植物 - ひこばえ
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ひこばえ


植物 カテゴリーの記事

ルピナス

ルピナスや異国に馳せる夢ひとつ



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シャンソン歌手という言葉は聞いたことがあるが、タンゴ歌手というのはあまり聞いたことがない。倫理法人会が新横浜のホテルで行なった講演会のゲストがタンゴ歌手の香坂優さんだった。別の誰れかが講演したあとでタンゴでも歌うのかなぁなどと勝手に考えて出掛けたのが、何と何と香坂さんご本人が講話し最後にタンゴを歌ったのである。しかもその話の素晴らしかったこと。会場にいた250名は水を打ったように聞き入り、絶妙な語り口に泣かされたり笑わされたりと感動の時間を過ごさせてもらったのである。

話は今から30年前の淡谷のり子さんとの出会いから始まった。初対面同士で行なうジョイントディナーショーである。下手な歌手に対し「あれは歌手ではなく、カスだ」などと言い放つ人である。緊張したことは言うまでもない。しかも会場に到着すると淡谷さんはすでに来ていてリハーサルの真っ只中。大先輩に先を越されてハナから出遅れる。「気が散るので出て行きなさい」と言われた所からお付き合いが始まったというのだから、この話面白くならない訳がない。
「あなたはあと何年、歌っていたいの?」と聞かれ「先生と同じ年になるまで」と答えると「それならその歌い方では駄目。きちんとボイストレーニングしなさい」とアドバイスされる。トレーナーを紹介され、通うこと2年。その後、彼女の前で歌うと「あなたの声はシャンソンでもカンツォーネでもないわねぇ。そうねぇ、タンゴがいいわ。タンゴをやりなさい。やらないのだったら歌手を辞めて再婚でもしなさい」と決め付けられたそうである。「ちょうど5か月後にアルゼンチンのコルドバで音楽祭があるから行きなさい。今からスペイン語でタンゴを7曲覚えて歌ってきなさい。それ位出来ないようじゃ、歌手はやめたほうがいいわねぇ」と追い込んで来る。その後何度となくアルゼンチンに通い、ようやくタンゴ歌手としての道を歩み始め、成功を収め今に至るのである。
話のあと、何曲か歌った。大いなる拍手である。話に感動し、歌に聞き惚れたものである。

終演後、私は著作本を買いサインをしてもらった。感動させてもらったのだから当然である。それを横で見ていた友人の三宅さんが笑いながら混ぜ返してくる。
「話は面白かったけれど、歌は日向さんの方が上手かったなぁ。日向さんが歌う『霧子のタンゴ』には敵いませんよ(笑)」
「何を言っているのかねぇ、この人は……」
と言いながらも、それから二人でボイストレーニングに向かったのだから、これまたよく分からない話になってくる。
                                 (平成29年作)

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草青む

誘はるるままに道草草青む



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帰りがけに村井さんが、その近くにある「蓑虫庵」のことを話し始めた。素晴らしい所なので是非寄って行って欲しいという。門人服部土芳が建てた庵だという。
「野ざらし紀行で芭蕉が伊賀に戻った時、たまたま土芳は仕事で須磨の方へ行っていました。土芳は藤堂藩に勤めていた侍です。芭蕉より13才年下で、芭蕉が29才で江戸へ出て行く時、土芳は16才でした。幼い頃に芭蕉から俳諧を学び、とても慕っていたようです。戻った時にはすでに芭蕉は旅に出ていました。どうしても会いたかった土芳はそのあとを追ったのです。滋賀県の水口まで追い掛けてようやく再会します。実に20年ぶりの再会でした。それを機に土芳は侍を辞め、芭蕉の弟子として俳句の道を選びます。芭蕉の死後、三冊子などをまとめたのが土芳です」
村井さんの説明はとても熱かった。3時までに友人の会社に行かなければならなかったが、断れるものではない。
私「よし、タクシーを呼ぼう」
村井さん「ありがとうございます。向こう(蓑虫庵)には連絡しておきます」

家に帰って調べてみたのだが「芭蕉紀行文集」の中に紀行旅程表というのがあり、芭蕉の足取りが分かるようになっている。都合5回、故郷に戻ったことが分かる。「野ざらし紀行」の中に、貞享元年(1684年)9月8日、伊賀上野に到着とあり、同年12月25日に伊賀上野に帰り越年とある。翌2年の3月中旬、水口の駅で土芳に逢い数日滞在とあった。これである。本文は至って簡単で「水口にて二十年を経て、故人に逢ふ」の前書きのあと「命二つの中に生たる櫻哉」の句が書かれている。脚注に「故人とは昔馴染みのことをいい、同郷の門人服部土芳をさす」とある。
呼んだタクシーはすぐに到着した。村井さんにお礼を言い、乗り込んだ。
私「時間は大丈夫か?」
工場長「ギリギリですが大丈夫です。これも旅の素晴らしさでしょう(笑)」
                                 (平成29年作)

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梅が香

梅が香や翁しのばん草の庵



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生家の前でタクシーを降りた。「松尾」の表札の下に小さな潜り戸があったが入口のようにも見えず、塀伝いにその奥にある門まで回ってみた。やはり潜り戸が入口のようなので戻って開けてみると土間の明るさが目に飛び込んできた。
「わっ、観光用に改装されている!」
特に驚くほどのこともないのだが、折角の生家に手を入れるのはどうかと思ったのである。生家は生家でそのままに残し、建物の横に小さな管理小屋など設け、観光客を迎えるという姿を勝手に思い描いていたので「わっ」ということになったのである。
先客が二人いたが、我々が入り、入場料を払ったりする間に奥の方へと進んだようである。入場料は生家の他に関連する施設の分もまとめ買いすると割安だと言われたが、時間もないので生家の分だけを支払うことにした。中にいた女性がいろいろと説明してくれた。展示されている品書きのことや臍の緒の短冊のことから始まった。これでもか、これでもかと思うくらい、説明してくれる。
私「失礼ですが松尾家の方ですか?」
女性「いえいえ、ここは財団法人の管理になっています。私はアルバイトです(笑)」
私「あまり詳しいので子孫の方かと思ってしまいました(笑)」
冗談ばかり言っている我々にも、きちんと説明してくれたのである。村井さんという。
しばらくして私は中を見に奥へと進んでいったのだが、工場長はその村井さんと話し込んでいたようである。「うちの社長も俳句をやっています」と言ったのだろうか。どう話したかは聞いていなかったが、村井さんは私のことを「もしかして、凄い先生なのですか?」と聞いてきている。工場長は「はい、凄い人です(笑)」と答えている。
いい加減なことを言っているなぁと思ったが、芭蕉に同行した門人曽良も道中あちこちで「凄い人です」と言っていたかも知れないなどと思ったものである。

句は生家の横にあった「釣月軒」を見てのものである。初めての句集「貝おほい」を書いた場所ということで文机と手炙り、行燈が置かれていた(写真)。そこに正座して筆を認めている俳聖の姿が見えるようであった。庭の白梅がほころびかけていた。
                                (平成29年作)

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冬の草

祈るよりほかなき聖地冬の草



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旅行を終えて家に帰ってからのことである。すぐにアマゾンでチビチリガマに関する本を取り寄せてみた。読み進むうちにチビチリガマでの出来事だけではなく、その後に起こる「平和の像破壊事件」や「日の丸焼き捨て事件」などに行き当ってしまった。戦後の沖縄が抱えた幾多の問題をそこに見るような気がした。
まずチビチリガマでの「集団自決」と呼ばれる出来事である。あまりにも悲惨な出来事で、ここに記せるような内容ではない。集団自決などというととても潔い言葉にも聞こえてくるが、実際には死ぬべきか生きるべきかの壮絶なやり取りがあり、一部の熱狂的愛国者による呼び掛けが引き金となり「いやだ」という一言が言えずに死んでいった多くの人がいたのである。また死者の半数以上が子供であり、親の道連れとされたことが分かる。事件の後、そのことについて誰一人語ろうとせずに38年という月日が過ぎ去って行くのである。長い年月を経てようやく調査が始まり事件が明るみに出てくる。生き残った人達の証言は凄まじく、事件から42年経った昭和62年4月2日にようやく「平和の碑」が建立され、除幕式が行われたのである。しかし、その年の11月8日に像は原形を留めないまでに破壊される。現場には「国旗燃ヤス村ニ平和ワ早スギル天誅ヲ下ス」との犯行文が残され、日の丸が立てられていたという。これはその直前の10月6日に地元で開催された沖縄国体のソフトボール会場で球場に掲揚されていた日章旗を知花昌一さん(当時39才)という人が焼き捨てたことに対する右翼による報復行為だったのである。なぜ知花さんは日の丸を焼くなどという行為に出たのだろうか。沖縄が本土復帰したのは昭和47年5月15日である。それまでの日章旗は米軍による占領支配からの解放の象徴だったが、復帰後も変わらず米軍基地は存在し、その不満が日本政府に対する反発となり、そのような行為へと繋がっていったようである。

このような文章では到底書ききれるような内容ではない。腰を庇いながらも出掛けた読谷村で導かれるようにして出会った沖縄の歴史である。本を読みながら本当に重い気持ちになっていった。まだまだ知らなければならないことがあるのだろうが、ひとまずこの2つのガマのことを胸に刻んだ。これから沖縄のニュースを見るたびに思い出すことになるのだろう重い出来事である。
                                 (平成29年作)

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枯芝

枯芝の座喜味城址や今昔



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腰が痛くて起き上がれない状態であっても、どこかを見ておきたいと思う気持ちは抑えられない。ホテルは本島中央部に位置する恩納村にあったのでその周辺の観光地を探し、隣村の読谷村にある座喜味城跡へと出掛けてみることにした。ホテルから15分ほどでカーナビを使えば迷うこともない。スマホで知るのだが、読谷村は「日本一人口の多い村」だそうである。平成28年10月1日現在の人口38206人とある。私の出身地北海道歌志内市は「日本一人口の少ない市」で平成28年9月30日現在4390人である。村も町も市も基準がどうなっているのかは分からないが、やはり人は多いに越したことはない。羨ましさを覚える。おっと、今はそんなことはどうでもよい、城跡を見てこよう。
到着。車を降りようと少し身体を捻っただけで痛みが走る。イテテテテ……まだあの本に出会う前の話である。あいにく資料館は休館で、その前にある高倉やサトウキビ絞りの臼、厨子甕という骨を納める壺などを見た後ゆっくりと城跡へと歩いて行った。少し上り坂である。アベックや家族連れ、外国人が多い。みんな普通に歩いている。それが何とも羨ましい。腰を痛めてようやく腰が普通に機能している時の有難味を知る。どうしたら治るのか、旅行の間じゅう苦しまなければならないのだろうか。何と不幸なわが身であることかと悔やんだりもする。折角の世界遺産に来て腰のことばかり考えているのだから情けない。意識を城跡に集中しようとするが痛いものは痛い。城は首里城や今帰仁城跡よりも小規模のようである。さほどの距離でもないので、なんとか一番頂上まで辿り着くことが出来た。石垣の上に立ち眺めてみる。美しい。石垣の曲線も美しいが、その向こうに見える青い海も美しい。何も調べずに来てしまったので、この城が外国の敵を相手にしたものか、島の中での争いのためのものなのかも分かっていない。スマホで調べてみる。
14世紀、沖縄本島には中山、北山、南山という3つの小国があり、中山(浦添、首里城を拠点)の尚巴志が1416年に北山(今帰仁城を拠点)を攻略、1429年には南山を攻め滅ぼし、統一国家である琉球国を誕生させる。その後、不安定だった北面の守りを固めるため北山攻めにも参加した護佐丸に命じ、この座喜味城を構築させたとある。なるほど、琉球王国の礎的存在である。石垣に壊れたような箇所がない。よく戦争を潜り抜けたものだと思ったが、やはり沖縄戦の前には日本軍の砲台が置かれ、戦後には米軍のレーダー基地が置かれて一部の石垣が破壊されたとあり、のちに修復されたと書かれている。
一時間もいただろうか。ゆっくりと下りてきた。ようやく下まで降り、お茶を買って一休み。資料館は閉まっていたがそこに近隣の案内図が掲示されていた。順番に読んでいくと、城跡からすぐの場所に「チビチリガマ」「シムクガマ」があることが分かった。腰が痛いなどと言ってはいられない。是非に見ておかなければならない場所である。沖縄戦に向けてすぐに出発である。
                                 (平成29年作)

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