動物 - ひこばえ
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ひこばえ


動物 カテゴリーの記事

冬の蝶

洞に悲話あり木洩れ日に冬の蝶



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ようやくシムクガマの入口に達しようとした時、目の前にあった蜘蛛の巣に引っ掛かり「ワーッ」と声を上げてしまった。想像していた洞窟とまるで違っていて不気味に感じていたのかも知れない。帽子を脱いで蜘蛛の巣を払い、深呼吸して息を整えた。結構、意気地なしなのである。
遠くから写真を撮った(写真)。これで帰ろうかとも思った。しかし、ここは全員が助かった場所であることを思い出し、中へ入ってみることにした。中央に何やら碑が立てられていた。それ位は確認しようと思ったのである。近づいて見ると「救命洞窟之碑」と書かれ、終戦50周年を記念して建てられたことが記されていた。小銭が供えられていた。まずは手を合わせ、戦争の犠牲になった多くの人達に黙祷を捧げた。奥を覗くとずっと続いているようである。1000人もの人が逃げ込んだ場所である。とてもそちらまで行く勇気はない。入口に戻り周囲を見渡してみた。高い木が生い茂り日の光を遮っている。そこを蝶々が舞っていた。降りて来るかと見れば、また揚がって行く。4、5匹がゆっくりと揚がり下がりを繰り返していた。

その日のことを書いておこう。
昭和20年4月1日、上陸した米軍はすぐにシムクガマまでやって来た。読谷村波平区の住民約1000人が息をひそめて隠れている。アメリカ兵数名が入口までやって来て「カモン、コロサナイ、ダイジョウブ」と呼び掛ける。しかし住民たちは米兵が鬼畜であることを教え込まれている。動揺が走りパニック状態に陥る者も出る。大人たちを掻き分けて米兵に立ち向かおうとして前に出たのは少年で構成された警防団の者たちである。竹槍を手に米兵に向かっていった。米兵も驚き銃口を向け、まさに発砲しようとしたその時である。大きな怒号が響いた。
「槍を捨てなさい!」
その場を凍らせるほどの気迫をもって叫んだのはハワイ帰りの比嘉平治さん(当時72才)という人だった。比嘉さんはハワイで長くバスの運転手をしており、英語は堪能。米兵が鬼畜でも赤鬼でもないことを知っていたのである。比嘉さんの一喝で少年たちは引っ込み、米兵との会話が交わされた。日本兵がいないこと、中に約1000人の住民がいることが伝えられたという。米兵はお菓子や缶詰を置き一旦その場を立ち去ることとなった。比嘉さんは同じくハワイ帰りである比嘉平三さん(当時63才)と共に米軍へ出向き、助けてもらうための交渉を行なったのである。殺されて戻らないだろうと思っていた二人が戻り、「アメリカ人は人を殺さない、投降すれば命は保証される」という言葉が伝えられた。しかし住民逹にはその言葉を信じるすべが何もない。その後の比嘉さんたちの説得がどのようなものであっただろう、困難を極めただろうことは容易に想像できる。その後、一人の犠牲者もなく全員無事に保護され「奇跡のガマ」と呼ばれることになるのである。
                                 (平成29年作)

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蚯蚓鳴く

古文書も元は平易や蚯蚓鳴く



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倫理法人会で書店の社長さんと親しくさせてもらっている。最近は出版や浮世絵の販売などにも力を入れているという。「ひこばえ」の話をしたところ、土日に掛けて読んでくれたようで、すぐさま連絡をもらい会社にまで訪ねてきてくれた。
「面白かったです。最初から最後まで全部読みました。内容も良かったですが、とにかく文章が素晴らしい。一つ一つにオチもあり、ユーモアもあり、楽しませてもらいました。一気に読みました。あのBCGには参りました(笑)」
「BCG?」
「美人の俳人の方ですよ。ノースリーブの肩に痕があったんですよね」
「ああ、そこですか!そこに食いつきましたか(笑)」
黛まどかさんのことである。「他にもっと違う所があるでしょう」と言いたかったが、こればかりは本人の捉え方である。褒めてもらって文句を言っている場合ではない。とにかく絶賛である。加えてこちらは褒められると舞い上がる方である。その後、2時間ほども引き留めてしまい、長々と話をさせてもらうことになったのである。別れ際に社長は自分の会社で手掛けたという書籍をプレゼントしてくれた。私の会社がある「金沢区」を紹介した小冊子と、金沢のマップ(写真)、それに「帰来草」という地元作家の文庫本の3冊である。

早速、次の休日に「帰来草」を読んでみた。副題に「かねさわ かまくら時超え奇譚」とある。作者は松崎雅美さん。1970年生まれと書かれているので45、6才の方である。プロローグが置かれている。読み始めて少し違和感を覚えた。まずは主人公の名前が篠原魔利伽(まりか)である。何だろう、この名前は?凄い名前を付けたものだなぁと思った。最近の当て字による命名にも随分慣れてきたように思っていたが、それにしても魔利伽とは……。
次に称名寺のトンネルから突然発見されたという鎌倉時代の古文書の文体。作者自身も「実に読みやすい」と書いているのだが、あまりの平易文なのには驚いた。ムムムムム……あり得ない……。
「どうしよう、読もうか、読むまいか……」
しかし、社長の顔が浮かんだ。「ひこばえ」をあんなに読んでくれたのである。頂いた本を読まないというわけにもいかない。読まなければ次回お会いした時に話が出来ない。意を決したが、まずは本文に入る前に「あとがき」を先に読んでみることにした。そこには、こう書かれていた。
「私は子どもたちに伝えたいことが山ほどある。だから『帰来草』を書いた。この物語さえあれば、私はいつ死んでも大丈夫。母として子どもたちに伝えたいことも織り込んだ」
子供さん達へのメッセージかぁ、ロマンチックだなぁ、だから平易文なのか……。
                                 (平成28年作)

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穴惑ひ

山の名に男体女体穴惑ひ



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電話は協力会社からのものだった。山頂でこの写真を撮った直後の呼び出し音である。
「どうしたのだろう?何か不幸でも起きたのだろうか。今日は日曜日、いずれにしても明日まで待てない内容だろう。いいことではないに違いない」
悪い予感がしたので、山頂の岩の上での電話は避けようと思った。すぐ掛け直す旨を伝えて早々に切った。人だかりを縫って山頂を下りた。しばらくしてまた電話が鳴った。
「もしもし、社長ですか。お休みの所を済みません。大きなクレームを起こしてしまいました」
「どうした?どんなクレーム?」
「3日ほど前に分かったのですが、場所は九州です。先方の社長が相当に怒っています」
山の電話はよく切れる。話の途中で切れるのでついつい声は大きくなる。広場のような場所を探したが見当たらない。道行く人が何度も何度も振り返る。4回も5回も切れながらもようやく全貌が見えてきた。
「大丈夫だよ。悩んでも仕方ないよ。案ずるより産むが易し。明日、飛行機で飛んで先方の社長さんの顔を見て説明すれば一発で解決だよ。少なくても命まで取られることはないから安心しなさいよ。百戦練磨のアンタにしては珍しいねぇ。先方が怒っていると言ってもクレームの内容からして何の問題もなく解決出来る範疇だよ。最悪、俺が責任持つから安心しな。頼むよ、今、筑波山の山頂だよ。地球は大きいよ。クレームなんて小さい、小さい」
とは言ったものの、電話を切ってからしばらく考えていた。内容を反芻して「大丈夫だな」と思えるまで少し時間が掛かった。「あの人なら無事解決するだろう。それにしてもどうしてあんなに慌てたのだろう。慌てるほどの内容でもなさそうなのに。体調が悪いのだろうか。ほかに悩みでもあるのだろうか。一度、聞いてみよう」
足は来た道を戻るのではなく、女体山の近くにあるロープウェイの駅に向いていた。「弁慶七戻り」を見に行く気は失せていた。電話が来て急に現実に戻され、早く山を下りて一杯やりたくなったのである。ロープウェイで下りる先は車を停めた場所とは違ってしまうが、どうにかなるだろうと思った。すぐにロープウェイは来た。130分掛けて登ってきた山をわずか6分で下山した。
                                 (平成28年作)

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秋の蝶

山頂の岩に影置く秋の蝶



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再び御幸ヶ原へと戻った。登山者と観光客が入り混じっている。子供も多い。ケーブルカーを使えば簡単に登って来られる場所である。久しく忘れていた「行楽」という言葉を思い浮かべた。
女体山に登ったあとは「弁慶七戻り」などという奇岩、怪岩なども見たいと思っていた。疲れていても好奇心だけは旺盛である。歩き始めて気付いたのは女体山への道の緩やかさである。標高は男体山871m、女体山877mと男女が逆転している。背の高い方が男だろうと言いたい所だが、歩いてみて分かった。男坂、女坂というように坂の急峻さ緩やかさで名前を決めたようである。何事も実際に見て自分の足で歩いてみることが大切である。
途中、ガマ石、セキレイ石と名付けられた大きな石があり、謂れなどが書かれていた。その先に茶店があり、「寄って行ってください」と声を掛けられたが、休んでいる時間はない。目が合って素通りも悪いので店先に置いてあった「筑波山を彩る花」という冊子を買うことにした。300円。いろいろと草花を見てこようと思っていたのだが、思わぬ難コースに花に心する余裕を失っていた。「花の名前も知らないで通り過ぎるのは勿体ないからねぇ……」と言いながらお金を支払った。
山頂はすぐ先にあった。男体山より混み合っていた。人数は10倍以上いるような気がした。
「なぜ、こっちだけがこんなに混んでいるのだろう?」
理由はすぐに分かった。来た人が長くその場に留まるからである。御本殿のすぐその裏に天空に突き出すように岩場があり、そこでしばらく時間を過ごしているのである。先に行こうとしても混み合っていて待つほどである(写真)。
「素晴らしい!」
人波に揉まれるようにしながらも、絶景ポイントに立つ喜びを実感していた。本当に来て良かったと思った。高所恐怖症であることも忘れて先に進み、遠く雲海に浮かぶ富士山を眺め、下界を見下ろした。
「これが登山の醍醐味だなぁ」などと感激に浸っていた。大汗を掻いて登ってきた意味がそこにあるのだ。
「来て良かったぁ」と心底思った。と、その時、電話が鳴った。「こんな山頂でも電話が通じるのか?」と思いながら相手を確かめた。「えっ、何だろう?今日は日曜日だよ」いやな予感がした。
                                 (平成28年作)

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三光鳥

三光鳥兄の御霊を悲しめり



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13才年の離れた兄は母親が亡くなった2年1ヶ月後の昭和22年12月19日に亡くなっている。病名は脊椎カリエス、享年32才である。
もともと兄は横浜の東芝鶴見工場で働いていた。どんな仕事をしていたのかは聞いていないという。戦争中ではあるが身体が小柄で弱かったので甲種合格とはならず、昭和19年に奉仕袋を持ってひっそりと出征していったという。行先は満州牡丹江省で輜重兵として馬の世話をしていたらしい。しかし現地で風邪を引いたのが元で肋膜炎を患い、本国に送還される。初めは弘前だったが途中須賀川の療養所に移された。母親が亡くなった後は妹一人を置いておく訳にもいかず、無理をして加茂の実家に戻ってきたが、病状は一向に良くはならずいつも2階で寝ていたそうである。
亡くなる年の5月からは庄内病院に入院しなければならなくなった。当時、母は丸通で事務の仕事をしていたが看病で会社は休みがちとなっていた。戦争が終わり、兵隊さんが大量に戻ってくる時代である。休みがちな女性など必要でなくなったようで、ある日上司が訪ねてきて解雇を言い渡されることになる。
「いくら解雇といったって、その月の給料はもらえるもんだとばかり思っていたァ。支払えないと言われ、ほんとに途方に暮れたァ。職も失い、お金も無く、病人を抱えてどうすることも出来なかったァ……」
病院でも兄の病状は日に日に悪化し、身体から膿が出るようになる。その洗濯は母が行なったそうである。当時は今のようなゴム手袋もなかったので洗濯物にクレゾールを付け素手で洗うのだが、あまりの汚らしさに人がいない時間にこっそり洗っていたそうである。病院の人からも、母に病気がうつることを心配して「もし身体に変調があったらいつでも言ってきなさい」と言われたそうである。
亡骸はリヤカーに乗せ、鶴岡まで運んだという。死亡証明書をもらい荼毘に臥そうとするのだが、未成年なので誰か身寄りを連れて来いと言われたそうである。身寄りは誰もいないので頼み込むしかない。役所でも可哀相と思ったのだろう、何とか手続きをしてくれたそうである。18才で天涯孤独の身となったのである。
病院から家に戻ると当時飼っていた猫が野生化していた。家中が酷い有様で子猫まで産んでいたという。顔を見ると跳びかかってきたので、あれ以来、猫は嫌いだという。
                                 (平成28年作)

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