宗教 - ひこばえ
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ひこばえ


宗教 カテゴリーの記事

家康忌

天麩羅の油跳ねたる家康忌



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調べると、<天守は1657年の明暦の大火で焼失した>と書かれていた。たしか、門井慶喜著「家康、江戸を建てる」に天守建設のくだりがあった。二代将軍秀忠が造った天守のことである。家康が建てた慶長度天守、それを壊して秀忠が建てた元和度天守、さらにそれを壊して三代将軍家光が建てた寛永度天守。江戸時代260年のうちの最初の50年間は江戸に天守が聳えていたのである。
次に出たのが<1863年の大火で江戸城の本丸御殿が焼失した>である。<表も中奥も大奥もその時に焼失した>と書かれていた。
私「おかしいなぁ?」
妻「何がおかしいの?」
私「江戸城の無血開城が1868年なので、その5年前に焼失したことになっている」
妻「そうなの?」
私「黒書院の六兵衛が居座ったのが無血開城の時だから、黒書院が無いというのはおかしいんだけど……」
妻「本当にそこにあったの?」
私「さっき天守閣跡に建っていた看板にも書かれていた。『松の廊下』のすぐ近くだった……」

家に帰ってアマゾンで取り寄せたばかりの「江戸の町(上、下)──巨大都市の誕生(日本人はどのように建造物をつくってきたか)」を開いてみた(写真)。届いたばかりなので、出掛けた時には読んでいなかった。<なるほど、なるほど>面白い。小学6年生以上が対象と書かれているだけあって、とても読みやすい。内藤昌著、穂積和夫イラストレーション。全ページに絵が描かれていて、読んでいてとても楽しい。江戸の原風景から始まり、太田道灌の築城、家康の入城と続き、無血開城までで終わっている。黒書院の疑問はすぐに解けた。六兵衛が居座った黒書院は<江戸城、西の丸の表御殿>の中にあったのである。

来年5月1日に年号が変わる。天皇陛下のお住まいも変わることだろう。江戸城天守の再建話もあるようだが果たしてどのようなものなのか。あの広大な皇居の在り方は日本そのものの在り方でもあるだけに正しく判断してもらいたいものである。徳川家康公の名に懸けても(笑)。
(注)家康の死因を鯛の天婦羅による中毒死とする説もあり、江戸城では長く天婦羅を食べなかったとあった。
                                 (平成30年作)




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形代

形代の影もろともに崩れけり



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次に向かったのが「新田荘記念資料館」である。総持寺のすぐ傍にある。駐車場に車を停めて入口に向かうが開館時間には30分以上あった。係の人が竹箒で落葉を掃いていたので「早く入れてくれませんかねぇ」とダメ元で聞いてみると「隣の東照宮は見ましたか?」と言われた。<今回は家康ではないんだよなぁ>などと思いながらも時間があるのでそちらを先に見て来ることにした。境内を横切るようにして正面まで進むと立派な拝殿の前に出た。上野東照宮も凄かったが、こちらも凄い。世良田東照宮という。看板に「徳川氏発祥の地」と書かれている。由来書きには「寛永二十年(1644)、三代将軍徳川家光公は世良田が徳川氏の先祖の地ということから、日光東照宮古宮(元和年間造営の奥宮)を移築し、家康公をお祀りした」と書かれていた。絢爛豪華である。入り口にある黒門を見ようとして外に出ると、その横に長楽寺の看板があった。ここは新田一族の菩提寺である。これは見て来るしかない。さては新田次郎が小説の各章に置いた取材メモに書いていた新田と足利の今を象徴するお寺とはここだったのかと気付いた。こんな風に書かれていたのである。
「新田氏一族の菩提寺の長楽寺は広い敷地を持った大きな寺だったが、訪れる人は少なく、境内は荒れ果てた感じだった。足利氏の菩提寺、足利市の鑁阿寺の賑わいぶりを見てきた私の目には、この二つの古寺が、足利氏と新田氏の最後を象徴しているかのように映った」(「新田義貞」上巻236頁)
覗いてみると書かれていた通りである。シーンとして誰もいない。お寺の風格はさすがに重厚なものがあるが、人がいないのは新田次郎が訪ねた時と同じようである。義貞亡き後の新田一族のことを思った。
一回りして再び東照宮に戻った。受付に男性がいたが、中に入るのは止めておいた。それよりも脇にあった人形代祈願所が気になった。小さな鳥居の先に手水鉢があり、水が流れている。そこに人形(ひとがた)を浮かべるらしい。人形は季語である。形代(かたしろ)とも言う。俄然やる気になった。受付の男性の所へ戻り、祈願料300円を支払い人形の紙を受け取った。「どうやって書くんですか?」と聞くと、鳥居の前に説明書きがあるという。ぶっきらぼうだが、ペンだけは貸してくれた。氏名を書き、願いごとを書き、身体を3回拭い、鳥居の回りをぐるぐる回って手水鉢の前に立った。人形を浮かべてお参りし写真を一枚撮った。「もっと真ん中の方に置いた方がいいんじゃない?」と妻が言う。真ん中に置いたつもりだったが、流されたのである。<そうだな>と思い、指先で移動させようとした。すると紙が崩れた。指で触っただけなのに破れてしまい、一部が底へ沈んでいってしまった。溶けやすい。ペンで字を書き入れる時はしっかりしていたが、水に入れた途端に溶けてしまったのである。<美しいなぁ>と思った。この儚さが心に染みた。
その後に訪ねた「新田荘記念資料館」の中でもこの人形の儚さばかり考えていた。
                                 (平成30年作)




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虚子忌

虚子の忌の山門人を寄せ付けず



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「花祭り」だというのに訪ねたお寺で一度も花御堂を見ていない。もちろん甘茶も飲んでいない。宗派によるものだろうか、それとも他の理由からか。スマホで調べてみると寿福寺には花御堂があることが分かった。買い物の後で寄ってみることにした。寿福寺には高浜虚子の墓があり、その命日でもあり、年忌法要と虚子忌句会が行なわれると書かれていた。どんなものか一度覗いてみたかったので丁度よいと思った。しかし訪ねてみると山門に<関係者以外立ち入り禁止>の貼り紙がされていた。法要に呼ばれた人か、句会に参加する人か、正装した人だけが中に入っていく。年配の人がほとんどだが、中には若い人もいる。遊び着のままでは紛れ込む余地もない。仕方なく、虚子の墓と北条政子の墓にお参りして帰ってきた。
帰りの車の中で少し悔やんでいた。長谷寺などに行けば花御堂も甘茶もあることは分かっていたが、わざわざ混雑している場所に戻るのも敬遠された。車が杉本寺に差し掛かった時、なぜかここにはあるような気がした。昔、訪ねた時に見たような気がしたのである。拝観料を払ったあと急な石段を上る。山門に仁王像がある(写真)。運慶作だという。囲いのない状態にさらされていて本当に運慶なのだろうかとその扱いに疑問が湧く。
本堂に着くと花御堂が見えた。
「そうそう、これこれ」
すぐに靴を脱いで上がり、カズ君と一緒に正座して甘茶を掛けた。初めての体験である。掛け始めると面白くなったようで何度もやっている。本堂の右手のテーブルに甘茶が置いてあり、飲んでいる人がいる。一回りお参りをして、最後の楽しみということになる。左の仏像から順番にお参りしていったが、その数の多いこと。カズ君もしっかりお参りをした。ようやく甘茶に辿り着いた。ポットに入っていて自分で紙コップに注ぐらしい。<さて、いただこうか>と思って給湯口を押してみると何とも淋しい空の音がした。<さっきまで飲んでいた人がいたというのに>と思いながらも、御守りを売っている男性にポットを持って行って「もう空になっていますよ」と催促すると、何を思ったのか、甘茶を補充してくるのではなく、ちゃぶ台に貼ってあった<甘茶をどうぞ>の紙を剥がし、紙コップを片付けてしまったではないか。いやはや予期せぬ事態である。ようやく在りついたと思った甘茶が飲めない。カズ君に悪いことをしたと思ったその時、お客さんの一人が賽銭を投げて鰐口を鳴らしたではないか。
「オラ、あれやりてぇー!」
甘茶から鰐口に興味が移ったようである。
「よしよし、やり方を教えてやる。おーちゃんのやり方をよく見てろよ」
大人でもなかなか難しい鰐口であるが、何度かやって見事に打ち据えていた。駐車場の自販機で甘茶ならぬ緑茶を買って、鎌倉の旅を終えることにした。
                                 (平成30年作)




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仏生会

錫杖の音はるかより仏生会



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次に向かったのが宝戒寺である。東勝寺橋から200メートルほどの場所に参道の入り口がある。9月下旬にはこの参道一面に白萩が咲き「萩の寺」としても有名だという。天台宗の寺なので本来は釈迦を祀るところだが木造地蔵菩薩座像を本尊としている。地蔵は死者を三途の川に導く死者救済の仏である。不遇な死を遂げた者を供養し、怨霊の退散を願うという。北条高時はじめ一門を紅蓮の炎の中に滅ぼし宿願を果した後醍醐天皇だが、北条一門の怨霊は鎮めなければならない。建武元年(1334年)足利尊氏に命じ、北条邸のあったこの場所に寺を建立したのである。
拝観料を納め本堂に進むと作務衣姿の寺男が「中に入ってお参りしてください」と声を掛けてくれた。普段なら賽銭箱の手前で拝んで終わるところだが、中へ入れと言われたのだから嬉しい限りである。さっそく靴を脱いで上がらせてもらった。右手にお守りが売られていた。いろいろなお守りがあったが、無患子(むくろじ)の実で出来た「無病御守」がこの寺ならではのもののようである。文字通り「患うことが無い」ということで寺の境内にある無患子の木に成った実を使っていると書かれていた。
御本尊の地蔵菩薩は立派な須弥壇に据えられていた。誰もいないので勝手に内陣の手前まで進み線香を付けてお参りさせてもらった。右手に錫杖を持っている。どこにでも杖を突いて出掛けて行くという意味である。左手には如意宝珠。どのような願いでも叶えてくれる持物である。右に梵天、左に帝釈天を従え、光り輝くように見えたものである。
外に出ると本堂の他にもいろいろな堂が建てられていた。秘仏である聖天様を祀った「大聖歓喜天堂」、聖徳太子を祀った「太子堂」、北条高時を祀った「徳崇大権現堂」などである。
本堂の横に水琴窟があった(写真)。柄杓で水を掛けると中から美しい音色が聞こえて来る。やってみせるとカズ君がその面白さに気付いた。初めは意味が分からなかったようだが一旦意味が分かると止められない面白さである。何度も水を掛けては小さな穴から聞こえる音に耳を澄ませていた。我々が他を見ている間じゅう水を掛けていたので、どうして水が無くならないのかと不思議になり、もう一度戻って構造を確かめたあたりは私も物好きである(笑)。
                                 (平成30年作)




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春祭

鳶の輪の中なる蜑の春まつり



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「帯解地蔵尊」から50メートルほど上った場所に「淡島神社」があった。3時半の雛流しまで時間があったのでお参りしたあと石段を下りて海辺の方へと歩いてみた。屋台が出ていてとても賑やかだった(写真)。雛を流す砂浜には注連が張られていた。堤防にはカメラマンが並んでいた。
<ハハァ、あの堤防の上から流し雛を撮る気なんだな>
すぐにそちらへ移動することにした。堤防の横には漁に使う網が山積みされていた。その上に登って子供たちが遊んでいる。堤防にはカメラマンもいればそうでない人もいる。空いている場所に入り込んで座ることにした。しかし海の真上に足を放り出すなどという行為は高所恐怖症の私にはとても出来そうにない。後ろから背中を押されて海にジャポン、これを想像するととても出来た行為ではない。放り出す足は一本だけにして堤防を跨ぐようにして割り込んだ。
「写真を撮るにはいい場所ですね」
隣のカメラマンに話し掛けた。一眼レフのいい奴を持っている。
「近くに行っても人が一杯で撮れないから」
「雛人形はあそこから流されるんですか?」
「そう、神社から降りて来て、あそこでお祓いやって、それから舟が引っ張っていくんだけど、去年は途中で雛流しの舟がひっくり返ってしまって大変だったんだよ」
「へぇー、そんなことがあったんですか」
「浮いている人形を拾い集めるんだから大変だったよ」
「今日は風がないですからその心配はないですね」
「今年も進次郎が来るんじゃないかなぁ」
「えっ、小泉進次郎ですか?」
「去年は舟にも乗ったから、今年も乗るんじゃないかなぁ」
「それは見ものですね」
「人気あるから、凄い人の数が集まるよ」
「ここからじゃ、良く見えないですね」
「今頃、神社にいるんじゃないかな」
「えっ、そうなんですか?」
「たぶん、そうだと思うよ。神社でお祓いとかしてから出てくるからもう来てるはずだよ」
「有難うございます。じゃ、そっちに行ってきます。見てきます」
                                 (平成30年作)




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