宗教 - ひこばえ
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ひこばえ


宗教 カテゴリーの記事

花御堂

みな片手拝みに雨の花御堂



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國王神社を出て延命寺の方へ向かうと「花まつり」の幟が並び、たくさんの参詣人の姿が見られた。車で1、2分の距離である。狭いながらも門前には駐車場が用意され、係員も数名出て整理に当たっていた。境内には屋台も出ていて村人で賑わっていた。その前に訪れたフラダンス会場の賑わいとは別物の、昔ながらの懐かしい賑わいを感じた。駐車して車を出た時に目の前の田圃で花火が揚がった。とても大きな音だった。曇り空に白い煙がポンポンポンといくつも浮かんだ。村を挙げてのお祭りといった感じである。寺はこんもりとした森に囲まれ、その周囲には田圃が広がっている。村の鎮守といった趣である。
この寺は将門の軍事拠点「石井営所」の鬼門除けとして建てられたものだが、天慶3年(940年)に藤原秀郷、平貞盛の軍勢に襲われ焼失している。その際、将門の守り本尊だった薬師如来像は堂から持ち出され、世の中が治まるまでどこかに隠されていたそうである。そののち、将門の子孫にあたる相馬氏により寺は創建されたが、またもや火災に見舞われ本堂も薬師堂も焼失し、今ある山門だけが残ったそうである。山門は茅葺切妻造りの四脚門で、近郊に比類のない造形美を示し、相馬氏の将門に寄せる思いを感じさせるものだという。

門をくぐり石造りの太鼓橋を渡ると花御堂が据えられていた。4月8日はお釈迦様生誕の「花まつり」の日である。参詣の人が手に手に杓を取り甘茶仏に甘茶を掛けていた。カシャカシャと写真を撮り始めた。花御堂の遠景から甘茶仏の接写まで何枚も写していた。写真を上手に撮るコツはたくさん写すことと心得ている。甘茶を掛けている人の背中越しにも写していた。私が写真を撮ろうと構えているのを見て、しばらく手前で待ってくれていた老夫婦がいた。
「あっ、どうぞ、どうぞ、適当に写真を撮っているだけですから、どうぞ」と私。
「爺ばばを撮ってもしょうがあんめぇ(笑)」とお婆さん。
「大丈夫です。手だけ撮っているんですから」
「手だけ?どれ?」
と言うのでこの写真を見せたのである。
「こんな具合に撮っています」と私。
「いやぁ、手だけは見せられねぇ(笑)」
「……」
いやいや、決してモデルになってくれと言っている訳ではありませんと言いたかったのだが、もちろんそんなことは言える訳もない。たまたま目が合ってこんな会話になってしまったが、結局お婆さんと旦那さんは甘茶も掛けずに立ち去ったのだった。たかが写真一枚といっても、人の感じようは様々で心しなければならないと思ったものである。
                                 (平成29年作)

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広重忌

称名の鐘の余韻や広重忌



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私の読むジャンルに「ラブコメ」というものはない。過去一度として読んだことはない。しかし「帰来草」(写真)を読み終えて、妙に微笑ましい、暖かい気分になったものである。
「これをラブ・コメディというのだろうか」
時空を超えて現代の少女と北条実時が結ばれた時、私の胸の中には二人が出会った場所「金沢文庫、称名寺」に行ってみたいとの思いが沸いていたのだから不思議である。恥かしくて妻には言えたものではない。妻には「読んでみたら」と一度は勧めてみたものの「是非に」とは言えない。無理に勧めることもあるまい。「すべては称名寺に行ってからのことにしよう」と心に決めたのである。

物語は剣道の道場に通う高校生の女の子が「金沢海の公園」で開かれる花火大会に向かう途中、称名寺のトンネルで地震に見舞われる場面から始まる。気を失い目が覚めると鎌倉時代の実時の時代にタイムスリップしているという展開である。海の公園といい称名寺といい、私の会社から5分10分の場所にあり妙に親近感が湧く。
北条実時(1224~1276)は第3代執権北条泰時の甥にあたる。実時は父実泰が若くして幕政から引退したため、わずか11才で小侍所別当の要職を継ぐ。幼少の頃から利発であったと言われ、伯父の泰時に目を掛けられ、のちに執権となる孫の経時の相談相手も務め、そののち何代にも亘る執権に仕え常に側近として活躍した人である。
金沢の地は父実泰が鎌倉に接した六浦の地頭となったところから始まる。金沢の地に居宅を設け、称名寺を建て金沢文庫を創建していくのである。
「よし、称名寺に行ってみよう!」
私は行く気満々である。
「私は行かない」
妻はお寺に興味はないようである。もちろん「帰来草」も読んでいない。
(注)浮世絵師安藤広重は安政5年(1858)9月6日、陽暦10月12日に61才で亡くなっている。
                                 (平成28年作)

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送り火

送り火や涙は人に見せぬもの



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美山寮を出て50年の間に我が家は9回の引っ越しをしている。興山寮、美山、西区2番棟、西区36番棟、北区、北区アパート、中村市街、中島家そして泉町である。狭い地域の中をあちこちと移っている。高校を卒業し東京に出た私が帰郷するたびにどこに帰ればいいのか戸惑ったというのも大袈裟な言い方ではない。
母の仕事も変わっている。興山寮の炊事係に始まり、配炭所の事務、世話所の衛生係、炭鉱事務所の労務係、新事務所勤務、昭和46年の閉山のあとも赤平炭鉱の給与係、試験を受けて歌志内市役所採用となり施設の寮母、戸籍係、市役所の支所、福祉事務所の福祉係へと移っている。
「仕事はいくつも変わったけど、一度として待遇が下がったことはない」
母の矜持である。見るからに責任感が強く、任された仕事は必ずやり通すというタイプである。何事も筋道を重んじ曲ったことは嫌いなタイプなので「人」としても信頼されることになる。誰彼となく世話を焼くので、人から好かれることは勿論である。また字が上手い。市役所に提出した履歴書一枚で寮母から戸籍係に抜擢されたほどの字を書く。自分の親を褒めても仕方がないのだが、本当に上手い字を書く。それにもう一つ、話が上手い。田澤家が大勢集まった時などの様子が今も目に浮かぶ。母を中心に輪が出来、そこで滔々と語り始める。周りはただただ聞き入るばかり。決して面白く話そうとしているのではないが、真実を淡々と語るので思わず引き込まれていくのである。物の考え方、人のあるべき道などについては妙に説得力がありブレがない。苦労してきた分、母にとっては普通と思われることが聞く側にとっては人の道を説かれているようで心に響くのである。
「お前みたいに人前に立って話すようなことは出来ない」と母は言うが、それは慣れただけのことである。「母さんのように人の心を打つような話は出来ない」と答えるしかない。

今回3日間に亘り話を聞かせてもらった。聞いている私には何度も涙をぬぐう場面があったが、母は一度として涙を見せることはなかった。「このように辛い場面を話しているのにどうして涙が出ないのだろう」と何度も思った。
「あまりにも多くの涙を流してきたから」
聞いたらそう答えるかもしれないが、聞くべきことでもないようにも思え止めておいた。
「お盆だからといって、このあたりじゃ迎え火を焚くようなウチはないんだ。内地(加茂)ではちゃんとやるもんだったァ。気休めみたいもんだけど、何もしないというのもなんなので、線香に火をつけて苧殻の替りにしてるんだァ」
加茂から歌志内に来て60年になろうとしている。母にとっての加茂がどんなに大切な場所だったかが今回よく分かった。3日ではいくらも話せなかっただろうが、まずは一通り聞けたことは良かったと思う。次回また詳細に語ってもらう時のために聞きたいことを今から纏めておくことにする。
                                 (平成28年作)

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生身魂

生身魂朝な朝なに日を拝み



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母はこの9月25日に米寿を迎えた。大きな病気もせず、長生きしてくれていることに感謝している。母の生活振りを見ていると年齢にも拘らず、とにかくよく動く、よく働く。
朝起きて寝るまでひと時も休んでいる姿を見たことがない。ざっと挙げてみると次のような生活振りである。
朝5時半起床。まずは畑に行き胡瓜やトマトを収穫する。もちろん豆も南瓜も何でも植えている。その時、お日様を拝む。ご飯を炊き味噌汁を作り朝食の用意をする。庭で花を摘み仏壇に供え、水やご飯などを供える。お盆だからだろうか、私がいた時は御霊供膳(おりくぜん)を供えていた。それからお経をあげる。読経はおよそ30分掛かる。朝食を摂り、NHKの連続ドラマを見る。テレビはNHKだけのようである。私が行った時はたまたま連続ドラマを見損ねたようで、見ていない私にドラマの感想などを語っていた。食事の後片付けをする。途中思い出したように近所の友達の所へ行き、なにやら話をしてくる。畑仕事に出る。草取り、種蒔き、収穫といろいろあるらしい。昼が近づくと昼食の支度。私がいた時はお盆なので、墓参りの用意や人を迎える準備などで忙しそうだったが、いつもは老人クラブやら社会福祉協議会、お寺の用事などがあるらしい。その他に病院通いや体操教室、書道教室などに出掛けているようである。夜は食事の準備。風呂を沸かし、部屋を片付け掃除をする。食後は新聞を読み、テレビを観るらしい。妙に時事問題、政治経済に明るい。途中誰かから電話が入るとまたその話が長い。とにかくジッとしていられないタイプなのである。

3日間とも朝のお経を後ろで聞いていたが下手な坊さん顔負けの流暢さである。曹洞宗なので読経の合い間に鐘を打つのだが、これがまた妙に調子がいい。経本にはカナが振られているが全て暗記しているようで、出だしの漢字をちょっと見ただけで流れるようにお経が口をついて出てくるという。凄い境地に達しているように見えた。
お経を唱えたあと、亡くなった人達に向かってお礼を言う。まずは日向家、そしてお世話になった中島家、父の実家である田澤家の人達にそれぞれ声に出してお礼を言う。
「有難うございます。今日こうして幸せに暮らしていられますのも〇〇さん〇〇さんのお蔭でございます。本当に有難うございます。今日もこれから三度の食事を食べさせていただきます。これからも健康で無事に暮らしていけますようにお守りください。お願いいたします」
中島家の人達は私達が歌志内に移り住んだ時から本当にお世話になった人達である。まずはそこから書いていこう。
                                 (平成28年作)

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盂蘭盆

盂蘭盆や幼なに聞きし母の唄



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「そもそも、父さんとはどうやって出会ったの?」
「ああ、そこからか……それを話すんだったら、その前に母さんの親のことを話しておいた方がいい。母さんの母親は昭和20年11月2日に亡くなったんだけど、ひどい喘息持ちでねぇ……」
その当時住んでいた家は今も現存する。加茂水族館がクラゲで有名になり大勢の観光客で賑わっているが、水族館の住所は鶴岡市大字今泉字大久保657-1である。私が生まれた家が653-1であれば、いかに目と鼻の先であるかが分かる。小さな二階家で、そこで母親と13才年上の兄と3人で住んでいたのである。
「夕方になると喘息が酷くなって凄い咳き込みが始まるんだァ。一緒にいた友達もそれが始まると怖くなって帰っていくんだけど、自分でもホントに淋しい気持ちになったもんださァ。時に調子の良いこともあり、そういう時は母親も気分が良いようで鼻歌みたいなものを口ずさんでいたァ。母親が歌う時はホントに朗らかな気持ちになったもんだァ。家に一人でも病人がいると暗い家になるというけど、ホントだァ」
母親が口ずさんでいたという歌の話になった。
「米を粗末にする人がいるけど、そういう人を見るのはイヤなもんだ。気が知れない。米のとぎ水を流す時、流しに一粒でも流さないようにしてきたけど、それは母親が歌った唄で覚えたような気がする」
その歌を口ずさんでくれた。母が歌うのを聞くのは何年振りだろう。初めてということはないだろうが記憶がない。

『お米ナ 一粒もヨ 粗末にするなヨ 八十ナ 八度のヨ チョイト 手がかかる』

歌い終わって母は「この歌を聞くと不思議な気持ちになるもんだァ。母親に抱かれたような、親恋しの気持ちになるもんだァ。80を超えて、初めてこういう気持ちを知ったァ……」
母は「お米の唄」と言っていたが、果たしてそのような歌があるのかどうかスマホで検索してみた。「お米一粒も粗末にするな」と入れてみた。すると、すぐに「籾摺り唄」がヒットした。山形県民謡とある。掛けてみた。
「ああ、これだァ……初めて聞いたァ……」
私が横浜に帰るまで何回掛けたことだろう。その度に母は母親のことを思い浮かべていたに違いない。
(注)写真右は母と祖母、左は母の兄である。母が小学生の頃のものだろう。
                                 (平成28年作)

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