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日向 亮司

Author:日向 亮司
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梅雨寒

梅雨寒や海に浮くもの沈むもの



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2008年6月23日の事故から2年9カ月経った2011年3月11日、東日本大震災が起こった。事故原因追究のため深海からの引き揚げを願う署名運動を行いつつ会社の立て直しに奔走している時である。「こんで終わったな」とも思ったというがすぐに放射能との戦いが始まり「福島の漁業はどうなるのか」「会社の先行きはどうなるのか」と苦悶していた。
その翌月、2011年4月22日、運輸安全委員会は事故報告書を公表した。
「このタイミングでやってくるとはヒドイなぁ……」
本来報告書は1年以内に出されることになっているが、どういう理由からか3年近く放置されていた。震災の被害を受け呆然としているこのタイミングでの公表である。しかも現実とは遠く離れた事故原因が書かれていた。
報告書の内容は沈没の原因を次のように特定していた。
①海水を含んだ漁網やロープ類を操舵室の天蓋に積載していたため船体の安定性が悪くなっていた。
②チェーン、網、浮き子の積み方が原因で船体が初めから傾斜していた。
③船体の動揺により漁網が横移動しバランスを崩した。
④放水口が機能していなかった。
その状態で波を被ったというのである。多くの関係者は当事者たちの証言とはことごとく違う内容を前に「あり得ない状況を組み合わせることで、どうやったら波で転覆させられるかと一生懸命考えたような内容だ」と思ったという。漁網が操舵室の横に積まれていたという事実もなければ、傾いていたこともない。放水口の蓋が溶接されて塞がれていたのはどこかの別の船体の話である。船が沈む時に海面を覆っていた大量の油は「約15~23リットル」18リットル一斗缶1つ分と推定されていた。救助された3人が1本のロープに掴まりながらも黒いドロッとした油の波を被って思うように動けれなかったという証言は完全に無視されていた。何かにぶつかり、船底に亀裂が入り、大量の油が流れ出て沈没したと考えることを嫌い、波を被って沈んだといって幕引きを図ろうとする内容である。
事故当時、船舶の事故調査を担当していたのは海難審判庁である。船会社出身者や海上保安庁出身の職員がポストを問わず混在していた。しかし事故発生の3か月後、組織改編が行われ新たに運輸安全委員会が誕生し調査は引き継がれた。その時点で調査方針が変わったと野崎社長らは感じている。「安全委員会ができて(船舶の事故調査は)乗っ取られた感じなんです。委員会のほうに下心があったっちゅうか、運輸省(国土交通省)出身の人が、自分たちのほうが(新組織の良いポストに)多く就きたい、と。運輸省出身の人が運輸安全委員会の主要なポストに行って、船員出身者は干された感じ」と証言したのは海難審判庁の元所長である。何かが歪められたようである。
著者は潜水艦のことも調べている。事故当時、海上自衛隊の潜水艦隊司令官だった男に何度も会い、話を聞いている。「(日本の潜水艦が事故を起こしたら)絶対に分かります。百パーセント分かります。現場の艦長からまず海上保安庁に連絡します。それがマスト(必須)。相手が民間だったら絶対です。(中略)密かに修理することは難しい」修理が必要となれば潜水艦隊の内部で終わらず、各地の地方総監部の造修部門が関わるため隠しきれるものではないという。それでは外国の潜水艦はどうだろうか。もしアメリカの潜水艦だったとしたら日本側が知らないということはないだろうと聞くと、日本には一切情報は入らないという。潜水艦の機密性からしてそのような情報がもたらされることはないという。
著者は今、弁護士と協力して国(運輸安全委員会)に対して情報公開の裁判を起こしている。今回の事故で委員会がどのような資料や証拠を使い、どう判断していったのか。多くの被害者のためにもどうしても明らかにしなければならないと考え、戦いは続いている。
                                 (令和5年作)




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蜃気楼

蜃気楼消えて見しもの見ざるもの



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作者が取材を重ねた重要人物といえば沈んだ第58寿和丸の持ち主「酢屋商店」の社長野崎哲さんである。事故が発生した時、事務所にいた。午後1時30分頃、船団の1隻から連絡が入った。専務が電話を取った。「58号が転覆して赤い腹を出している。当て逃げかも知れないから現場に急行します」というものだった。酢屋商店の2船団・8隻が犬吠埼沖の同じ海域で操業している。電話の声を横で聞いていた野崎は良くないことが起こったと思い、専務に「すべてメモを取れ」と指示している。「僚船を全部、現場に向かわせて」と声を上げた。またすぐに福島海上保安部に連絡している。海難が起きたらすぐ海保に連絡することが決まりである。野崎からの連絡を受け、海上保安庁は巡視船6隻、航空機4機を現場に出動させている。また事故を受けて乗組員の家族に電話を入れている。その後のドタバタは想像以上である。事故を知った新聞社やテレビ局の取材陣が押し掛け、家族や漁協関係者が詰め掛け、情報が少ないながら記者会見が開かれ、生存者3人と4人の遺体を乗せて船が帰ってくる。話を聞けば状況は分かってくるが、なぜ船が沈んだのかははっきりしない。事故翌日の朝刊では全国紙、地元紙とも「原因は波」という論調で足並みを揃えた。別々の方向から波がぶつかり、海面が大きく盛り上がって高くなる「三角波」が原因だろうとされた。しかし、多くの関係者はこの「波説」に疑問を持っていた。3人の生存者、漁協の職員、僚船の乗組員たち、そして野崎も波による転覆ではないと見ていた。
①僚船や第58寿和丸の生存者によると三角波などは見ていないという②パラシュート・アンカーを使っての漂泊(パラ泊)は最も安全な方法である。パラ泊中の波による沈没など信じられない③船底に二度の衝撃を受け、すぐに沈み始めている④転覆した直後に大量の重油が海面に漏れている
これらのことから「潜水艦説」が浮上する。当時、事故の調査に当たっていたのは横浜地方海難審判理事所である。理事所の見立てでは「外部からの衝撃で船底の燃料タンクが破損した」となっている。それを受けて東京新聞は7月23日に「犬吠埼沖漁船沈没 潜水艦衝突の可能性」という記事を載せている。
「寿和丸は船の下からの強い衝撃のため右舷の船底を損傷し、沈没したとみられることが横浜地方海難審判理事所の調査で分かった。理事所は沈没までの状況や乗組員の証言などから、損傷は潜水艦との衝突で生じた可能性が高いとみて調査している……。(中略)事故当時、周辺にいた僚船はレーダーや目視で他の船を確認しておらず、理事所関係者は「状況からみて潜水艦による衝突以外の可能性は考えにくい」と話している」
それが最終的には「波が原因」と認定されてしまうのである。
「えええっ!!」
                                 (令和5年作)




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黒南風

深海に漁船沈めて黒南風す



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帝国データバンクから週2回小冊子が届く(写真)。その中に時折「島地勝彦のスペシャル人生相談」という記事が書かれていて、いつも楽しく読んでいる。週刊プレイボーイを100万部に売り上げた伝説の編集長であり、現在はエッセイストとして、またバーのオーナーとして豊富な人生経験と独自な人生哲学でいろいろな悩みに答えている。ある男性から「最近読んで感動した本がありましたら紹介してください」との質問があり「黒い海 船は突然、深海へ消えた」(伊澤理江著)を挙げていた。2022年12月23日、第一刷発行となっている。
「2008年6月23日午後1時20分頃、中型漁船第58寿和丸はカツオ漁のため20名の漁師を乗せて、犬吠埼から東へ約350キロに停泊していた。海はシケていたが、上甲板にいた漁師たちに波がかかるほどではなかった。うねりも落ち着いてきて、いつ操業に出てもおかしくなかった。休めるうちに休んでおこうと、漁師たちはめいめいにカーテンを閉めて仮眠していた。30年以上の経験を持つベテランの漁師、豊田吉昭は寝付けずにベッドで横になっていた。そのとき突然、ドスッ、バキッという異様な連続音を聞いた。船体は確かに右へ傾いた感じがした。豊田は先ほどまで雑談をしていた若い同僚に「起きろ!」と大声で叫びながらズボンもはかずにTシャツとパンツで通路をかけ抜け、甲板に通ずる階段を駆け上がった。大道孝行は相部屋の船員室でうとうとしていた。そのとき、突然これまで経験したことのない音と衝撃に襲われた。「絶対やばい。ただごとではない、ひっくり返る」。大道の長い漁師人生のなかで、はじめての経験だった。外へ出る途中、大道は寝っ転がってのんびりテレビを観ていた新人の新田進と出くわした。「ひっくり返っから早く上がれ!」大道からの大声が新田に飛んできた。第58寿和丸は周りに油をまき散らしながら、まもなく転覆し沈没した。乗組員20名のうち、命からがら助かったのはこの3名だけだった。そして4名の遺体が収容され、残りの13名は第58寿和丸と共にいまも水深5600メートルの海底に眠っている」
うねりもない海上で突然転覆したのである。その前に聞いた連続音。潜水艦による当て逃げを疑い、船会社社長らによる真実への追及が始まる。署名運動を行ない運輸安全委員会へ潜水調査を依頼する。しかし2011年4月22日、事実とかけ離れた事故報告書が公表され審議が終了する。「大きな波に襲われた」というのである。納得できる内容ではない。連続音についての言及もなく、流出した油のことも書かれていない。政府には何か明かせない事実があるようである。生存者の証言と大きくかけ離れた結論で幕引きを図っている。事故から10年以上経ち泣き寝入りの状態になっているところにこの本の筆者であり、フリージャーナリストの伊澤さんが取材を始めたのである。1979年生まれとあるので、43才位である。2019年秋から始めた取材だが100人以上の関係者に会い運輸安全委員会まで執拗に取材をしている。島地氏曰く「筆者のデビュー作にして力作である。とにかく執念深い。その執念深さがノンフィクションライターにとって一番の武器になる。これから脂が乗ってさらに良い作品を書くだろう」
すぐにアマゾンで取り寄せたことは勿論である。どんな話なのか、興味津々である。
                                 (令和5年作)




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老鶯

老鶯や大臣による除幕式



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ビールの後は熱燗に変えて、食べたくないと言いつつも大体のところを食べ終えて部屋に戻った。2階の廊下に書棚があり、面白くなさそうな本が並んでいた。宮ケ瀬ダムに関するものが多い。この「こまや」さんの元の姿が写っているかも知れないと思い、何冊か部屋に持ち帰った。ダム建設に関わる資料などが纏められている。興味の湧くような話ではない。仏果山や高取山の山頂に建つ展望台の話や遊歩道整備に関することは全てここからの引用である。数ある写真の中にこの除幕式の写真があった。扇千景大臣である。妻にメールを送った。
私「先日亡くなった扇千景が除幕式をやっていた」
妻「へぇ」
私「足首、細いよなぁ」
妻「そうだね。見るところが違いますな」
私「この写真で注目すべきはそこしかないだろ」
妻「普通は何の碑だろう?じゃない?」
私「89-23=66才の時だ」
妻「宝塚出身だからね」
ダム完工式での記念碑の除幕式である。そういえば国土交通大臣をやっていた時もあったようである。自民党からいくつもの野党に鞍替えして最終的には自民党に戻り、参議院議長までやっているのだから大したものである。先日の葬儀で小泉元総理が弔辞を述べていたのが印象に残っていたので元気な頃の写真を見て目が留まったのである。
見終わって本棚に返しに行くと、ニーチェの「人間的なあまりに人間的な」というマンガ本が目に留まった。文庫本である。漫画はあまり読む方ではないが、ニーチェであれば話は別である。読んだことがなかったので開いてみた。メチャメチャ面白い!分かり易い!内容はともかく30分程度で概要を掴めるのがよい。イーストプレス恐るべし!実際の文章を読むには難しそうでその気にならないが、漫画本なら本当に簡単である。いいことに気付かせてくれた。読みたいと思っても読めそうもない古い哲学書など、手に取ってみたいと思った。家に帰ってからアマゾンにいろいろと注文をしたことは勿論である。こんな出会いもあるんだなぁと「こまや」さんに感謝である。寝る前に再び風呂に入ってぐっすりと熟睡して、翌日は早々に帰ってきた。
                                 (令和5年作)




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ジビエみな鮎の頭も膳の上



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3時10分にチェックインした。宿帳に住所と氏名、電話番号を書き入れ、夕食と朝食の時間を決め、すぐに部屋に案内された。2階の「蜀光」という部屋である。
私「あれっ、蜀の字、間違えているんじゃない?火へんでしょ。燭光じゃないと意味通じないんじゃない?」
女中さん「いえ、分かりません。そんなこと、今まで言われたことないです」
私「あっそう。まぁ、いいけど」
部屋は完全なる昔の和室である。トイレ付きユニットバスは後日入れたものだろう。襖を開けると布団が敷いてあり、饅頭が一個置いてあったのがルームサービスかも知れない。窓を開けて空気の入れ替えをした。犬の臭いは特に感じなかった。唯一そのユニットバスの中に「ここで犬を洗わないでください」と書かれていたのが「犬オッケー宿」の証拠かと思う。すぐに1階の風呂に向かった。大きな暖簾に「男湯」「女湯」と書かれ、時間差で入れ替わるらしい。昔ながらの脱衣籠に登山で汗だくになった下着類を入れ、いざ大浴場へ。もちろん誰もいない。髪と身体と洗い、湯舟へ。
おおお、メッチャ温くて私好みの湯加減である。41度位か。ジェットバスがないことだけが残念だが贅沢は言っていられない。山登りで酷使した脛、太腿、足の裏をマッサージしていく。熱くないのでいつまでも入っていられる。こんなに気持ちの良い風呂は久しぶりである。眠たくなるまで浸っていた。
部屋に戻ると急に睡魔が襲ってきた。3時起きだったので当然である。持参したパジャマに着替えて本格的に寝てしまった。起きたのは夕食時間の10分前である。熟睡である。顔を洗って1階の夕食会場まで下りて行った。
女中さん「奥の席にお願いします」
見るとテーブル席になっている。私の席が一番奥。手前に一つ差し向かいのセットで二人用が用意されていた。
<ん?2組だけ?>
インターネットでラスト1部屋と書かれていて慌てて取った位なのでたった2組ということはないと思うのだが。
料理が並べられていた(写真)。
女中さん「お飲み物はどうされますか?」
私「まずビールをお願いします」
女中さん「こちらは猪鍋になります。火を付けますね。弱火でお肉の色が変わるまで煮込んでください。これから天ぷらをお持ちします」
私「えっ、まだ来るの?そんなに食べられないよ。これで充分だよ」
1時半にカレーを食べ3時に風呂に入りそのまま寝ている。目が覚めてすぐに夕食である。お腹が空いている訳がない。目の前の料理に箸が動かない。
女中さん「はい、おビール。ご飯はまだいいですか?」
私「ご飯?いらない、食べられない」
女中さん「はいはい、ゆっくり食べてくださいね。御用がございましたら、こちらのボタンを押してください」
私「お姉さん、そういえばお客はあちらの一組だけ?他にはいないの?」
女中さん「いえ、今日は団体さんが入ってます。別のお部屋になります。もう少ししたら到着されるんだと思います」
私「ああ、なるほどね。ここは何時ごろからやってるんですか?昭和の初め頃ですか?」
女中さん「いえいえ、元はこちらじゃなくて、〇〇町でやってました。ダムが出来たのでこちらに移転してきました」
私「えっ、昭和の初め頃の話じゃないんだ」
女中さん「平成だったはずですよ。詳しいことは分かりませんけど」
                                 (令和5年作)




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