2015年11月の記事 - ひこばえ
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ひこばえ


2015年11月の記事

エロ本や書肆の主の咳払ひ



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深川散歩は終了したが、後日談を一つ書いておこう。
永井荷風といえば「四畳半襖の下張り」を思い出す人も多いだろう。ワイセツか否かを長期間裁判で争ってきた作品である。今回、深川を歩くにあたり昔読んだ本を開いていたところ、新聞の切り抜きが一枚挟まれているのを見つけた。昭和54年2月13日の新聞記事である。あの当時どうにかして「下張り」を読んでみたいと思ったのだが、なにせ発禁本であり読む手立てがなかった。切り抜きをするほどに興味を持っていたのだが、読まずじまいの作品になっていたのである。今はインターネットでも簡単に読むことができる。時代は変わったものである。

先日、所属する会合の飲み会で上機嫌で飲んでいたところ、隣に座ってきたのがまだ30代の弁護士である。親しく話をするのは初めてだった。いろいろと話が盛り上がってきたところで次の会話である。
私「弁護士だから、相当に勉強して来たんだろう。頭の良さでは負けてしまうなぁ」
弁護士「いえいえ、それほどでもないですよ」
私「ほとんどで負けるのだろうが、たった一つ勝つものがある」
弁護士「何ですか?」
私「これだ!」
そういって小指を立てる。大笑いである。
私「弁護士だから、『四畳半襖の下張り』は知っているんだろう」
弁護士「はい、それは……」
私「原文は読んだか?」
弁護士「いえ」
私「事故現場を見ないで犯人を弁護するみたいもんだなぁ。まずは原文を読まなくては」
弁護士「はい……」
私「いいか、これは内緒だ。なにせ発禁本だからなぁ。しかし物は今ここに持っている」
弁護士「本当ですか!」
私「これを君にあげるんだが、しかし一つだけ条件がある」
弁護士「何ですか?」
私「読んだ感想を聞かせてもらいたい。君のじゃない。君の感想はどうでもいい。君の奥さんも弁護士ということだから、奥さんの方の感想が聞きたい。これが条件だ」
弁護士「はい、大丈夫です。妻にもしっかり読ませます(笑)」
これ以上の話は書けない。当局の検閲が厳しい。当局とは妻のことである(笑)。
                                 (平成27年作)


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晩秋

晩秋の路地ひそかなる息づかひ



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「みの家」から冬木弁財天に向かう途中、我々は路地を探しながら歩いた。
「路地はそれらの浮世絵に見る如く今も昔と変りなく細民の棲息する処、日の当った表通からは見る事の出来ない種々なる生活が潜みかくれている。侘住居の果敢さもある。隠棲の平和もある。失敗と挫折と窮迫との最終の報酬なる怠惰と無責任との楽境もある。すいた同士の新所帯もあれば命掛けなる密通の冒険もある。されば路地は細く短しといえども趣味と変化に富むことあたかも長編の小説の如しといわれるであろう」(「日和下駄」第七 路地より)
「竹格子の窓には朝顔の鉢が置いてあったり、風鈴の吊されたところもあったほどで、向三軒両隣り、長屋の人たちはいずれも東京の場末に生れ育って、昔ながらの迷信と宿習との世界に安じていたものばかり」(「深川の散歩」より)
路地を見る荷風先生の目は優しい。女性を描き、下町を描き、人情に溢れた市井を見てきた目には、路地はこよなく愛すべき場所として映っていたようである。

そんな路地を求めて歩いてみたのだが、どこを探してもそれらしき風景には出会えなかった。途中、ワゴン車に熊手を詰め込んでいる人に出会った。酉の市である。「ここで作っているのかぁ」と中を覗こうとしたが、人一人が通れるほどの狭いビルでエレベータの中に立て掛けた熊手を二本ずつ持って何回も往復している最中だった。熊手作りがビルの一室である。路地が見当たらないのも仕方ないことのように思えた。

いよいよ日和下駄の旅も終わり、団子屋に寄って土産を買おうとした時、その向こうに細い通りが見えた。路地ではないが、路地のようにも見えそうなので念のため大通りを渡ってみることにした。
「路地を通り抜ける時試(こころみ)に立止まって向うを見れば」と書いている。明るく賑やかそうな通りが見え、風になびく柳や人の往来が演劇の舞台のように見え、また川沿いの町であれば橋の欄干や過ぎゆく荷船の帆が見えたりすると「かくの如き光景はけだし逸品中の逸品である」と褒め称えている。(「日和下駄」第七 路地より)
通りを渡ってその場所に立ち、振り返って表通りを眺めた時、過ぎ行く人影や車の流れが「逸品中の逸品」に見えたかどうかは論を待つ必要もないことのようである。写真はその時の一枚である。
                                 (平成27年作)


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身に入む

銭金の身に入む巳の日参りかな



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「みの家」を出た時は少し酔っていたかも知れない。事前に調べておいた冬木弁財天の位置が分からず人に聞いたのだが、二人が二人とも知らないという。「地元なのに何だろう?」と思ったが、「みの家」と弁財天の距離を思えばあまりにも離れた場所で聞いてしまっていたことがあとから分かった。
なぜ冬木弁財天かと言えば、「深川の散歩」に記述があるからである。
「冬木町の弁天社は新道路の傍に辛くもその址を留めている。しかし知十翁が『名月や銭金いはぬ世が恋ひし』の句碑あることを知っているものが今は幾人あるであろう」である。本当は「みの家」の裏手にあった長慶寺や弥勒寺にも寄る予定だったが、「みの家」のビールですっかり吹っ飛んでしまった。途中、江戸深川資料館に寄っても興味が沸かず、清澄公園も素通りである。昼酒は程々にしないと午後の部を台無しにする(笑)。

「広漠たる福砂通り」と荷風先生が書いた今の葛西橋通りに面して、弁財天はひっそりと建てられていた。
「いやに狭いな」と思い、「辛くもその址を留めている」と書かれた意味が分かるような気がした。鰐口を叩いて賽銭を上げたあと、建物の周囲を見て回ったが、本当に狭い。隣との境界のブロック塀からの2メートル幅の敷地に池が巡らされ、橋の役目の石の板が何枚か架けられ、大きな知十翁の句碑が邪魔をするように据えられている。ここに果たして池が必要なのだろうかと思った。入口には銭洗い弁天と同じようにお金を洗うための笊が掛けられていた。
奥に入ってみると何やら塚のようなものがあり、中を覗くと白蛇の置物が置かれている。蛇は弁財天の遣いである。さらにその奥には狛犬が二匹並んでいて、狭い割には盛りだくさんという印象である。出てきて写真を撮ろうとしたが、距離が取れない。どこを撮ろうにも距離不足である。ようやく手水舎に背中を付けながら撮ったのがこの写真である。その狭さに閉口しつつも荷風先生が見たものを辿ったという満足感だけは得られたようである。
(注)弁財天は財運の神様で巳の日を縁起の良い日としている。
                                 (平成27年作)


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鵯の糞に塗れしおかめ笹


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「みの家」での会話である。
私「あれっ、もうデジカメの電池が減ってきた」
妻「あれだけ笹を撮れば電池も減るでしょうよ(笑)」
実は芭蕉庵の庭に生えていた笹を何枚も写していたところを妻が見ていたのである。同じ笹を何枚写したところで変わりようはないのだが、微妙な構図は撮ってみないと分からない。数多く撮るのが癖になっているのである。この笹、実は本当の名前は知らない。しかし日和下駄の私としては、この笹はどうしても「おかめ笹」であってもらわなければならないのである。たとえ違う笹であったとしても、おかめ笹だと信じて何枚も何枚も写したのであった。

永井荷風に「おかめ笹」という小説がある。もう15年程も前のことであるが、いろいろと読んでいるうちに、どうしてもその作品を読みたくなり、会社の営業マンに本屋に行って買ってくるように頼んだのであった。
「帰りに本屋に寄って本を一冊買ってきてくれ」
「はい、分かりました。何という本ですか」
「おかめ笹」
「おかめ笹ですか?!」
あれから随分と経ったが、時折彼とはその時の話で盛り上がる。
「変な本を買いに行かされるなぁと思いました。題名が題名だけに忘れられません」

うだつの上がらない三流画家の主人公が師匠の家の放蕩息子の面倒を見たり尻拭いをしたり、時折その放蕩に付き合って芸者と遊んだりする。性格は真面目で誠実ではあるが、偉くなれるような人物ではない。出っ歯の女房と倅。待合の女たちや放蕩息子の嫁やその実家の人などが登場する。最後はひょんなことから小金が舞い込み、芸者の旦那に納まるという幸運に巡り合ったりもする。
「おかめ笹」とはそこらに生えている笹のことで、踏まれたり小便を掛けられたりする程度のものである。もちろん、鵯(ひよどり)の糞に塗(まみ)れることもあるだろう。主人公の身の上とも重ね合わせて、作品の題名としてそれほど悪い命名でもないと作者が序文に記している。
                                 (平成27年作)


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馬肉鍋

高らかに放歌せし世や馬肉鍋



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昼食は森下の「みの家」と決めていた。以前、泥鰌鍋のブログを書いた時にNANTEIさんから紹介されて以来ずっと心に留めおいた店である。上野の美術館に行くとなった時にすぐに思い出し、ついでに深川散歩を思い付いたのである。いうならば、今回の旅の火付け役ということになる。
1時頃に到着したが、待つこともなく案内された。靴を脱ぎ、下足札を渡され、一階の大広間に通された。ステンレス製の長テーブルが左右に据えられていて、なるほど駒形泥鰌の店と同じような雰囲気を漂わせている。中央の座敷の周囲に赤いカーペットを敷いた廊下が巡らされ、廊下と座敷の仕切りはガラス戸を受ける腰高の敷居である。なんとも面白い造りで興味ひかれた。廊下側に座るとお客が詰まってきた時に、敷居を跨いで席を立つことになるだろうと思い、私がそちら側に座ることにした。女中さんからは隣席に詰めて座るように言われたが、それほど混んでもいないようなのでガスコンロ一つ飛ばして座らせてもらった。桜鍋と馬刺しを頼み、ビールを注文した。

この明治30年創業の老舗に席を占め一句をものにしないわけにはいかない。辺りをぐるりと眺め回して句材を探した。もちろん、桜鍋を詠むのであるから馬に近いものを探さなければならない。しかし馬面をした女中もいなければ、豆腐はあっても馬耳東風を決め込む愛想の悪さもない。あえて探せば向かいの女客がよく太っていて、天高く馬肥ゆる秋を思わせるがそれでは句になるはずもない。大きな熊手や木札の品書きも目に留まったが、吊り束に掛けられた古びた「放歌禁止」の札が面白く思えた。明治大正の頃、大いに騒ぐ人達がいたのだろう。桜鍋を囲んで一杯飲み、放歌高吟する姿を思い浮かべながら古き良き時代に思いを馳せた。
                                 (平成27年作)


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秋深む

多羅葉に詫びの一文秋深む


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「深川の散歩」は清洲橋を渡り、万年橋を渡り、芭蕉庵の址や柾木稲荷を見て当時いくつもあった堀割の話へと移っていく。堀割とそのあたりの人家などの話になり、東森下町にあるお寺の話に移行していくのである。私たちはその少し先にある芭蕉記念館に寄ることにした。昭和56年開館とあるので、荷風先生の時代にはもちろんない。俳句を行う者なら一度は立ち寄ってみたいと思う場所である。

中では句会が開かれていた。久しく遠ざかっているので少し羨ましくも思った。展示品にはあまり興味を引かれなかった。芭蕉を調べたり奥の細道を読んだりしていればまた話は別だろうが、いまは日和下駄の最中なので気持ちが向かないのである。早々に建物を出て外の庭を見てみることにした。そこに多羅葉の木を見つけた。
「昔の人はこれに字を書いたんだよなぁ」と私。
「別にこの葉っぱじゃなくても書けるんじゃない?」と妻。
一枚捥いで傷をつけてみる。青く線がつく。しばらくすると色が濃くなるはずである。
「多羅葉に一句したため秋惜しむ、って感じかなぁ」
「それ、いいじゃない!」
「それいいと言ったって、大した句じゃないよ」
「いや、それいいよ。私は気に入った!」
妻が私の句を褒めるというのは珍しい。十年に一度あるかないかの珍事である。
芭蕉庵を出て昼食のテーブルに向かい合った時に、捥いできた多羅葉の葉に爪楊枝で文字を書いてみた(写真)。
「なるほど、はっきり文字が出てくるね」と妻。
「そうだろう」とは言うものの、しかしいまいち盛り上がれない私がいる。
というのは、先程の句が道川先生の句かも知れないと思っているのである。多羅葉のことを教わったのも先生なので、なんとなく先生が詠んでいるような気がしているのである。しかし珍事を勝ち得た記念すべき一句なので、ひとまず私の句ということにしてその場を過ごすことにした(笑)。

家に帰って調べてみるとやはり先生の句であることが分かった。先生の句をうろ覚えだったこともさることながら、大した句じゃないなどと心にもないことを言ってしまったことをお詫びしなくてはならない。先生の句には遥かに及ばないが、反省の意を込めて一句したためることにした。
                                 (平成27年作)


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秋天

秋天やかの煙突の今はなし



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清洲橋を渡り切ったところに浅野セメントという会社があり、荷風先生の文章に登場する。
「大川筋一帯の風景について、その最も興味ある部分は今述べたように永代橋河口の眺望を第一とする。吾妻橋両国橋等の眺望は今日の処あまりに不整頓にして永代橋におけるが如く感興を一所に集注する事が出来ない。これを例するに浅野セメント会社の工場と新大橋の向に残る古い火見櫓の如き、(中略)それら工業的近世の光景と江戸名所の悲しき遺蹟とは、いずれも個々別々に私の感想を錯乱させるばかりである」(「日和下駄」第六 水 附渡船より)
そして昭和9年作の「深川の散歩」では次のようになる。
「清洲橋をわたった南側には、浅野セメントの製造場が依然として震災の後もむかしに変わらず、かの恐しい建物と煙突とを聳(そびや)かしている(略)」
余程、先生の印象は悪いようである。

川風を心地よく受けながら橋を渡り終えたところで、交差点の向こうに工事中の場所が見えた。(写真)
「おお!浅野セメントだ。しかも今、工事中。発展している!」
日和下駄を書いた大正4年から数えて今年がちょうど100年目にあたる。
「すごいよ。永井先生に嫌われた工場が100年経った今も発展中だよ。これを見たら先生もさすがに感動するだろう」
一人、大いに感動していたが、隣の妻は冷静そのものである。
「ねぇ、先生って永井荷風のこと?」
「あっ、そう……」
「あなたに先生と呼ばれて、永井荷風先生の方が驚いていると思うよ(笑)」
(注)後日調べたところ、工事をしていたのは隣の敷地の会社のようであった。勘違いとはいえ、とても感動したことなので記しておくことにした。
                                 (平成27年作)


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都鳥

渡し場のありし辺りや都鳥



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上野から地下鉄で「水天宮前駅」に向かった。深川へは「深川の散歩」に倣い、日本橋中洲側から清洲橋を渡ることに拘ったのである。天気予報では木枯らし1号が吹くとも言われていたが、少し汗ばむほどの陽気で地下鉄出口の自販機でお茶を買って清洲橋へと向かった。
まず、大正4年に書かれた「日和下駄」を見てみよう。
「陸路運輸の便を欠いていた江戸時代にあっては、天然の河流たる隅田川とこれに通ずる幾筋の運河とは、いうまでもなく江戸商業の生命であったが、それと共に都会の住民に対しては春秋四季の娯楽を与え、時に不朽の価値ある詩歌絵画をつくらしめた。しかるに東京の今日市内の水流は単に運輸のためのみとなり、全く伝来の審美的価値を失うに至った」と書き「昔の人が船宿の桟橋からチョキ船に乗って山谷に通い柳島に遊び深川に戯れたような風流を許さず、また釣や網の娯楽をも与えなくなった」と嘆いている。
それが昭和9年の「深川の散歩」ではこうなっている。
「多年、坂ばかりの山の手に家する身には、時たま浅草川の流を見ると、何ということなく渡って見たくなるのである。雨の降りそうな日には川筋の眺めのかすみわたる面白さに、散策の興はかえって盛になる」
何だかんだと言ったところで、この清洲橋を渡っての散策は好きなコースのようである。

あらためて橋を見てみると兎に角大きい。全長186メートル幅22メートルで昭和3年の竣工とある。鉄骨のごつごつしたこの橋を鼻緒の緩んだ日和下駄で荷風先生も渡ったのである。「電車も通らず、人通りもさして激しくはない」と書いているが、今でも車の往来も人通りも左程ではないようである。変わったのは隅田川周辺の建物であり、下を行き交う船の速さである。
さて、清洲橋の写真をどう撮ろうかと迷った。近景では全体が表し難いだろうし、遠景では月並みになりそうである。最もいいのはビルの上からの俯瞰だろうが、それらしき商業ビルが見当たらない。橋を上ったり下りたり墨堤を行ったり来たりして何枚も写していると「そろそろ好い加減にしてよね」と言われそうな雰囲気が漂ってくる。
                                 (平成27年作)


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敗荷

敗荷や風が変へゆく池の景



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上野の水墨画展のあとは江東区深川を歩いてみようと計画していた。すなわち永井荷風の「日和下駄」「深川の散歩」などを読み返し、荷風が歩いた深川の今を訪ねてみようというのである。荷風に夢中だった頃のことなどを思い出しながら、のんびりと日和下駄の後を辿ってみることにした。

深川に入る前に、荷風が不忍池について書いているところがあったので見てみよう。ちょうどその日の私と同じように上野の美術館のあとに立ち寄っている。
「私は毎年の秋、竹の台に開かれる絵画展覧会を見ての帰り道、いつも市気満々たる出品の絵画よりも、向ヶ岡の夕陽、敗荷の池に反映する天然の絵画に対して杖を留むるを常とした。そして現代美術の品評よりも独り離れて自然の画趣に恍惚とする方が遥に平和幸福である事を知るのである。」(「日和下駄」第六 水 附渡船より)
上野の美術館の帰りに不忍池に映る夕陽を見て、今見てきた絵画よりもその方が美しいと言っているのである。池の景を褒め称えるのであれば、素直にそのことを書けば良さそうなものであるが、見てきたばかりの絵画作品を引き合いに出さなければ気が済まないのだ。引き合いに出された作品にはつらい話である。逆に絵画を褒めようとする時はきっと自然の方を槍玉に上げるに違いない。文章とは書きようである。気まぐれであり、且つ恣意性そのものである。

また、池の中央の弁天堂と石橋を褒めている箇所もある。
「不忍の池に泛ぶ弁天堂とその前の石橋とは、上野の山を蔽う杉と松とに対して、または池一面に咲く蓮花に対して最もよく調和したものではないか」(「日和下駄」第五 寺より)
今、池の向こうに聳える高層ビルを荷風が見たとしたなら何と言うであろうか。その間に沈みゆく夕日を絶景と褒め称えるであろうか。地下鉄「上野広小路駅」の入口に入るまで、そのようなことを考えながら歩いていた。
(注)秋も深まると風雨に晒された蓮の葉が破れていく。その状態を「敗荷(やれはす)」という。
                                 (平成27年作)


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冬に入る

水墨の山峨々として冬に入る



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以前所属していた浜風句会で一緒だった浅見さんから水墨画展の案内をいただいた。俳句がとても上手で句会のまとめ役だった人だが、水墨画の趣味もあり色紙に描かれた作品を頂いたこともあった。会場は上野の東京都美術館だったので日曜日に妻と出掛けてきた。
その日、東京都美術館ではモネ展が開催されており、人の流れはそちらへと向かっていき水墨画展の方は空いていた。開始時間9時半に合わせて入場したが我々二人きりである。入ってまず驚いたのは会場の白一色の美しさである。油絵などと違い墨だけで描かれているので、言うまでもなくどの作品も白黒の世界であり、それを縁取る額も展示する壁面も白を基調として見事に統一されているように見えた。まずはその美しさに圧倒されたのである。他に誰もいないという環境も嬉しく、作品鑑賞にはまたとない機会に思われた。作品の良し悪しなど分かるはずもないので、自分の心の動かされるままに素直に見て回ることにした。

私の水墨画に対するイメージは掛け軸に描かれた花鳥山水から一歩も出ていない。100号もあるようなキャンパスに描かれた作品には「これが水墨画か!」と一々驚かずにはいられなかったのである。「どうやって描いたのだろう?」と思うような巧みなものもあった。初めての水墨画を前にして「心奪われる」という表現が決してオーバーなものではなかったことを記しておきたい。
浅見さんの作品は「晨光」と題され、木々の間から朝日が差し込む渓谷の様子を描いたものだった。奥入瀬かも知れないと思った。丹念に少しずつ書き加えられていった様子が見て取れて、光の美しさと渓谷の清しさが見事に表現されていた。几帳面な浅見さんらしい作品に思え、キャンパスに向かう彼女の姿が目に浮かぶようであった。
                                 (平成27年作)


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秋湿り

肩先の妙な痛みや秋湿り



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ここの所、右肩に違和感があり少し痛みを感じていた。そのうち治るだろうと思い放っておいたが、しまいには寝ていて目が覚めるほどになってしまった。土曜日に家の近くの整形外科に出掛けた。ここは数年前に足が痺れた時に診てもらい、坐骨神経痛と診断され一二度通って治してもらったことがあったので一応は信頼している病院なのである。しかし、先生は少し変わっていて少々怒りっぽい。それも確かな腕があったればこそと考え、診てもらうことにした。
待合室で待っているとマイクで「日向さん、日向亮司さん、2番診察室にお入り下さい」と先生自らの声で呼ばれた。他に患者もいないのに妙に大声である。ドアをノックし、「よろしくお願いします」と挨拶し、先生の前の丸椅子に座ろうとすると「荷物は籠に入れてください」と言われた。少しモタモタしていると、「そこの籠!」と怒った物の言い方である。相当に気の短い人のようである。
「どうしました?」「右肩が痛くて、上がらない状態です」「何時ごろから?」「2・3か月前からです」「随分、我慢していたねぇ」「そのうち治るかなぁと思ったものですから」「自然に治っちゃ医者はいらないよ。少し腕を上げたりするから、痛かったら言ってください」「痛っ!」「相当に固まっているなぁ、レントゲンを撮るので一旦、この部屋から出て廊下で待っていて下さい」外に出ようとすると「荷物は持って!」と怒られる。

レントゲンのあと、画像を見ながら説明が始まった。「この肩の骨の上の部分ね、ここが固まって全然動かない状態。引っ付いているものを動かそうとするから痛い。注射を一本するので肩を出して」「先生、病名は何ですか?」「五十肩だよ。このまま放っておくと、手術ってことにもなる。骨も徐々にスカスカになっていくから、早いうちに治しておかないと……」一本、注射を打たれる。腕を引っ張って状態を確かめようとする。「どうだ、さっきより動くだろう」「そうですねぇ。こんなに早く効くものですか」「効くから上がるんだろ」「なるほど」「この紙に腕の動かし方が書いているから、一日2回は振り子運動をやるように。ストレッチもやった方がいい」「本当だ、随分と効きが早いですね。さっきより痛くない」「もう一本、打っておくか」「???」「冗談だよ(笑)」
治療代2500円を払い、処方箋をもらった。少々怒りっぽいが名医のようにも見えてくる。
                                 (平成27年作)


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秋七草

花束に秋七草を加へもし



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コンサートは11時45分からである。小田原駅構内の「ペデストリアンデッキ」という広場が会場である。車を駅から少し離れた駐車場に入れ、プレゼントに用意しておいた花束を持って会場を目指した。ギリギリの到着を避け15分前には着こうと思っていた。花束を持って会場に向かう姿は、なぜか高校生の時に見た映画「卒業」のダスティン・ホフマンを思い出させていた。心の中にはもちろん「スカボロー・フェア」が流れている。坂を下り、横断歩道を渡り、人込みの中を花束を持って歩くという未体験ゾーンを楽しむかのようであった。
駅に到着し、少し慌てた。会場が見つからないのだ。人に訊いたりしたが、そのような場所は知らないという。「この長い横文字の名前なら誰でも知っているだろう」と思い込んだのが間違いのようである。駅構内の地図を見たが見つからない。あちこちキョロキョロしたり、足早に駆けてみたりしていきなり余裕を失った。曲はその時「ミセス・ロビンソン」に変わっている。事前に場所を確認しておかなかったのがいけなかったのだ。準備の悪さ、ズボラな性格、いつもこの性格には痛い目に遭わされている。結局、遅刻こそしなかったもののギリギリ5分前の到着となり完全に心の余裕を失いかけていた。

さいとう眞由美さんは待っていてくれた。「わざわざ遠いところを来てくださいまして有難うございます」と言ってくれた。本来ならそこでいろいろと会話が弾むところであるが如何せん時間がない。それよりも何よりもこの花束をどうしていいのかが分からなかった。持ち慣れぬものを持っているのである。先日の写真の御礼をいうと同時に、まずはその花束を差し出したところ「最後にください」とあっさり言われてしまった。
「ん?これをずっと最後まで持っている?」
最も花束に似合いそうにない自分が、ずっと終わるまで持っていなくてはならないのである。周りを見ると花束を持っているのは私一人だけである。「まぁ、それもいいか」と考えるまでに、しばしの時間が必要だった。
コンサートは彼女がオリジナル曲を5曲ほど歌うものだった。いつもどのような歌手生活をしているかなどは聞いていないが、同級生やファンの方たちも結構来ていて、とても素敵なコンサートになっていた。
最後に花束を渡した。周りの人達が拍手をしてくれた。もちろん斉藤さんに対してであるが、渡す自分も少し幸せな気分を味わっていた。握手をして別れたが、湯河原での出会い、メールでのやり取りなど数か月を本当に楽しく過ごさせてもらったことにお礼の言葉もない。帰りの心中を例えてみれば、やはり流れる曲は「サウンド・オブ・サイレンス」ということになろうか。
                                 (平成27年作)


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山の錦

柴刈りや山の錦に目もくれず



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尊徳記念館を出て、小田原城の横にある報徳二宮神社に向かった。神社の由緒書によれば、明治27年に先生の教えを慕う6か国(伊勢、三河、遠江、駿河、甲斐、相模)の報徳社の総意で創建されたとある。お祀りされているのは、もちろん尊徳先生である。
10時半頃になっていたが、参拝客もあまりなく静かな参道をゆっくりとお参りさせてもらった。途中、柴を背負いながら読書する二宮金次郎像が建っていたので写真を撮ることにした。像は高い台の上に据えられている。何枚も撮ったのだが正面右側から写したものしか使い物にならなかった。左側から写したものが欲しかったのだが、逆光になってしまうのである。私がなぜ左側から撮ることに拘ったかを説明しよう。

尊徳先生に興味を持つ契機となった講演会で講師がこう言っていたのである。
「二宮金次郎像を見ると間違って作っているものがある。いろいろな業者が作っているので間違いがあっても不思議ではないが、そもそも、あれは薪ではなく柴なのだ。金次郎少年が小田原の山に入って柴を刈ったり拾ったりしてきたものだ。百歩譲って薪というなら、簡単に手で折れる程度のものだろう。そういう目で見てみると像の中には完全に長さを揃えた薪を背負っているものがある。像の制作上、その方が作りやすいのだろうが、時代を考えればすぐに間違いだと気付く。両端の揃わない柴を背負っているのが正しい像の姿である」
真実は知らない。文献を漁ったり、芝刈りのやり方を調べたりするといったことは全く興味の外である。ただ、その時に聞いた講師の話を丸呑みにして「なるほど」と信じただけの話である。二宮神社の像は向かって左側の柴は講師のいうように揃わない状態をしていた。しかし、右側はきちんと揃っているように見えるのである。後ろに回って見てみると、なるほど片側を揃えたようになっている。「紛らわしいなぁ」と思いながらも、取りあえず左側から写しておけばいいと考えたが、逆光に阻まれた訳である。文章を書きながら「こんなことなら後ろ側を撮っておくべきだった」とも考えたが、そもそもこんな些細なことに拘ってしまう自分の性格の方をどうにかしたいものだと思ったものである。
                                 (平成27年作)


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