2013年11月の記事 - ひこばえ
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ひこばえ


2013年11月の記事

冬雨

冬雨に煙る鉄路の果ては海



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宮崎康平著「まぼろしの邪馬台国」を読んだ時の感動は、4年経った今でも忘れられない。
竹中直人、吉永小百合主演で映画化され話題となったので読んでみたのだが、一読してファンになってしまい、平成22年の暮れから正月にかけては、妻と長崎県の島原を訪ねたほどである。島原は著者の出身地であり、邪馬台国のあった場所として著者が比定(位置づけ)した場所である。「病膏肓に入る」とは、このようなことを言うのかも知れない。

著者は全盲である。島原鉄道の常務だった昭和25年、34才の時に過労がたたり失明している。
その後、邪馬台国の研究を始め、奥様と共に探し求めた軌跡を昭和42年に「まぼろしの邪馬台国」として発表、一大ブームを巻き起こしている。昭和55年、62才で没するまでの生き方は凄まじい。
「五感の一つを失ったけれども、四感がある。五感が20点ずつなら、あと四つを25点ずつ取れば100点。30点ずつなら120点。目明きをしのぐことだって、できるんだ―――そういう考え方の人でした」
平成20年、新聞のインタビューに奥様はそう答えている。

句は島原半島南端の港町「口之津」を訪ねた時のものである。著者が失明する直前に見た港であり、「かなしい最後の視界の町」と著書に書き記している場所なので、どうしても訪ねてみたかったのである。
雨まじりのとても寒い日で、著者の悲しみを思うには相応しい日だったのかも知れないと思っている。
                                   (平成22年作)



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酉の市

神棚もひそと売られて酉の市



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初冬の風物詩「酉の市」。
昼間は暖かいと思っても、夜には冷え込むので着込まなければ出掛けられない。
今年も家族と真金町の大鷲神社に出掛けてきた。お参りのあと、熊手や出店を見て歩く。
孫達と一緒に、煌びやかな熊手を見上げながら人混みの中を流されていくのも楽しいものである。
飴を舐め、籤を引き、輪投げをし、水の上を流れる玩具を掬い、綿菓子を食べる。
あちらこちらに立ち止まりながらの一回りである。

熊手が売れると手締めが行われる。とても威勢が良い。
私は一度も買ったことはないのだが、きっと手締めをされる人は気持ちのいいものだろうと思う。
「みんなが自分のことを祝ってくれる」と思えるのではないだろうか。
売り手も買い手も共に歓びを分かち合える良い習慣だと思う。

賑やかな熊手の店の外れにひっそりと神棚を売る店がある。
熊手を抱えて歩いている人はいても、神棚を抱えている人は見かけたことがない。
熊手のようには売れないだろうが、熊手を飾る大切な場所としての神棚である。
酉の市には必要欠くべからざるもののように思えてくる。
                                   (平成25年作)



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亡き父のことなど餅を返しつつ



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北海道の実家では、12月ともなると餅つきが始まる。私が高校生だった頃までの話ではあるが。
男手があったからだとは思うが、納屋から臼と杵を出してきて、いくつもの臼を搗いたものである。
搗いた餅は手で丸められ、あんこなどが入れられる。すなわち、ふるさとの餅は丸餅なのである。

結婚して、妻の実家で正月を迎えることが多くなった。餅は餅つき器で搗かれる。
台所から匂いがしてきたと思うと、いつの間にか出来上がっている。それを板の上で伸して畳の間に並べられ、一日ほど待つ。少し堅くなってきたところで、義父が包丁で息を継ぎながら切っていく。
すなわち、高崎の家の餅は切り餅なのである。初めて見た時は、あまりの手軽さに驚いたものである。

娘達が小さかった頃は、よく高崎の家で過ごした。そこで義父が娘達に教えた餅に関する諺がある。
「餅を焼くのは貧乏人の方が上手い」である。正確には「餅は貧乏人の子に焼かせよ」というのかも知れない。
早く食べたいと思う心が頻繁に餅を返させる、それがすなわち焦がさずに上手に焼くコツなのだという意味なのだろう。
「おじいちゃんはいつもそう言っていた」と今でも娘達は言う。今で言う「差別用語」であり、孫娘との会話に「貧乏人」と言うのも如何なものかと思うのだが、亡くなった今でも餅を焼くたびに思い浮かべる義父の言葉なのだ。
可愛い孫と一緒に餅を焼いている姿が今も目に浮かぶ。
                                 (平成12年作)



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空っ風

病む父を泣かせて夜の空つ風



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(承前)その高崎公園の隣に頼政神社という小さな神社がある。
義父の見舞いに訪れて、実家に泊まったのであろう。翌朝、散歩がてらにそこを訪ねている。
結婚して20年近くも経つというのに、その神社に立ち寄ったのはその時が初めてであった。
そこに内村鑑三の「上州人」という碑を見つけ、一読、義父のことを言っているように思え、メモしたものである。

  上州人
上州無智亦無才 (上州人は無智であり、無才である)
剛毅木訥易被欺 (意思が強く朴訥であり、人に騙されやすい)
唯以正直接萬人 (ただひたすら正直に万人に接し)
至誠依神期勝利 (真心を以て神による加護を待っている)
     鑑三

平成11年12月5日、享年72才。
まさに義父は上州人であった。
                               (平成11年作)



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冬立つ

檻越しのチヤボの嘴冬立てり



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我々の句会「浜風句会」は俳句結社「海」に所属していた。
毎月、道川先生に指導していただいていたが、年に一度「海」の高橋悦男主宰がお見えになって句会を行った。
この句は、その高橋主宰から褒められた句である。
「このような句を作れる人は、俳句の何たるかを知っている人だ」というコメントであった。
言われて嬉しかったことは言うまでもないが、実はこの句は私にとってはとても悲しい思い出の句なのである。

群馬県高崎市は妻の故郷である。両親はすでに亡くなってしまったが、結婚以来さまざまな思い出を作ってきた場所であり、妻はもちろん、子供達にとっても忘れがたい地になっている。
家の近くにある高崎公園を散歩し、そこにあったチャボの檻の前での句である。
義父が癌に冒され入院し、妻がその看病に病院で寝泊まりしていた時のものである。
小さな檻の中で、これから厳しい冬を迎えようとする小動物達を見て、余命宣告を受けてしまった義父のことを考えたりしていたのである。その時の句である。(つづく)
                              (平成11年作)



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とろろ汁

とろろ汁人見女も啜りけむ



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仙石原で落ち合った翌日の吟行の様子である。ちょうど山芋(自然薯)の季節であった。
ケーブルカーから見下ろしながら「あの黄色い葉っぱが山芋だ」などと先生に教えてもらいながら旅していた。
もちろん、とろろ蕎麦などを食べたことは言うまでもない。
その時の私の一句―――「出女もかく啜(すす)りけむ山の芋」。
箱根関所跡も見学していたので、「入鉄砲と出女」そして季節の「山芋」を入れてみた。
「出女もこのように啜ったであろう」と自信を持って作った一句であった。

それに対する道川先生の評。
「誰だ、こんな句を作ったのは。出女が山芋を啜る訳ないだろ!」
「えっ、どうしてですか?」
「出女というのは徳川時代、江戸に人質として住まわされていた諸大名の妻子のことを言うんだ。
奥方様とかお姫様という身分の高い人が山芋を啜る訳ないだろ。
とろろを啜るのは庶民のすることだ。歴史をもっと勉強しろ!」
なるほど、知らないということは恐ろしい。大恥をかくところであった。

そこで作り直したのが人見女(ひとみおんな)の句である。
「人見女とは何だ?」と先生。
「関所を通行する出女を検査する役を『人見女』とか『改め婆』とか言ったそうです。
出女の持ってきた『女手形』には身体の特徴などが細かく書かれていて、それと合っているかどうか、
髪の中まで調べたと書いてありました」
「日向君は、どうしても山芋を啜らせたいらしい(笑)」
箱根旅行の思い出の一句である。
                                   (平成20年作)



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風呼んで千波万波のすすき原



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平成20年10月、箱根一泊吟行に出掛けた。たまたま娘夫婦も同じ日に箱根旅行を計画していて、それが二日ほど前に分かり「偶然だねぇ。会えるといいけど、広いからねぇ」などと話をしていた。
我々は朝9時に大船駅に集合し、JR、登山鉄道、ケーブルカーなどで大湧谷へ向かい、仙石原、ホテルへ向かうコース。
娘達もほぼ同じ時刻に家を出て、彫刻の森美術館で遊び、仙石原、ホテルへと向かうコース。電車で彫刻の森駅を通過する時、すでになっちゃんは中で遊んでいるとのメールが入り、車の方が早いことが証明される。
会えるとは思っていなかったので、句会のみなさんにはなっちゃんが来ていることは伝えていない。大湧谷で昼食を摂り、温泉卵を食べたりしながら、ゆったりとケーブルカーで桃源台駅に降り、バスに乗り込んだところで娘からメールが届く。
「今、ススキの場所に着いたよ」
会えないと思っていたのに、こういうことも起こるものなのだ。
「こちらも、あと10分ほどで到着予定」と返信する。
みんなには内緒にしておいた。ススキの中の一本道を歩いて、中央の広場で落ち合う。
紹介した途端、おばちゃん達(失礼)に囲まれ、「えっ!なっちゃん?」「どうしてここにいるの?」「2年前のあの句会の時に生まれたなっちゃん?」と。
まるで、ファンに取り囲まれるスターのような状態になった。
娘達にとっては、初めての家族水入らずの旅行だったそうで、とてもいい思い出になったことはもちろんである。

写真を探してみたが、娘達も一緒に写したはずの写真が見当たらない。
なっちゃんの写真もあったが、ここは句会のみなさんの写真を掲げておく。後列、左から3番目が道川虹洋先生である。                                   (平成20年作)



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