2014年08月の記事 - ひこばえ
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ひこばえ


2014年08月の記事

終戦日

終戦日出だし忘れし軍歌あり



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上田城の櫓が開くまでの間、城跡公園内を散策した。その中に招魂社があり、日の丸が掲げられていた。8月15日、終戦記念日である。「戊辰戦役従軍の戦死者をはじめ日清日露の戦争を経て今次の大東亜戦争に至る間、国家の為尊き命を捧げられた人々の英霊をまつる」とある。
お参りしたあと妻と日の丸の話をする。「この頃は旗日といっても日の丸を掲揚する家も少なくなり、日本人の心が失われていくようだ」などと言いながら、話は「日の丸行進曲」という軍歌に及ぶ。

今から35年以上も前のこと、東京で働いていた頃、会社のトップに軍隊酒場によく連れて行ってもらった。新宿歌舞伎町にあった「潜水艦」という店である。お陰で今でも軍歌だけはよく覚えている。「暁に祈る」「月月火水木金金」「加藤隼戦闘隊」「ああ紅の血は燃ゆる」など、気合いの入った曲を大声で歌ったものである。しかし、「日の丸行進曲」はあまり歌った記憶がない。内容が勇ましくないという理由で、歌いづらかったのかも知れない。
今の会社に入ってしばらくした頃、自衛隊出身の盛さんという人とよく飲みに行った。盛さんの好きな曲がこの「日の丸行進曲」だと聞いた時、なぜとはなく「この人はいい人だ」と思ったことを今でも覚えている。

招魂社を出て道を歩きながら、妻にこの曲を歌って聞かせた。妻に歌を聞かせるなど結婚以来初めてのことである。私が歌う間、妻は黙って聞いていてくれた。歌いながら感動していた。妻が素直に聞いていてくれたということに感動したのである。この旅行で最も感動した出来事だったかも知れない(笑)。歌詞の一部を載せておこう。

1、母の背中に小さい手で 振ったあの日の日の丸の
  遠いほのかな想い出が 胸に燃え立つ愛国の血潮の中にまだ残る

2、梅に桜にまた菊に いつも掲げた日の丸の
  光仰いだ故郷(くに)の家 忠と孝とをその門で誓って伸びた健男児

3、一人の姉が嫁ぐ宵 買ったばかりの日の丸を
  はこぶ箪笥の抽斗(ひきだし)へ 母がおさめた感激を今も思えば目がうるむ
                                 (平成26年作)


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秋の空

矢狭間より戦なき世の秋の空



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池波正太郎著「真田太平記」全12巻を半年ほど掛けて読み終えた。途中、平成28年NHK大河ドラマに「真田丸」が決まるなどして、俄に真田一族が注目を集めている。真田といえば、もちろん真田幸村ということになるが、小説を読む限りでは、父の昌幸、兄の信之の存在も大きい。
信玄時代の武田家に仕え、武田氏滅亡後は北条、徳川、上杉に囲まれながらも、豊臣臣下への道を選んだ昌幸。二度に亘る上田合戦で徳川軍を撃退し、戦国きっての知将としての名を馳せた。
また、父昌幸、弟幸村と袂を分かち徳川家康の家臣としての道を選んだ信之は、関ヶ原の戦いで東軍に与し、勝利の後、上田藩の初代藩主となり、明治維新まで続く松代藩10万石の基礎を築いた。
信長、秀吉、家康へと続く戦国乱世を戦い抜いた真田親子の生き様は実に面白い。

ということで、まずはその真田の本陣たる「上田城」を見てこようと出掛けてきた。
8月15日(金)、夜中の2時に起床。車の渋滞を避けて2時半には家を出発。250㎞を一気に走り抜けて、朝6時には上田城に到着していた。あまりに早過ぎて、妻には少々ボヤかれる(笑)。その後、城の櫓を見学したり、池波正太郎真田太平記館を訪ねたりして、読み終えたばかりの「真田太平記」を楽しく総ざらいしてきた。
(注)矢狭間(やざま)とは、城壁や櫓などにある矢を射るための穴のことである。
                                 (平成26年作)


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涼み舟

涼み舟おのが水面を照らしけり



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この夏、会社行事で乗った「屋形船」のことを書いておこう。
釣りバカ日誌でおなじみの金沢八景「太田屋」さんの屋形船で、定員60名を満席にしての出航であった。海が荒れた日は平潟湾に入るというが、その日は天候も良く波も穏やかだったので、八景島の沖へと漕ぎ出して錨を下ろした。
安藤広重の描く金沢八景「乙舳帰帆」の海の上ということになるが、ビールで乾杯し、カラオケなど始まろうものなら、広重も八景もあったものではない。足の踏み場もないお座敷は、瞬く間に賑やかな宴会場へと変わっていった。
しばらく飲んだあと、私は一人で外へ出てみた。このブログのために、写真を一枚撮っておこうと思ったのである。
艫(とも)の船べりに腰を掛け、左手を海の上に大きく伸ばし、船体を撮ろうとした。この時、右手は船の欄干を掴んでいる。と、その時、その欄干がグラッと動いたのである。「あっ!」海上に乗り出している身体が一瞬大きく傾いた。「わわわわわ……」間一髪のところで踏みとどまったが、大いに肝を冷やすことになった。一歩間違えれば、あわや夜の海へドボンというところである。アルコールが入り大胆になっていたかも知れない。もし落ちていたらと考え、ゾッとしたものである。
このことに反省し、自戒の意味を込めて自分の死亡記事を書いてみた。

「会社社長死亡 屋形船から転落」
○日午後10時ごろ、横浜市金沢区の八景島沖で金属加工会社社長日向亮司さん(60)が海面に浮かんでいるのを近くにいた漁船が発見、救助したが、日向さんは大量に水を飲んでいて搬送先の病院で死亡が確認された。金沢署によると、日向さんは同日午後6時から会社従業員と屋形船に乗船。2時間ほど飲食のあと、一人で客室を出て海に転落したとみられる。署では従業員にその時の状況を聞くなどして原因を調べている。
                                 (平成26年作)


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敗戦日

敗戦日蟹はバケツの底を掻く



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映画「純愛」を観てきた。涙が流れて仕方なかった。多くの人に観てもらいたいと思う素晴らしい作品である。

結婚して間もなく、義父の戦争体験を聞くためにも太平洋戦争に関する本をたくさん読んだ。その中の一冊、山岡荘八著「小説太平洋戦争」の最終章に、終戦を迎えて後のソ連軍に追われる日本人の姿の描写があり、今でも心に残っている。「純愛」の冒頭シーンと重なった。奇跡的に生き残った者の手記であり、忘れてはならない戦争の姿である。

―――先頭にいたぼくは「逃げろッ!」と云われた時、正子(十一歳)と康男(八歳)の手を取って走った。母とよ(四十二歳)も和子(五歳)を連れ、昭子(二歳)を抱いて一緒だったが、兄寿男(十七歳)はいなかった。(中略)間もなく機関銃の音はやんだ。一人だけ少し背が低いので注意してみると女だった。彼女はマンドリン(旋回小銃)を抱えていた。他の男たちは剣付き小銃を手にしていた。彼らはひれ伏している一人一人を射って歩いた。手向かう者は誰もなく、射たれるままだった。そのうちぼくの傍らにいた一年生の男の子がフラフラと立ち上がり、泣きながら「兵隊さん、ごめんよう、ごめんよう」と、ズボンにすがりついた。言葉のわからないソ連兵は、その子を突き飛ばすと銃の台尻で頭をなぐりつけた。ギャアーという異様な声が聞こえた。その悲鳴にかぶさって、女兵の高い笑い声がひびいて来た。
銃声は三十分くらいでやんだ。耳がガンガン鳴っていた。が、ソ連兵は引き揚げない。わずかな武器を取り上げると、ていねいに大人は銃剣で刺し、子供は銃床で殴って廻った。足音はだんだん近づいて来た。二メートルくらい離れたところで母が刺し殺された。ぼくも三回つづけて殴られた。鼻と口から血が吹き出し、一瞬気絶してしまった。
                                 (平成17年作)



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朝曇

朝ぐもり早やも草食む牧の牛



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旅の最終日。芭蕉が歩いた「奥の細道」とは別れ、あとは帰るだけと思っていたが、地獄谷の間欠泉や渓谷の大噴湯を見たり、天空の湯に浸かったりと最後まで盛りだくさんの一日となった。
これはその日の朝の句。またしても早起きした私は宿の周辺を散策した。近くに牧場があり、牛がのんびり草を食(は)んでいた。山々に掛かる雲はどんよりとしているが、その日一日もまた暑くなることがうっすらと感じられた。
「朝曇(あさぐもり)」という季語の説明は「暑さが特にきびしくなる日は、朝のうち、靄がかかって曇ることが多い」である。まさに、そのような一日であった。

3日間を通じて、よく晴れていた。バスに乗り合わせた36名は、ほとんどが高齢のご夫婦とお見受けした。しかし芭蕉や「奥の細道」に興味を持っての参加という人は見かけなかったように思う。文学好きの妻も芭蕉には興味がなかったようで、10分ほど歩けば見られた象潟の風景も見ないでしまっている。
「松島に匹敵する絶景だから、絶対に見た方がいい」と勧めたのだが、あっけなく「見なくていい」と言われた時は正直唖然とした。なるほど、人それぞれなのである。

「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」
芭蕉は「奥の細道」の冒頭で、人生のはかなさを記している。
                                 (平成26年作)



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山滴る

尿前も鳴子の山も滴れり



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2日目はよく歩いた。象潟の朝の1時間半は私だけであるが、鳥海山の麓の元滝伏流水を見学し、獅子ヶ鼻湿原というブナの森を散策したりして、たっぷり3時間半、結構な運動量をこなした。とはいえ、芭蕉と曾良の健脚ぶりに比べれば児戯に等しい。荷物を背負いながら、来る日も来る日も歩き続けたのだから、どのような足腰をしていたのだろうかと思う。

2日目の宿は鳴子温泉だと思っていた。「奥の細道・尿前(しとまえ)の関」の章に記述があるので、鳴子で一句をと思っていたのである。ところが、バスは鳴子を通過し、その奥の鬼頭(おにこうべ)温泉へと向かった。パンフレットを見てみると確かに「鳴子温泉郷鬼頭温泉」と書かれている。「奥の細道」しか頭にない私には芭蕉ゆかりの鳴子の文字しか目に入らなかったようなのだ。
「小黒崎・みづの小島を過て、なるごの湯より尿前の関にかかりて、出羽の国に越んとす」が本文である。
そこで思い直すことにした。芭蕉は鳴子温泉を過ぎ、尿前の関に宿し次の句を詠んだ。
 蚤虱馬の尿する枕もと 芭蕉
「尿前」と「尿」の掛詞(かけことば)の句である。そこで、尿前を通過し、鳴子温泉郷に宿した私も、ひとつ、掛詞の句を詠んでみようと思ったのである。山の緑が鬱蒼として滴るようであるという意味の「山滴る(やましたたる)」という季語がある。「尿前」と「滴る」を掛詞として掲句を詠んでみたのであるが、どうであろうか。
写真は最上川を撮したものである。その後で通過した尿前、鳴子については車窓から眺めただけなので写真はない。
                                 (平成26年作)


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青田

象潟や青田に浮かぶ九十九島



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月山の次に向かったのが「奥の細道」最北端の地、象潟(きさかた)。芭蕉は文中において「このたび松しま・象潟の眺(曾良と)共にせん事を悦び」と記し、象潟が旅の目的の一つであることを明らかにしている。
芭蕉が訪ねた時の象潟は、松島と同じように海に大小の島を浮かべた景勝地であった。しかし、今は海ではない。江戸時代後期の文化元年(1804年)に起きた大地震で海底が隆起し、陸地に点々と島が残るという姿に変わってしまっている。

鶴岡、酒田と進み、バスが象潟に着いたのは日没寸前であった。しかも翌朝は鳥海山を目指して8時15分に宿を出発するという。この旅で最も見たいと思っている象潟を素通りしようというのである。
「何のための象潟泊まりなのだ!」と言ってみたところで始まらない。すぐに宿のフロントに電話した。
「明朝4時半にモーニングコールをお願いします」
さすがにフロントも「4時半ですか?」と驚いていた。結局はコールされる前の4時には起きて準備を始めていた。
出掛けにフロントに寄って、モーニングコールは要らないと言おうとしたが誰もいなかった。東の空がようやく白み始めた時刻、いないのが当たり前である(笑)。
それから約1時間半を掛けて、青々とした田んぼの中に浮かぶ小島を歩いてみた。九十九島(つくもじま)という。芭蕉が舟で渡った島々を、朝露に濡れた畦道を辿りながら見て回ったのだ。
「面影は松島に似ているが、趣は違う。松島は笑うが如く、象潟は恨むが如し。寂しさに悲しみを加え、何か心を悩ますようである」と芭蕉は綴っている。芭蕉が詠んだ合歓(ねむ)の花だけは当時と変わることなく、象潟の至る所に花を咲かせていた。
                                 (平成26年作)



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