天文 - ひこばえ
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ひこばえ


天文 カテゴリーの記事

春陰

春陰や穴より覗く御神鏡



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延命寺の目と鼻の先に「石井の井戸」があった。平将門が王城の地を求めてこの地を見回っていた時に途中で咽喉が渇き水が欲しくなったそうである。そこに老翁が現れて大石を持ち上げ大地に投げつけたところ、そこから水が湧き出したという言い伝えである。井戸は見当たらなかったが、いくつもの碑が建てられていて桜の木や百日紅などが植えられ大切にされているのが分かった。そのすぐ傍に「一言神社」があった。その老翁を祀っているという。常総市の「一言主神社」とは比べ物にならないほどの小ささである。
鳥居をくぐり、社殿に進んでいった。途中から妙な違和感を覚えた。何だろうと思ったが、すぐに気付いた。参道に据えられた灯篭や狛犬が左右バラバラな位置に置かれているのである(写真)。何だろう、何か意味があるのだろうか。意味もなく置かれたとしたら、相当にバランス感覚のおかしな人達の手によって造られたことになる。そんな訳があるはずがない。きっと訳があるはずだ。灯篭の文字を読んだり、狛犬を調べたりしたが分からない。もう一度、鳥居の方に戻って振り返ってみた時に意味が分かった。
「なるほど!」
鳥居から本殿まで約50メートルある。参道は真っ直ぐに進み、途中あと15メートル位を残した辺りから少し右寄りに折れるのである。なぜ折れるかと言えば、本殿の中央を目指すからである。しかし、この参道、昔は鳥居から本殿まで一直線だったようである。灯篭も狛犬もその昔の直線に添って配置されていたのである。本殿の中央に進まない参道はおかしいとの声が起きたはずである。そこで参道の向きは変えられた。そのとき、灯篭も狛犬も移動すれば良かったのである。私だったら、おそらく位置を変えただろう。しかし変えなかった。きっと、次のようなやり取りがあったはずである。現地の言葉でお届けしよう。
「参道はやっぱり、本殿の中央さ向かうのがいがっぺ」
「まっつぐしてる参道を途中から折り曲げんのぉ?」
「んだ。参拝者には本殿に向がってまっつぐ進んでもらった方がいがっぺよ」
「灯篭と狛犬は動がさねぇのが?」
「んなごどしたら、将門さまの祟りがおごっど!!おお、おっかね!」
                                 (平成29年作)
(注)最後5行の茨城弁による会話文は取引先であります岡村製作所様つくば事業所の「梅ちゃん」こと生出様にご教示いただきました。仕事中にも拘らず快くお引き受けいただき心より感謝しております。本当に有難うございました。

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春の虹

騎馬像の春の虹へと駆け出さん



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「それ!」
突如として小次郎は絶叫し、抜きはなった刀を高々とふりかざし馬腹を蹴った。馬はおどろいて前足をあげて、二三度空をかいてもがいたが、その前足をおろすや、疾風のように駆け出した。(海音寺潮五郎「平将門(中)」より)

車で5分ほどの場所に立派なブロンズの騎馬像が立っていた。「ベルフォーレ」という名前の総合文化ホールである。音楽ホールやアトリウム、図書館などの複合施設となっており、その前庭に有無を言わせぬ存在感を放っていた。
初めからここだと分かっていれば、あんなに歩かなくても良かったのにと思いながらも、一目見るや、やはり来てよかったと思った。美しく作るものである。前からも後ろからも、どの方向から見ても美しいと思った。写真は何枚も撮った。その中から近代的な建物を背景に収めたこの一枚が最も美しく思えた(写真)。
以前、流鏑馬神事を見学した時、目の前を勢いよく駆け抜けていく馬の迫力に圧倒されたことがあったが、戦いの場で馬に乗る者と乗らない者の差は途轍もなく大きいに違いない。馬上の将門像を仰ぎ見ながら、振り下ろされる刀剣の鋭さや引き絞る弓の力強さを想像すると同時に、それに立ち向かう雑兵の心持ちも分かるような気がしたのは気のせいだっただろうか。

騎馬像を見たあと、すぐに「國王神社」へと向かった。将門終焉の地である。神社はそこにひっそりと佇んでいた。
将門戦死の際、その難を逃れ奥州にて隠棲していた将門の三女「如蔵尼」が父の33回忌にあたる天禄3年(972年)にこの地に戻り創建した神社である。付近の山林にて霊木を得て、将門の像を刻み、祠を建て安置したのが神社の始まりとされる。一言主神社などとは比べようもないほどの小さな神社であるが、古びた社殿と境内の静かな佇まいに尼の想いが見えるような気がしたものである。
                                 (平成29年作)

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花の雨

川べりを旅してひとり花の雨



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目的地「國王神社」まであと1キロとなったところでお茶を買いにコンビニに立ち寄った。入口に「桜まつり会場、すぐそこ」のポスターが貼られていた。場所はそのコンビニから数百メートルの場所にある岩井公民館だという。そこには確か平将門の騎馬像があったはずである。満開の桜の下に立つ騎馬像。これは絶対に見逃すわけにはいかない。行ってみることにした。
車で会場に近づくと係員が立っていて「駐車場は満杯です」と言われ、遠くの臨時駐車場を教えられた。随分と離れた場所である。途中で止めようかと思った。なにせ剥離骨折である。相当の距離を歩けば骨に悪いに違いない。しかし、痛くて歩けないという訳でもない。駄目なら途中で引き返そうと思い、傘を差しながらゆっくりと歩き始めた。距離にして片道1キロである。随分と歩いたものである。メイン会場にはたくさんの屋台が出ていて大勢の観客で賑わっていた。舞台ではフラダンス大会が行われていた。夏でもないのにどうしたのだろうと思ったが、折角練習したものはいつでも人に見てもらいたいものである。雨の中では可哀そうなものだが、会場は意外と盛り上がりを見せていた。私は騎馬像を探してウロウロしたが、結局は見付からなかった。人に聞いて初めて隣の図書館にあることを知った。
「フー」と溜め息を付く。
間違った情報ほど恐ろしいものはない。私のメモに「騎馬像、岩井中央公民館」と書かれていたので「中央」があるか無いかの違いである。どこかに書かれていたものを写したはずなので信じて確認をしなかったことが悔やまれる。しばらく椅子に腰掛けフラダンスを眺めていたが、それからまたゆっくりと1キロの道を戻ってきた。途中で雨が上がり、傘を差さずに歩いて来られたのだけは不幸中の幸いであった。
写真は通りがかりの公園にあった恐竜のモニュメントである。こんな大きな物を作ってどうするのだろうと思ったが、子供達には喜ばれているに違いない。雨の桜もまた美しいものであり、坂東市民の娯楽を少し垣間見られたのも良い経験だったかも知れないが、恐竜に見下ろされた頃より急に足の痛みを感じ始めていた。
                                 (平成29年作)

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春の雨

将門の御霊鎮めよ春の雨



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立派な神社である。大きな鳥居をくぐり、広い駐車場に車を停めた。さすがに平将門である。坂東の誇りである。この荘厳さは紛れもなく将門崇拝の現れである。小糠雨が降る中、感動を以って境内を進んでいった。まずは神社の由緒書きを読んでみた。大同4年(809年)社殿西方に筍が生え、数夜にして三又の竹に成長したとあり、すなわち神社が「三竹山」と称される所以であると書かれている。フムフム、なるほど。しかし、読み進むうちに疑問が湧いてきた。将門の守護神で水を司る一主明神を祀っているとパンフレットには書かれていて、将門が水を求めて彷徨っているときに現われた老翁の話が出てきたが、ここの看板にはその話は出ていない。本殿は将門の子孫が長禄3年(1459年)に再建したと書かれているだけである。
お守りを売っている巫女さんに聞いてみた。
「平将門に関するものはどこにあるのでしょうか?」
「あっ、それはここではないんですよ。よく間違われます(笑)」
「えっ!」
常総市の一言主神社と坂東市の一言神社。よく似た名前だが全く別の神社だったのである。「紛らわしい」と文句を言いたくもなったが、間違ったのは自分である。帰りの雨が妙に冷たく感じられたものである。

気を取り直して車を走らせ、しばらく行くと看板が現れた。「平将門の胴塚」と書かれている。「延命院」とある。
「えっ、延命院?延命寺じゃないの?」
カーナビに入れた目的地「國王神社」の隣にあるのが「延命寺」で、もちろんこれから見学しようとしていた場所である。その寺とまたよく似た名前の「延命院」である。
「おいおい、どうなっているの?また一字違い?」
そう言いたくなる気持ちも分かってもらえると思う。こうも同じような名前を付けたがるものだろうかと思いながらも胴塚となれば見逃すわけにはいかない。入って行くことにした。
結果は素晴らしいものとなった。絶対に見逃してはいけない場所だったのである。境内に不動堂がありその裏に円墳があった。将門の胴塚である(写真)。将門山または神田山と呼ばれているようだが、大きな栢(かや)の木がその塚を抱くように根を張っていた。敵の矢を受けて討たれた将門の首は京に送られ晒し首となったが、遺体の方はひそかに部下の手でこの場所に運ばれたというのである。この地は相馬御厨の神領だったことから暴かれることなく守られてきたという。誰もいない境内で静かにお参りをし、その日最初の将門ゆかりの地となったのである。
                                 (平成29年作)

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春疾風

首塚や討たれし時も春疾風



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幸手インターを降り5分ほど走った所に浄誓寺はあった。あたりは広大な畑である。山門を潜ると正面に本堂があり、その裏に首塚があった。周囲をコンクリートブロックに囲まれ、高さ3メートルほどの塚になっている。頂上に五輪塔が据えられていた。入口にあった説明書きでは上の3つは後世のもので、下の2つが江戸時代以前のものということである。「北葛飾郡内最古の五輪塔の可能性が高い」と書かれていたが、いやに狭い地域に限定しており、しかも「可能性が高い」という言い回し自体が何とも頼りない。
平将門は新皇となった僅か3ヵ月後の天慶3年(940年)2月14日(陽暦3月30日)、俵藤太(藤原秀郷)と平貞盛の連合軍に敗れ36才で討死している。首級は京まで送られて晒し首となったが、3日目に夜空へ舞い上がり、故郷に向かって飛んで行き、あちこちに落ちたという言い伝えになっている。最も有名なのが東京大手町の首塚である。すなわち、浄誓寺山門前の立札に書かれていた「愛馬が運んできた云々」というのは俄かには信じられないことなのだが、真実が分からない今となっては各地に伝わる言い伝えこそが手掛かりでありロマンなのである。
将門の最期についての文章を載せておこう。(吉川英治「平の将門」より)

乱れ立った敵陣のさまを見て、
「かかれっ。貞盛の首、秀郷の首、二つを余すな」
将門自身、馬を躍らせて敵の怒濤のなかへ没して行った。(中略)
まさに、乱軍の状である。いや、坂東の土が生んだ、将門という一個の人間の終末を、吹き荒ぶ砂塵と風との中に、葬り消すには、まことに、ふさわしい光景の天地でもあった。
将門はもう、将門という人間ではなくなっている。一個の阿修羅である。(中略)
刹那、彼の顔に矢が立った。
「…………」
何の声もなかった。
戦い疲れた顔が兜の重みと矢のとまった圧力に、がくと首の骨が折れたようにうしろへ仰向いたと見えただけである。
馬から、どうと、地ひびきを打ってころげ落ちた体躯へ向って、たちまち、投げられた餌へ痩せ犬の群れが懸るように、わっと、真っ黒な雑兵やら将やらが、寄りたかっていた。あっけなく、天下の騒乱といい囃すには、余りにも、あっけなく、相馬の小次郎将門は、ここに終った。
                                 (平成29年作)

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