2015年08月の記事 - ひこばえ
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ひこばえ


2015年08月の記事

旅一夜宇奈月の湯に月はなし



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2ヶ月ほど前、黒部ダムを訪ねるテレビの旅番組を観ていて「夏休みに行ってみようか」ということになった。妻に探してもらい、二泊三日のツアーに申し込んだ。北陸新幹線で黒部宇奈月温泉駅まで行き、観光バスで黒部を回るコースである。特に黒部ダムに興味があった訳ではないが、申し込んでからは映画「黒部の太陽」のDVDを借りてきたり、原作を読んだり、プロジェクトXを観たりと事前の勉強に抜かりがないことはもちろんである。
天気予報は3日間のうち前2日が雨。山の天気は変わりやすいという言葉を信じて傘を差しつつ家を出たのであった。
1日目は黒部峡谷のトロッコ電車を楽しみ、宿は宇奈月温泉に取っていた。願っていた通りに雨は上がり、寒からず暑からずの3時間の旅を楽しんできた。

黒部ダム工事は昭和31年に始まり、7年の月日と総工費513億円、作業員延べ人数1000万人、殉職者171人という犠牲のもとに昭和38年に完成した大工事である。戦後の高度経済成長期を迎え、電力不足が生じていた関西地方への電力供給のため関西電力が社運を賭けて臨んだ工事であり、その難工事の様子は石原裕次郎、三船敏郎主演映画「黒部の太陽」でもよく知られるところである。
ダム工事は三正面作戦と呼ばれ、信濃大町側から北アルプスを貫くトンネル工事とトンネルが出来るまでの立山越えルート、それに宇奈月側から黒部川を遡る三つのルートから進められた。
トロッコで走ってきた黒部峡谷を進む工事は当時、下流の仙人谷ダムや黒部第三発電所までに止まっていた所をダム地点まで貫通させる工事であり、映画では宇野重吉がトロッコに乗りながら回想する阿曽根高熱地帯の場所である。なぜ高熱かというと長大な温泉脈がその地下でクロスしているからである。
「百数十度もある高熱地帯を坑夫たちはホースで頭から冷水を掛けてもらいながら掘り進むが、いざ穴を開けて、ダイナマイトを仕掛けようとすると、火も点けないうちに爆発してしまう。急いで点火して逃げようとするが、逃げ切れずに死傷してしまう」と小説に書かれている。
トロッコに揺られ、のんびりと観光気分を味わいながらも、多くの犠牲者を出したトンネル工事の困難さと峡谷の凄まじさを思わずにはいられなかった。

宿を取った宇奈月温泉の地名は宇治や奈良に並ぶ名月の地にしようとの思いから、元々あった「うなづき」の地名に「宇奈月」の文字を当てたと記されてあった。雨は上がったものの月が見えるほどではなく、早起きして散策した翌朝の空もどんよりと澱んでいた。
                                 (平成27年作)


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爽やか

爽やかに終わりし恋を語りけり



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(承前)平成21年11月7日(土)関内のビルの一室、50人位が入るほどの小さな会場で「黛まどか講演会」が開かれた。当時の私に写真を撮るという習慣がなかったので、残念ながらあの時の写真は一枚もない。しかし、席だけは一番前だったので、しっかり目に焼き付けて帰ってきたのであった。
スライドを映しながらの話だった。最前列なので彼女の細かい仕草がよく見えた。話はもちろん俳句についてである。四季のある日本、日本語の美しさ、省略を本質とした俳句の素晴らしさなどについて語っていた。言葉遣いそのものが美しいと思いながら聞いていた。
彼女は初めに「雨」について語り始めた。
「外国の皆さんに、あなたの国には雨の名前がいくつありますかと聞くと、大体が10前後の答えが返ってきます。しかし、日本には雨の名前が440位あると言われています」
彼女の一番好きな雨の名前が「私雨(わたくしあめ)」だという。「ある限られた地域だけに降るにわか雨」のこと。あまり聞いたことのない言葉だったが、彼女が話すと本当に美しい日本語に思えてくるから不思議である。同じ言葉をこのように美しく話せるものだろうかと思いながら聞いていた。その後、「虎が雨」「狐雨」「遣らずの雨」などの言葉を挙げて話を進めていった。美しい言葉を持つ日本人であることに誇りを持ちたいと彼女は訴えていた。内容もさることながら、その優しい声と美しい日本語に感動させられて帰ってきたのであった。

家に帰って早速、妻と娘達にその話をしたことはもちろんである。
「女の子は美しい日本語が使えなければならない。なっちゃんには正しい日本語を教えていこう」と打ち上げたものである。(当時なっちゃんは3才、みやちゃんは生まれたばかりで、その時は教える対象になってはいない)
「どうやって教えるの?誰が教えるの?」
「もちろん、なっちゃんの周りにいる我々全員が正しい日本語を使うんだよ。それからテレビは駄目だ。きっと、まどかさんはテレビなんか観ていないはずだ」と決めつけた。そのあとの会話がほとんど成り立たなかったことは想像の通りである(笑)。
あれから私の「まどか教育論」は封じられてしまい、一笑に付された感がある。6年経った今でも私の日本語教育論は変わっていないのだが、誰一人として耳を貸そうとしてくれない。低俗なテレビを観て大笑いしている家族の姿を見る時、きっとまどかさんはこの番組は観ていないだろうなぁと思う癖が付いてしまっている。
                                 (平成27年作)


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愛の羽根

触れてみる付けしばかりの愛の羽根



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8月に入ったある日、出社すると隣の席の工場長から
「昨日のテレビを観ましたか。黛まどかさんが出ていましたよ」と言われた。
「えっ、知らなかった。観ていない……」
「旅番組でしたが、松尾芭蕉の生家を訪ね、伊賀上野城にも登っていました。山形の出羽三山にも行っていました」
芭蕉の足跡を訪ねる番組だったようである。伊賀にしても月山にしても、つい最近私が訪ねてきた場所である。何をどう語ったのだろう。彼女が感じた「奥の細道」とはどんなものだったのだろう。迂闊であった。この頃、まどかさんのことをチェックしていなかったので見過ごしてしまったようである。
落胆しつつ、彼女のサイトで最新情報を見てみると「黛まどかと歩く湯河原吟行会、参加者募集中」というのを見つけた。まだ締め切られていないようである。予定を見ると土曜日で、会社はたまたま年に数回ある出勤日に当たっている。しかし迷うことなく申し込むことにした。年に一度も休まず出勤しているのだから、ここだけは許してもらおう。早速、申込用紙に記入しファックスを入れた。
テレビを見逃してしまったことで落ち込み、吟行を申し込んだことでいきなり復活するという忙しい朝であった。

いつ頃からだろうか、根強い「まどかファン」なのである。「いい年をして」と言われそうであるが、これだけは仕方ない。私の長女がスピッツファンであり、次女がミスチルファンであるように、はたまた妻が何十年にも亘るキンキキッズファンであるように、私にも夢中になれるアイドル的存在があってもいいのである。
以前、ある経営者の会合で俳句の話になり、お会いしたこともない彼女について熱く語ったことがあった。後日、その時の一人から連絡があり、まどかさんの講演会があることを知らせてくれた。早速申し込み、初めて本物のまどかさんに会ってくることが出来たのである。とてもきれにな人だった。美しい日本語を使っていた。ますますファンとしての思いを強くしたものである。(知らせてくれたのは元富士銀行の支店長で、今はある会社の重役さんである。まどかさんの富士銀行時代を知っている人なのである)
あの時の感動を今も忘れてはいない。本当に素晴らしい女性だと思う。句はその講演会の帰りに関内駅で付けてもらった赤い羽根のことを詠んだものである。(つづく)
                                 (平成21年作)


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草茂る

迷宮を伝へて草を茂らしめ



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「草迷宮」の大団円である。どんな妖術を掛けても、いっかな立ち退こうとしない青年に、最後の手段として人を殺させ、その後悔の念から立ち去らせようと企てる。しかし、母への愛、その母を知るであろう娘への想いを募らせる青年には人を殺した償いは自分の死より他にない。青年の淡い心を知るだけに、殺させてしまっては相済まぬ。いよいよ、妖女の方が屋敷を出ていくことになるのである。妖女の使いである大男、秋谷悪左衛門が旅の僧の前に姿を現し、ことの経緯を説明し、妖女の登場、秋谷邸からの立ち退きというクライマックスを迎えていくこととなる。大男の小気味の良い登場シーンを載せておこう。

「誰だ。」と言った。
「六十余州、罷通(まかりとお)るものじゃ。」
「何と申す。何人(なんびと)……」
「到る処の悪左衛門、」
と扇子を構えて、
「唯今、秋谷に罷在(まかりあ)る、即ち秋谷悪左衛門と申す。」
「悪………」
「悪は善悪の悪でござる。」
「おお、悪……魔、人間を呪うものか。」
「否(いや)、人間をよけて通るものじゃ。清き光天にあり、夜鴉(よがらす)の羽うらも輝き、瀬の鮎の鱗も光る。隈なき月を見るにさえ、捨小舟の中にもせず、峰の堂の縁でもせぬ。夜半人跡の絶えたる処は、かえって茅屋の屋根ではないか。しかるを、故(わざ)と人間どもが、迎え見て、損わるるは自業自得じゃ。
真日中に天下の往来を通る時も、人が来れば路を避ける。出会えば傍(わき)へ外れ、遣過ごして背後を参る。が、しばしば見返る者あれば、煩わしさに隠れ終(おお)せぬ、見て驚くは其奴(そやつ)の罪じゃ。」

立石公園の碑の前に立ってみた。いつもはただ通り過ぎていた場所であるが、小説を読み終えての今は感慨も一入である。泉鏡花の世界に魅了され、明治の頃の秋谷に彷徨っているのである。立石を洗う波の音が聞こえる。それが妖女菖蒲(あやめ)の唄う手鞠唄のようにも聞こえてくる。
                                 (平成27年作)


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蜩や内より閉ざす長屋門



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秋谷神社の階段下に若命家の長屋門がある。何度か訪ねているが、今まで一度として門が開いているのを見たことがない。中に納屋や米蔵があるというので今も使われているのだろうが、私にとってはいつも開かずの門なのである。

「草迷宮」ではこの若命家がモデルとされる鶴谷邸で五人の死者が出たことが語られている。隠居住まいの老夫婦の所へ東京の息子がさる大家のお嬢様という人を連れて戻ってくる。しかも身重である。その時、息子の嫁も臨月であり、一つの家に複数の妊婦がいることは相孕(あいはらみ)といい忌み事とされる。その結果、ともにお産が上手くいかず次々と母子四人が亡くなり、息子も裏の井戸に身を投げて死んでしまう。
そんなことがあって秋谷の邸へは人足が途絶え、(秋谷邸の細道じゃ……)と子供達が唄うようになり、妖怪の棲家と化していく。そこへ手鞠を拾った青年が部屋を借りて住み始め、屋敷内に奇怪な出来事が次々と起こっていく。
拾った手鞠が忽然と消える。座敷の畳が浮き上がる。備えに用意した刃物が消える。「ココだ、ココだ」と声が聞こえる。行燈が動く。死んだお嬢様の書いた文字が逆さに貼られている。難産の呻き声。「助けてくれ」の声。一緒に逗留していた旅の僧に雨も降っていない夜に天井から雨垂れが落ちる。これらはみんな妖怪の女が青年をこの屋敷から追い出そうとして仕掛けた妖術であった。

「このふっくりした白いものは、南無三宝仰向けに倒れた女の胸、膨らむ乳房の真中あたり、鳩尾(みずおち)を、土足で踏んでいようでないか。
仁右衛門ぶるぶるとなり据眼(すえまなこ)に熟(じっ)と見た、白い咽喉をのけ様に苦痛に反らして、黒髪を乱したが、唇を洩る歯の白さ。草に鼻筋の通った顔は、忘れもせぬ鶴谷の嫁、初産に世を去った御新姐(ごしんぞ)である。
親仁(おやじ)は天窓(あたま)から氷を浴びた。
恐しさ、怪しさより、勿体なさに、慌てて踏んでいる足を除けると、我知らず、片足が、またぐっと乗る。
うむ、と呻かれて、ハッと開くと、旧の足で踏みかえる。転倒して慌てるほど、身体のおしに重みがかかる、とその度に、ぐ、ぐ、と泣いて、口から垂々(だらだら)と血を吐くのが、咽喉に懸り、胸を染め、乳の下を颯と流れて、仁右衛門の蹠に生暖う垂れかかる。」
                                 (平成27年作)


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芋の葉

芋の葉や語り継がれし村の悲話



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車は秋谷の立石駐車場に停めた。作品の中心はあくまでも「秋谷」なので、その周辺を歩いてみたかったのである。
幼い頃、亡き母が唄ってくれた手鞠歌をもう一度聞きたいと、その手掛かりを求めて各地を彷徨する青年が辿り着いたのが秋谷の荒屋敷だった。たまたま通りがかった村で、小川を流れてくる手鞠を見つけ、それを拾おうと川に飛び込む。その後、村人から屋敷にまつわる話を聞き、逗留を決める。そこに昔、母の唄を一緒に聞いていた娘の手掛かりがあるのではないだろうかと思ったのである。その屋敷とは秋谷の名主、鶴谷邸である。「先ず、この秋谷で、邸(やしき)と申しますれば―――そりゃ土蔵、白壁造、瓦屋根は、御方一軒ではござりませぬが、太閤様は秀吉公、黄門様は水戸様でのう、邸は鶴谷に帰したもん。」と書かれている。
そのモデルになったのが若命家である。その長屋門を見てこようと歩き出し、まずは民家の畑に植えられていた芋茎(ずいき)の写真を一枚撮った。小説の中で、初めて本性を現した妖怪の女が去っていく時に唄った唄を村の子供達が替え歌にして唄ったとあるのである。その子供達が唄う時、いつもこの芋茎の葉をお面にしていたと書かれているのである。
「小児(こども)たちが日の暮方、其処らを遊びますのに、厭な真似を、まあ、どうでござりましょう。
てんでんに芋茎の葉を捩(も)ぎりまして、目の玉二つ、口一つ、穴を三つ開けたのを、ぬっぺりと、こう顔へ被ったものでござります。大いのから小さいのから、その蒼白い筋のある、細ら長い、狐とも狸とも、姑獲鳥(うぶめ)とも異体の知れぬ、中にも虫喰のござります葉の汚点(しみ)は、癩(かったい)か、痘痕(あばた)の幽霊。面(つら)を並べて、ひょろひょろと陰日向、藪の前だの、谷戸口だの、山の根なんぞを練りながら今の唄を唄いますのが、三人と、五人ずつ、一組や二組ではござりませんで。」

その唄とは、(天神様の細道じゃ、少し通して下さんせ、御用のない人通しません)を替え歌にした
(秋谷邸(やしき)の細道じゃ、少し通して下さんせ、誰方(どなた)が見えても通しません)である。
                                 (平成27年作)


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新緑

海を見に来て新緑の逗子葉山



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自宅から高速道路で30分ほどの距離である。夏真っ盛りなので渋滞していると思いきや、それほどでもなく、まずは「草迷宮」の冒頭に出てくる「長者ヶ崎」を訪ねてみた。
小説は「三浦の大崩壊(おおくずれ)を、魔所だと云う」という書き出しで始まっている。「大崩壊」と呼ばれた場所は長者ヶ崎から久留和あたりまでの海岸に沿った一帯で、今の横須賀市秋谷(あきや)に当たる。長者ヶ崎のすぐ東に今でも「大崩」という地名が残っていて昔からの難所だったことが分かる。
小説の書かれた明治41年頃の葉山がどんな様子だったか調べていると当時の絵葉書があったので入手してみた(写真)。小説に出てくる茶店があった場所とはこの辺りだろうとイメージが膨らむ。店の前を荷車を引いて通るシーンがあるが、きっとこの道のことに違いない。茶店の婆さんが店を仕舞い秋谷まで帰っていく近道のことも書かれていたが、写真に見える上の方の細道のことだろう。
小説は全部で45章からなり、1章から12章までが本題に入る前の序章のようである。茶店の婆さんが諸国行脚の僧に話をして聞かせるという構図で、子産石(こうみいし)の謂われ、秋谷在の嘉吉の話、嘉吉が酔って苦しんでいるところへ美女が現れ、それが妖怪であったことなどが語られていく。美女がその本性を現し、男達が驚くシーンである。

「屹(きっ)と振向かっしゃりました様子じゃっけ、お顔の団扇(うちわ)が翻然(ひらり)と翻って、斜(ななめ)に浴びせて、嘉吉の横顔へぴしりと来たげな。
きゃっ!というと刎(はね)返って、道ならものの小半町、膝と踵で、抜いた腰を引摺るように、その癖、怪飛(けしと)んで遁げて来る。
爺どのは爺どので、息を詰めた汗の処へ、今のきゃあ!で転倒して、わっ、というて山の根から飛出す処へ、胸を頭突(づつき)に来るように、ドンと嘉吉に打附(ぶつか)ったので、両方の間を置いて、この街道の真中へ、何と、お前様、見られた図でござりますか。
二人とも尻餅じゃ。
(ど、どうした野郎、)と小腹も立つ、爺どのが恐怖紛(おっかなまぎ)れに、がならっしゃると、早や、変でござりましたげな、きょろん、とした眼(がん)の見据えて、私(わし)が爺の宰八の顔をじろり。
(ば、ば、ば、)
(ええ!)
(怪物(ばけもの)!)というかと思うと、ひょいと立って、またばたばたと十足(とあし)ばかり、駆戻って、うつむけに突(つ)んのめったげにござりまして、のう。」

(注)句は以前に葉山、秋谷、立石公園に遊んだ時に詠んだものである。
                                 (平成25年作)


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百物語

百物語さなかに聞きし啜り泣き



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日本経済新聞、7月の「私の履歴書」の筆者は女優の浅丘ルリ子さんだった。生い立ちから始まり、女優への道、撮影現場でのさまざまな俳優との恋愛秘話など楽しく読ませてもらった。その中に泉鏡花原作の舞台「草迷宮」の話が出てきた。岸田理生さんという人が台本を書き、その台詞が覚えられずに苦労したことなどが書かれていた。
「きのう死んでもよかったような、あした死んでもいいような。かといって、きょう死にたいほどのわけがあるじゃなし……」冒頭部分だという。

芝居を観たわけではないので何とも言えないが、原作とは随分違うものだなぁと思って読んでいた。さっそく確かめるべく、帰って自宅の本棚をあれこれ探してみたが、まるで迷宮に入ったかの如くで見つからない。すぐさまアマゾンで取り寄せることにした。昔一度読んでいたが、読みづらかった記憶ばかりで内容が定かではない。美しい妖怪が現れる怪談話という記憶だけである。ただ、葉山の立石公園にその碑があるので、この際なのでもう一度読み直しておこうと思ったのである。
アマゾンから届くのを心待ちに、届いたその日に読み始め、翌日曜日の朝には読み終えていた。そして妻に言った。
「今日これから葉山に行こう。何か美味しいものを食べてこよう」
いつも食べ物にかこつけて誘う癖が付いてしまっている(笑)。
(注)「百物語」とは夏の夜、百本の蝋燭を立て、一人が一つずつ怪談話をし、終わるたびに一本ずつ消していき、百本目が消えたときに本物のお化けが出てくるという趣向である。「おたまおばさん」の記事で知り、詠んでみた。
                                 (平成27年作)


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晩夏光

酔ひどれて縋る吊革晩夏光



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8月4日(火)銀座で業界の集まりがあった。昔は何十人も参加していた会だというが、代替わりして新しく加わる人もいないためか、顔見知りの少人数だけが集まる会となっている。正午集合でフランス料理を食べながら、最近のそれぞれの近況を語り情報交換する。気温35度の中を汗だくで駆けつけたので初めはビールで乾杯したが、すぐにワインに切り替わる。何にでも詳しい人はいるもので、赤だの白だのと言いながらいくつもの銘柄を変えていく。
3時に終わり解散となるが、気の合った者同士で次へと流れる。その日もみゆき通りのカウンターバーに入り込み、ジャックダニエルやらモヒートなどを飲んでたわいない話を楽しんだ。それも5時半頃に終わったが、名古屋から来ている友人が新幹線の時間まで少しあるというので、二人で新橋の安酒場に入り1時間飲むことになる。6時間以上も飲み続けである。駅で握手して別れたのがおそらく6時半頃だったと思う。

新橋から東海道線に乗り横浜駅で京浜東北線に乗り換えることにした。電車を降りてホームへ出ると汗が噴き出した。乗り換えの階段を上がり下りし、出発間際の京浜東北線に飛び乗った。乗ってすぐに扉が閉まるはずの所で急に電車内の電気が消えた。あれっと思った。どうしたんだろう。何かあったかな。しばらくして乗客がばらばらと降り始めた。私もすぐに降りた。いつもなら少し待つところかも知れないが、酔っているので決断は早い。京急線に乗り換えることにした。自宅はJR新杉田駅より京急線杉田駅のほうが近いのである。乗り換えてすぐに杉田駅に到着した。
駅前のタクシー乗り場は列をなしていた。「何でこんなに混んでいるのだろう」と思ったが家まで歩く20分は遠い。あまりに暑く、咽喉も渇いていたのでひとまず喫茶店でアイスコーヒーを飲むことにした。ミルクとシロップを持って席に着いたところでコーヒーを零してしまった。ズボンとYシャツに飛び散った。店員が駆けつけて慌てていたが、当の本人はあまり慌てていない。酔っぱらっているのである。それから少ししてトボトボと夜道を歩いて帰ってきた。
家に帰るとテレビでニュースが流れていた。京浜東北線の架線が切れ、全線でストップしているという。花火見物の帰り客が線路上を歩いているのが映っていた。ふーん、それで停電していたのかぁ。一本前の電車に乗り込んでいたら大変だったなぁと考えたのは翌朝のことである。そんなことより、その時の私にとっての最重要事項は風呂に入ることであり、一刻も早く布団に入ることだったのである。
                                 (平成27年作)


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西日落つ

評定の果ての落城西日落つ



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帰りに小田原城に寄ってみた。石垣山一夜城のことを書いて小田原城のことを書かないわけにはいかない。生憎、耐震工事のためこの7月1日から城の中には入れないということだったが、公園を巡り、天守閣の近くまでは行くことが出来た。一回りした後、資料館に入ってみた。北条氏が小田原評定の末、滅びていく天正18年(1590)の様子を様々な資料で確認することが出来た。氏政をして、関白秀吉の軍をも撃退できると判断させた城である。当時の小田原城がどのようなものであったか、和田竜の「のぼうの城」に次のような記述があったので載せておこう。

「北条家は五代に及ぶ歳月をかけてこの城を拡張していった。いまでは北は酒匂川、南は早川、東は相模湾と城の三方を天然の要害としながら、その内側の地域一帯の百姓家、町家、武家屋敷を水堀と空堀ですっぽりと囲んだ「惣構え」の形をとり、さらにその惣構えの中心部に幾重もの水堀で厳重に守られた本丸、二の丸、三の丸などを配置していた。そしてその規模は、戦国時代最大級ともされる城郭に成長していたのである」

かつて三代氏康の時代に謙信や信玄の攻撃に耐え、難攻不落といわれた城であるだけに、九州征伐を終え日の出の勢いの関白秀吉からの上洛要請にも応じないという判断を氏政にさせたのであろう。もし、秀吉の要請に応じて上洛していたとしたら歴史は変わっていたかも知れない。歴史に「もしも」はないが、一人の男の判断、器量の如何が日本の将来を決めていたかも知れないと考えるととても面白く見えてくる瞬間である。
天守閣には登ることは出来なかったが、その威容を前に当時を想像するという楽しい時間を過ごすことが出来た。
                                 (平成27年作)



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土用波

土用波義なる男の浜言葉



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落合さんとの思い出話をもう一つ書いておこう。
箱根や熱海へ行く時はいつも私の車で出掛けた。隣に座ってもらい、道中いろいろな話を聞かせてもらうのが楽しみだった。高速道路の料金所に差し掛かると、決まって「今日は俺に払わせろ」と言うのだが、今やETCなので当然私が支払うことになる。そうすると必ず帰りに私に手土産を持たせようとする。とても義理堅いのである。そこで立ち寄るのが小田原の干物屋「山安」である。
「ひなっさんヨォ、山安に寄ってくれ。なんたってあそこは安いからよ。半端物でも何でも売ってるから丁度いいや。どうせ焼いて食う分には何だって同じよ。目ん玉一つ無いやつとか、尻尾の欠けたやつなんかも、食う分にはあれで充分だって」

お返しに渡そうという割には安いことを強調する(笑)。しかも、とんでも無い商品のように聞こえてくる。初めて聞いた時は、すごい魚ばかり集めて売っている店なんだなぁと思ったが、それは落合さん特有の物の言い方である。
山安さんの「お買い得商品」とは、加工中に僅かな傷が付いたり、サイズ規格外であったりしたもので、落合さんが言うようなおかしなものではない。通常の商品と品質や味になんら変わるところがない立派な商品なのである。安いということを言うのに、目の玉や尻尾を持ち出してきて表現してしまう口の悪さが何とも落合さんらしい。そして、言う割には店に入って私に買ってくれる商品はいつも通常商品であり、一度としてお買い得商品だったことはないのである。
私が体調を崩し、会合を欠席したことがあった。その時にも私の自宅まで見舞いに来てくれて、山安の干物を届けてくれたのである。たかが干物、されど干物である。あのような人間臭さに溢れた人を私はかつて知らない。
亡くなって4年も経ってしまったが「よっ、ひなっさんヨォ」という声が聞こえてくるようである。いつも心の中にいて声を掛けてくれている。
                                 (平成27年作)


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