ひこばえ
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落椿

消ゆる身に残る恨みぞ落椿



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「銭洗い弁天」の前の急坂を上がるとすぐに「葛原が岡神社」の駐車場に到着した。ここは鎌倉時代の公卿日野俊基を祀った神社である。行きたい場所は「化粧坂」だが、そのすぐ近くである。雪は本降りになっていた。駐車場の先は崖になっていて谷底のように見えたが、そこに吸い込まれていく雪の美しさにはしばし心奪われたものである。まずは俊基卿のお墓をお参りすることにした。小説を読んだばかりなのでその斬首されるシーンはよく覚えている。新田義貞によって鎌倉幕府が滅亡する11ヵ月前の1332年(元弘2年)6月3日の出来事である。「私本太平記」(吉川英治著)には次のように書かれている。

一人の男が飛び出してきた。
「北の方さまのお文をたずさえ、最期の様子を見たてまつらんと、はるばる都から下ってまいりました。弁ノ殿に一目お会わせくだされ」
執行役である工藤高景はそれを許した。
「長いことは相ならんぞ。寸刻は許す。名残りを惜しめ」
「……おっ、助光か」
筵に据えられた俊基は、よほど意外だったらしく、いかにもうれしそうだった。
「奥方は無事か。病みもせず暮らしているか」
「は、はい……とまれ、ご無事ではいらっしゃいます。こ、これが北の方さまからのお文にござりまする」
何の人前がと、俊基は見得もなくそれをむさぼり読んだ。
「硯を。……工藤どの、硯を貸して給われい」
硯に向かい、俊基は添え小刀を取って一握りの髪を切り、それを妻の文殻にくるんで助光に託し、懐紙へこう偈をしたためた。
<古来ノ一句、死モ無シ生モ無シ、万里雲尽テ、長江水清シ>
「助光、ゆめ、虚勢ではない。わしの心は今この通りだ。かくの如き姿で逝ったと小右京には告げてくれよ。はやこの期だ。言い置くことはない。……ただ倖せに過ごせとな。お汝にも……あとをたのむぞ。たのみおくぞ」
頭上で音がした。びゅっと、素振りした太刀把りの太刀先から飛んだ露の水玉が、俊基の体の外をまず斬った。
「弁ノ殿、およろしいか」
「いつでも」
彼は、鬢の毛をなであげて、白い項を素直に伸ばした。

小説の本文にはなかったが、辞世の歌が伝えられている。
<秋を待たで葛原が岡に消ゆる身の露のうらみや世に残るらん>
                                 (平成30年作)




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麗か

仇敵が時を隔ててうららかに



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新田義貞に興味を持ったのはつい最近である。2ヵ月ほど前の夕方、工場にトラックが入っていた。見ると群馬ナンバーである。運転手さんに声を掛けた。
「群馬から来たの?」
「そうです。製品を引き取りに来ました」
「群馬のどこ?」
「玉村町という所です」
「聞いたことないね。高崎の近く?」
「その手前です。藤岡インターで降りて10分くらいの所です」
「ああ、〇〇さんか。いつも有難うございます。社長さんには本当に良くしてもらっています」
「こちらこそ、いつもお世話になっています」
もう10年以上も仕事を頂いているお客さんである。
「これから帰るんじゃ、9時過ぎるねぇ」
「道が混まないので遅い方がいいですよ(笑)」
などと言いながら話が始まった。私の妻が高崎の出身なので群馬県にはすぐに反応してしまうのである。しかも藤岡インターは高崎に行くたびにいつも降りる場所である。どのコースで帰るのかなどの話になりながら、どういう訳か、太田市、足利市の話になり、足利市から足利尊氏へと話が続いていったのである。
「太田は群馬ですが、足利は栃木です。だから僕は昔から新田義貞のファンで、足利尊氏は好きじゃありません」
「???」
わわわ、慌てた。話に付いて行けなかった。全然、調べていなかった。恥かしい~。
彼と別れてからすぐに新田、足利を調べたことは言うまでもない。鎌倉幕府を倒した立役者、南北朝の敵同士。
<よし、今度の墓参りの後は太田市、足利市の見学だ!その前にいろいろ調べておこう>
以前買って本棚に入れっぱなしになっていた吉川英治の「私本太平記」を読み、新田次郎の「新田義貞」を買い、「義貞の旗」が今届いたところである。墓参りの前に鎌倉を訪ねることになってしまったが、近いうちに出掛けることになるだろう。その時は一泊してあの辺りの所縁の場所を見てこようと思ったのである。
                                 (平成30年作)




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春の雨

鎌倉を掘れば人骨春の雨



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次に向かったのが「化粧坂(けわいざか)」である。新田義貞が弟脇屋義助と共に鎌倉攻めを試みた切通しである。源氏山公園の傍にあるというのでカーナビにセットして出発した。車を走らせてすぐに「十一人塚」の碑の前を通った。細い道ではあったが車を停めた。骨董品屋のような店があったのでその前に車を寄せて道幅を確保した。江ノ電の線路のすぐ手前である。「十一人塚」は極楽寺坂を攻めた新田軍の武将大館宗氏らを埋葬して建てたものである。碑の後ろに墓があったのでお参りした。その横に「十一人塚」とは別の説明文が書かれていた。「鎌倉時代の出土人骨の埋葬について」である。
「昭和34年晩秋、極楽寺橋付近の造成現場で、鎌倉時代末期の武士のものと見られる多数の人骨が発見されました。発掘調査の後、鎌倉時代の人々を知るための貴重な研究資料として、その多くは東京大学人類学教室に運ばれました。一部は、地域の人によって左手の丸い石の下に埋葬されたことが、当時を知る人から伝えられ、その経過を記録として残すために本記録板を建てました」というものである。なるほど、鎌倉で人骨が発見された話は何度か聞いたことがあったが、これだけの戦いをしていれば人骨が出土されたとしても不思議ではない。今でもあちこちに埋まっているかも知れない。そんなことを思っている時に車のクラクションが鳴らされた。
「俺の車か?」
すぐに見に行くと案の定、私の車の前で2台の車が向き合い、踏切を越えてきた車がその後ろに付いている。私の車と同じ方向を向いた車が強引に進入したらしい。しかも若い女性である。戻れずに止まったままになっていた。運転席の女性に声を掛けた。
「私の車を少し前に出しますので、後ろに戻れますか?」
「はい、お願いします。済みません」
無理に侵入した女性が悪いのか、停めた私が悪いのか。覚束ない運転の女性がバックして事なきを得た。片足は裸足だし、クラクションは鳴らされるし、朝からあまりいいことがない。
市内に入りコンビニで靴下を買った。どれでもいいやと思って選んだのだが、よく見ると女性用となっていた。妙に薄手で履いた気がしなかったが濡れているよりは余程いい。コンビニの女性も教えてくれたらよかったのにと思ったが、男用女用には気が付かなかったかも知れない。フロントガラスの雨が雪に変わった。<まさか、鎌倉で雪とはなぁ>と思いながらも、化粧坂へ向かって車を動かした。
                                 (平成30年作)




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彼岸潮

義貞が太刀の行方や彼岸潮



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その週の土日は予定が入っていたので、21日(水)「春分の日」彼岸の中日に鎌倉を訪ねることにした。当日の天気予報は雨である。新田義貞が鎌倉攻めを行なった日に雨が降っていたという記述はなかったが、「腹切りやぐら」を見学するのには雨もよいかと思ったのである。見たい場所は何ヶ所もあった。最初に行くところは義貞が鎌倉に攻め入った場所にしたいと思っていた。「腹切りやぐら」は攻め入った後のことなので見学するのも後にすることにした。朝7時に家を出て最初の目的地を「稲村ケ崎」とした。車のメーターでは外気温は4℃となっていた。

新田義貞が上野国(今の群馬県太田市)の生品神社で鎌倉幕府打倒の兵を挙げたのが元弘3年(1333年)5月8日(新暦の6月20日)である。その10日後の18日に鎌倉に到達し、すぐさま軍勢を三つに分け、巨福呂坂、極楽寺坂、化粧坂の切通しから攻め立てたのである。しかし幕府側の守りも固く三か所とも難攻したようである。極楽寺坂攻めを担当していた大館宗氏が戦死したため、中央の化粧坂を攻めていた義貞が援軍を引き連れて本陣を移動した。21日の夜である。有名な「龍神の奇跡」が起こる。
「義貞は馬より降りて冑を脱ぎ、海上を遥々と伏し拝んで龍神に向かって祈誓した。『潮を万里の外に退き、道を三軍の陣に開きたまえ』そして帯刀していた黄金の太刀を抜いて海中へ投じたのである。その夜明けに潮は二十余里干上がり、敵方の舟は遠く沖へと離れていた。不思議なことはあるものだ。義貞は軍勢を引き連れて鎌倉へ攻め入ったのであった」(太平記「稲村崎干潟となる事」より)

7時50分に到着し車を駐車場に入れた。横断歩道を渡って誰もいない稲村ケ崎公園を訪ねた。いろいろな碑が建っていた。傘を差しながらその一つ一つを読んでいった。稲村ケ崎の突端の写真を撮りたかったので、階段を下りて岩場へと向かった。鎌倉攻めの軍勢が渡った場所である。海は荒れていた。波が砕けて飛沫を上げている。いいアングルで撮ろうとするとどうしても波打ち際まで近寄らざるを得ない。飛沫を浴びないギリギリまで近づいてこの一枚を得た。撮り終えてホッとした所で大きな波が来て飛沫が上がった。掛かってはいけないと後ずさりした時に左足を潮溜まりに入れてしまった。ちょうど足の大きさほどの穴が開いていたのである。
「冷めテー!」
スニカーも靴下もズボンの下の方もビショビショである。どうしようかと思ったがどうしようもない。そのまま歩いて公園まで戻り上の見晴らし台まで登って戻ってきた。車の中で靴下を脱いだが、片足だけが裸足というのも不思議な感覚である。朝4℃だった外気温が1℃まで下がっていた。
                                 (平成30年作)




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朧夜

朧夜や墓場の陰にがしゃどくろ



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家での会話である。
私「今度の日曜日に鎌倉に行こうよ」
妻「いやだなぁ、貴方と行く日はいつも土日だから。わざわざ一番混んでいる日を選んで出掛けるみたい(笑)」
私「大丈夫だよ、日曜日でも人の行かない所に行くんだから(笑)」
娘「どこどこ?」
私「腹切りやぐらだよ」
妻「なんでそんな所に行かなくちゃならないの?」
私「新田義貞だよ。今、鎌倉幕府滅亡のあたりを読んでいるから(笑)」
娘「腹切りやぐらって、誰が切腹したの?」
私「北条高時、鎌倉幕府最後の執権だよ。その他北条一族283名ほか家臣合せて総勢870名」
娘「凄い!」
私「誰も行かないようなひっそりとした場所にあるみたいだよ」

そのあとの私の話を二人とも黙って聞いてくれていたのには感謝するばかりである。
私「腹切りやぐらを調べていたら、あるブログを見つけたんだけど、それが凄いんだよ。新婚旅行でそこを訪ねたご夫婦の話なんだけど、ご主人の方は何でもないんだけど、奥さんの方がやぐらの前で異様な体験をしてしまうんだ。ほんの数分いただけなのに不気味なものを感じたようで『気味が悪いので早く帰ろうよ』と言っている傍から近くにカシャカシャという甲冑の音が聞こえてきた。その音が奥さんの方に近づいてきたという。『早く逃げなければ』と思った瞬間、草ヤブの中に動くものを見つける。何人もの傷ついた武士達が苦しそうな表情でこちらを見ているではないか。『キャー!』逃げようとして振り向くと目に前に血まみれの武将が立っていた。『ヒィー!』恐怖のあまり走り出した。やぐらの前から一目散に逃げ出したそうだ。ご主人は奥さんの名を呼びながら追いかけてきたという。
ホテルまで辿り着いてようやく『助かった……』と胸を撫で下ろしたが、話はそこで終わらない。ホッとしてベッドで横になり疲れて寝てしまったそうなんだけど、しばらくして目が覚めると何者かが上に乗っているような感じがする。金縛りに掛かったようで声も出ない。何者かが両足を掴んでベッドの端に引っ張っていこうとしている。見るとさっきの武将が物凄い形相で自分を引き摺り込もうとしている。『なぜ、お前だけが生きているんだ』と言っているという。たくさんの武士達もベッドの周りを取り囲んで睨んでいるという。恐怖のあまり気を失ってしまう。朝が来て目が覚めて『あれは夢だったんだろうか』と思ったがそれは夢ではなかった。その証拠に掴まれた足に人の手の形をした痣が残っていたというんだ。こんな話なんだけど……」
娘「私は行かない(笑)」
                                 (平成30年作)




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