植物 - ひこばえ
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ひこばえ


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虞美人草

虞美人草触れてその名をうべなへり



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第一幕では漢王に封じられた劉邦が辺鄙な褒中の地で大将軍「韓信」を見出し、強剛な漢軍を形成するまでを描いていく。休憩を挟んでの第二幕は諸侯を味方に付けた劉邦の大軍が楚軍と戦い、垓下に項羽を追い詰め、四面楚歌により楚軍の兵士たちを揺さぶり、項羽を亡ぼすまでを描いていく。最愛の虞姫が窮地の項羽を慰めるように酒を注ぎ、剣舞を舞い、足手まといになるまいと自刃するシーンは美しい(写真)。
「なるほど、なるほど……」と頷きながら観ていた。たった一つの疑問を除いて……。

第一幕の主題は「推薦状」である。劉邦の軍師「張良」が項羽の陣にいてもなかなか重用されない韓信と出会い、ただならぬ才能の持ち主であることを見抜き、劉邦への推薦状を書いて渡すところから始まる。
「推薦状???……そんなシーンが司馬遼太郎の『項羽と劉邦』の中にあっただろうか?」
読んだ記憶が無い。劇ではその推薦状を敢えて見せずに面会に臨む韓信が人を見る目を持たない劉邦に愛想を尽かし、陣を去るなどの重要な役割をその推薦状に与えている。本場中国で演じられる京劇である。史実に基づいているに違いない。そうであればなぜ司馬遼太郎「項羽と劉邦」にはなかったのだろう。読み直してまだ1ヶ月しか経っていない。よもや読み飛ばしはないだろう。モヤモヤした気持ちを残したまま、見終わることになってしまった。
帰宅してすぐに小説を調べたことは勿論である。やはり記述は見つからなかった。
「???」
そんなこともあるだろうと思うことにした。
「京劇ではあり、司馬遼太郎ではなし」と割り切って次の「三国志」に移ることにした。
                                 (平成30年作)




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柳絮

柳絮飛ぶ虞姫の声音の甲高き



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読み終えた「項羽と劉邦」の余韻に浸る間もなく、その京劇「項羽と劉邦~覇王別姫」が東京で開かれることを知った。たまたまである。「2018年、東京、名古屋、大阪で開催決定!!」と書かれている記事を読んだのである。しかも6月9日から17日までと開催日時が迫っている。
<おー、何と言うタイミングだろう。これは行くしかない。チケットは取れるだろうか>
妻に調べてもらおうとすぐにメールした。
「もう一杯かも知れないけど調べてみて。お願い!」
しばらくして返信が来た。
「6月14日以降だったら、取れるみたいだよ。因みに私は結構ですが……」
「6月17日の昼でお願いします。日曜日、一人で行ってきます」
「取れたよ。楽しんできてね」
6月4日のことである。

実はこの京劇、17年前に一度観ている。平成13年5月に社員旅行で北京を訪れた時のことである。2日目の夜、上海雑技団によるショーの中で京劇が演じられ、その演目が「項羽と劉邦」だったのである。小説を読んでいたので直前まで楽しみにしていた。しかし奇術や梯子のショーまでは覚えていたが、肝心の京劇の時には居眠りをしてしまった。紹興酒や53度の強い酒を飲んだと社内報に書かれている。最前列での観劇でありながら、酔ってしまっていて何も覚えていない。朦朧としながら外に出たことだけは覚えている。あれから17年である。
<懐かしいなぁ>と思いながら17年前の社内報を捲ってみた。記事の初めに李白の「対酌」という詩を載せている。私の趣味丸出しの社内報である。

両人対酌山花開  両人対酌して山花開く
一杯一杯復一杯  一杯一杯復た一杯
我酔欲眠卿且去  我酔いて眠らんと欲す 卿(きみ)且(しばら)く去れ
明朝有意抱琴来  明朝 意有らば琴を抱いて来たれ
 (注)虞姫(ぐき)とは覇王項羽の愛人。虞美人とも言う。中国四大美人の一人。   
                                 (平成30年作)  




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蝮草

小暗きに濡れて山路の蝮草



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それにしても山深い温泉宿である。位置的には赤城山の中腹に当る。周囲に宿が見当たらなかったので一軒宿かも知れない。征夷大将軍の柿本人麻呂が見つけたと書かれていたので千二百年も前からあった温泉ということになる。朝早く起き出して風呂に入ったあと、周囲を散策してみた。前日同様、まったき晴天である。何もない山の中だが草花を探すには最高である。図鑑を持参しなかったことを悔やみつつ、写真を撮って歩いた。

山道を歩きながら、前の日に車の中で妻から聞いた義父の話を思い出していた。スネークセンターの話である。妻が高崎の高校を卒業し東京に就職したあとに聞いたというのでもう30年以上も前の話ということになる。新しいもの好きの義父が出来たばかりのスネークセンターに出掛けた。我々が泊まる予定だった藪塚温泉のすぐ近くである。おそらく仲の良い友達と一緒だったに違いない。そこでヘビ料理を食べたという。その「ヘビご飯」の作り方を義父が説明してくれたという。まず釜に研いだ米を入れ、水を張る。そこにヘビを入れ、小さな穴が二つ開いた蓋を被せて火を点ける。火が通って中が熱くなるとヘビも熱くなって蓋の穴から顔を出す。顔を出したところを摑まえて思い切り引き上げる。すると身はほぐれてバラバラになり、骨だけが外に取り出せるのだという。
私「うそだぁ。あり得ない。作り話だよ(笑)」
妻「でも、印象に残ってるのよねぇ、その話」
私「そんな冗談を言う人には見えなかったけど」
妻「いやいや、意外とそういう所があったのよ、本当かどうかは知らないけど」
私「まぁ、あの仲間なので、出来たばかりのスネークセンターに出掛けてヘビ料理を食べたところまでは想像できるけど、その作り方はなぁ(笑)」
運送業を営んでいた義父はその運送業仲間といつも行動を共にしていた。5、6人であるがそれぞれの奥様がいつも一緒なのでとても賑やかである。温泉に行くにも遊びに行くにもいつも一緒で、結婚したての私達をいつもいろいろな場所へと連れて行ってくれたのであった。ヘビ料理を注文したのは大いにありうる話である。
妻の話を思い出しながら、義父やその仲間達のことを懐かしく思い返していた。その時、道端に見つけたのが写真の「蝮草」である。ヘビのことを考えていた時の「マムシグサ」だったので、思わず一人、山の中で笑ってしまったものである。
                                 (平成30年作)




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新樹光

捧げ持つ剣こそ光れ新樹光



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次に向かったのが「生品神社」である。義貞が鎌倉幕府討伐のために挙兵した場所である。義貞が旗揚げの際に鎌倉に向かって矢を放ったという故事にならい毎年5月8日にここで「鏑矢祭」が行われるそうである。これが見たくて旅行を計画したのだがあいにく今年の8日は平日である。それでは仕方がない。またの機会を待つしかない。
駐車場に着いて少し驚いた。砂利が敷いてあるだけである。新田義貞が出陣した場所である。群馬県揚げて、いや少なくとも太田市揚げての集客に力を入れているだろうと想像していたのだが、果たして駐車場も整備されていない。車もない。人影も見えない。ゴールデンウィークだというのに観光客の一人も集まってはいないのである。
<鎌倉幕府を倒した最大の功労者なのに、これは一体どういうことなんだろうか>
私のイメージでは「大中黒の丸に一つ引き」の新田の家紋を染め抜いた旗が何本も並んでいるはずだった。駐車場は舗装されて大型バスのスペースも確保されているはずである。誰もいない砂利の上を歩きながらそれが私の勝手な妄想であったことに気づき始めていた。駐車場の横に義貞の像が建っていた(写真)。剣を捧げ持つ姿である。しかし、これまた不思議な物に見えてきた。像がいやに古めかしく、その下の台座が妙に新しいのである。回りのコンクリート製の柵も新しいし、その後ろに寄付者の名前を連ねた石の銘板も新しい。像をそのままにして台座や周囲ばかりを作り直したようである。なんだか、やらなくても良さそうなことをやったように見えてきた。一部だけを新しくするというのはどうも説得力に欠ける。台ごと古めかしくしておいた方が良いに決まっているではないか。寄付を募って誰かがやったのだろうが、やり方が違うように見えた。後ろに回ればその経緯などが書かれていたかも知れないが、寄付した人の名前が仰々しく書かれたものなど読もうとする気も失せていた。
その横を通り、神社にお参りしようと参道を進むと、これまた妙な物が目に飛び込んできた。台座である。像のない台座が置かれていた。もしかしてここにあった像を正面に移したのだろうか。詳細は分からないが、しなくても良いことをしたように見えてくる。
                                 (平成30年作)




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落椿

獄門の首の行方や落椿



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墓参りを終えてさっそく新田義貞の旧跡めぐりに向かうことにした。カーナビに二体地蔵塚のある太田市世良田町1578番地を入れた。ここは義貞が鎌倉幕府打倒の決意をする切っ掛けとなった幕府の使者を斬った場所である。
元弘3年(1333)執権北条高時は西国(近畿地方)の反乱を鎮めるため、弟泰家を大将として10万の兵を京へ向かわせようとしていた。その戦費を調達するため関東の国々に臨時の税金を掛けることになった。この世良田は長楽寺の門前町として栄え、裕福な者が多いので二人の使者が遣わされた。出雲介親連と黒沼彦四郎入道である。二人は大勢の家来を連れて乗り込んできた。そして5日のうちに6万貫の税金を差し出せと迫ったのである。これを聞いた義貞は法を超えた仕打ちであると怒り、「我が宿」に雑人の馬蹄を懸けさせたのは無念であると、すぐさま出雲介を捕え、黒沼彦四郎の首を刎ねて晒し首にしてしまった。すなわちこれがその遺跡である(写真)。季節はもう夏になろうというのに塚にはたくさんの落椿が汚れて積み重なっていた。
二体地蔵のあとに向かったのは新田館跡に建てられたという総持寺である。ここは義貞居館説もあるようなので立ち寄ってみたかったのである。「我が宿」と義貞が怒ったのがこの場所だという説もあり必見だったのだが、実際に訪ねてみると見るべきものが見つからなかった。
「悪いねぇ、引っ張り回しちゃって」
「いいえ、いつものことですから気にしないで(笑)」
「この太田は新田義貞の生まれ育った場所なんだけど、その一生はほとんどが鎌倉と京、あとは戦いばかりなんだよ。だからあまりこの太田に史跡がある訳じゃないんだ。小説でも初めのあたりに出てくるくらいで、これから行く生品神社を出陣してからは、ほとんど出てこないんだ。だけど一度は見ておきたかった場所なので悪いけど付き合ってね」
「全然大丈夫だよ。でもこれからいい場所に出会えるんじゃない?いつもそうだから(笑)」
「ま、早目に回って今日はゆっくり温泉に浸かろう。義貞ゆかりの湯だから、絶対にいい句が出来るよ。こればかりは自信がある(笑)」
                                 (平成30年作)




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