2013年12月の記事 - ひこばえ
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ひこばえ


2013年12月の記事

年忘

年忘れ来るはずもなき人を待つ



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「先生!みんな揃いましたよ。あとは先生だけですよ」
そう声を掛けてしまいたくなるような忘年会である。
道川虹洋先生に俳句を学んだ者達が、先生の名を一文字いただいた「虹の会」という会を作って集まる、今回が2回目の忘年会である。俳句をやめてしまった人、続けている人、先生のいなくなった句会に留まった人、出ていった人。いろいろであるが、先生を慕う気持ちだけは今もみな同じである。
先生がいた時と同じ場所で開く忘年会なので、いなくなった寂しさはひとしおである。いつも中央の席に座り、万遍なくみんなを盛り上げてくれていた姿を思い出す。話題は止まる所を知らず、俳句はもちろん、歴史、天文、文学などあらゆる分野に及んだ。物知りとは先生のような人のことを言うのだと思う。生来の明るさと、人を惹きつけてやまない人間の大きさ。先生の弟子であることを誰もが幸運と思ったものである。

亡くなられ方があまりに急だったので、我々には元気だった姿しか思い出として残っていない。
「いやぁ、心配かけたなぁ。今、戻ったよ」
そう言いながら部屋に入ってくる姿を、2年経った今も期待してしまうのである。
                                 (平成24年作)


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木の葉髪

ことここに至る道のり木の葉髪



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オギャーと産まれ、物心が付き、ねじり鉢巻きでガリ勉をし、憧れの東京へ出る。
世渡りを少し覚え、就職をし、恋をして、結婚をする。
子供が生まれ、転職をし、家を買い、懸命に働き、社長になり、なんとなく今に至る。
書き立ててみると、ほんの数行で足りるほどの人生である。

来し方を振り返ってみた時、「まずまずの人生」というより「まあまあの人生」の方が近いように思う。
平均寿命が延びたというものの、自分自身の人生があと何年あるのかは判らない。
この節目を機に、少なくとも「まあまあ」から「まずまず」へ、さらには「なかなかの人生」だったと言えるあたりまで、もう一踏ん張り頑張ってみようかと思っている。

12月25日(水)、目出度くも満60才の誕生日を迎える。

(注)「木の葉髪」とは晩秋から初冬にかけて木の葉がしきりに落ちるように、人の髪の毛が抜け落ちることをいう。
                                 (平成25年作)



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牡蠣

牡蠣殻の山に牡蠣殻捨つる音



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雲仙・島原の旅を終え、最後の宿泊地の長崎へと向かう途中、諫早の峠の中腹で牡蠣小屋を見つけて入ってみた。
2,3個食べようかと思っていたところ、囲炉裏端に座らされ、バケツ一杯の牡蠣が出てきた。
「本来なら自分で焼いてもらうのだが、ほかに客もいないのでやってやろう」ということで、店のご主人が我々夫婦の間に入り、焼いてくれることになった。とても気さくな人柄で、問わず語りにいろいろな話をしてくれたものである。

話は自ずと諫早湾の干拓事業に及んだ。そもそも、半世紀も前に始まった事業。当初は食糧難解決のための干拓だったが、米余りなどが起こると目的は水害対策などに変節。動き出したら止まらない大型公共事業の典型であり、問題は多岐に亘った。有明海の水質汚染、漁業への影響、反対運動、工事差し止め訴訟、司法判断など。熱い語り口で潮受け堤防の開門の是非まで説いてくれた。我々が山盛りの牡蠣を食べ終わっても話はまだまだ続いており、席を立つのに少々気が引けたほどである。

あれから3年の月日が経ち、宮崎康平が邪馬台国のあった場所として比定した諫早が今、大きく揺れ動いている。
開門か否か、大きな節目を迎えようとしているのである。
開門派にも開門反対派にも、双方最善の方策で解決されることを願わずにはいられない。
                                 (平成22年作)



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蜜柑

殉教の無きがごとくに蜜柑村



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島原のついでに天草へも行ってみたかったのだが、日程の都合で寄ることは出来なかった。
見たかったのは難攻不落の富岡城である。
出掛ける前に立松和平著「奇蹟―――風聞・天草四郎」などを読み、1637年の「島原の乱」については調べておいたので、一揆勢が攻めあぐねたという富岡城は必見に思えた。陸から攻めるには砂州を渡るしかないという天然の要塞とは、さぞかし見応えのあるものに違いないと思ったのである。

富岡城が見られなかった分、原城跡はゆっくりと時間を掛けて見て回った。天草四郎を首領とした一揆勢が殉死した場所である。一揆を起こす前、領民は苛酷な賦役と重税に苦しみ、天災による凶作も重なり窮乏のどん底に追い込まれていた。また、幕府のキリシタン禁止令により領内のキリシタンには残酷な迫害が繰り返されていた。
原城跡に立て籠もった老若男女37,000人は全員皆殺しとなり、一揆は鎮圧された。遺体の上には石垣が崩され、土が掛けられたといい、今でもそこを掘ると人骨が出てくるという。

レンタカーで訪ねたのだが、城跡の回りには畑が広がっていて、看板でもなければそこがそのような殺戮のあった場所などとは思いもつかないほどである。ところどころにミカンが生っていて、のどかな山村風景が広がっているばかりであった。
                                   (平成22年作)


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冬天

邪馬台の冬天を指す白き杖



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(承前)第2部では、この方法に基づき、魏志倭人伝に列記された30の統属国と邪馬台国を現在の九州北部から有明海周辺の地域に一つずつ比定していく。
比定はまず、倭人伝に記された「今使訳所通三十国」の30と、文中に実際に記された国の数31に、1国の差があることを解明するところから始まる。文中に奴(ど)という国が二つ出てくるのである。これにより、国名の列記は女王国を中心に環状に並び、始めに記された奴国が一回りして最後の奴国に戻るのではないか、しかも列記は互いに隣接しているのではないかと考えるのである。
この仮定をもとに、それぞれの国を比定していく様子は、まるで推理小説の謎解きのようで面白い。
最後に邪馬台国を現在の諫早市を中心とした島原市、長崎市に拡がる一帯と比定した時、我々は弥生後期(3世紀)にあった女王卑弥呼の国を目の当たりにするのである。
盲目というハンディを背負いながらも、古代の謎を繙こうとした姿に驚きと感動と畏敬の念を覚えずにはいられない。

(注)写真は雲仙市愛野展望台から見た千々石(ちぢわ)湾の眺めである。
                                   (平成22年作)



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冬銀河

冬銀河卑弥呼の国の闇をふと



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「まぼろしの邪馬台国」は第1部「白い杖の視点」と第2部「伊都から邪馬台への道」から成っている。
第1部では著者の古代史に対する考え方が述べられている。著者は記紀を音表解釈により究明しようとする。
古代の日本人が使っていたであろう言葉、音(おん)により読み解いていくのである。
記紀に記されている漢字は単なる当て字と捉え、音による意味を探ろうとしている。

たとえば、邪馬台国は次のように読み解かれる。
「邪」はヤとエの中間音yæと発音し「入り江」の意味。
「馬」は漢音ではバ、呉音ではメであるが、後代合体してマと発音され「畑(やきはた)」の意味。
「台」はタと読み、耕地である「田」を意味する。
すなわち「邪馬台国」とは「入り江や湾に臨んだ畑の国」という意味で、半農半漁の国だったように想像されると説く。
邪馬台がヤマトと読めるところから畿内大和、あるいは九州地方のヤマトに結びつく地名と関係づけようとするものがあるが、「台」をトと読むのは、もともと無理な読み方で、原音は明らかに漢音でタイ、呉音でダイであるから、タとしか読めないのだと言い切っている。(つづく)

(注)写真は旅に立ち寄った長崎県有明町の平山古墳のものである。
                                   (平成22年作)



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