2015年07月の記事 - ひこばえ
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ひこばえ


2015年07月の記事

冷し酒

老いてなほ失せぬ男気冷し酒



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箱根、熱海というと思い出す人がいる。このような会合があると、いつも一緒だった落合さんである。会社は私の会社のすぐ近くにあり、工作機械のシリンダーなどを製作している。大正14年生まれなので私の亡くなった父と一つ違いである。
戦後、家業の漁師から板金業へと転身し事業を起こしていく。情に厚く、度胸があり、天真爛漫、口は悪いが優しい心根、曲がったことは大嫌い、そのような人であった。亡くなるまで約25年間お付き合いさせていただいた。私の経営する会社を創業の頃から見てきた人なので「ひなっさんヨォ、あんたは本当によくやってるよ」といつも褒めてくれていた。(本牧の漁師言葉からだろうか、ひなたの「た」の字は発音されなかった)
「あれだけの数の社員をまとめてるんだから、大したもんだ」とストレートに褒めてくれた。自分の父親に姿を重ね合わせていたのかも知れないが、他の誰に褒めてもらうよりも嬉しかったものである。しかも褒め方が心の底からというのが伝わってきた。落合さんに褒めてもらいたくて頑張ってきたのかも知れないと思うほどである。言葉に飾り気がなく、何でも思ったことを言ってくれる人であった。

落合さんからは昔の話をたくさん聞かせてもらった。戦後の混乱期のこと、若い頃の切った張ったの話、私の会社の創業者や歴代の社長の話、ご自分の会社創業の頃の話、取引先倒産で苦労した話など興味深い話を面白おかしく話してくれた。同じ話を何回も聞くことがあったが、何度聞いても楽しかったものである。思いのまま嘘偽りなく歩んできた人生というのは人を感動させる。
その中のひとつ、横浜の赤線での話を書いておこう。飲んで通りを歩いていると、お姉さんから遊んでいかないかと声を掛けられた。「いらないよ」と言って通り過ぎようとすると、そのお姉さんから「意気地なし!」と言われたそうである。立ち去ろうとした落合さんは、その一言に反応する。「何言ってやんだい。今何て言った。俺のどこが意気地なしだと言うんだ」と言って戻ったそうである。「よし、中に入ってやる。その代わり俺は女を買わない主義だから一杯飲むだけだ。それ以上と言われても、やれないものはやれない」
若い頃の写真を見せてもらったが、いい男である。義理人情という任侠の世界を映画さながらに歩んできたような人である。カラオケの十八番は「網走番外地」。それを本牧バージョンで歌う。何度聞いても聞き応えのあるいい歌いっぷりだった。平成23年1月、85才で亡くなるまで本当に親しくお付き合いさせていただき感謝している。(つづく)
                                 (平成27年作)


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宿浴衣

宿浴衣一泡吹かす屁一つ



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今回の部屋割りは三人部屋だった。不動産業を営む会長84才と、建設業を営む会長70才と同室である。よく知ったお二人なので一緒に湯に浸かり、研修会にもご一緒した。宴会も三人並んで座り、芸者さんも呼ばれていたので和やかに過ごした。宴会のあと、お二人は部屋に戻りマッサージに掛かるという。私は二次会のカラオケへと向かい、最後のラーメンまで付き合い、ようやく部屋に戻ったのが12時近くであった。部屋には電気もテレビも点いていて、私がいつ戻ってもいいように消さずにいてくれたようである。テレビを消し電気を消して、静かに布団に潜り込んだ。

翌朝目覚めるとすでに6時を回っていて、お二人は起きて風呂も済ませていた。挨拶を済ませて一人で風呂に出掛け、戻ってきた。さあ、そろそろ朝食に行こうかという時である。70才の会長がこう言い出した。
「日向さんの夕べの一発は景気良かったなぁ。寝て早々、凄いのをかましていたよ」
自分では何を言われているのか分からなかったが、もう一人の84才の会長がすかさず話を被せてきた。
「いやぁ、日向さんは健康だよ。若いというのはいいねぇ。年取ると、あんな大きな音は出ないよ。大湧谷の噴火ばかり気にして寝ていたけれど、いきなり隣で噴火したから一発で目が覚めたよ(笑)」
70才「いやぁ、私もいろんな人と寝て、歯ぎしりだとか、寝言だとかで驚かされたことはあったけど、今回は今までで一番だったなぁ(笑)」
84才「あれから二発目が来て、あれも相当な音だったが、一発目で慣らされたから、それほど驚かなかったよ。なんでもやっぱり一発目というのは凄いねぇ(笑)」
朝食会場でも笑いっぱなし、部屋に戻ってからもオナラ談義は続いた。
84才「この頃、腹を抱えて笑ったということがなくなっていたが、今日は朝っぱらから久し振りで笑わせてもらった。ありがとう」
70才「日向さんの会社が景気いい理由が、これでよく分かったよ。何事も勢いだなぁ(笑)」
出物腫れ物所嫌わずとは言うものの、いやはや凄いお二人を前にしてやってしまったものである。しかも、屁をしてお礼まで言われたのである。救われたのはお二人とも笑って受け止めてくれたことである。器量の大きさに感謝せずにはいられない。
                                 (平成27年作)


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夏期講座

早や付いて行けぬ耳順の夏期講座



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箱根湯本での研修会はくつろいだ雰囲気で行われる。それぞれ到着した順に温泉に浸かり、部屋でひと休みして浴衣掛けで参加する。中には一杯飲んで来る人もいるのだから和やかなものである。みんな知った顔が多い。
講師は信用金庫の幹部の方が務め、その時に合ったテーマで1時間ほど話をする。みんな真面目に話を聞いているが、次に始まる宴会までのつなぎという意味合いも強い。今回は「銀行による決算書の見方」と題して講話が行われた。

さて、自分のことであるがこの頃、年を取ってきたせいか、人の話を聞いていると眠たくなることが多くなった。特にパワーポイントなどを使って部屋を暗くされるとテキメンである。自分ではしっかり聞こうとしているのに、気が付くと眠っているのである。鼾をかいたりすることはないので、その点は安心だが、目を覚ましてハッとすることがある。僅かな時間でも、意外と深い眠りなのである。一昨年のこの研修会でも急に眠気に襲われた。どれくらい眠ったかは分からないが、気が付いて目が覚めた時に一瞬慌てた。前方の席の人が大きな鼾をかいていて、みんながクスクス笑っているのである。講師も笑っていた。隣の人が起こしてようやく止まったが、もしや自分のことではなかったかと慌てたのである。いつかどこかで自分も同じような失態を演じてしまいそうな不安をいつも感じている。
昼食のあとや車の後部座席、電車の中、会議の最中、そしてこのような会合の席など、所かまわず襲ってくる。今回は話が面白かったからか珍しく無事最後まで聞くことが出来た。私を眠らせなかった講師の話を褒めてやりたいと思ったほどである。
(注)耳順とは60才のことである。
                                 (平成25年作)


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噴井

太閤の一夜に掘りし噴井かな



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この時期いつも取引先の信用金庫による一泊研修会が箱根湯本で行われる。今年も7月17日(金)18日(土)で行われ出掛けてきた。この句は一昨年、研修場所となっている湯本のホテルに入る前に石垣山に登って一夜城のあった場所を訪ねて詠んだものである。駐車場に車を置き、崩れた石垣を眺めながら登っていった。本丸展望台からは小田原城が見え、このあたりで秀吉と家康が並んで立ち小便をしたのだろうかなどと考えていた。
井戸曲輪というのは大掛かりなものだった。下の井戸まで降りてみると、今でも水が流れていた(写真)。石垣も残されていて立派なものである。この山城に使われた巨石の運搬だけでも十数万の人力を要したであろうと山岡荘八は書いている。一度も戦いに使うことのなかった一夜城であるが、周囲の木々を切り倒し、北条勢にその姿を見せた時の様子を「徳川家康」の中で次のように記している。

「(北条)氏直は呆然として小田原城の西南、早川口の右にそびえ立った石垣山の敵の新城を見上げていた。
秀吉方ではこれを「一夜城」と呼んでいるそうな。谷を隔てた向こうの山で、しきりに人夫が動員されているのは分かっていたし、その森の向こうに、何か大きな砦を構築しつつあるとは思っていた。
しかし、それが五代続いた小田原城を嘲笑うような規模の雄大さで忽然と山頂の森の中から姿を見せようとは思いも寄らなかった。
(どうじゃ、秀吉の威力が分かったか……)
その城は二段にたなびく山霧の上から、文字どおり傲然と小田原の城と街とを見下ろしている」

早雲公より氏直まで五代の間、関東の地を治め続けてきた北条氏。羽柴ずれなどに屈してなるものかと決戦を決意した四代氏政。小田原城の北条勢を下し、天下統一を成し遂げようとする秀吉。親戚に当たる北条討伐の先鋒を命じられ、小田原城切り取り後、江戸へと移封されていくことになる家康。それぞれの思いが錯綜した天正18年(1590)の小田原攻めである。
                                 (平成25年作)


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三尺寝

耳元に演歌流して三尺寝



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今年1月8日のブログ「初仕事」で紹介したハムスターのニカちゃんであるが、その後のことを書いておこう。
半年ほど経ったわけだが、とにかく大きくなった。私の寝る部屋のすぐ横に小屋が置いてあるので、夜中に回転車の中を走るのが聞こえるのだが、半年前とは明らかに音が違って聞こえてくる。あの頃は「カラカラカラ」という軽快な音だったと思うが、最近は「ガラ…ガラ…ガラ…」という重苦しい響きに変わっている。しかも、あまり走ってはいないのではないかと思うくらい、最近は聞いていない。もしかして私自身が音に慣れてしまって、目が覚めなくなってしまっているのかも知れないが……。
先日、帰宅して小屋を見たところ、ニカちゃんが砂場で仰向けになっているのを見つけた。
「みー(妻のこと)、ニカちゃんが死んでる!」
慌てて駆け寄った妻が手の平に載せてみると、何ということはなく、ただ寝ていただけのようである。
「野生動物が仰向けで寝るなんていうことがあるかなぁ?」というと、
「砂浴びの場所だから回転もするでしょ。たまたま途中で止めたのかもね」と妻。
砂場のスペースがとても狭く見える。まだ半年しか経っていないというのに、この太りよう。先が思い遣られる。

「メタボリックシンドローム症候群です。食べ過ぎ・運動不足を改善して、内臓脂肪を減らしましょう」という医者からもらった私自身の検診結果を思い出していた(トホホ)。
(注)三尺寝とは職人が狭い場所で昼寝をすること。写真は数日後再び仰向けになっていた所を蓋を開けて写したものである。
                                 (平成10年作)



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片蔭

片蔭に憩ひをりしがゐずなりぬ



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観音崎からの帰りは高速道路を使わず一般道を走ってきた。久し振りの横須賀だったので、思い出の場所を訪ねてみたかったのである。今から25年程前よく釣りに行ったのが安浦港であった。会社に唐沢さんという人がいて、その人の地元だったので釣り場を案内してもらったのである。会社が終わってから二人で夜釣りに行ったこともあり、奥さんがお握りを作ってきてくれたこともあった。休みの日などは安浦の交差点で待ち合わせ一緒に釣りをした。その待ち合わせ場所を久し振りに見てみたかったのである。

唐沢さんは工場で働いていた。私が面接をして採用し、釣りが趣味ということもあって仲良くなった。魚は釣るばかりでなく魚拓を作るという趣味もあった。何枚か見せてもらったが、それほど上手いものではなかった。しかし本人は上手く出来たと思っているのである。趣味とはそんなものだろうと思って見ていた。他に競馬も趣味だったようだが私は知らなかった。会社の人達から後になって聞いたのである。
その唐沢さんがある日突然会社を辞めてしまった。総務担当だった私にも何も言わず突然来なくなってしまったのである。もちろん電話は何度もしてみたが一度も通じなかったし、工場の人達にも心当たりがないということだった。奥さんからも連絡はなく、そのまま25年が過ぎてしまった。あんなに楽しくやっていただけに、信じられない思いを今も持っている。何があったのだろう。もっといい会社に移ったのだろうか。想像しても始まらないが、私にとってはいつまでも心に残っている人であり出来事なのである。

いつも待ち合わせた場所は交差点の角の鍵屋の前だった。私が車で到着すると必ず先に来ていた。鍵屋の前のあるかないかのような片蔭の中に立っていた姿が今も目に浮かぶ。久し振りに走ってみたが、鍵屋はすでになくなっていた。「確か、ここだったなぁ」と思いながらも、鍵屋がないので違う場所だったかも知れないと記憶に自信がない。探してみるほどのことでもないので、車で一瞬に通り過ぎてしまった。年は私より少し上だったから、もう定年を迎えただろうなどと考えながら走っていた。少しほろ苦い思い出を辿りながら観音崎散策を終えることにした。
(注)写真は唐沢さんに真似て作ってみた私の魚拓「カワハギ」である。
                                 (平成27年作)


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虫干し

虫干しや心の中にある詩文



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灯台を出て、登ってきた道とは違う道を海側に降りてみることにした。急な下り坂を幾曲りしながら簡単に下に辿り着いた。しばらく行くと立派な詩碑が建っていた。西脇順三郎の「燈台へ行く道」である。どうしてここに西脇順三郎なのだろうと思って読んでみると、昭和24年にご子息の遠足に同行して以来、幾度かこの地を訪ねているのだという。碑は冒頭部分だけなので全文を調べてみた。とても解りやすい内容である。つい今し方、私達が歩いてきた道を西脇順三郎も歩いたようであり、違いは季節が夏の終わりということだけである。

西脇順三郎の詩はいくつか読んだと思うが心に残っている詩はない。私にもたくさん詩を読んでいた時期があった。古典から近代詩、現代詩、外国の詩など何でも読んで心の癒しになるものを探していたのかも知れない。現代詩などは有名な詩人の作品を手当たり次第に読んだのだが、中には難解なものもあり、どうしてこのような表現をするのだろうと思ったものである。難解にすることが目的になっているのではないかと疑ったりもしたほどである。そのような詩はすぐに飛ばすことにしていた。西脇順三郎も飛ばした口かも知れない。ダダであり、シュルレアリズムであり、西洋詩の比喩が多いなどのイメージが残っている。
碑を見てから海岸に降りていった。穏やかな海である。
「わきてながるる やほじほの」(島崎藤村「潮音」)を思い浮かべ、向かいに見える房総半島から高田敏子の「布良海岸」を思い出し、岩陰で脱ぐ女性の裸身を思った。
横須賀ということから川崎洋の「とぼれる」という詩があったことを思い出していた。「銀婚式の詩だったなぁ」と思った。あの詩を読んだ時はまだまだ先のことと思っていたが、気が付けばとうに過ぎてしまっている。長くなるが、その詩を載せておくことにしよう。

「とぼれる」
私達夫婦は昨年銀婚式を迎えた
「あれやっといてくれた?」と訊けば
「いつでも着られますよ」と女房は答える
ワイシャツのボタンづけ という言葉は
お互いの二十五年が省略可能にしたということだ
夏に 庭の草とりをしようと思って台所に行き
女房の足もとで うす青い煙をのぼらせている
二つの容器入り蚊取り線香の一つへ手をのばし
「これもらっていくよ」と言ったら
「あ それ もうすぐとぼれるから
新しいのいれてって」と言うのだ
「とぼれる?なにそれ」
細々と燃えているものが燃え尽きることが
とぼれる
と横須賀に生まれ育った女房は私に教えた
「あれ」で通じる相手から
生まれて初めて耳にする日本語が飛び出す
ということもあるのだった
                                 (平成27年作)



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花とべら

花とべら径は灯台へと続く



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美術館を出て観音崎灯台へと向かった。初めてなのでカーナビに入れてみたが、入れる必要もないほどに僅かな距離だった。駐車場は麓にあったので灯台までは登らなければならない。サンダル履きで来た妻のことが少し気になった。駐車場を出て歩き始めるとすぐにトンネルに入った。ひんやりとしている。灯台までどれ位の距離を歩くのだろうと少し不安になった。車道を逸れて山道に入ると急に静かになった。海桐(とべら)の花が咲いていた。
しばらくするとレンガ積みの建物のようなものが現れた。北門第一砲台跡である。明治17年竣工とあり、他のいくつかの砲台と共に東京湾を通過しようとする敵艦に備えたのであろう。砲台跡に差す木漏れ日がとても美しかった。
灯台にはすぐに到着した。資料展示室を見て回り、映画「喜びも悲しみも幾年月」のロケ地だったことを知った。「おいら岬の灯台守は……」の歌を聞いて「おいら岬」という名の岬があると思い込んでいた子供の頃を思い出していた。
灯台は思ったよりも小さかった。中の螺旋階段も狭く、人と人とが行き交えるだろうかと思ったほどである。さっき見てきたばかりの谷内六郎の絵を思い出していた。きっとこの観音崎灯台のことを書いたのだろう。「階段の靴音」という絵に次のような文章が記されている。

「灯台の入口に階段を登る人の靴の音がひびきます、
ラセン状の階段だから登る人の姿は見えません、
ただ靴音だけがコツコツとひびいて来ます、
入口にいる子供はその靴音が何か怪人の靴の音のように思えてなりません(略)」

上まで上がってみると浦賀水道が一望出来た。雲一つない晴天なので房総半島もくっきりと見えた。大きなタンカーがゆっくりと動いていて、ここに砲台を据えた意味が分かるような気がした。
下から誰かが上がってくる靴音がした。もしかして怪人かも知れないと想像してみる自分がいた。
                                 (平成27年作)


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夏帽

吊り革が動き夏帽みな動く



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横須賀美術館には常設の「谷内六郎館」があり、作者が亡くなるまで担当していた「週刊新潮」の表紙絵がたくさん展示されている。身体の弱かった長女のために美しい風景とやさしい気候の観音崎に家族で訪れるようになり、昭和50年には美術館にほど近い場所にアトリエを構えている。昭和56年に59才の若さで亡くなるまで描き続けた作品は平成10年に横須賀市に寄贈され、平成19年に常設館が開館されている。
一枚ずつ丁寧に観ていくと、そこには誰もがいつしか見たことのあるような懐かしい風景が描き出されている。子供の目が捉えた世界であるだけに、暖かくそして安らぎに満ちている。しかし何枚も続けて観ていくと、そこに描かれているものが、ただの楽しさや懐かしさばかりでないことに気付かされる。明るさの一方で、そこには子供の頃に感じた不安や恐怖、戸惑い、不条理のようなものまで描かれているのである。一瞬だが、死の感覚に近いものまで見えるような作品もある。
病弱な子供時代を過ごし、29才の時には持病の喘息が悪化し長い入院生活を送ったとある。1日20本近い注射を打たれ、喘息の発作と薬の副作用の苦しみに絶え間なく襲われる日々。そんな中で作者独特の絵の世界が作り上げられていったのである。作品の中に流れる研ぎ澄まされたような感覚は、生死の間を長く彷徨ってきた者だけが持つ鋭さなのかも知れない。詩情豊かな瑞々しい感性を前にして、作者の壮絶な人生に触れるような気がした。

写真の絵は電車の窓を流れていく風景を子供の目線で捉えたものである。遠くの山はゆっくりと、近くのものは飛ぶように過ぎ去っていく。どんどん後方に過ぎていくものに車輪が付いているようだと表現しているのである。誰もが感じたことのある光景を夏帽子を被った少年の目で捉えている。
(注)この句は吟行に出掛けた際、電車の中での句友の姿を詠んだものである。
                                 (平成17年作)


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