2016年02月の記事 - ひこばえ
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ひこばえ


2016年02月の記事

春障子

家持の海へと放つ春障子



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初日の宿は和倉温泉「加賀屋」の雪月花である。日本一のもてなしの宿というのだから、如何ばかりかと期待は膨らむ。到着後、宴会までに相当の時間があったので、一風呂浴びる前にホテル周辺の散策に出掛けることにした。見たいものがあったのである。高浜虚子の句碑「家持の妻恋舟か春の海」である。
大伴家持(おおとものやかもち、718年-785年、奈良時代の貴族、歌人)が29才の時、加賀の国司としてこの地に赴任し、万葉集にも載せられたいくつかの和歌を詠んでいる。家持のことを調べたことはなかったが、虚子がこの地を訪れ、「七尾湾」を詠んだ家持を句にしたというのだから和倉温泉に来た限りは必見の句碑なのである。碑はホテルの前の公園に建てられていた。虚子の句にしては面白味に欠ける句と思っていたが、家持のことを少しずつ調べていくうちに「妻恋舟」の意味がなんとなく解ってきて、その良さが分かりかけてきたところである。家持が七尾湾を渡った時の和歌を載せておこう。香島津(七尾港付近)から船に乗り、熊来村(中島町)へ向かう間のことを詠んだものである。

香島より熊来を指して漕ぐ船の楫取る間なく都し思ほゆ(「万葉集」巻一七、四〇二七)

写真は我々が泊まった部屋から見た七尾湾の夕景である。今から1270年前の春、この目の前の海を家持を乗せた船がまさに右から左へ横切って行ったのである。虚子に敵うはずもないが、思い出の一句をものにしようと呻吟したことは言うまでもない。ホテルの部屋はやたらと広く、さすがに雪月花だと思ったが、右も左も建物に阻まれて七尾湾一望とはいかなかったことだけは心残りである。
                                 (平成28年作)

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春の旅

春の旅鋳込みの技を見に行かむ



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「北陸まなびの旅」と銘打った和倉温泉、金沢への旅に出掛けてきた。一月ほど前、取引先の信用金庫から誘いがあり夫婦で申し込んだのである。加賀屋もいいが、能登といえばこの時期「波の花」であり、金沢では「雪吊り」である。さらには五木寛之の「朱鷺の墓」なども読んでいるので芸妓染乃の数奇な運命に思いを馳せながら「ひがし茶屋街」を歩いてみたいなどと、私なりには見どころ満載の旅なのである。
集合場所の新幹線ホームでは信用金庫の幹部の方々が出迎えていてくれた。知人の社長もご夫婦で参加している。奥様とは「飛鳥Ⅱ」でご一緒して以来なので2年ぶりということになるが、相変わらずお美しい。今回は海外旅行にでも行くような大きなトランクケースを引きずってきていたので、果たして中国人並みにバク買いでもする気なのかと驚かされたものである(笑)。
旅の初めは高岡市内の銅器団地の企業視察だった。前田利家の嫡男利長公の産業振興策により始まったとされる高岡の鋳物作り。その技を脈々と受け継いできた二つの企業を見学させてもらったのである。鋳物の製造工程を間近に見せてもらい、職人技の粋を肌で感じさせてもらうことになった。作っているものは様々で、壺や鐘、銅像、仏像、大きい物から小さい物まで手掛け二宮尊徳像なども作っていた。
写真は「鋳込み」という作業風景である。溶かした金属をクレーンを使って鋳型に流し込む作業で、カメラを向ける我々のすぐ目の前で勢いよく流し込まれた。少し危険を感じたものの迫力満点の作業である。楽しい「まなびの旅」の始まりである。
                                 (平成28年作)

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春待つ

望郷の歌に相和し春待てり



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日曜日の朝、テレビでニュースを観ていた。天皇皇后両陛下によるフィリピン訪問のニュースである。
1月28日夜、日本大使公邸で催されたレセプションにアキノ大統領はじめ大勢の関係者が出席し、和やかに歓談されている様子が流れていた。その中にキリノ元大統領のお孫さんという人がいて、陛下とお話する姿が映し出されていた。
「おっ、モンテンルパだ。覚えている?」
隣で一緒に観ていた娘に声を掛けた。
「何それ?」
「モンテンルパだよ。新橋に劇を観に行ったよ」
「新橋?全然思い出せない。なんだっけ?」
「えっ、忘れちゃった?」
そこで私はパソコンを開いて、ユーチューブで渡辺はま子の曲を掛けたのだった。
「ああ、思い出した!囚人だった人達を救い出す話だ」
平成22年9月、新橋の劇場に斉藤由貴主演「奇跡のメロディ(渡辺はま子物語)」を観に行った時のことである。

話はその前年の9月に遡る。テレビで「戦場のメロディ(108人の日本人兵士の命を救った奇跡の歌)」というドラマが放映された。渡辺はま子の「ああモンテンルパの夜は更けて」をドラマ化したもので、はま子役を薬師丸ひろ子が演じていた。感動、感動、感動、それでなくても涙もろい私である、ティッシュペーパーなしでは見られない強烈な感動を私に与えてくれたのであった。あれ以来、飲み屋で歌う私の持ち歌となり、辺り構わずモンテンルパの話を語って聞かせるという悪趣味な癖が付いてしまったのには我ながら呆れるばかりである。
「渡辺はま子も凄いけど、日本人108人に恩赦を与えたキリノ大統領も凄い人だよなぁ。あの戦争で自分の奥さんと3人の子供を日本人に殺されているんだよ。その日本人を許すというのだから凄い人だよ。そういうことを今の日本人が忘れちゃ駄目だよなぁ」
私がそう語り始めた時、娘は何か用事を思い出したように席を立って行った。
「……」

テレビでは陛下がそのお孫さんに「日本の人たちはキリノ元大統領に感謝しています」と声を掛け、娘さんが涙を拭う姿が映し出されていた。収容所から日本人戦犯全員が釈放されたのは昭和28年である。今から63年前の出来事である。
(注)写真は帰国を前に、モンテンルパ刑務所内で処刑された友の墓参に訪れた日本兵達である。遺骨は共に帰還することができた。右端に写っているのは絞首台である。
                                 (平成28年作)

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冴返る

冴返る雨夜のリーチ一発ツモ



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平成元年2月、今から27年前のことである。毎年2月に行っているボーリング大会のあと、麻雀に誘われたのであった。学生時代に覚えた麻雀だが、社会人になってからは数回しかやっていない。メンバーは盛さん、柳口さん、松葉さんだったと思う。雀荘は2階だった。バケツをひっくり返したような大雨の日で、トタン屋根を叩く音が物凄かったことを記憶している。半チャン4回ぐらいやったかと思う。私は少し負けた状態でオーラス(最後の一局)を迎えていた。盛さんが親で小さな手で本場を重ねていた。私の配牌はあまり良くなかったようで、オーラスにして国士無双を目指すようなことになってしまった。しかし麻雀とは分からないものである。なんと、運よくテンパってしまったのである。九索(ソウ)が待ち牌だったと思う。私はリーチを掛けた。誰も私の手が国士無双だとは気付いてはいない。すぐにでも誰かが捨てそうな気がしてドキドキしていたが、なんとこれを自分が一発でツモってしまったのである。
「ツモ!」
大声で叫んだ時、屋根を打つ雨音が一瞬止まったような気がした。
「なんだよ、大きな声出して!」
誰かが文句を言ったかも知れない。しかし、手を見て皆が驚いた。
「えっ!国士かよ!」
小さい上がりを繰り返していた親の盛さんには倍額支払ってもらうことになり気の毒な気がした。最も実力派の柳口さんの悔しそうな顔。あれから、しょっちゅう彼には麻雀に誘われたが付き合うことなく終わってしまった。「勝負師は最後に勝つ」の私の一言に相当苛立っていたようである。松葉さんとはそれから何度か麻雀をしたが、その時の私の話は聞き飽きたようで、耳にタコが出来たと言いながらとうとう数年前に亡くなってしまった。
その雀荘には役満を上がった人の名前が札に書かれて貼り出されていた。もちろん私の札も貼ってもらった。その後しばらくしてその雀荘はなくなってしまったので今はもう見ることは出来ないが、私の思い出の国士無双、忘れられない雨夜の一発ツモなのである。
                                 (平成28年作)


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雪女郎

雪女郎ゐると言ふまた見たといふ



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帰りのバスにはまたまた閉口させられた。それでなくても座り続けの10時間は厳しいものだが、事故の影響で渋滞が始まり、途中一般道に降りるなどして予定時間をはるかに超えて横浜に到着したのだ。いつ着くとも分からないバスの中でやることといえば俳句を作ることぐらい。旅先でのことをあれこれ思い浮かべながら歳時記を広げ、思い付いた句を手帳に書き留めていく作業は時間つぶしには丁度いいのである。その時に出来たのがこの句である。出来た瞬間、自分の句といいながらもいい句だなぁと思った。珍しいことである。いつもいい句が出来たと思ってもあとから読み直すと、それほどでもなかったというのが多いのだが、この句だけは出来た瞬間にその出来栄えを疑わなかったのである。

雪国の飲み屋あたりで、呑兵衛たちが雪女の話をしている。「いる」と言い張る男。しかし、少数意見はいつもからかわれ、馬鹿にされる。相手にされずにいるところへ「見た」という証言が現れるのである。一瞬、座は注目するが、再び笑いの中に紛れてしまう。はなから相手にされないのだ。
しかし、その「見た」という男もまんざら嘘を言っているのではないのかも知れないと思う。人間、想像を超えたところで様々な現象に出くわさないとも限らないからだ。たとえば、酔った時である。目の前に見たことのない美女が現れて楽しいひと時を過ごしたとしよう。しかし、酔っているので、何を話したかも覚えてはいない。その人が誰で、どうやって別れたかさえ覚えていない。しまいには本当にそんな人がいたのだろうかなどということになってしまう。それを雪女だと言ったからといって誰が笑えよう。酔って記憶の大半を失った男はいつでもどこにでもいるではないか。目の前にいたはずの美女を雪女と呼んでみる詩心を私は美しいと思う。きっとその美女を恋うて、再び会いたいと思っていることも想像に難くない。
(注)写真は雑誌「プレジデント」の表紙を撮したものである。
                                 (平成21年作)


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雪見

かたはらに瀬のまぶしさや雪見馬車



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翌日は元旦だった。希望者のみ参加のオプションだったが、早朝に小型バスで近くの海岸まで行き初日を拝んだ。松林を抜け、長い防波堤の横の駐車場に車を停め、堤防の側まで行って日の出を待っていた。少し風があり、寒かったことを覚えている。「初松籟」の句などを詠んでいる。
帰ってホテルの窓から眺めた朝の景色が忘れられない。日が出てきて気温が上がり始めると、軒の雪が解け始め、勢いよく雨垂れを落としていく。それが日に輝いて美しいのだ。北海道の実家でいつも見ていた光景のはずなのに、あの頃は雪の美しさに気付かなかったようである。あの雪解水の美しさが忘れられない。
「青森屋」の敷地は広い公園になっていた。大きな池があり、その周囲を散策できるようになっていた。私が歩いていると雪見馬車が追い越して行った。一回りして隣の敷地に入ってみると大きな銅像が建っていた。渋沢栄一である。その時は渋沢についての知識はなく、ただぼんやり眺め、通り過ぎてしまったのだが、今だったらいろいろと書けるのにと少し悔やまれるところでもある。
コースには十和田湖見学も入っていた。雪に包まれた奥入瀬渓谷を走り、十和田湖では遊覧船に乗った。船から見た光景はまさしく雪に閉ざされた厳寒の地を思わせるものだった。中学生の修学旅行で十和田湖に来ている。それ以来だった。40年の時を経て、こうして旅をしていることが非現実とも思えたものである。バス出発までの間に昼食を摂るのだが、吹雪のためか開いている店が限られていた。小さなスナックのような所で、ピラフを食べたように記憶している。40年振りに訪れた場所でピラフを食べる。現実とはそのようなものである。
2泊3日の旅だったが、故郷の北海道を出て初めての雪の正月を過ごした。星野リゾートはもちろん、雪の十和田湖、冬の奥入瀬渓谷を見て思い出深い旅になっている。
                                 (平成21年作)


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雪しまく

じよつぱりといふ名の地酒雪しまく



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先日、星野リゾートの社長の話を聞いていて、なるほど伸びる会社のトップは輝いているなぁと感じた。「日本を代表するリゾート運営会社になる」というビジョンを掲げ、その実現のためにいい人材を集める、いい人材が集まりやすい会社、組織を作ると語っている。いい人材とは自分で考え、発想し、改善し、判断していくことの出来る人だという。云うならば自分の分身が何人もいる会社ということになる。伸びるわけである。
その星野リゾートが運営する青森県の「青森屋」に泊まったことがあった。今から7年前のことである。

正月休みを雪国で過ごそうと申し込んだバスツアーで、妻と次女との三人旅だった。バスに乗れば、あとは何もしなくてもよい一番楽な旅行方法である。乗り込んですぐに缶ビールを開け、本を読んだり俳句を考えたり。旅館でも温泉に浸かり、ゴロゴロと本でも読んで過ごそうという魂胆。雪の中なので出掛ける場所もない。十和田湖、奥入瀬渓谷などへは旅行会社が連れて行ってくれるので、決まった時間に決まった場所へ集合すればよいという、無精者には誠に有り難い旅行である。
しかし、喜んでばかりもいられない。バスに乗っている時間の長さといったら半端ではない。高速道路とはいえ10時間の長丁場。新幹線や飛行機があるというのに、どうしてバスを選んだのだろうと、誰にいうではなく思ったりしていたものである。青森近くになり一戸、二戸、三戸に興味を覚え、「戸」の意味を調べたり、四戸がないのはおかしい、十戸もあるのではと探してみたりしていたのは時間を持て余してのことだろう。
「青森屋」はお祭りのようだった。宿泊客に楽しく過ごしてもらおうと色々と趣向を凝らしているのが伝わってきた。風呂も料理も大満足で、長い移動距離も忘れさせてくれたものである。今思えば、さすが星野リゾートということになるのだろうが、その時その名前は知らないでいる。「じょっぱり」だったかどうかは覚えていないが、東北の辛口のお酒に心地よく酔いながらお祭りのような賑わいを楽しんだものである。その夜は吹雪いていた。「雪しまく」だなぁと思いながらホテルの窓から眺めていたことを思い出す。
                                 (平成21年作)


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読み始む

それからの君の歩みを読み始む



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正月、山口潤子さんから彼女の第一句集「風を孕め」が届けられた。昨年暮れにお会いした時に聞いていたので心待ちにしていたのだ。届いたその日に一通り目を通し、日を置いて再び読み返してみた。
著者略歴によると昭和48年生まれとあり、今年42才ということになる。俳画教室で一緒だった道川虹洋先生に誘われて、平成14年、29才の時に「浜風句会」に入会してきた。当時、私が49才で一番若かったので句会の平均年齢はおそらく60才を超えていただろう。そこに美人で知的な29才が入ってきたのだ。皆に可愛がられたことは勿論である。それから先生が亡くなる平成24年までの10年間を一緒に過ごしてきたのである。

 新色の口紅買ひて春を待つ
 若葉風第二ボタンをはづしけり
 遠雷や乾きの遅い爪化粧

彼女の初期の作品である。これらの若々しい句が句会に出されるたびに年寄り達は目を瞠ったものである。決して自分達では詠むことの出来ない新鮮で感性に溢れた句が句会を楽しいものにしてくれたのであった。

その彼女の第一句集「風を孕め」である。まず、その句集名の奇抜さが彼女らしいと思った。本人に聞くことなしにはその意味は分からなさそうな命名である。句は俳句を始めてから今までの300句を年代順に並べたと「あとがき」に書かれていた。どの句もしっかりと事物を捉えていて、表現力の確かさを窺わせる読み応えのある句集になっていた。
しかし、私が知っている句があまり見受けられなかったことには少々意外な感じがした。
彼女は「浜風句会」と並行して平成18年から「はるもにあ」という会に参加している。すなわち、そこでの作品が中心になっているようである。ここに掲げた3句も句集には収められていない。かといって全てが捨てられているという訳でもない。所々に懐かしい句を見つけるのである。
句集を編むにあたり、どの句を載せどの句を外すかは作者の思いが一番表われるところであろう。そういう意味では、あの頃「浜風句会」で仲間達を驚かせ、道川先生を喜ばせた作品があまり載せられていないのというのは寂しいものである。懐古癖の強い私の僻みかも知れないと思いつつ、今の句会を大いに楽しんでいるということなのだろうと考え、納得することにした。道川先生によって導かれ、大きく花開いた俳句の世界。彼女の前途を心から祝福したい。
                                 (平成28年作)


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二日はや

二日はや水族館に列なせり



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房総鴨川の旅の終わりは「鴨川シーワールド」である。早い時間に入ったが、中はすでに混み合っていた。正月早々すごい人出である。我が家の「魚博士」が図鑑やビデオで覚えた魚を実際に見て大喜びしたことは言うまでもない。一番好きな「ウツボ」の前では動かざること山の如しである(笑)。
それにしても水槽の美しさには驚かされた。ガラスの表にも裏にも汚れがなく、海の中の様子が一段と輝いて見えた。何枚も写真を撮ったが写真集にでも出来そうなくらいの出来栄えである(写真)。
魚を見せるということは、そういうことなのである。

もう25年も前のことになる。一時、釣りに凝ったことがあり、仕事そっちのけで釣りバカをやっていたことがあった。朝も夜も雨の日でも、よくもまぁ、あんなに夢中になったものである。今思えば呆れるばかりだが、それも4、5年で一気に熱が冷めてしまった。熱しやすく冷めやすい性格なのである。
水槽で魚を飼うこともやってみた。90センチ水槽を買ってきて海水魚を飼ったのだ。当時3階に住んでいたのだが、一人では持ち上がらないほどの架台を会社で作ってもらい、水族館ばりにいろいろな魚を飼ったのである。魚は近くの漁港の岸壁にいる小魚を網で掬ってきた。カサゴ、メバル、タナゴ、エビ、フグ、カワハギ、シマダイ、その他名前の知らない魚も数多くいた。海水はポリタンクに詰めて車で運んだが、トランクに零れたりすると夏の気温に熱せられ車内が異様な臭いに見舞われる。家族からは「臭い、臭い」と不興を買い、窓を開けないと乗られない車になっていた。エサはテトラポットに付いているカラス貝を採ってきて台所で剥き身にし、適当な量をサランラップに包み冷凍しておいた。小魚が泳ぐ姿、エサを食べる姿、大きくなっていく姿を見て、癒されるような気がしたものである。
しかし良かったのも初めだけで、徐々に管理が大変になってくる。水替え、餌取りも面倒になる。水槽が汚れてきてガラスが曇り、中が見えなくなる。しまいには嫌な臭いがし始める。「どうにかして!」と妻からは叱られるが、面倒臭がり屋の性分はいよいよとなってからでないと動かない。エサを与えるのをサボって、シマダイしか居なくなった時にはさすがに驚いた。他の魚を食べてしまったのである。シマダイは獰猛だなどと感心している場合ではない。
「魚を飼うのは俺には無理だ」と気が付くまでに、そんなに時間は掛からなかったと思う。水族館の美しい水槽を見ながら、無謀とも思えることに挑戦したあの時のことを思い出していた。
                                 (平成28年作)


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