2015年10月の記事 - ひこばえ
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ひこばえ


2015年10月の記事

豊の秋

報徳の教へをいまに豊の秋



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尊徳先生の唱える教えに「報徳」という考え方がある。盥の水に例えられるように、他人に尽くせば、やがて自らに還元されるという考え方である。農業の実践の中から編み出された「人が豊かに生きるため」の知恵である。
豊かに生きるためにはまず我欲に捉われてはいけない。「至誠」とは人のために役立つことを進んで行おうとする心である。この心が実践の第一義と言える。この至誠を行動で示すと「勤労」となる。勤労とは創意工夫を行い、それぞれの能力が最大限に発揮できるよう努力することである。勤労と同時に贅沢を慎み、無駄をせず、必要なもののみを求める心を「分度」という。収入に見合った支出の度合いを定め、その範囲内に収めることである。そして最後に自分で働いて得たお金や物の一部を、人のため社会のために譲ることを「推譲」という。譲ったものは必ず将来、自分に戻ってくると説いている。
すなわち、この「至誠」「勤労」「分度」「推譲」を行うことで初めて人は物質的にも精神的にも豊かに暮らすことが出来るのだというのが「報徳」の教えである。
物が溢れたこの平成の時代に、果たしてどれだけの実践が可能かは分からないが、尊い教えであることは分かるような気がする。

酒匂川の堤防を歩いたあと報徳記念館に行き展示品や生家など見て回った。生家の横に尊徳先生の教え「貧富訓」を刻んだ碑が建てられていた。

遊楽分外に進み、勤苦分内に退けば、則ち貧賤、其の中に在り
遊楽分内に退き、勤苦分外に進めば、則ち富貴、其の中に在り


遊びが度を越え労働が足りなければ貧しくなり、遊びを慎み懸命に働けば豊かになると説く「勤労」「分度」の教えである。なるほどと思いつつ、しかしこれが実践となるとなかなか難しいことは万人の知るところである(笑)。
                                 (平成27年作)


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八千草

八千草を土手にかつての暴れ川



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先日、湯河原でお世話になった「さいとう眞由美」さんのコンサートがあり、前日に用意しておいた花束を持って小田原まで出掛けてきた。コンサートは昼からなので、午前中は「二宮尊徳」の生家や記念館を回ってみることにした。朝6時半に出掛けて7時半には小田原市栢山(かやま)に到着していた。
朝のうちは雨だったが、着いた時には止んでいた。最初に訪れたのは報徳橋あたりの酒匂川である。尊徳先生の伝記を読むと最初に出てくる川である。裕福だった実家がどんどん没落していき、その最後にこの酒匂川の洪水で田畑を流され何もかもを失ってしまうことになる。それがもとで父親が亡くなり、母親もあとを追うように亡くなってしまう。金次郎少年がその後数々の徳行を重ねていく、その出発点のような場所に思え、まずは酒匂川を訪ねたのであった。
尊徳先生については人の講演を聴き興味を持ち、境野勝悟さんや松沢成文さんなどの著作を読んでおいた。薪を背負った金次郎像は有名であるが、果たして何を行った人であるかとなると意外と知らない人が多い。私もその一人で、つい最近までは全くの興味の対象外であった。講演された方が「こんなに素晴らしい人がいたことを日本人が忘れているのは悲しい。今、尊徳先生の素晴らしさに気付き、その教えを学ぼうと努力しているのは中国はじめ外国の人達だ。特に先生の地元である神奈川の人達が知らないというのは誠に恥ずかしいことだ」と訴えていたので、なるほど調べるだけは調べておこうかと思い立ったのである。

両親を亡くした金次郎は伯父の家に預けられ、そこで農業に励むかたわら荒地を開墾したり、僅かな田畑で収入を得る道を考えたりしていく。「護岸工事の村人のために草鞋を編む話」「菜種を栽培し、その油の灯で勉強をする話」「荒地を開墾し、余り苗で米を作る話」など様々な逸話がそこから生まれる。そうした努力を重ね、20才で生家の再興を果たす。その後、小田原で武家奉公人となり、手腕を見込まれ小田原藩家老服部家の財政立て直しを行う。一介の農民でありながら武家の財政の立て直しを行った手腕は時の小田原藩主の目にも留まり、分家である下野国桜町領(現在の栃木県真岡市)の立て直しを依頼される。10年の歳月を経て立て直しを行い、復興方法である「報徳仕法」を確立していく。その仕法の手ほどきを受けた村は約600とも言われ、疲弊した各地の農村を立て直し、母体たる小田原藩の危機をも救うことになるのである。
江戸時代末期の封建的社会のなかで今にも通じる復興政策に道を開いて行った功績は大きい。酒匂川のほとりを歩きながら、その功績に思いを馳せた。
                                 (平成27年作)


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燈下親し

明け近くまでを燈下に親しめり



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友人と品川で飲んで別れたあと京急で帰ってきた。夜10時である。上大岡で乗り換えた各駅停車に知人が座っていた。読書中である。隣に座って声を掛けさせてもらった。
「勉強ばかりしているというのも如何なものでしょうか(笑)」
「おー!久し振りだねぇ。飲んできたの?」
「この時間ですからねぇ。田中さんも?」
「うん、ちょっとした会合があってね」
「随分、夢中で読んでいましたね」
「面白いんだよ、これ。船戸与一、知らない?」
「聞いたことはありますが、読んだことは……」
「是非、読んでよ。血沸き肉躍るってやつだよ」
「ジャンルは?」
「中東、イラン、クルド人。主人公がハジという名で私と同じだから更に面白さ倍増。読み出したら止まらない」
「そんなに面白いんですか?」
「面白い。仕事も忙しいんだろうけど、間違いなく面白いから読んでみてよ。本当にこれはお勧めする」
「何という題名ですか?」
「砂のクロニクル、今度会う時までに絶対に読んでおいて。これについて今度飲みながら話をしよう」
上大岡から杉田までは僅か4分である。その短い時間で強引に勧めてきたものである。勧められたはしたものの、酔っぱらっていたせいか暫くは忘れていたが、2週間ほどして新聞で中東の記事を読んでいた時に思い出した。
「今度会った時に聞かれるなぁ。騙されたと思って読んでみるかぁ」
ということで、アマゾンで買い、いま読み終えたところである。田中さんの言った通り、上下2巻を土曜日の夕方から日曜日に掛けてぶっ続けで読んでしまう面白さであった。
                                 (平成27年作)


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秋日

秋日濃し世の塵洗ふ共同湯



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四万温泉には義父に連れられて二度ほど泊まっている。いずれも積善館だった。今回は連休間際に宿を取ろうとしたため、川原湯も取れず、積善館も取れなかった。温泉街の中心から少し離れた静かな宿に泊まり、何事もなく静かな一夜を過ごした。
翌朝は帰るだけだったので、日向見温泉に寄ってみることにした。
「昔、父に連れて来てもらったけど、宿が数軒の何もない温泉だったよ」と妻がいう。しかし、四万のすぐ先なので、ちょっとだけでも覗いてみたいと思ったのである。なにせ名前が名前なので、日向が見ておかないという手はない。
車で5分ほどの距離だった。途中で車を降りて歩いてみることにした。確かに鄙びた温泉街のようだが、スナックもあったりして妻の言う「何もない」には当たらないように思えた。数軒ある温泉宿の奥に「日向見薬師堂」があった。折角なのでお参りしていくことにした。茅葺き屋根である。看板を読むとなるほど由緒ある建物であることが分かる。慶長3年(1598)領主真田信幸の武運長久を願って建立されたとあり、国の重要文化財にもなっている。しっかり中まで入り、鰐口まで叩いてお参りさせてもらった。

薬師堂の横に立派な建物があった。共同湯である。見ると建てたばかりのようである。以前、真田幸村の隠し湯という別所温泉の「石湯」を訪ね、余りの立派さに興醒めしたことがあったが、ここも「石湯」と同じような唐破風作りの入口になっていた。「この造りが今の銭湯の流行なのかな」と思ったものである。写真には撮ったものの、歴史的建物ではないと判断し、よく見ないで車に戻ったのであった。あとで調べてみると「御夢想の湯」という共同湯で四万温泉発祥の源泉が湧き出ているという。「四万(よんまん)の病を癒す霊泉」という四万温泉の名の由来なども書かれていたようである。「ひやぁ!」下調べをしておかなかったことはもちろん、近くまで行っていながら見ようともしなかったのは失態である。地団太踏みつつ猛省することになってしまった旅の終わりである。
(注)句は上毛かるた「世のちり洗う四万温泉」の換骨奪胎である(笑)。
                                 (平成27年作)


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晩秋

甌穴を見て晩秋の四万に入る



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岩櫃山を出て四万温泉へと向かった。昼を過ぎていたので途中どこかで蕎麦でも食べようなどと話していた。中之条を左折して四万街道を直進したが適当な店が見当たらない。「蕎麦屋ぐらい、あってもよさそうなもんだけど」と途中からぼやきも出始める。右手にラーメン屋が現れるが「ラーメンはないだろう」とすんなり通過する。随分と走った。「このままでは温泉に着いてしまうなぁ」と言いながら走り続け、しばらくすると右側に食堂のようなものが現れた。ここにしようかと思ったが「カフェ」と書いている。「カフェってコーヒー屋か」と聞いている間もなく通り過ぎた。と、その瞬間「四万の甌穴」の看板を見つけた。「あれっ!甌穴(おうけつ)って何だっけ?」と言いながら急ブレーキを掛け、まずはUターンしてみることにした。「甌穴って、昔来た時にも通り過ぎてしまった気がする……」と思っていた。
駐車場は広かった。しかし舗装されていないので妙に埃っぽい。人気の観光地という訳ではなさそうである。もしそうであれば、観光客を呼び込むための建物や食堂があるはずで、大型バスを迎え入れるために駐車場も舗装されているはずである。カフェはテラス風の粋な造りだが、食べるものはなさそうである。売店も一軒あったが健康キノコなどを売ってポピュラーではない。甌穴もあまり期待出来そうにないと思いながらも、とにかく行ってみることにした。
車道の脇の降り口に「甌穴」を説明した看板が立てられていた。
「県の天然記念物に指定されている景勝地。数万年もの歳月を経て、川底に沈む石が水流によって定位置で回転することにより、摩擦の力で開けられた穴。大小8つの穴が点在しており、大きいもので直径3M、深さ4Mにもなる」
看板の横に欄干があり、まずはそこから見下ろしてみて驚いた。滝壺のような「甌穴」の色が青くて美しい(写真)。「これは凄いわ」と感嘆の第一声を上げた。しばらくそこに凭れて見とれていた。下に降りて水の周りを歩いてみた。忍野八海の透明感を思わせ、伊勢神宮内宮の五十鈴川の清流を彷彿とさせた。まさに数万年の神秘である。
「いいもの見たね」と言いながらも空腹感は正直である。温泉街で何か食べようと言って再び出発したが、四万温泉は大混雑である。旅館は離れているので、何とかして温泉街で駐車場を見つけたいが満車状態で入れない。諦めて結局は中之条方面へと戻り、途中に見かけたラーメン屋に入ることになってしまったことを報告しておこう。
                                 (平成27年作)


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木の実落つ

本丸を守るは忍びか木の実落つ



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「中城」を過ぎると空堀の急な上りが続いた。この狭い急坂を責め立てなければならない敵の苦労を思った。登り切ったと思っても更に上があり、ようやく「二の丸」に到着しても「本丸」には更にもう一段上がらなければならない。息が切れて、持ってきたお茶も全部飲み干したほどであった。
池波正太郎著「真田太平記」では、織田・徳川に追われた武田勝頼に新しく築いた新府城を捨て陣を立て直すよう進言する真田昌幸が描かれている。そこで勝頼が聞き入れておけば、歴史が変わったかも知れないという場面である。

「それがしの城、岩櫃へお立ち退きなされば、どのようにも御身をお守りいたす」
昌幸の声は自信にみちみちていた。
上州の岩櫃城は吾妻の山岳に囲まれていて、ここに立てこもり、精通した地形を利用し、互いに信頼し合っている諸方の豪族や地侍を動員すれば、
「一年、二年は必ず、持ちこたえて見せましょう」
だから、おもいきって父祖代々の領国を捨てよ、と昌幸は熱弁をふるった。

本丸跡のベンチに腰掛けて休んでいると、我々に遅れること10分程して入口で追い抜いた青年がようやく「二の丸」に到着した。見ていると随分と写真を撮っている。しかもカメラで撮ったあとにスマホでも撮るという念の入れようである。「本丸」に上がってきた所で声を掛けた。
私「随分、写真を撮っているけど、ブログか何かに載せるの?」
青年「はい、そうです。結構、皆さんに見て貰っていて人気があるんです」
私「写真ブログか何か?」
青年「いいえ、歴史ブログです。東京で芸人をやっているんですが、歴史が好きなので歴史芸人と言われています」
私「歴史芸人?」
青年「名前は長谷川ヨシテルと言います。ヨシテルはカタカナです。テレビにも出ていますので一度見てください」
私「歴史って戦国時代?」
青年「そうです。結構、あちこち出掛けています」
私「長篠とかは行った?この間、見てきたんだけど」
青年「わぁー、行ってないです。是非行ってみたいと思っています。実はいつもこの中に兜を持ち歩いているんです」
私「かぶと?」
青年「私のトレードマークなんです」

このような会話をして本丸跡で別れたのだが、あとから妻のスマホで検索してみると本当に素晴らしいブログを展開しているのが分かった。ブログにはしっかり兜を被っている長谷川君が写っていた。折角、兜を持っていると言ってくれたのに「見せて」と言わなかったことには、あとあと申し訳なかったと反省するばかり。芸人と聞いても、まさかお笑い芸人とは思わず、勝手に大道芸人などを想像していたことにも反省することしきりである。彼のブログにも当日の「岩櫃城」のことが書かれていたが、さすが歴史芸人と称するだけあって、軽妙な語り口で深い蘊蓄が語られていた。是非みなさんにも一読をお勧めしたい。
                                 (平成27年作)


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「地炉の間」のありし跡とや栗の毬



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川原湯を見終わったが、予約している四万温泉に向かうには少し早過ぎるので道の駅で休憩することにした。到着すると真田の六文銭の幟がたくさん立てられている。「そうかぁ、来年の大河ドラマ真田丸で盛り上がってるんだぁ」と歴史心に火が点いた。妻は足湯に入るという。早速パンフレットを貰いに行くと「真田街道ガイド」というのがあった。昨年訪ねた「上田城」から「沼田城」「名胡桃城」あたりまでの上野国一帯は真田の領地だったのだ。調べてみると四万温泉の手前に「岩櫃城」があるではないか。あやうく見逃してしまう所であった。「さぁ、出掛けるぞ」足湯に入ったばかりの妻を急き立てて、車に戻ることにした。
カーナビに「岩櫃城跡」と入れてみたが見つからないので「岩櫃城温泉」と入れてみた。到着すると大きな城の形をした温泉で歴史的建物ではないようである。中に入って城跡のことを聞いてみたが、あまり要領を得ない。再び車に戻り、地図で位置を確かめ、ようやく城跡入口の駐車場まで辿り着くことが出来た。入り口付近では何やら大工さん達が小屋のような建物を建てている最中だった。大河を当て込んで休憩所などを作るのかも知れない。

看板にハイキングコースの案内があり、城跡の表示もされていた。本丸跡まで500メートルと書かれている。大したことはないだろうと思い歩き始めた。我々の前に若い男性が一人、写真を写しながら歩いていたが、すぐに追い越して山道を上り始めた。結構な上りで、すぐに息が切れてきた。杉木立の中を幾曲がりしながらの道である。この道を真田幸村が馬に乗って駆け上って行ったのかも知れないなどと想像していた。
相当に上ったあたりに広い栗林があった(写真)。そこは「中城」と呼ばれた曲輪があった場所であり、池波正太郎の小説「真田太平記」の中では真田昌幸が忍びの者「壺谷又五郎」と語り合う「地炉の間」があった場所でもある。来年のドラマでその「地炉の間」がどう描かれるのだろう。いろいろ想像しながら、そこらじゅうに散らばっている栗の毬を踏みしめながら歩いてみた。
                                 (平成27年作)


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ちちろ鳴く

峡の湯の一人の闇にちちろ鳴く



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(承前)川原湯温泉には浜風句会の人達と一泊吟行で訪ねている。私が入会した2年目の平成11年秋のことである。句会初めての一泊旅行だったので、鄙びた温泉地はきっと喜んでもらえるだろうと思い案内したのであった。先生も皆さんも大喜びしてくれた。「川原湯館」に泊まり、吾妻渓谷を散策し、混浴風呂に浸かったのであった。
「笹湯」までの細い道を辿りながら、先生のことや仲間達のことを思い出していた。
「笹湯」は鍵が掛けられていたが、ついさっきまで営業していたかのように何もかもが残されていた。蜘蛛の巣を避けながら、入口や通路を懐かしく見て回った。建物の横のガラス窓から中の浴槽を覗くことが出来た。外の風景がガラスに反射して見づらいが、浴槽には湯が張ってあり、ケロリンの黄色い桶も脱衣籠も置かれていた。あの日のままである。じっと覗いていると涙が溢れてきた。そこにいる自分と義父の姿が見えるような気がしたのである。
結婚して初めて連れて来られた正月の朝である。二人でこの風呂に入ったのである。「笹湯」は「川原湯館」のすぐ下にあったので、起きてすぐそのまま来たのである。お湯はとても熱く、素っ裸になったはいいが入れるものではない。水道の蛇口を目一杯に開き、湯揉み板で掻き混ぜるなどしたが尋常な温度ではない。湯の花が浮かぶ真っ黒なお湯である。オヤジさんが先に入った。相当に我慢しながらである。負けじと私も入った。根性無しと思われたくなかったのである。あの時の二人の姿がガラス越しに見えるような気がして泣けてきたのである。あれからもう36年である。オヤジさんはもうとうにいない。20代だった自分もこんなに年を取ってしまった。ガラス戸に額を押し付けながら、泣けて泣けて仕方なかったのである。

この句は吟行の時のものである。もともと「山の湯の一人の闇に」であったが、今回このブログを書くにあたり「峡」に変えることにした。ダム底に沈んでいく温泉が「山」というのではおかしい。ダムに沈むのは「峡」でなければならないと気付いたのである。
(注)「ちちろ」とは蟋蟀(こおろぎ)のことである。
                                 (平成11年作)


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泡立草

立ち退きし湯の町ひとつ泡立草



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墓参りを終えて川原湯温泉へと向かった。昔、両親が健在だった頃に何度も泊まりに来た場所である。「八ッ場ダム」の工事が進み温泉街の移転も済んだと聞き、最後の姿を目に焼き付けておこうと思ったのである。
運送業を営んでいた義父は、ことあるたびに仲間達と川原湯へ出掛けていた。いつ始まるとも分からないダム工事を待って、川原湯はいつまでも昔のままの風情を残していた。私も結婚当初から何度となく連れて来てもらい、思い出の場所となっている。
随分来ていなかったので、大きく変わっただろうと思っていたが、カーナビに案内されるまま真新しい道路を走り、「ここが目的地です」と言われた時は一瞬戸惑った。全く見知らぬ場所であり、車を降りて看板を見るまで現在地が把握出来なかったのである。変われば変わるものである。

メイン道路脇の細い道を元の温泉街へと下りていった。初めに川原湯神社が見えた。温泉街の最も上にあった神社を今は下に見ながら下りていくのである。車を停めて歩いてみることにした。人一人いない温泉街に立ち、様々な思いが蘇ってきた。川原湯神社は変わっていなかった。しかし、参道の途中にあったたくさんの石碑や道祖神は片付けられていた。賽銭を上げ、鈴を鳴らした。昔「神鈴渡る峡の村」と詠んだ神社である。温泉卵を作っていた源泉も、その横の足湯も止められていた。公衆浴場「王湯」も閉ざされていたが、流れ落ちるお湯は相変わらず湯気を上げていた。その向かいの芭蕉句碑「山路来て何やら床し菫草」はそのままであった。ダムの底に沈んでいくのであろうか。一軒だけあったラーメン屋は取り壊され、コンクリートの基礎だけが残されていた。温泉街の途中の小高い山の上にあった混浴「聖天の湯」はそのままだったが、汚れて見る影もない有様になっていた。温泉宿は一軒を残して廃業か移転を終えていた。義父が定宿としていた「川原湯館」もとうにない。女将さんが高齢で娘夫婦に代替わりしたが、それも廃業の道を辿った。その「川原湯館」があった場所に立ってみた。昔、宿の窓から眺めた山々は変わっていない。建物があった崖面には雑草が覆い泡立草が蔓延っている。下の方を覗いてみると瓦屋根の建物が見えた。公衆浴場「笹湯」である。下りてみることにした。(つづく)
                                 (平成27年作)


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秋思

香煙を纏ひてよりのわが秋思



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先祖供養は当たり前のことと思っているが、自宅に仏壇を置いていないものが偉そうに何かを言えるものでもない。墓参りに際し、倫理法人会ではそのあたりのことをどう書いているかを調べてみた。

「世に『恩を忘れるな』ということがやかましく言われるのは、本を忘れるなという意味である。(中略)そうした中でも、最も大切なわが命の根元は両親である。この事に思い至れば、親を尊敬し大切にし日夜孝養をつくすのは、親が偉いからではない、強いからではない、世の中にただ一人の私の親であるからである。私の命の根元であり、むしろ私自身の命である親だからである」(万人幸福の栞、第13条)

「伝統的な日本の家には、たいがい仏壇と神棚が同居していた。そこで人々は神仏や先祖たちと日々交流し、お彼岸やお盆や年末年始になると手篤く祭る習慣を保ってきた。そうした作法は宗教というよりも日常の倫理そのものだったのだ。仏壇や神棚へ向かって手を合わせる作法が、時を貫く生命の縦軸と、今を共に生きる家族の横軸とを結び合わせ、確かな絆をはぐくんできた」(丸山敏秋著「倫理経営のすすめ」第5章)

親を大切にし、先祖を敬う心を忘れてはいけない。妻の実家から徒歩5分ほどの向雲寺にお墓がある。墓銘碑にあるように平成6年に義母、平成11年に義父を亡くしている。結婚してそれぞれ15年、20年という短いお付き合いであった。最も大切な娘を託された男として充分な親孝行をしてあげられたとは言えないようだが、きっと天国から見ていてくれるはずである。あの世で会った時に「よくやってくれた」と感謝されるように精々これからも努めたいと思いながらお参りした。
少し風邪気味だったので、お寺の水道で手鼻をかましてもらった。それを横で見ていた妻が「ここで鼻をかむかなぁ」と呆れ顔で呟いた。私が両親にどのようなことを誓ったかは、妻はもちろん知る由もない。
                                 (平成27年作)


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秋彼岸

遠く来て地蔵を訪ふも秋彼岸



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お彼岸に群馬県高崎市にある妻の実家の墓参りに出掛けてきた。両親が健在だった頃はことあるたびに出掛けていた場所であるが、今は墓参りくらいになってしまっている。連休中でもあり渋滞が予想されたので、早朝3時半に家を出て6時には到着していた。
お寺に着く手前で実家の前を通り過ぎた。その道が昔の「鎌倉道」であることを義父から聞かされている。義父も随分あとになってから知ったようで、歴史好きであっただけに「長く住んでいながら、自分の家の前が鎌倉道だと気が付かなかったとは……」と悔しそうに話していたのを覚えている。
その鎌倉道の突き当たりに「小万坂」という坂がある。距離にして100メートルほどの坂だが、実家からはどこへ行くにも上らなければならないという坂である。その中程に祀られているのが「小万地蔵」である。久し振りなので車を停めてお参りすることにした。
この地蔵堂は昔から誰かが丹念に世話をしているようであった。堂の前の道はいつもきれいに掃かれているようであったし、何体もの地蔵にはいつも着物が着せられていた。季節の花も供えられて信心深く誰かの手によって手厚く守られている感じがした。結婚当初なので36年も前に感じたことを今回も同じように感じたのである。実は昔、毎朝義母がお参りしているのではないだろうかと思っていたことがあった。本人に尋ねたわけではないが、何も言わずに徳を積むような人だったので何となくそう思っていたのである。思いを込めて、しっかりとお参りをさせてもらった。
平成6年に義母は亡くなるのだが、病んでいたことを誰にも知らせずにいたようである。横浜にいる私達にとっては突然の訃報に思えたほどであった。誰にも余計な心配をさせたくないという気持ちだったのだろう。真から強い人だったと思う。葬儀は自宅で行われたが、お通夜の参列者の多さには驚かされた。少なくとも私の全く知らない所で多くの人達のお世話をしていたことをその時初めて知らされたのであった。
                                 (平成27年作)


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小鳥来る

「ありがとう」に始まるメール小鳥来る



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湯河原吟行の惨憺たる結果について書いてみたが、最後に御礼を言わなければならない人がいたことを紹介しておこう。当日、最初から最後まで吟行の様子をビデオ撮影していた「さいとう眞由美」さんである。たまたま私がまどかさんと一緒に行動していたので、当然のようにカメラの中に私も入ってしまうことになる。道々私をアップで撮したような時に彼女にこう話しかけたことがあった。
「随分アップで撮っているけど……編集してカットしないで下さいよ(笑)」

最後の結果発表の時もビデオカメラを構え、会場内の様子を収めていた。「饅頭」こと田中さんと隣同士で座っていた私が撮影中の彼女に声を掛けたのであった。
私「そのビデオは何かに流れるの?」
斉藤さん「はい、編集して完成したら流します」
私「どうやったら、それを見られるの?」
斉藤さん「出来上がったらお知らせしましょうか?」
ということで、名刺交換したのであった。彼女の名刺には映像クリエーターであると共にシンガーソングライターであることも書かれていた。

後日、ブログ用のいい写真がないことに気付いて彼女にメールをさせてもらったのである。「初めまして」に始まるお願いのメールである。あれだけビデオ、写真を撮っていたので1枚分けてもらえないだろうかという不躾なお願いである。送ったその日にメールが返ってきた。とても気持ちよく頼みを聞いてくれて写真が1枚添付されていた。「ありません」と言われても仕方ないところなので、喜んだことはもちろんである。ところが、写真を見て驚いた。届いた写真に写っていたのはまどかさんでなく、私だったのである。一瞬考えた。
疑問1「なぜ、まどかさんでなく私なのだろう」
疑問2「あれだけ人がいる中で、どうやって私を特定したのだろう」
嫌われるかも知れないと思いつつ、再度まどかさんの写真をお願いすることにした。するとすぐまた、今度は何枚かまとめて送られてきた。「写真があまり無く、動画を切り取っての画像です。気に入っていただけますでしょうか?」と書かれている。本当にいい人である。忙しい中を相当に手間暇かけて作ってくれたに違いない。お礼のメールを返したことはもちろんである。
さらに後日DVDが送られてきた。しかも私を中心に編集してくれた内容になっている。「カットしないで下さいよ」どころの話ではない。どこの誰とも知らない者にここまでするだろうかと正直驚いている。どうしたら恩返しが出来るだろうか。こんど彼女のコンサートがあるようなので、花束を持って出掛けていくことはもちろんである。
                                 (平成27年作)


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蓼の花

湯の町の川に湯が落つ蓼の花



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さて、いよいよ結果発表の時である。私の隣にはすっかり意気投合した「饅頭」こと田中さんが座っている。みずほ銀行を定年退職し、今は湯河原で悠々自適な毎日を過ごしているという人である。食事を済ませてからずっと一緒で、私のことを師匠と呼び始めている(笑)。
田中氏「師匠、今日の自信のほどは?」
私「最後の最後に呼ばれるはずだから、今スピーチを考えているところ(笑)」
田中氏「さすが、まどか命ですね(笑)」
私「みずほ銀行は昔の富士銀行のことですよね。まどかさんも元富士銀行ですよ」
田中氏「そうかぁ、まんざらの関係でもないなぁ。今、彼女は句会なんかやってないんだろうか」
私「やってないでしょう。これだけの人気だから、忙しくて句会どころじゃないですよ」
田中氏「教えてもらいたいなぁ。ちょっと聞いてくる」
席を立って控え室の方へ出ていって、すぐに戻ってきた。
田中氏「やってないって。ちょうど本人がいたので聞いてみた」
私「いい度胸している(笑)」

湯河原町長の挨拶やら、町で募集した俳句の表彰式が行われたあと、ようやくその日の吟行の佳作、優秀賞、最優秀賞が発表される。どんどん発表され、終わりに近づいてくると「師匠、いよいよですね」と「饅頭」が囃してくる。「ここをお通りください」と自分の足を横にずらして通り道を作ってくれる。
「それでは、最優秀賞の発表です。最優秀賞は……」と司会者。
田中氏「師匠……」
結果が発表された。
田中氏「何かの間違いだろう」
私「……」
田中氏「師匠、本当に書いて出しましたか?手元に短冊が残っているのではないですか」

翌日、田中氏から電話があった。「今度、一緒に句会をやりましょう。師匠が句会を主催すればいいんですよ。師匠に教えてもらったら楽しそうだから、是非……」
                                 (平成27年作)


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