地理 - ひこばえ
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ひこばえ


地理 カテゴリーの記事

滴り

隧道の古き煉瓦を滴れり



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次に向かったのが碓氷峠にある「めがね橋」である。富岡製糸場の近くで昼食を済ませたばかりなので、バスの中で一眠りしたところを起こされての見学になった。駐車場を出ていきなりの急階段は2日後に強烈な筋肉痛となって私を悩ますことになる。
明治から昭和に掛けて国鉄信越本線の横川駅から軽井沢駅までを走っていたアプト式鉄道の跡で、平成13年に遊歩道として整備されている。階段を上がって着いた熊ノ平駅から5つのトンネルの中を歩いて「めがね橋」へと歩いて行くのである。ずっと緩やかな下り坂なので歩きやすい。気の合った仲間と楽しく話しながら歩く人もいれば、一人で黙々と進んでいく人もいる。私はあちこちで写真を撮ったりするので、一人になったり話をしたりして歩いて行った。
熊ノ平駅があった場所に赤い鳥居の稲荷大明神があり、隣に殉難碑と霊堂があった。昭和25年に山崩れがあり、50人が亡くなったと書かれていた。その横には子供を抱いた女性の像が建てられてあり、亡くなった中にそのような人がいたことが分かる。ぞろぞろと歩きながらなので、じっくりと読んでいる時間はない。流し読みしてまた歩き出した。トンネルを歩きながらの会話である。
「こんな山奥の駅に50人もの人が住んでいたんですね」
「いや、亡くなった人が50人なので、もっと住んでいたんじゃないですか、100人とか200人とか」
「何をしていたんだろう?」
「トンネル工事じゃないですか?」
「でも昭和25年ですよ。ここの線路は明治には出来ていた訳ですから……」
「そうだねぇ。木でも伐っていたんだろうか」
「木の伐採かぁ」
「あの銅像からして家族も連れて来ていたんだから相当の木を伐ったはずですよ」
想像で話をするのだから結構いい加減なものである。あとで調べてみると、日本一の勾配という峠越えの難所であったところから小駅でありながら多くの国鉄職員を常駐させていたそうである。6月8日夜半、降り続いていた雨のために駅構内にあるトンネル付近で土砂崩れが発生した。人的被害はなかったが線路が埋まってしまい、夜を徹して復旧作業が行われることになった。翌9日の早朝、昨夜の土砂崩れの地点のさらに上方部が崩落し作業中の職員を直撃した。さらに土砂は職員官舎を飲み込み押し潰した。作業員38名、職員の家族12名が犠牲となったというのである。木の伐採などという話はどこにもない。
                                 (平成30年作)




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山笑ふ

ぶら下がるものの多くて山笑ふ



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「この背中の痛みはなんだろう?」と思っていたところに、たまたまお得意様から送られてきた社内報の記事が目に留まった。名前と顔写真があり、社員一人一人の近況が書かれている。その中の一人の男性がこんなことを書いていた。
「昭和の遺産である『ぶらさがり健康器』がマイブームです。最近のものは進化していて、なんと最初から物干し竿が掛けられる仕様になっています。そんなこんなで、今日も洗濯物に負けず、懸垂に励んでいます」
<この痛み、ぶらさがり健康器で治るかもしれない>
なぜそう思ったのかは私のただの思い付きである。押すばかりでなく、引っ張ってみるのがいいような気がした。背中の痛みを抱えていると何でもそれに関連付けて考えてしまうようである。インターネットで調べてみると、なるほど、いろいろな健康器があった。記事の通り、物干しの機能が付いた物もあった(写真)。さっそく、家族にメールを入れてみた。もちろん写真も添付している。
私「大発見!物干し機能付きぶら下がり健康器。これはいい。感動した。体力づくりにはこれしかない!」
次女「スーツ掛けにはいいんじゃない(笑)」
私「昔に比べれば物凄く進化していると思う」
次女「進化してるの?これが。何の進化かは知らないけど、絶対に買わないでよ(笑)」
長女「(大爆笑)便利!でも絶対に欲しくない!」
世代間ギャップというのだろうか。あのブームを知らない世代である。1台あれば本当に便利だと思った。分かってくれるかも知れないただ一人の人の意見はどうだろうか。あれから数日経っているが肝心の妻からのメールは未だ届いていない(笑)。

日曜日、近くの公園に出掛けてみた。鉄棒にぶら下がってみようと思ったのである。昔に比べれば体重が増えている。若い頃からは20キロ近く増えているので、懸垂が出来るかどうか試してみたかったのである。自分のイメージでは2、3回は出来ると思っていた。それを5回、10回と増やしていけば筋力トレーニングになると思った。跳び付かなければ届かない一番高い鉄棒は避けて、手を伸ばせば届く二番目の高さの鉄棒に掴まってぶら下がってみた。棒を握って足を浮かせてみた。
「お、お、お、おー!」
物凄い引力である。腕が抜けそうに思った。いきなり呼吸困難に陥りそうに感じた。ぶら下がっているのが精一杯で、すぐに足を地に着けた。
<まずい……>
相当に体力が落ちている。2、3回どころか1回も出来ない。ぶら下がってもいられない。
<……>
基礎体力を付けよう。ぶら下がり健康器どころではない。もし買ったとしたら、その日から物干し専用になっていたに違いない。「ぶら下がり健康器がマイブーム」と書いていた男性の顔が目に浮かんだ。
                                 (平成30年作)




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彼岸潮

義貞が太刀の行方や彼岸潮



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その週の土日は予定が入っていたので、21日(水)「春分の日」彼岸の中日に鎌倉を訪ねることにした。当日の天気予報は雨である。新田義貞が鎌倉攻めを行なった日に雨が降っていたという記述はなかったが、「腹切りやぐら」を見学するのには雨もよいかと思ったのである。見たい場所は何ヶ所もあった。最初に行くところは義貞が鎌倉に攻め入った場所にしたいと思っていた。「腹切りやぐら」は攻め入った後のことなので見学するのも後にすることにした。朝7時に家を出て最初の目的地を「稲村ケ崎」とした。車のメーターでは外気温は4℃となっていた。

新田義貞が上野国(今の群馬県太田市)の生品神社で鎌倉幕府打倒の兵を挙げたのが元弘3年(1333年)5月8日(新暦の6月20日)である。その10日後の18日に鎌倉に到達し、すぐさま軍勢を三つに分け、巨福呂坂、極楽寺坂、化粧坂の切通しから攻め立てたのである。しかし幕府側の守りも固く三か所とも難攻したようである。極楽寺坂攻めを担当していた大館宗氏が戦死したため、中央の化粧坂を攻めていた義貞が援軍を引き連れて本陣を移動した。21日の夜である。有名な「龍神の奇跡」が起こる。
「義貞は馬より降りて冑を脱ぎ、海上を遥々と伏し拝んで龍神に向かって祈誓した。『潮を万里の外に退き、道を三軍の陣に開きたまえ』そして帯刀していた黄金の太刀を抜いて海中へ投じたのである。その夜明けに潮は二十余里干上がり、敵方の舟は遠く沖へと離れていた。不思議なことはあるものだ。義貞は軍勢を引き連れて鎌倉へ攻め入ったのであった」(太平記「稲村崎干潟となる事」より)

7時50分に到着し車を駐車場に入れた。横断歩道を渡って誰もいない稲村ケ崎公園を訪ねた。いろいろな碑が建っていた。傘を差しながらその一つ一つを読んでいった。稲村ケ崎の突端の写真を撮りたかったので、階段を下りて岩場へと向かった。鎌倉攻めの軍勢が渡った場所である。海は荒れていた。波が砕けて飛沫を上げている。いいアングルで撮ろうとするとどうしても波打ち際まで近寄らざるを得ない。飛沫を浴びないギリギリまで近づいてこの一枚を得た。撮り終えてホッとした所で大きな波が来て飛沫が上がった。掛かってはいけないと後ずさりした時に左足を潮溜まりに入れてしまった。ちょうど足の大きさほどの穴が開いていたのである。
「冷めテー!」
スニカーも靴下もズボンの下の方もビショビショである。どうしようかと思ったがどうしようもない。そのまま歩いて公園まで戻り上の見晴らし台まで登って戻ってきた。車の中で靴下を脱いだが、片足だけが裸足というのも不思議な感覚である。朝4℃だった外気温が1℃まで下がっていた。
                                 (平成30年作)




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枯岬

かはらけの跳ねて砕けし枯岬



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年末に出掛けた旅を長々と書いてしまったが、ようやくこれが最後の記事となる。
道の駅で鮒寿司を買って上機嫌で向かったのが長浜港である。そこから「竹生島(ちくぶじま)」に渡ろうというのである。<城ばかり見てきたので最後は島を巡るのもいいだろう>との思いつきである。「神の棲む島」と言われ古来より信仰の対象とされてきたと書かれている。島の弁天様は日本三大弁天の一つである。行くしかないと思った。
船に揺られること30分。小さな港に着いた。係員の係留を待ってゾロゾロと乗客が降り、それぞれがバラバラに先へと進んでいく。何の案内もない。後に付いていくと宝厳寺拝観の受付があり、自販機で切符を買う。かわらけ投げの受付もあったが、何のことか分からずパスをしてしまう。下調べなしというのは後悔の元である。<投げてみたかったなぁ>と旅の最後に小さな悔いを残してしまうことになってしまった。
石段を登り、本堂の前に。弁天様を拝み、小さな姫ダルマに願いを込めてお参りした。その周辺には不動明王、三重塔、宝物殿などがあり、中に入っても何かと気忙しい。時間に限りがあるのでゆったりと見学という訳にはいかないのだ。そそくさと見て回り、次なる観音堂へと向かう。国宝の唐門は見所だが、生憎の修復工事中で覆いがされて見ることが出来ない。中の通路もベニヤ板で養生され、工事作業中。千手観音があったはずだが、見たのだか見なかったのだか。なにやら悪い時に当たったようである。それでも重要文化財の船廊下だけはさすがに趣があり、豊臣秀吉の御座船の船櫓を利用したと聞けばなるほどとも思えてくる。都久夫須麻神社本殿は国宝である。見事な装飾にしばし見取れる。その先に龍神拝所があり、かわらけ投げの場所である(写真)。何人かが願い事を書き入れ、遠くの鳥居目掛けて放っていたが、いずれも届かずじまい。そう易々と願いを聞き届けてくれるものではないらしい。時計を見ながら少し慌て気味に港に戻る。「琵琶湖周航の唄」の碑など見たのち船に乗り込む。滞在80分。ガイドのなしの慌ただしいばかりの竹生島見学になってしまったが、これも旅の思い出である。暮れ押し詰まっての2泊3日の旅。走行900キロ、最後は渋滞に巻き込まれての帰路となった。
                                 (平成30年作)




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雪野原

もののふの声とも風の雪野原



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関ヶ原古戦場は一面の雪野原だった。道路もタイヤ2本分を残して雪に覆われている状態である。ゆっくりと走りながら「笹尾山交流館」という建物の場所まで到達した。笹尾山とは石田三成が本陣を構えた場所である。交流館は生憎の休館日だった。<甲冑体験>の看板が出ていたので<雑兵にでもなってみたかったのに……>と思ったものである。
途中に「決戦地」の幟が立っていたのでその場所まで歩いてみることにした。近づくに従って幟が風にはためく音がパタパタと聞こえてきた。凄い風である。石田三成の「大一大万大吉」と徳川家康の「三つ葉葵」の幟も風に吹き千切られそうである(写真)。大きな石碑と説明書きの看板が建てられていた。そこに書かれていた文章である。
「(略)小早川秀秋が寝返りを決意し、迎撃した大谷隊は善戦むなしく壊滅、西軍は総崩れとなる。その時ここ決戦地一帯は、最後に残った石田隊や島津隊に押し寄せる東軍諸隊で埋めつくされていたと考えられる。東軍の最後の一押しに石田隊もついに壊滅、島津隊は家康の本陣を横切り敵中突破して戦線を離脱して戦いは終わる。天下分け目と言われる国内最大級の戦いは、わずか半日程度でその幕を閉じた」

その場所から笹尾山の方向に幟が立ち馬防柵が並んでいるのが見えた。島左近の陣地である。堺屋太一著「巨いなる企て」、私が時代小説を読む切っ掛けとなった本である。その中で大好きになった島左近である。20㎝ほど積もった雪の中に人の足跡がいくつか続いていた。その足跡を辿りながら陣地まで上っていった。三成に三顧の礼をもって迎えられ「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」と言われたほどの逸材である。<ここで戦い、ここで果てたのだなぁ>と思いながら、しばらく眺めていた。
三成の本陣跡はそのすぐ上である。風は強かったが天気は最高である。<雪晴れ>とでも言うのだろうか、関ケ原を一望するのには打ってつけの天気である。見晴らし台が作られていた。「関ケ原古戦場 史跡位置図」という写真入りの看板があり、東軍西軍の配置が分かるようになっていた。家康の桃配山が見える。小早川秀秋が陣取った松尾山も見える。島津が最後に敵中突破して向かった伊勢街道の位置も分かる。
見晴らし台に他のお客を案内してガイドの人がいた。その説明を聞くでもなく聞いていた。
客「三成の大一大万大吉の意味は何ですか?」
ガイド「一人が万人の為に、万人が一人の為に力を尽くせば世の中は吉となり、太平の世が生まれるという意味です。後世ではとかく悪役に見られがちな三成ですが、佐和山の領民には慕われていたそうです。主君である秀吉が亡くなった後も忠節を尽くし、民の為に心砕いた人だったことが、これからも伝わってきます」
風の音のなかに<もののふ>と呼ばれた武士たちの声が聞こえて来るようだった。勝鬨もあり、啜り泣く声もあった。
                                 (平成30年作)




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