのに」
敷居が高かったという割には、翌週から凄い営業が始まった。これも出来ます、あれも出来ますと積極的にアピールしてくる。当社の現状分析も行い、今まで当社で出来なかった様々な加工方法を提案してくる。すでに導入している企業への見学も案内してくれて我々の信頼を次々と勝ち得ていく。
「オーストリアからの船賃も乗るので相当に高いだろう?」
「社長、価格ではありません。少々高くても、それ以上の価値があります。投下した資金を何年で回収しようと考えますか。2年半で回収したという会社もあります。絶対に後悔はさせません」
上手いことを言うなぁと思いつつも、最終的には次の言葉で決まったのかも知れない。
「製造はオーストリア工場で行いますので、完成のタイミングでご案内いたします。イタリア本社工場と合わせて見学してください。奥様とご一緒にどうぞ」
                                 (平成28年作)

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鞦韆

鞦韆に今をりし人ゐずなりぬ



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昭和27年公開の黒澤明監督映画「生きる」の中で、この「ゴンドラの唄」が歌われている。

志村喬扮する市役所の市民課長は、かつてあった仕事への情熱も失い、机に座り書類に判を押すだけの無気力な毎日を送っていた。ある日、体調不良で医師の診察を受けたところ、自分が胃癌に罹っていることを知るのである。30年間無欠勤だった男が余命を意識した時、それまでの人生を振り返り生きている意義を見失ってしまう。翌日、市役所を無断欠勤し、貯めてきたお金を下ろし、パチンコやダンスホールなどで放蕩をし、飲み慣れない酒を飲んでみる。しかし、虚しさが残るばかり。
そんな時、市役所で自分の部下であった女性に出会う。食事をしたり、遊園地で遊んだりして、彼女の若さに惹かれる。今は玩具工場に勤める彼女が物を作ることの素晴らしさを語った時、自分にもまだ出来ることのあったことに気付かされる。すぐさま市役所に復帰し、かねてより住民から要望のあった児童公園建設に取り組み始める。盥回しばかりの役所の幹部を粘り強く説得し、ヤクザの脅迫にも屈せず、とうとう公園完成まで辿り着く。初めて何かをやり遂げたのである。その完成されたばかりの公園のブランコに揺られながら「ゴンドラの唄」を口ずさみ、降りしきる雪の中で死んでいくというストーリーである。

22才の時に何気なく覚えた唄が、年を経るに従いその意味合いを深く感じさせてくるというのも面白いものである。
                                 (平成28年作)

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長閑

辺に凭れ聴く「ゴンドラの唄」のどか



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ドゥカーレ宮殿を出たところでN君にゴンドラに乗りたい旨を伝えた。「本当に乗りますか?」とN君。あまり乗り気ではないらしい。それもそうだろう、何度も来て乗っているのだから「大したものではないですよ」と言いたかったに違いない。しかし、私としてはここは是非とも乗っておきたい所だったのである。
船着き場は賑わっていた。「溜め息橋」を臨む橋の上は人だかりである。乗る舟はすぐに決まった。最初に料金のことなどを尋ねた船頭の舟になるのは道理である。早速、乗り込むことになった。船頭が舟を桟橋に引き寄せ、手を取って乗せてくれる。三人が座ったところですぐに出発である。観光船などと違い決まった時間もあるわけでもない。話は簡単である。海は結構荒れていて水路に入るまでの間に大きく揺れた。いよいよ憧れのゴンドラである。どうしても乗っておきたかった理由を説明しておこう。話は40年前に遡る。

初めて就職した会社で歓迎会を開いてくれた。座敷である。22才でもあり、酒は強くはない。宴も進んだ頃、一曲歌えということになった。カラオケもなく今でいうアカペラである。立ち上がって歌ったのが「波浮の港」であった。「磯の鵜の鳥ゃ、日暮れにゃ帰る」というやつである。なぜ、その歌を歌ったのかは覚えていない。急に言われて思い付いたのだろう。もしかして、その前日にでも聴いていたのかも知れない。その程度のことである。歌い終わって、「随分と古い歌を歌うなぁ」と皆から言われた。後日そのことを思い浮かべて、またあのように急な指名があった時には違う歌にしようと考え、選んだのが「ゴンドラの唄」である。どうしてその歌をと言われても理由など分からない。ただ、気に入っていたことは確かである。「命短し、恋せよ乙女」。何度も何度も一人で練習した。完璧になるまで練習したと思う。しかし、その歌をアカペラで歌う場はついに一度も来ることがなかったのである。
たった一度だけチャンスがあった。30年以上も経った「浜風句会」での忘年会の時である。高橋悦男主宰を囲んでの席で急に道川虹洋先生が「日向、一曲やれ」と振ってきたのである。もちろん断れるはずもない。その時、思い浮かべたのが「ゴンドラの唄」であった。しかし、30年も歌ったことがなかったので急に言われても歌詞が思い出せるかどうか自信がなかったのである。結局、歌ったのは「波浮の港」であった。たくさんの拍手をもらったが、私としては「ゴンドラの唄」を歌うチャンスを失ったショックの方が大きかったのである。

いのち短し 恋せよ乙女
赤き唇 褪せぬ間に
熱き血潮の 冷えぬ間に
明日の月日は ないものと

ゴンドラに揺られながら妻に歌ってあげようかとも思ったが、向かいの席にN君がいたのではそうもいかない。
                                 (平成28年作)

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受難節

石牢に届く櫂の音受難節



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警察での調書は終わり、今出来ることは全てやり終えたという感じである。盗まれた物が戻る訳ではないが、その対処方法に目途を付けたということなのだろう。意外と明るい表情を取り戻していたN君であった。
「ご迷惑をお掛けしました。少し心は乱れていると思いますが、もう大丈夫です。まずは、ドゥカーレ宮殿に行きましょう。中は見応えがありますのでご案内します」
復活である。ドラクエ隊の隊長がまた歩き出した。

この宮殿は「緋色のヴェネツィア」の主人公マルコが若き元老院議員として執務し会議に臨む場所である。小説の中に何度も登場する。8世紀に創建され15世紀に大改築された宮殿で、ベネチア共和国の政庁としての役目を果してきた。外装は白とピンクの大理石で、ゴシック風のアーチ列柱が巡らされている。広い中庭を囲むようにして建つ4階建てで、順路に沿って進んでいくと天井の細工の美しさから「黄金の階段」と呼ばれる階段があり、壁画に囲まれた「元老院の間」へと続いていく。共和国の歴史が壁画に描かれ、天井画も素晴らしい。小説では元老院議員が会議を行なったり、元首の孫娘の結婚を祝って舞踏会が開かれる様子が描かれている。楽隊を入れ食卓を並べ300人の招待客を収容したと書かれていた。豪華絢爛とはこのようなことをいうのだろう。ベネチア観光必見の場所である。

この宮殿の中には裁判所や牢獄も設けられていた。牢が手狭になり水路を挟んだ向かいの建物に牢獄を増設し、そこに架けたのが有名な「溜め息橋」である。裁判所で有罪を言い渡された囚人がそこを通る時、窓から僅かに見えるベネチアの景色を眺めながら悲しみと絶望の溜め息を付いたのである。N君に案内されながらその橋を渡ったが、罪人ではなく被害者の方が溜め息を付くことになったのだから皮肉なものである。その先に鉄格子の嵌まった石牢があった。小説の中で最後に主人公が入れられることになってしまった石牢である。そこに彫られていた囚人の文字をマルコは僅かな光の中で読んだのであった。
「もしも、密告者の悪意から身を守りたければ、誰も信用してはならない。考えるのはよいが、黙っていることだ。そして、後悔したり、取り乱して誰かを頼ったりすることは害あって益なしと肝に銘ずること。今こそ、きみの真価が本当の意味で試されている」
出られるはずもない石牢の中で、このような醒めたことを書き残した人物もいたのである。
                                 (平成28年作)

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