宗教 - ひこばえ
background movie

ひこばえ


宗教 カテゴリーの記事

光琳忌

金泥の零れやすさよ光琳忌



IMG_3810_convert_20170717072034.jpg



ラウンジは吹き抜けになっている。その壁面に大きな絵が飾られている。
「夜明けの街」という作品で明け方のベイブリッジを東京方面から走って来て車で通過する時のイメージが描かれているという。大きい。何度かそこでコーヒーを飲んだことがあるので見ていたはずだが記憶になかったのは迂闊である。
「私が33才の時ですから20年前の作品です」
「凄いですね。圧倒される大きさですね」
そんな話をしながら「まずはこちらへどうぞ」と会場を回り始めようとした時だった。エスカレーターを上がって受付の前に現れた人がいた。
「あっ、先生、ありがとうございます」
内山さんが駆け寄っていった。
「ちょっと、寄らせていただきました」と先生。
「先日はお世話になりました。あれから……」
衆議院議員の河野太郎氏である。あっ、そうか。平塚つながりか。神奈川15区、平塚市出身である。随分と親しそうである。受付で話し込んでいるので私が入って行く余地はない。一人で回ることにした。すると受付に立っていたもう一人の男性が私の横に付いて案内役を始めてくれた。
「いや、大丈夫ですよ。一人で見て歩くのに慣れていますから」
「日本画はよくご覧になるのですか?」
「いえ、いえ、今日が初めてです。油絵はあちこち見て歩きましたが、日本画は……」
「日本画は顔料が違います。顔料には岩絵具が使われています。いろいろな鉱石を砕いて作ったものです。それに膠(にかわ)などを混ぜて描いていきます」
「いやに繊細に描かれていますね。内山さんのイメージとは違い過ぎる(笑)」
一通り案内をしてもらい、あの巨大な絵の話になった。
「あれは相当なものでしょう。値段の方も」
「大体、○○と聞いています」
「えっ、そんなにするの!あの絵1枚で!」
いやはや絵描きとは凄いものである。値段があってないもののようにも思うが、それにしても凄い金額である。1号いくらと言われればどんな作品でもおよその見当は付くものだが、あの大きさとなると皆目分からなくなる。どういう計算で算出された金額だろう。途中、内山さんが河野氏を紹介してくれて名刺交換などをして一緒に作品の前で撮影をすることになったが、気もそぞろである。いろいろと話もさせてもらったが大した話ではない。絵1枚の値段に驚かされている私にとっては、どのような話も大した話には聞こえてこない(笑)。
                                 (平成29年作)

にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村

スポンサーサイト

御開帳

あの山もこの山もみな御開帳



IMG_3178_convert_20170506154934.jpg



鐙摺山を下りて駐車場に戻ったのが8時半だった。その日に回ろうとしていた場所を全て見終わった。ゴールデンウィーク第1日目の予定が朝8時半に終了してしまったのには我ながら笑ってしまった。娘にメールを入れた。
「カズ君を連れて葉山においでよ。海は静かで磯遊びが出来るよ」
「これから鎌倉??」
「もう、みんな見て来たよ」
「はやっ!」
「歴史は朝作られるんだよ」
「へぇ~」
そのあと海沿いの道を走って芦名城址へと向かった。三浦義明の弟三郎為清が築いた城である。走っているとその手前に「大開帳」の幟を立てている寺があった。「浄楽寺」(横須賀市芦名)である。寄ってみることにした。参拝客が数名いた。本殿にお参りし、裏の収蔵庫に回った。角塔婆が立てられ紅白の紐が建物の中へと伸びている(写真)。記帳をして拝観料を支払った。中央に金色に輝く阿弥陀如来像が据えられ、その両脇に観音菩薩、勢至菩薩、更にその横に不動明王と毘沙門天が立っている。国の重要文化財、運慶作である。これは凄いと思った。いい時に訪ねたと思った。その美しさにしばらく見惚れていた。
外に出ると向こうから慌てるようにしてお参りに来る自転車乗りの姿をした男性とすれ違った。結構な急ぎ足である。私が駐車場にいるとその人が戻って来て自転車に乗ろうとするので声を掛けた。
「随分と急いでますねぇ」
「まだ回らなければならないお寺がいっぱいあるので……」
「なんだって、そんなに急いでいるのですか?」
「今、ご朱印サイクルラリーっていうのをやっているんです。49のお寺を回るんですが、移動するだけでもいい加減、時間が掛かるので中をよく見ている余裕はないんです……」
「なるほど」
4月28日から5月28日まで三浦の二大霊場で132年に一度の同時大開帳が行なわれていた。三浦不動尊霊場(28か所)が12年に一度、三浦薬師如来霊場(21か所)が33年に一度開帳するのだが、それが今年重なったという。そこを自転車で回ってご朱印を集めているのである。
「これから憎っくき鎌倉に行ってきます(笑)」
別れ際、そう言いながら漕ぎ出して行った。熱烈な三浦一族ファンのようである。

家に帰って「浄楽寺」のことを調べてみて驚いた。見てきた阿弥陀如来像ほか5体の仏像は和田義盛が伊豆の北条時政の「願成就院」に対抗して運慶に作らせたものだという。
「おおっ、昨年のゴールデンウィークに訪ねたあの寺のことではないか!」
見る見るうちに記憶が蘇ってきた。国宝の仏像5体を見せてもらったあの寺である。本堂の扉の隙間からちょっと覗こうとしただけで注意されたあの「願成就院」である。(平成28年5月30日、ひこばえ「青梅」参照)
何という偶然だろう。
「こんなことならもっとしっかり見て来るんだった」
何も調べずに出掛けてしまったことを後悔したものである。

                                 (平成29年作)

にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村

花御堂

みな片手拝みに雨の花御堂



IMG_2857_convert_20170410055053.jpg



國王神社を出て延命寺の方へ向かうと「花まつり」の幟が並び、たくさんの参詣人の姿が見られた。車で1、2分の距離である。狭いながらも門前には駐車場が用意され、係員も数名出て整理に当たっていた。境内には屋台も出ていて村人で賑わっていた。その前に訪れたフラダンス会場の賑わいとは別物の、昔ながらの懐かしい賑わいを感じた。駐車して車を出た時に目の前の田圃で花火が揚がった。とても大きな音だった。曇り空に白い煙がポンポンポンといくつも浮かんだ。村を挙げてのお祭りといった感じである。寺はこんもりとした森に囲まれ、その周囲には田圃が広がっている。村の鎮守といった趣である。
この寺は将門の軍事拠点「石井営所」の鬼門除けとして建てられたものだが、天慶3年(940年)に藤原秀郷、平貞盛の軍勢に襲われ焼失している。その際、将門の守り本尊だった薬師如来像は堂から持ち出され、世の中が治まるまでどこかに隠されていたそうである。そののち、将門の子孫にあたる相馬氏により寺は創建されたが、またもや火災に見舞われ本堂も薬師堂も焼失し、今ある山門だけが残ったそうである。山門は茅葺切妻造りの四脚門で、近郊に比類のない造形美を示し、相馬氏の将門に寄せる思いを感じさせるものだという。

門をくぐり石造りの太鼓橋を渡ると花御堂が据えられていた。4月8日はお釈迦様生誕の「花まつり」の日である。参詣の人が手に手に杓を取り甘茶仏に甘茶を掛けていた。カシャカシャと写真を撮り始めた。花御堂の遠景から甘茶仏の接写まで何枚も写していた。写真を上手に撮るコツはたくさん写すことと心得ている。甘茶を掛けている人の背中越しにも写していた。私が写真を撮ろうと構えているのを見て、しばらく手前で待ってくれていた老夫婦がいた。
「あっ、どうぞ、どうぞ、適当に写真を撮っているだけですから、どうぞ」と私。
「爺ばばを撮ってもしょうがあんめぇ(笑)」とお婆さん。
「大丈夫です。手だけ撮っているんですから」
「手だけ?どれ?」
と言うのでこの写真を見せたのである。
「こんな具合に撮っています」と私。
「いやぁ、手だけは見せられねぇ(笑)」
「……」
いやいや、決してモデルになってくれと言っている訳ではありませんと言いたかったのだが、もちろんそんなことは言える訳もない。たまたま目が合ってこんな会話になってしまったが、結局お婆さんと旦那さんは甘茶も掛けずに立ち去ったのだった。たかが写真一枚といっても、人の感じようは様々で心しなければならないと思ったものである。
                                 (平成29年作)

にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村

広重忌

称名の鐘の余韻や広重忌



IMG_0022_convert_20161031055306.jpg



私の読むジャンルに「ラブコメ」というものはない。過去一度として読んだことはない。しかし「帰来草」(写真)を読み終えて、妙に微笑ましい、暖かい気分になったものである。
「これをラブ・コメディというのだろうか」
時空を超えて現代の少女と北条実時が結ばれた時、私の胸の中には二人が出会った場所「金沢文庫、称名寺」に行ってみたいとの思いが沸いていたのだから不思議である。恥かしくて妻には言えたものではない。妻には「読んでみたら」と一度は勧めてみたものの「是非に」とは言えない。無理に勧めることもあるまい。「すべては称名寺に行ってからのことにしよう」と心に決めたのである。

物語は剣道の道場に通う高校生の女の子が「金沢海の公園」で開かれる花火大会に向かう途中、称名寺のトンネルで地震に見舞われる場面から始まる。気を失い目が覚めると鎌倉時代の実時の時代にタイムスリップしているという展開である。海の公園といい称名寺といい、私の会社から5分10分の場所にあり妙に親近感が湧く。
北条実時(1224~1276)は第3代執権北条泰時の甥にあたる。実時は父実泰が若くして幕政から引退したため、わずか11才で小侍所別当の要職を継ぐ。幼少の頃から利発であったと言われ、伯父の泰時に目を掛けられ、のちに執権となる孫の経時の相談相手も務め、そののち何代にも亘る執権に仕え常に側近として活躍した人である。
金沢の地は父実泰が鎌倉に接した六浦の地頭となったところから始まる。金沢の地に居宅を設け、称名寺を建て金沢文庫を創建していくのである。
「よし、称名寺に行ってみよう!」
私は行く気満々である。
「私は行かない」
妻はお寺に興味はないようである。もちろん「帰来草」も読んでいない。
(注)浮世絵師安藤広重は安政5年(1858)9月6日、陽暦10月12日に61才で亡くなっている。
                                 (平成28年作)

にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村

送り火

送り火や涙は人に見せぬもの



DSCN1263_convert_20160815135808.jpg



美山寮を出て50年の間に我が家は9回の引っ越しをしている。興山寮、美山、西区2番棟、西区36番棟、北区、北区アパート、中村市街、中島家そして泉町である。狭い地域の中をあちこちと移っている。高校を卒業し東京に出た私が帰郷するたびにどこに帰ればいいのか戸惑ったというのも大袈裟な言い方ではない。
母の仕事も変わっている。興山寮の炊事係に始まり、配炭所の事務、世話所の衛生係、炭鉱事務所の労務係、新事務所勤務、昭和46年の閉山のあとも赤平炭鉱の給与係、試験を受けて歌志内市役所採用となり施設の寮母、戸籍係、市役所の支所、福祉事務所の福祉係へと移っている。
「仕事はいくつも変わったけど、一度として待遇が下がったことはない」
母の矜持である。見るからに責任感が強く、任された仕事は必ずやり通すというタイプである。何事も筋道を重んじ曲ったことは嫌いなタイプなので「人」としても信頼されることになる。誰彼となく世話を焼くので、人から好かれることは勿論である。また字が上手い。市役所に提出した履歴書一枚で寮母から戸籍係に抜擢されたほどの字を書く。自分の親を褒めても仕方がないのだが、本当に上手い字を書く。それにもう一つ、話が上手い。田澤家が大勢集まった時などの様子が今も目に浮かぶ。母を中心に輪が出来、そこで滔々と語り始める。周りはただただ聞き入るばかり。決して面白く話そうとしているのではないが、真実を淡々と語るので思わず引き込まれていくのである。物の考え方、人のあるべき道などについては妙に説得力がありブレがない。苦労してきた分、母にとっては普通と思われることが聞く側にとっては人の道を説かれているようで心に響くのである。
「お前みたいに人前に立って話すようなことは出来ない」と母は言うが、それは慣れただけのことである。「母さんのように人の心を打つような話は出来ない」と答えるしかない。

今回3日間に亘り話を聞かせてもらった。聞いている私には何度も涙をぬぐう場面があったが、母は一度として涙を見せることはなかった。「このように辛い場面を話しているのにどうして涙が出ないのだろう」と何度も思った。
「あまりにも多くの涙を流してきたから」
聞いたらそう答えるかもしれないが、聞くべきことでもないようにも思え止めておいた。
「お盆だからといって、このあたりじゃ迎え火を焚くようなウチはないんだ。内地(加茂)ではちゃんとやるもんだったァ。気休めみたいもんだけど、何もしないというのもなんなので、線香に火をつけて苧殻の替りにしてるんだァ」
加茂から歌志内に来て60年になろうとしている。母にとっての加茂がどんなに大切な場所だったかが今回よく分かった。3日ではいくらも話せなかっただろうが、まずは一通り聞けたことは良かったと思う。次回また詳細に語ってもらう時のために聞きたいことを今から纏めておくことにする。
                                 (平成28年作)

にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村
検索フォーム
ブロとも申請フォーム
QRコード
QR
フリーエリア